「小犬でも」 副牧師 乾元美
・ 旧約聖書:イザヤ書 第52章10節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第7章24-30節
・ 讃美歌:51、77
<いつもと違う?>
今日の聖書箇所の主イエスは、何だかいつもと違うな、と感じる方がいるかも知れません。
まず、いつもは大勢の群衆の前で、時を忘れるほどに神の国を教えておられるのに、今日のところでは、「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」とあります。しかし、人々に気付かれてしまったのです。
この「人々に気付かれてしまった」という言葉は、以前の口語訳聖書では、「隠れていることができなかった」となっていました。つまり主イエスは、人々から身を隠そうとしておられたのです。どうしてなのでしょうか。
もう一つは、シリア・フェニキアの女とのやり取りです。この女には、汚れた霊に取りつかれた娘がいました。それで、この女は主イエスがおられることを聞きつけて、足元にひれ伏して、娘から悪霊を追い出して欲しいと願ったのです。
ところが、主イエスは一旦それを断ります。しかも、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と仰いました。女のことを小犬呼ばわりしたのです。何だか冷たいし、とても酷い言い方じゃないか。そんな風に感じてしまいます。
しかし一方で、この主イエスと女のやり取りは、全体を通して、なんだか明るい清々しさも覚えます。今日の箇所には、いったいどういうメッセージが語られているのでしょうか。
<異国の地で>
まず、この時主イエスが身を隠された場所は、異国の地でした。
24節に「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」とあります。ティルスというのはフェニキアと呼ばれる地方の町であり、ユダヤ人である主イエスからすると、異国の地なのです。
主イエスはユダヤ人たちの国を離れて、身を隠すためにそのようなところまでやってこられました。その理由は語られていませんが、いくつか思い当たることがあります。
今日の聖書箇所の直前には、ユダヤ人の律法の指導者でもある、ファリサイ派や律法学者たちとのやりとりが語られていました。
そこで主イエスは、彼らが律法を守ることに固執したり、あるいは自分の都合の良い解釈をして、律法にある本来の神の御心を、すっかり忘れてしまっている、ということを厳しく非難なさいました。また、このファリサイ派の人々とは主イエスの活動の最初の方から、律法のことで主イエスと対立し、主イエスに殺意を抱いていたことが語られていました。
主イエスは時が来るまで、これらの人々から一旦距離を置こうとされたのかも知れません。
また、主イエスが行われる癒しや奇跡の御業は、宣べ伝えておられる神の国、神のご支配を証しする、「しるし」として行われていたものでした。
しかし多くのユダヤ人たちは、神の国の教えを聞いて悔い改め、主イエスに従ってくるのではなく、ただその癒しの力を求めて殺到してきました。
確かに主イエスは、神の力を持ち、奇跡を行なうことがお出来になる方です。しかし、主イエスが来られた目的は、その力で人々の願いを叶えるためではありません。
主イエスがしようとしておられることは、すべての人々の罪を背負って、ご自分の命を献げ、その神の裁きを引き受けて下さり、贖いの業を成し遂げることなのです。それが、神のご計画です。神は、この救いの御業を、このユダヤ人、つまり神が選ばれたイスラエルの民を通して、約束を与え、救い主を遣わし、実現しようとしておられるのです。
しかし、人々は神の救いのご計画に目を向けず、自分たちに都合の良い主イエスの力にばかり目を奪われています。ですから、主イエスはこの無理解で頑ななユダヤの人々から身を隠そうとされたのかも知れません。
しかし、まさにこのように神の御心を忘れ、神に従うことができず、神に立ち帰ろうとしない人々のために、主イエスはこれから受難の十字架の道を歩もうとしておられるのです。
主イエスはその父なる神のご計画を覚えて、人々から離れ、静かな祈りの時をもち、父なる神との交わりの中で、神の御心を、歩むべき道を、確かめようとしておられたのかも知れません。
<異国の女>
さて、主イエスはそのように異国の地ティルスで身を隠しておられましたが、評判はユダヤから異国の地まで、すでに広く伝わっていたのでしょう。ティルスの人々が主イエスに気付いてしまったのです。
そこに、一人の女が、すぐに主イエスのことを聞きつけ、やって来ました。娘に取りついた悪霊を追い出して欲しかったのです。おそらくこれまで、娘のために、何でもしてきたのではないでしょうか。しかし、それらは効果がなかったのでしょう。娘の苦しみは、母親にとって、娘本人以上に苦しいものであったかも知れません。
でも、噂に聞いた、病を癒し、悪霊を追い出す力があるというイエスという方が、今この町に来ておられるのです。きっと娘を何とかして下さる。そう信じて、すぐに主イエスの所に来て、その足元にひれ伏したのです。
26節に「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが」とあるように、彼女はギリシア人でした。
ユダヤ人の主イエスと、ギリシア人の女。当時の両者の関係は、今のわたしたちが外国の方と接するような感覚ではありません。ユダヤ人とギリシア人は、本来は決して関係を持つことがないような間柄でした。
なぜなら、ユダヤ人は、自分たちが神に選ばれた聖なる民であることを重んじ、神の民が守るべき律法を大切にして生きていました。ですから、律法を知らない、あるいは律法を破るような行為をしている異国の人々は、汚れた人々であると考えていたのです。軽蔑するような思いも抱いていたと思います。そして、そのような汚れた人々と付き合うと、自分にまで汚れが移ってしまうと考えていたのです。そのため、ユダヤ人は異国の人々と交わりを持たないようにしていました。その結果、ユダヤ人とギリシア人は、お互いに敵対するような思いを抱いていたのです。
それなのに、ギリシア人でシリア・フェニキア生まれであったこの女は、来てすぐさま、ユダヤ人である主イエスの足元に、救いを求めてひれ伏しました。これはわたしたちの想像以上に、とても大胆な行為なのです。このことによって、この女が娘のためにどれだけ必死であったかも伝わってきます。かつ、この人は女性ですし、社会的な立場も弱いのです。このような異国の女が、主イエスの御前に思い切って進み出て、「娘から悪霊を追い出してください」と頼んだのです。
<冷たい答え?>
ところが、主イエスのお答えはNOでした。27節で、主イエスはこう言われました。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
主イエスが言われた「子供たち」というのは、神に選ばれたイスラエルの民、つまりユダヤ人のことです。そして、「小犬」と言われたのは、このフェニキアの異国の女のことです。「パン」というのは救いのことを指します。
つまり主イエスは、わたしの救いは、まず、ユダヤ人たちに与えられるべきものであり、その救いを、異邦人であるあなたにあげるわけにはいかない、と言われたのです。
主イエスは「小犬」と言われましたが、そもそも「犬」というのは、ユダヤ人が異邦人たちを軽蔑して呼んだ蔑称でした。わたしたちの社会でも、「あいつは会社の犬だ」とか、「負け犬」だとか、人を悪く言う言葉で犬が使われることがあります。
ここで、主イエスは、本当に酷い言い方で女性にお応えになったように思えます。もし、わたしたちが必死に救いを求めて、プライドを投げ打って、ひれ伏して救いを求めたとして、同じように言われてしまったら、どうするでしょうか。「敵対しているあなたに、足元にひれ伏してまで頼んでいるのに、犬呼ばわりして頼みを聞いてくれないなんて、なんて失礼な!」と怒ってしまうかも知れません。
あるいは、「やっぱり異邦人は馬鹿にされてるんだ。どうせ、ユダヤ人のあなたは、異邦人のわたしのことなんて何とも思わないし、これ以上頼んだって無理だ」と諦めてしまうかも知れません。
<小犬でも>
ところが、なんとこのフェニキアの女は、怒りもせず、かといって諦めもせず、さらに主イエスに言い返したのです。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
ある別の写本では、この女のセリフに「そのとおりです」という言葉が入っているものもあります。以前の口語訳聖書では「主よ、お言葉通りです」と訳されていました。
主イエスが、救いはまずユダヤ人に与えるものであり、異邦人の女であるあなたには与えない、と言われた。女は、「主よ、そのとおりです。あなたの仰るとおりです」と、主イエスの言うことを認めたのです。
わたしは小犬に過ぎません。あなたの救いに与るにはふさわしくない者です。そのように、主イエスの御前で、自分が低い者であることを、そのまま認めたのです。
マルコ福音書の中で、主イエスに対して「主よ」と呼んだのは、このフェニキアの女ただ一人です。この女性は、主イエスが自分の主であること、自分を支配し、恵みを与えて下さる方であることを信じ、自分を低くし、どこまでも頼っていきました。
もし、「小犬」と言われて拒否されたことに怒るのなら、そこには「ここまでして頼んでいるのだから、願いを聞いてくれて当然のはずなのに」という思いがあると思います。
それは、主イエスが自分の思い通りにしてくれない、という怒りです。そこには、ひれ伏していたとしても、心から「主よ」と呼びかけるような、謙遜な思いはありません。自分の願いが優先となり、自分が主人となって、主イエスを従わせようとする思いが裏にあるのです。だから、思い通りにならないことに怒りを覚えます。
また、これは「どうせわたしは犬ですよ」というような、卑屈な言い方なのでもありません。どうせ頼んでも無駄だと諦めてしまうことも、主イエスが自分を受け入れてくれない、小さな方だと思って、信頼しないということと同じです。
わたしたちは、どこかで神を、自分の願いを叶えて下さる方として求めているところがあるのです。もちろん、苦しみや悲しみの中で、神に解決を、救いを、助けを求めるのは良いことです。しかし、わたしたちは、神の御心でなければ、恵みに与ることが出来ないということ。恵みを与える時や、誰に、どのように与えて下さるかは、すべて主がお決めになることであり、神が主導権をもっておられる、ということを、よく忘れてしまうのではないでしょうか。それで、自分の願う形で解決して下さらないことに、納得しない。自分の思い通りにしてくれない神は、信じない。神がいるのに、何もして下さらない、とつぶやくのです。
そういう思いは、どこかで神のご支配を受け入れず、自分の思い通りになることを願い、神にそれを聞いてもらおう、という主従逆転のようなことが起こってしまっているのかも知れません。神は、わたしたちの思いのままになられるような、小さなお方なのでしょうか?
この女は、主イエスをそのように小さく見てはいませんでしたし、自分の願いが聞き入れられて当然だとも思っていませんでした。
大胆に主イエスの御前に進み出て、足元にひれ伏した時、この女は本当に主イエスにすべてを委ねたのです。プライドも、恐れも、敵対心も、何もかも捨てて、ただ主イエスが恵みを与えて下さることに縋ったのです。
だから、自分の頼みに応えて下さらないお答えであっても、彼女は主イエスに「主よ」と呼びかけました。あなたこそがわたしの主です、との思いで御前に立ち続けたのです。
そして、主イエスのご支配にもとに生きることをひたすら願ったこの女は、その中で、主イエスの言葉の端々に、自分に注がれる憐れみと愛を、しっかり感じ取ることが出来たのです。単純に願いを撥ねつけられたのではない、と分かったのです。
主イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。」と言われました。「まず、はじめに、一番目には、子供たちに」と言われたのです。
主イエスが言われたのは、神の救いのご計画には順序があるということです。神は、まずユダヤ人、つまりイスラエルの民を選び、ご自分のご計画を示し、契約を結び、そして、この民に主イエスを遣わされたのです。そして、主イエスが実現して下さる救いは、ユダヤ人だけでなく、異邦人へ、世界へと及ぶことを、約束して下さいました。本日のイザヤ書の箇所にも、こうあります。「主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。」
主イエスは、この神のご計画に従って歩んでおられます。異邦人の救いは、まだ時ではなかったのです。しかし、必ず救いは異邦人にも訪れる。だから、「パンは子供たちだけ」と言われたのではなく、「まず、子供たちに食べさせるのだ」と言われたのです。
そして、主イエスが与えようとしておられるのは、単に悪霊を追い出すということではありません。罪から解放し、死を打ち破り、神のご支配の中で人が共に生きる、そのようなまことの救いを与えようとしておられるのです。
またもう一つは、主イエスが、ユダヤ人が異邦人を軽蔑して言う「犬」という言葉ではなくて、「小犬」という言葉を使われたことです。これは「犬」という単語に、「小さい」という意味を加えた言葉が使われており、親愛や親近感を込めていることを意味します。
主イエスは、ご自分のもとにひれ伏した女性を、軽蔑の思いで残飯を漁るような、汚らわしい犬め!と呼ばれたのではなく、家の中で飼われ、食卓の下で主人の足元に身を寄せるような、愛され、養われ、保護される存在としての「小犬」と呼ばれたのです。
この主イエスの言葉から、女は主イエスの御心を理解し、また憐れみと愛をしっかりと感じ取りました。だからこそ、この女はなおイエスを「主よ」とお呼びし、「しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と、大胆に、信頼して、主イエスの愛に寄り縋り、諦めずに、しかし謙遜に、救いを求めていくことが出来たのです。
そうです。わたしは「小犬」に過ぎません。救われて当然の者ではありません。でも、あなたは小犬をも愛し、養って下さる方です。小犬も、あなたに愛されています。おこぼれに与ることができます。こぼれ落ちる恵みを受けることができます。あなたはそれを許して下さいます。
この女は、主イエスの愛と憐れみの中にあることを知ったからこそ、主が救いにふさわしくない自分にも恵みを与えて下さる方であることを心から信頼し、パン屑のように、どんなに小さい恵みでもいただきたいと望み、それをしっかり受け取りたいと願ったのです。
もし、主イエスを「主よ」と仰がず、自分の言うことを聞いてもらおう、という思いでいたならば、怒りや、諦めが心を支配していたならば、この主イエスの愛を敏感に感じ取って受け取る、などということはできなかったでしょう。
<それほど言うなら>
さて、主イエスは女に、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われました。 そして、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた、とあります。
主イエスは、この女のへりくだった心と恵みの確信を、受け止めて下さいました。主イエスは、ユダヤ人の指導者たちに敵意、殺意を向けられ、また多くのユダヤ人が主イエスのなさろうとしていることを理解せず、身を隠しておられる中でした。そのような時、きっとこの異邦人の女の答えを、主イエスは心から喜ばれたに違いありません。
主イエスのお答えは、29節では「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい」とありますが、直訳をすると、「その言葉によって、あなたは行きなさい」となります。
主イエスは、この女の、主イエスに対する信頼の言葉を、そのまま受け止めて下さいました。その信仰によって、あなたは行きなさい。そのまま、わたしの恵みの中で、わたしに信頼して、わたしに委ねて歩んで行きなさい、と言って下さったのです。
最初に申し上げたように、奇跡や癒しの御業は、神の国、神のご支配を証しするための「しるし」です。主イエスは、この女と、その娘が、ご自分の恵みのもとにいる、神のご支配のもとにいる、その証しとして、悪霊の支配から解放して下さったのです。
<食卓に>
わたしたちも、誰一人、恵みを受けて当然の者、神に救われるのにふさわしい者など、いません。みな、神の御前で罪を犯しており、汚れた者であり、神の裁きを受けるべき者なのです。神を自分の思いに従わせることなど、出来ません。わたしたちは、自分に救われるふさわしさや、資格があるなどと言うことは出来ません。
しかし、主イエスは、ふさわしくない者を選び、憐れみ、愛して下さるお方です。主イエスは、わたしたちの罪を赦すために、十字架で苦しみを受けて死に、また復活されて、救いの御業を成し遂げて下さいました。
選ばれた神の民イスラエルと結んで下さった神の約束が、今や実現し、地の果てまで、すべての人々が、神の子となるようにと、招かれているのです。小犬に過ぎない者が、主イエスによって神の子供として受け入れられ、共に主の食卓に並んで着くことを許されているのです。救いの恵みを、新しい命を、存分に受け取ることを許されているのです。
わたしたちは、自分でへりくだろうとしたり、神に信頼しよう、と決意しても、心から自分の力でそうすることは出来ません。
しかし、主イエスの十字架の死の御前に立つ時、わたしたちは、まことに神の深い愛と、憐れみを知らされます。わたしたちの罪を赦すために、神の御子が、命も惜しまず、苦しみを受け、死んで下さった。この、主イエスによって示された神の愛の中でこそ、本当に自分が罪人であることを知り、打ち砕かれ、低くへりくだった心で神の御前に立つことが出来るのです。そして、死をも打ち破る神の力によって、復活なさった、生きておられる主イエスと出会うからこそ、成し遂げられた救いを、大いなる恵みを、心から信頼し、わたしたちは、救いを大胆に求めていくことができるのです。