夕礼拝

汚れは人の中から

「汚れは人の中から」 副牧師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第51編12-14節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第7章14-23節
・ 讃美歌:204 、134

<清さと汚れ>
 主イエスは、群衆を呼び寄せて、言われました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。
 汚れは、外から来るものではない。人の中から出て来るのであり、それがその人自身を汚すのだ、ということです。
 ここで言われている「汚れ」というのは、「清潔か」「不潔か」というような衛生的なことではありません。宗教的な意味で「清いか」「汚れているか」ということです。

 世のさまざまな宗教においても、このように「汚れ」を遠ざけ、忌み嫌うという考え方は多くあるようです。日本でも、「汚れ」を避けたり、祓ったりと、儀式や風習の中で、そのようなことを気にする場面をよく見かけます。
 宗教的なことでありながら、どこか「汚れ」は、やはりウイルスのように、接触することで伝染ったり、身にくっついてきてしまうようなイメージがあります。それを洗ったり、祓ったり、何等かの行為をして、その汚れを落とす、ということからも伺えます。

 主イエスの時代、ユダヤ人は自分を清く保つために、さまざまな規則やルールを作り、それを厳格に守る生活を送っていました。今日の聖書箇所の直前の7章1~13節は、ユダヤ人の指導者である律法学者という人たちがやって来て、主イエスの弟子たちが、その規則を守っていないことを批難した、ということが語られていました。
 その規則とは、具体的には食事の前に手を洗うことです。これは、例えば外出中に、市場などで自分でも知らない間に汚れたものに触っていたら、その手で食事をすることで、自分にも汚れが入ってしまう、と考えられていたのです。
 他にも例えば、異邦人は汚れているとか、こんな病は汚れているとか、この食べ物は汚れているとか、生活上のあらゆることにおいて、清いか、汚れていないかが定められていました。身の回りには汚れが溢れています。ユダヤ人たちは自分を清いものとして区別し、汚れを取り除くため、あるいは汚れを未然に防ぐための規則で、生活はがんじがらめになっていました。
 清くあるために、ユダヤ人たちが自分たちで数多く定めたルールは、「言い伝え」と言われていました。彼らは、自分の清さを保つために必死だったのです。

 しかし、そこには根本的に、まず自分が清いものであり、自分で清さを保てる、という前提があります。汚れを嫌う、というのも、自分が清いからこそ、外からの汚れによってそれを損なわないようにしている、ということでしょう。
 でも、人はそもそも、清いのでしょうか。そして、それを自分で保つことが出来るのでしょうか。汚れを遠ざければ、清く、正しく、幸せでいることができるのでしょうか。

<清さとは>
 聖書において、「清さ」や「聖」というものは、すべて神に属するものです。この世でまことに聖なる者は、この世をお造りになった、神お一人だけだからです。
 ユダヤ人は、その祖先から、世界の造り主である神に選ばれた民でした。すべての人を救おうとなさる神のご計画のために、この民は一方的に神から選ばれたのです。民は、この聖なる神のものとされることで、聖なる民となりました。

 ということは、民がそもそも清いものだったのではありません。民は、弱く、小さく、罪深い民でした。しかし、それでも聖なる神が選び、交わりを与えて下さり、共にいて下さることを約束して下さったゆえに、神の清さにあずかって、清い民とされたのです。

 そして、旧約聖書の時代の神の民には、この神との交わりを大切にして歩むために、「律法」が与えられました。その律法に定められた戒めは、唯一の神を神とするためのものです。他の偶像を神として拝んだり、神を悲しませるようなことをせず、共同体の仲間とも良い関係を結び、神に喜ばれる民として歩むために与えられたものでした。

 ところが、だんだん、その神との交わりを大切にするという内実が失われて、律法をしっかり守っていれば、自分たちは救われる、自分たちは清い民でいることができる、というようになっていってしまったのです。
 反対の言い方をすれば、律法を守らなければ、救いから落ちてしまう。汚れてしまう。神の民でいられなくなる、ということです。
 ですから、ユダヤ人は律法をきちんと守るために、また知らない間に律法を破っているようなことがないように、何重にも規則を重ね、「言い伝え」を作って、自分たちの清さを守ろうとしたのです。それはもう必死です。規則に対する自分の心がけや生活態度に、自分が救われるかどうかが、かかっているからです。

 彼らにしてみれば、主イエスの弟子たちが、食事前に手を洗わないことなど言語道断です。ですから、律法学者たちは主イエスに対して、「あなたはちゃんと神の律法を弟子に教えていないのか。言い伝えを守らないで、汚れをそのままにして、なんと罪深いことをしているのか」と責めたのです。
 しかし、主イエスは、律法学者たちが、「言い伝え」に固執するあまり、その根底にある神の御心を忘れてしまっている。形ばかりに捕らわれて、神との交わりを大切にし、神を愛して、神に従って生きるという、本当の目的を見失っている、ということを厳しく指摘なさいました。

<汚れは外から来るのではない>
 そして、14節にあるように、こう言われたのです。
 「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
 これはまず、そもそも「汚れ」というものは、律法学者たちが考えているように、外から来て、人に影響を与えるようなものではない、ということです。
 彼らは、清さの本来の意味を失っているので、汚れについての理解も誤っているのです。

 でも、弟子たちもよく意味が分からなかったようで、家に入ってから主イエスに説明を求めています。主イエスは言われました。
 「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」

 掟では、清い食べ物と、汚れた食べ物が定められていますが、それ自体が人を汚すのではない、ということです。どんな食べ物を食べたとしても、人の体内に入って、やがて排泄される。消化されて体から出て来る。口から入った食べ物が、心の中に入って人に影響を与えたり、人を宗教的な汚れに陥らせることなどない、とおっしゃったのです。
 これはつまり、食べ物がどうこうではなく、人はそんなこと関係なしに、みんな汚れているのだ、ということなのです。

<汚れは人の中から>
 では、何が人を汚すのか。すべての人が持っている汚れとは何か。それが、20節以下に語られていることです。
「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 主イエスは、すべて人を汚すもの、神の清さから離れさせるものは、人自身の中から出て来る、と言われます。わたしたちの罪の根源は、外にではなく、まさにわたしたちの内側に、心の中にあるのです。人間の心から悪い思いが出てきて、それが人を汚すのです。
 わたしたちは、この汚れを、外の何かのせいにすることは出来ません。食べ物のせいでも、異邦人のせいでも、汚れを伝染されたからでも、ありません。
 あなた自身の中に、汚れがある。聖なる神との関係を破壊し、神を汚し、自分を汚す根っこが、あなたの心の中にある。そのように言われたのです。
 そしてそれは、ユダヤ人だけでなく、神に造られた人間すべて、わたしたちすべてに言われていることなのです。

 わたしたちが、神との関係を忘れ、神の清さにあずかっていることを忘れ、自分の中に正しさがある、清さがあると信じる時、人はその誤った清さ、自分の正しさに固執します。自分の救いがかかっていると思っているのですから、当然です。
 21節には、そんな心の中から出て来る、悪い思いのリストが12個あげられています。それぞれ説明することはしませんが、特に象徴的なのは「ねたみ」かも知れません。これは、もとのギリシア語では「悪い目」という言葉です。悪い思いで人を見つめる、ということです。

 自分の誤った清さばかりを見つめるようになる時、わたしたちは、同時に、他人を悪い目で見はじめるのです。隣りの人の清さは、自分よりも清いのか、清くないのか。救いに近いのは、わたしか、他の人か。そこに生まれてくるのは、人と比較する思いです。他の人が持っているものは、自分より多いか、少ないか。自分は隣の人より上か、下か。優位に立っているか、劣っているのか。
 そのような悪い目で人を見るところに、まさに殺意や、貪欲や、悪意、妬み、悪口、傲慢などが生まれてくるのです。自分を誇って高慢になったり、あるいは人を見下したり、批判したり、裁いたりします。
 悪い目は、そのようにして、隣人関係との破れを引き起こしていきます。そこから、神に逆らい、人を傷つける汚れが出て来るのです。

 わたしたちは、造り主である神をいつも心の中心に置き、この方の良い御心に従って歩んでいくことを望まれています。神は、愛の眼差しをもってわたしを見つめて下さっています。また世界も、隣人も、愛をもって見つめておられます。神は、ご自分が愛の中で見つめておられるものを、わたしたちも一緒に見つめていくことを望んでおられるのです。
 世のすべてを支配しておられる聖なる神に、いつも心を向けて、生きておられる神との交わりの中で歩んでいくこと。神の恵みの御心を知り、それに従って生きること。それこそ、すべての人の「救い」であり、清さに生きることであり、神に愛され、命を与えられた人間の、最も幸せな生き方なのです。

 しかし、わたしたちは、自分勝手な思いから、この神を退け、自分の思い通りに生きたいと願います。神が与えて下さった命や人生を、我がものとして好き勝手に歩もうとします。自分が中心になり、自分の願いや思いを叶えるために、人を動かそうとしたり、神まで、自分のために動かそうとします。
 そんな傲慢な思いや、自己中心的な思いが心の中を支配する時、そのような心の中からは、つねに悪い思いしか出てこないのです。自分の利益しか望まない、妬みや悪意に満ち溢れた悪い眼差しを隣人に向ける者となってしまうのです。

<主イエスによって清くされる>
 この悪い思いの根本は、わたしたちが、「神との正しい関係においてしか、清くなることは出来ない」ということを忘れていることです。
 わたしたちが、清いか、清くないかは、すべて神との正しい関係にあるか、ないか、ということにかかっています。それなのに、自分の力に頼ろうとしたり、自分で救いを得ようとするところに、神を神とすることが出来ない思い、自分がまるで神のようになろうとする思いが、支配し始めるのです。
 聖書では、自分の思いが心の中を支配して、神のご支配を拒否し、本来の神との正しい関係が破れること、人が本来向くべき神の方向を向いていないことを、「罪」と言います。
 罪の中にある人間は、誰一人、自分で自分を清くすることは出来ませんし、自分で汚れを落とすことも出来ないのです。

 どれだけ努力しても、清さを保つために規則を守っても、自分で清さを得ることは出来ません。それでは、わたしたちはどのようにすれば、汚れから抜け出せるのでしょうか。清さを与えられるのでしょうか。

 残念ながら、わたしたちが自分でそれを得ることは出来ません。汚れの只中にある者が、どうして自分を汚れから救えるでしょうか。わたしたちが、汚れから解放されるには、ただ聖なる方である神から、清くしていただくしかないのです。神に、新しい心を与えていただくしかないのです。

 そのために、わたしたちの罪を赦し、新しくするために来て下さったのが、神の御子であるイエス・キリストという方です。
 主イエスは、神の御子ですが、わたしたちの罪も、汚れも、苦しみも、死も、すべてをご自分お一人が担って下さるために、人となって世にお生まれになりました。そして、本来はわたしたちが神との関係の破れによって、命の源である神から離れ、恵みから遠ざかり、滅びに至ろうとしていた、その罪をすべて引き受け、ご自分が十字架に架かって死んで下さったのです。主イエスの十字架の死は、罪にあるわたしたちが死ぬためです。
 そして、十字架の死から、神は主イエスを甦らされました。それは、罪に死んだわたしたちが、神と共に生きる新しい命を受け、生きるためです。

 主イエス・キリストの十字架の死と復活は、わたしの罪の赦しのためであり、わたしを清めるためであり、わたしを救うためでした。
 わたしたちは、自分では汚れしか生み出すことの出来ないものですが、主イエスの十字架と復活の救いを受け入れるなら、洗礼によって、神に属する者とされ、神によって清められ、新しく歩み出すことが出来るのです。

<まことの自由>
 今日お読みしました、旧約聖書の詩編51:12~14には、「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。」とありました。
 まさに、主イエスの十字架と復活の救いの御業によって、神がわたしたちの内に清い心を創造して下さるのです。新しく確かな霊を授けて下さり、わたしたちを新しくして下さるのです。聖なる霊を与え、救い出し、自由の霊によって支えて下さるのです。

 わたしたちは、この神の救いを知っているなら、世の中のことを、清いとか、汚れているとか分けて考える必要もないし、外から汚れることを恐れて、規則でがんじがらめになることも、縛られることもありません。それらのことから、自由になることが出来ます。
 人と自分を比べて、正しさや清さを比較することもありません。隣りの人も、悪い目で見るのではなく、自分と比べて悪い思いを抱くのではなく、共に神の前に立つ人として、隣人を愛して生きる生き方へと、変えられるのです。

 まことの聖なる方である神が、わたしの心を支配して下さいます。わたしたちに出来ることは、主イエスの救いを信じ、この神のご支配を受け入れることです。
 支配を受け入れる、というと、圧力を感じたり、縛られているような、窮屈な感じがするかも知れません。しかし、神のご支配は、世の力や権力による支配とはまったく違います。
 神のご支配は、愛による支配です。神は御自分の御子の命を与えてでも、人々に新しい命と、平安と、癒しと、慰めを与えようとして下さる支配者です。このような方のもとでこそ、人は本当に安らかに、安心して、自由に生きることが出来るのです。

 わたしを支配するものが、聖霊であるなら、罪を赦して下さったイエス・キリストであるなら、世界を造り支配なさる父なる神であるなら、わたしたちの人生は、汚れや、運命のような、外からの得体の知れない力に左右されるはずがありません。
 わたし自身が、主イエスによって汚れから清められ、罪ある者から正しい者とされるからです。
 その時、わたしたちは汚れを避けたり、洗い落としたり、縁起を担いだり、そのようなことには、もはや縛られる必要がないのです。
 食前に手を洗わなかった主イエスの弟子たちも、主イエスのみ言葉を聞いて、神の救いを教えられて、汚れを洗う必要を、もはや感じていなかったのです。

 詩編で「聖なる霊」が「自由の霊」と言われているように、わたしたちが主イエスを信じ、新しくされ、聖霊を受ける時、わたしたちは、窮屈な規則や、人との比較や、批判する思い、悪い目から解放されて、まことに自由に日々を歩んでいくことができます。
 罪深いわたしたちは、救われてもなお、日々の中で神を忘れたり、自己中心的になって、罪を繰り返します。妬みや悪意を持ってしまうことも、何度でもあります。
 しかし、わたしたちは、自分の心の中に生じる汚れが確かにあることを認め、神から心が離れていたことを悔い改め、神のもとに立ち帰るように、心の真ん中に神を置くようにと繰り返し語りかけられます。そして、主イエスの十字架と復活によって、すでに清くされたことを思い起こし、何度でも神に新たにされて、歩んでいくことができるのです。
 この神との交わりに生き続けるために、わたしたちは主の日ごとに神を礼拝し、御言葉を聞いて悔い改め、また御言葉によって新しくされつつ、歩んでいくのです。

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