夕礼拝

満ちて余りある恵み

「満ちて余りある恵み」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:列王記下 第4章42-44節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第6章30-44節
・ 讃美歌:56 、416

<奇跡>  
 本日の箇所は、五つのパンと二匹の魚が五千人以上の人々に配られ、みんなが食べて満腹したこと。さらには、そのパン屑と魚の残りが、十二の籠に一杯になった、という出来事が語られています。  
 とても不思議な出来事です。これは主イエスの奇跡の御業です。

 これまでに、この出来事を何とか理解しようと、様々な解釈を試みた人がいます。
 例えば、本当は五つのパンと二匹の魚だけじゃなくて、集まった人々がそれぞれに少しずつ食べ物を持っていて、弟子たちが自分のものを差し出したことに触発されて、みんなが持っているものを分け合ったんじゃないか、とか。実際に満腹したわけじゃないけれど、みんなの心が満たされたのだ、とか。
 でも、こんな風にこの出来事を合理的に理解しようとしたり、納得できる物語に置き換えても、あまり意味がありません。
 これは、神の独り子である主イエスが行なって下さった「奇跡の御業」なのであり、「神の国」つまり主イエスによって実現する「神のご支配」を証しする「しるし」なのです。
 わたしたちは、そこに示される神さまの御心を知ることが大切です。

<休みなさい>
 今日の御言葉は、30節に「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」というところから始まります。

 先週の夕礼拝では、洗礼者ヨハネがヘロデ王に殺されるという箇所をご一緒に聞きましたが、今日の箇所は、さらにその一つ前の6:6~13の続きになります。6~13節には、主イエスに選ばれた十二人の使徒たちが、神の国を宣べ伝えるために派遣された、ということが語られていました。使徒たちが派遣された、という話と、使徒たちがそこから帰って来た、集まって来た、という話の間に、前回の、神に従うことが出来ない人の罪を露わにするヘロデ王の話が、サンドイッチのように挟まれていたのです。

 さて、使徒たちは派遣される時に、主イエスから汚れた霊に対する権能を授けられました。
 そして、自分の力に一切頼らず、ただ神の御業に頼って主イエスの教えを宣べ伝え、またその「しるし」を行なうことを教えられました。
 彼らは行く先々で「神の国と悔い改め」を宣べ伝え、また13節にあるように「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやし」ました。

 今日の30節は、そこからの続きで、使徒たちはそれぞれ派遣されたところから帰ってきて、主イエスに自分たちが行ったこと、教えたことについて、残らず報告をした、とあります。使徒たちは主イエスから与えられた権能で、悪霊を追い出し、病を癒すことが出来ました。また多くの人が神の国の教えに耳を傾けたことでしょう。使徒たちはきっと手ごたえを感じ、喜びにあふれて、成果を報告したに違いありません。

 そんな使徒たちに、主イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」とあります。人々が教えを求め、あるいは癒しを求めて沢山やってきたのでしょう。
 「人里離れた所へ行って」とありますが、これは祈りのための場所です。1:35にも「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と書かれているところがあります。
 主イエスは使徒たちに、祈って休むように言われたのです。この「休む」という言葉は、作業を中断させる、という意味と同時に、元気づける、という意味があります。体を休めるだけでなく、仕事を中断し、静かなところへ行き、祈ること。神との交わりを持つこと。これこそ、すべての力の源であり、まことの休息となるのです。

 わたしたちが日曜日に礼拝を守るのも、そういうことでしょう。わたしたちは日々の生活、仕事を中断し、静かなところ、この会堂に集まり、神の御言葉を聞き、祈りを捧げて礼拝します。家でゆっくりすることが休みなのではなく、神の御前に出て、心を神に向けて、神との交わりを持つことこそ、わたしたちのまことの休み、安息日なのであり、生きるすべての力の源になるのです。

<飼い主のいない羊>  
 さて、そのように休むようにと言われ、主イエスと使徒たち一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れたところへ行った、とあります。
 ところが、多くの人々が、すべての町からそこへ一斉に駆けつけました。人々は舟の行先を見越して先回りし、先に着いた、とあります。    

 主イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になりました。岸辺にはすべての町から駆け付けた人々が詰めかけ、主イエスを見つめ、教えを、癒しを求めています。
 主イエスは、これらの人々を「飼い主のいない羊のような有様」だと思い、深く憐れまれました。この「深く憐れむ」という言葉は、聖書の中で主イエスにしか使われない言葉です。はらわたがよじれるような、千切れるような、という意味があり、強い憐れみの思いを指します。主イエスは、大勢の群衆が、飼い主のいない羊にようだと思われ、内臓が引き千切られるような思いを抱かれたのです。

 羊は、自分では何も出来ない、弱い生き物です。飼い主がいなければ、自分で草を探すことも、水を得ることも出来ず、飢え渇いて死んでしまいます。獣に襲われても、戦って抵抗することなど出来ません。
 羊は、飼い主がいないからといって、自由に生きられるのではありません。却ってどこに行くこともできず、ただ困り果て、弱り、獣の脅威に怯えるだけなのです。主イエスは、大勢の群衆をそんな羊のようだと思われたのです。

 主イエスは、神の国、神のご支配を宣べ伝えておられます。神の支配の中に入る、というと、何か窮屈な、不自由なイメージを持つかも知れません。
 しかし人は、羊と同じように、自分では生きられない、弱い存在なのです。神のご支配を知らない人間は、決して自由なのではありません。むしろ、どこへ行くべきか分からず、自分の力では何もできず、ただただ弱って滅びへと向かっていくのです。
 恵みをもって支配して下さる神のもとにいればこそ、人は活き活きとし、喜んで、命に溢れて、自由に生きることが出来るのです。

 主イエスは、そのような群衆にいろいろと教え始められました。主イエスが教えられたのは、神の国と悔い改めです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。主イエスがマルコ福音書の最初から教えておられる御言葉です。
 あなたたちの支配者は神なのだ。そして、わたしがあなたたちの飼い主として来たのだ。だから、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたたちを守り、導き、養い、救い出すから、信じて従いなさい。主イエスはそのことを群衆に語りかけて下さったのです。

<使徒たちの心配>  
 さて、主イエスは時を忘れて教えを語られ、また群衆も時を忘れて耳を傾けていました。  
 その一方で弟子たちは、ご飯のことが心配になってきました。自分たちもお腹がすいたのでしょうか。弟子たちは言いました。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対して主イエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになりました。  

 ここにいた人々は、「大勢の群衆」と書かれていましたが、44節に「パンを食べた人は男が五千人であった」と書かれています。当時のユダヤ人は女性や子どもを数に数えなかったので、実際にはもっと多くの人たちがいたのかも知れません。
 こんなに多くの人々の食事をあなたたちが何とかしなさい、と言われても、弟子たちは困ってしまいます。それで、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言いました。1デナリオンは、当時の一日分の賃金相当ですが、五千人以上のパンを買うなら、二百デナリオン、二百日働いた分のお金が必要になります。この弟子たちの言い方は、「そんなのどう考えたって無理じゃないですか。あなたは、なんでこんな無茶なことを仰るんですか」と、主イエスのご命令に対する不平と非難が見え見えです。

 もちろん、現実的に考えて、弟子たちの考えは常識的であり、当然の反応です。五千人の食事をすぐに用意するなんて、普通なら絶対に不可能です。
 でもこの時、弟子たちは、自分たちが主イエスに選ばれた使徒であり、使徒とは、主イエスの力によって立てられ、遣わされる者である、ということを、すっかり忘れていたかも知れません。
 弟子たちは、主イエスから権能を授けられて、神のご支配を告げ、人々から悪霊を追い出し、病を癒して、つい先ほど帰ってきたところです。その出来事を喜んで報告したところです。弟子たちは、主イエスに選ばれ、力を与えられ、遣わされて、本来は自分の力では決して出来ない業を行なってきたところでした。
 そこで彼らは、神に徹底的に頼ること、すべては神による御業であり、神の力によって、そのことが成し遂げられることを、教えられてきたのでした。

 しかし、もしかすると、弟子たちはその数々の業が、いつの間にか自分の力で為されているかのような感覚に陥っていたかも知れません。神が力を与え、神がその業を支えて下さっていたことを忘れてしまい、自分に力があるかのように感じてしまった。
 だからこそ今、弟子たちは主イエスに言われたことを、自分たちの力で何とかしようとしているのではないでしょうか。そして、自分たちにやれと言われても、あれがない、これがない。そんなことは無理じゃないか。常識では出来ないことじゃないか。そんな風に不平を言いだしたのです。
 わたしたちも、何かの働きに立てられようとする時、自分の力では無理だ。時間がないから出来ない。能力がないから出来ない。そんな風に、自分が持っているもの小ささや足りなさ、限界ばかりを見つめて、不平や不満を言う者であるかも知れません。

 でも、弟子たち、わたしたちは、十分な力を持っていたり、完璧な能力があるから、選ばれ、働きに召されるのではありません。主イエスがわたしを選び、あなたを用いたいと仰って、それに必要な力を与えて下さるから、賜物を授けて下さるから、それを行なうことが出来るのです。
 そのことを弁えて、主イエスがなすべきことを命じて下さった時に、「あなたがご命令になった働きをわたしが出来るように、賜物と力を与えて下さい」と、主イエスにすべてを頼り、委ね、召されたことを喜んで従える者になれたら、なんと幸いかと思います。

<主イエスに用いられて>  
 さて、不平を言う弟子たちに、38節で主イエスは「パンは幾つあるのか。見て来なさい」と言われました。弟子たちが確かめるとパンは五つ、そして魚が二匹ありました。  
 主イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになりました。人々は百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした、とあります。  
 この「組に分けて」の「組」というのは、もともと「飲み仲間、客仲間、食卓での交わり」を指し、主イエスが使っておられたアラム語という言葉では、過越しの食事を共にする仲間のことを言う言葉だそうです。
 そして、「まとまって腰を下ろした」とありますが、この「まとまって」は列を作って、という意味で、旧約聖書のイスラエルの民がエジプトを脱出する時に、隊列を組んで歩いていったことを思い起こさせます。  
 飼い主がいなくて、迷い、うろつき、散り散りになっていた羊が、主イエスという飼い主の下に集められ、青草のあるところに導かれて、食事を与えられ、養われる。そして、それが新しいイスラエルの民として、新しい秩序を与えられて歩んでいく。そんなイメージが重ねられています。  

 そして、主イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された、とあります。  
 弟子たちからすれば、五千人に対して、たった五つのパンと二匹の魚しかない。こんなわずかなものでどうするんだろう、と思ったに違いありません。十二人の弟子たちだけで分けるとしても、全然足りない量です。でも、主イエスが持って来なさいと言われたので、これだけを何とか集めて持って来たのです。  

 しかし、それを主イエスが受け取って下さり、賛美の祈りを唱え、祝福して下さった時、そこに不思議なことが起こりました。
 主イエスはそのパンを裂いて弟子たちに渡し、弟子たちの手から人々に配らせました。すると、五つのパンと二匹の魚で、五千人、いやそれ以上のすべての人が、食べて、満腹になったのです。それは精神的な満足などではありません。本当に、主イエスが空腹を満たして下さり、養って下さったのです。
 しかも、そのパンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった、とあります。最初に主イエスに差し出されたものよりも、残ったものの方がはるかに多く、豊かになっていたのです。  

 主イエスは、これらのことを、弟子たちを用いて行われました。弟子たちに食べ物を持ってこさせ、弟子たちの手から人々に食べ物を与えさせました。
 弟子たちは五千人が飢えている現実を前に、自分たちの無力さを訴え、不平を言いました。持ってきたものもあまりにも少なく、頼りないものでした。五千人を満たすことなど到底不可能な、わずかなものしかありませんでした。  
 しかし、それを主イエスの御手に委ね、その祝福のもとに置かれた時、それは弟子たちの手を用いて、弟子たち自身にも想像がつかないような、驚くべき豊かな恵みとなって、有り余るほどに与えられたのです。  

 主イエスのご命令によって、弟子たちが用いられ、神の御業が行われます。羊飼いのいない、迷える憐れな羊たちが、主イエスというお一人の羊飼いのもとに集められ、すべての人が養われ、満たされ、恵みを与えられるのです。  
 この奇跡の御業は、まさに主イエスが教えて来られた「神の国」、主イエスによって到来する「神のご支配」が、確かであることの「しるし」です。
 そして、この主イエスという方こそ、まことの羊飼いであり、すべての民を導き、養い、命を与える救い主であることを、指し示しているのです。

<新しい神の民>
 さて、残った「十二の籠」の「十二」は、旧約聖書の神の民、イスラエルの部族の数です。使徒たちが派遣された時も、主イエスは「十二人を呼び寄せ」られたとあり、この十二という数が意識されていました。
 十二部族からなるイスラエルの民は、神が世のすべての人を祝福するために、選び、導き、救い出された民です。そして、この神の民に与えられた約束通り、救い主である主イエス・キリストが遣わされ、この方の十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命の約束によって、主イエスのもとに新しいイスラエル、新しい神の民が集められ、興されていくのです。この旧約聖書から新約聖書に連続する神の救いのご計画が、十二という数字によって示されています。

 この新しい神の民が集められるために、神の国が実現するために、無力で、わずかなものしか持たない弟子たちが、主イエスによって選ばれ、召し出され、用いられたのです。
 弟子たちは、小さな僅かなものしか持っていませんが、それを主イエスの御前に差し出し、その御言葉に従う時、主イエスはそれを祝福し、人には思いもよらない、五つのパンで五千人を満たすような、驚くべき御業を行なって下さるのです。

 主イエスは、飼い主のいないような羊を深く憐れみ、ご自分のもとに集め、導き、養い、豊かに満たして下さいます。罪の中で苦しみ、救いを必要とする人々を招き、命を捨てて羊を守る、羊飼いとなって下さるのです。
 こうして集められた、新しい神の民とは、「教会」のことです。飢えて、危険に晒され、死にそうな羊だったわたしたちは、まことの羊飼いである主イエスに導かれ、養われ、豊かに満たされ、命を与えられたのです。

 そして満たされたわたしたちは、今度は弟子たちのように、主イエスの御業に用いられていきます。わたしたちは自分の力によって、与えられた務めを成し遂げることが出来るのではありません。わたしたちは、自分の限界を見つめたり、持っているものの少なさ、小ささを嘆かなくて良いのです。
 主イエスが共にいて下さり、主イエスの祝福のもとで、与えられた小さなものでも喜んで差し出すなら、主イエスが、力を与え、恵みを与え、わたしたちを豊かに用いて、御業を行なって下さいます。
 そして、わたしたちは、驚くほどの、満ちて余りある恵みを、多くの人々と共に豊かに受けることが出来るのです。

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