主日礼拝

御子を信じる者

「御子を信じる者」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第98編1-9節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第3章16-21節
・ 讃美歌:22、151、226

3・16は誰の言葉?
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り後を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ヨハネによる福音書第3章16節のこの言葉は、多くの人々に愛唱されてきました。この一節に、聖書全体のメッセージが要約されていると言うことができます。宗教改革者マルティン・ルターは、この節を「小福音書」と呼んだと言われます。まさに、キリストの福音、キリストによる救いの知らせがこの一節に凝縮されています。
 ところでこれは誰の言葉なのでしょうか。3章10節に「イエスは答えて言われた」とあって、その後に鍵括弧があります。そこから主イエスのお言葉が始まっているわけです。その括弧はどこまで続くかというと、本日の箇所の終りの21節にようやく括弧閉じがあります。10節から21節までの全体が、主イエスのお言葉ということになっているわけです。3章はその冒頭から、ニコデモという人が主イエスのもとに訪ねて来たことを語っています。そのニコデモに対する主イエスのお言葉としてこの16節も語られているわけです。しかしこの16節から21節までのところには、「独り子」とか「御子」という言葉が繰り返し出て来ます。それは主イエスのことであるわけですが、主イエスがご自分のことを「独り子」とか「御子」と言っておられるのは変です。なので、15節の終りに括弧閉じを置いて、主イエスのお言葉は15節まで、16節からはこの福音書を書いた人の言葉と考える、という訳し方もあります。聖書の原文には括弧などは付いていませんから、解釈によって付け方が違ってくるのです。以前の口語訳聖書は15節の終りに括弧閉じを置いていましたし、最近出た「聖書協会共同訳」もそうなっています。その方が自然な気がします。しかし新共同訳のように21節までを主イエスのお言葉とするという考え方も成り立ちます。その根拠は、16節の原文に、強いて訳せば「というのは」となるような、前の文章との深い繋がりを示す言葉があることです。昔の文語訳聖書はその言葉を意識して訳していました。文語訳の16節前半は「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり」となっていたのです。冒頭に「それ」という言葉があります。これがあるのとないのでは、前の文章との繋がりが違ってきます。「それ」があることによって、15節との繋がりの中で16節が語られていることが示されているのです。内容的にも、15節の「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と16節の「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とは同じ救いを語っています。その救いは、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という神の愛によって与えられているのだ、と語られているのです。ですから、15節で主イエスの言葉を区切ってしまうのは相応しくない、とも言えるわけです。このようにこの箇所には、主イエスの言葉をどこまでと考えるか、という問題があるのですが、しかし前回、11節以下を読んだ時に、ヨハネ福音書は、主イエスのお言葉に載せて、これが書かれた当時の教会が人々に語っていた言葉、つまり教会の信仰の言葉を語っている、ということを申しました。そういう意味では、この16節以下は、主イエスのお言葉であると同時に教会の信仰告白の言葉でもあると言うことができます。括弧閉じがどこに置かれていようとも、ここには、教会が宣べ伝えている主イエス・キリストの福音の根本的内容が語られているのです。

「世」とは
 教会が宣べ伝えている福音、つまり良い知らせ、救いの知らせの根本とは、神が世を愛して下さっている、ということです。「世」という言葉はヨハネ福音書に特徴的な言葉です。それはこの世界とそこに生きている私たち人間全体を意味しています。その「世」という言葉が最初に語られたのは、1章9、10節です。このようにありました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」。「世は言によって成った」とあります。初めからあった言、神である言によって、世は造られたのです。その言が、まことの光として世に来られました。それが主イエス・キリストです。主イエスはすべての人を照らすまことの光として世に来られたのです。しかし世は、その言、まことの光である主イエスを認めなかった。言によって成ったのに、造り主である言を認めようとしない、受け入れようとしない、それがヨハネ福音書における「世」です。つまり「世」は、神よって造られたのに、神を認めず、信じようとせず、従おうとしない、神に背き逆らっている世なのです。主イエスがまことの光として世に来られたというのも、神に背き逆らっている世が暗闇であることを前提としています。罪によって闇となってしまっている世に、まことの光である主イエスが来て下さったのです。しかし世はその光を光として認めようとしないのです。このようにヨハネ福音書は、世が、つまりこの世界と全ての人間が、神に逆らう罪の中にあり、暗闇に覆われてしまっていることを見つめているのです。

神は罪人を愛して下さった
 その「世」を神が愛して下さった、それがここに語られている福音のメッセージの中心です。神がこの世界を、そして私たち人間を愛して下さっているという聖書のメッセージは、この世界は神に愛されるほどに良い所であるとか、私たち人間は神が愛して下さるくらい美しく、優れており、立派な者だということではありません。私たち人間は、造り主である神を神として受け入れ、信じ、従うことをしない罪人なのです。その私たちが築いているこの世は、罪の暗闇に覆われているのです。元々神が造って下さった世界と人間はそうではありませんでした。神は良いものとしてこの世界と人間を造って下さり、祝福して下さったのです。しかし私たち人間が、神に従わずに自分の思いを通そうとし、自分が主人となって支配しようとする罪に陥ったために、神の祝福は失われ、この世界も闇となってしまったのです。その罪人である私たちを、暗闇に閉ざされてしまっているこの世を、神はそれにもかかわらず愛して下さいました。愛される資格などない私たちを愛して下さったのです。

独り子をお与えになったほどに
 しかもその愛は通り一遍のものではありませんでした。「その独り子をお与えになったほどに」神は世を愛して下さったのです。初めからあり、ご自身が神であり、万物はこの言によって成った方、1章18節によれば「父のふところにいる独り子である神」、その方を、神は世に与えて下さったのです。与えて下さったというのは、独り子なる神主イエスがこの世に人間となって生まれ、生きて下さったということだけではありません。これは教会の信仰告白の言葉だと先程申しました。教会が信じ、告げ知らせているのは、独り子なる神主イエスが、この世に人間として来て下さっただけでなく、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったということです。神の独り子が罪人である私たちの身代わりとなって死刑になって下さったのです。そのことによって、父である神は私たちの罪を赦して下さり、私たちをもう一度神の下で生きる者として下さり、失われた祝福を回復して下さったのです。背いて罪に陥った私たちを、独り子の命を犠牲にして赦し、祝福の下に回復して下さった、神はそのように私たちを愛して下さったのです。それだけではありません。神がその独り子を与えて下さったことには、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった主イエスを、神が復活させ、永遠の命を生きる者として下さったことも含まれています。そのことによって神は、肉体の死を乗り超えて復活と永遠の命を与えるという救いを実現して下さったのです。復活した主イエスは、私たちの復活と永遠の命の先駆け、私たちにもその救いが与えられることの保証となって下さったのです。神はその独り子を与えて下さることによって、罪に陥っている私たちを赦し、罪の支配から解放して下さっただけでなく、私たちを支配している死の力に勝利して、復活と永遠の命の約束をも与えて下さったのです。神はそれほどまでに私たちを愛して下さっている、愛されるに値しない罪人であるこの私に、このようなとてつもない愛を注いで下さっている、それがキリストによる救いの福音の根本なのです。

救いと同時に滅びが語られている
 16節の後半には「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。神が独り子を与えるほどに愛して下さったことによって私たちは永遠の命を得る、その救いが語られているわけですが、その救いは私たちが「滅びない」ために与えられていることがここに示されています。永遠の命を得るのでなければ、私たちは滅びてしまうのです。でも、独り子を与えて下さるほどの神の愛によって、滅びへの道ではなくて永遠の命を得る道を歩むことができるのです。この救いを信じ、それにあずかるためには、その救いがなければ滅びてしまうことをしっかりと見つめなければならないのです。そのことは17節以下では、「裁かれる」と「救われる」という言葉によって語られています。17?19節を読んでみます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」。ここには何度も、「裁かれる」ということが語られています。それは16節の「滅びる」と同じ意味です。神によって救われ、永遠の命を得るという福音の根本が語られているこの箇所において、その救いがなければ私たちは神によって裁かれ、滅びるのだということが繰り返し語られているのです。
 それは何故なのでしょうか。どうして、神によって救われることだけを見つめるのでなく、神によって裁かれ、滅びることをも同時に見つめなければならないのでしょうか。それは、先程見たように、私たちは美しく優れた立派な者だから神に愛され、救われるのではなくて、神に背き逆らっている罪人である私たちを神が愛して下さったことによって救われるのだからです。つまり私たちは、本来は、神によって裁かれ、滅びるしかない者なのです。私たちがこれから何か悪いことをしたら、神に裁かれ滅ぼされてしまう、というのではありません。私たちは既に、神に逆らい、造り主である神を神として信じ従うことなく、自分の思いによって、自分を神として生きているのです。その結果、神をも隣人をも愛することができなくなっており、お互いに傷つけ合い、苦しめ合いつつ生きているのです。それが生まれつきの私たちなのであって、そのような私たちは本当は神に裁かれ、滅ぼされるしかないのです。その私たちを神が愛して下さって、独り子を与えて下さいました。独り子主イエス・キリストのご生涯と、とりわけ十字架の死と復活によって、神は私たちの罪を赦し、永遠の命の約束を与えて下さったのです。その救いは、私たちが一生懸命善い行いをしたとか、立派な人になるために努力することによって得られたのではなくて、ただ神が私たちを愛して下さったことによって与えられています。私たちがこの救いにあずかるためになすべきことは、この神の、独り子をお与え下さったほどの愛を信じて受け入れ、神の独り子主イエスを救い主と信じることだけです。御子を信じる、そのことによって、そのことのみによって、神が私たちを愛して与えて下さった救いにあずかることができるのです。それは逆に言えば、御子を信じることなしには、神の愛によって与えられる救いにあずかることができないということです。その救いにあずからなければ、私たちは、生まれつきの、神に背き逆らう罪の中に留まり続け、裁かれて滅びに至る道を歩み続けるのです。

神の裁きが始まっている
 ですから、神が私たちを愛して下さって、独り子を与えて下さった、その救いのみ業によって、私たち人間は二つに分けられていきます。独り子を信じて、神の愛による救いを受け、永遠の命を与えられていく者と、御子を信じることなく、救いを受けることなく、裁きと滅びへの道を歩み続ける者との二つです。18節に「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」とあるのはそのことを語っています。神が御子イエス・キリストを世に与えて下さったことによって、裁かれない者と裁かれる者とが分けられているのです。19節の「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」というのも同じことを語っています。まことの光である主イエスを受け入れないことが、既にその人々の裁きとなっているのです。このように裁かれない者と裁かれる者、救われる者と滅びる者とが「分けられる」ということが、本来の意味での神による裁きです。ここでは「裁かれる」は「滅びる」と同じ意味で使われていますが、神による裁きとは、救われる者と滅びる者とを神がはっきりと分けるということです。神の裁きによって、救いもはっきりと与えられるし、その救いを受けることができない者の滅びも明確になるのです。そういう裁きが、この世の終りに神によって行なわれる、それがいわゆる「最後の審判」です。聖書はその終りの日の裁きを告げています。しかしここに語られているのは、その裁きが、神が独り子主イエスを世にお与えになったことによって既に始まっている、ということです。神が独り子をお与えになったほどに世を愛して下さった、その救いのみ業は、決定的な救いのみ業であるがゆえに、同時に裁きでもあるのです。この救いのみ業を受け入れ、主イエスを信じて罪を赦され永遠の命に至る救いの道を歩むのか、それを拒み、罪による滅びへの道を歩み続けるのかが、今私たちに問われているのです。主イエスとの出会いにおいて私たちは、その二つの道のどちらを歩むのかを問われ、それによって二つに分けられていくのです。決定的な救いが示されたところには、神による裁きもまた始まっているのです。

悪を行なう者と真理を行なう者
 私たちの前に開かれている二つの道のことが、20、21節に語られています。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。悪を行うというのは、何か大それた罪を犯すことではなくて、光を憎み、光の方に来ないこと、つまりまことの光として世に来られた主イエスを信じることなく、この世を覆っている闇の中に留まっているということです。光である主イエスのもとに来るなら、その行いが明るみに出されるとあります。それは隠していた罪が暴かれるということではなくて、私たち人間が根本的に神に背き逆らっている罪人であることが、主イエスの光に照らされることによってこそ明らかになる、ということです。主イエスによって罪を示され、明らかにされるところにこそ、主イエスの十字架による赦しの恵みが与えられていくのです。罪を明らかにされることを恐れて、光である主イエスのもとに来ないならば、救いにあずかることもできない、それが悪を行う者の歩みです。
 その反対の、真理を行う者としての歩みは、ことさらに立派な善いことをして生きることではなくて、光の方に来る、つまり主イエスのもとに来て、その救いにあずかることです。そこで明らかになるのは、その人の行いが立派だということではなくて、彼らは神に導かれて生きているということです。独り子をも与えて下さる神の愛を信じ受け入れて、その救いの恵みによって生かされていくところに、真理を行う者としての歩みが与えられるのです。

神の裁きに直面している私たち
 このように私たちの前には今、御子主イエスを信じて歩む道と、御子のもとに来ることなく、その救いを拒んで歩む道とが開かれています。つまり私たちも今、神の裁きに直面しているのです。しかしそれは神が私たちを裁いて滅ぼそうとしておられるということではありません。元々私たちは、罪による滅びへの道を歩んでいたのです。その道しか知らなかったのです。しかしその私たちに神が驚くべき愛によって独り子を与えて下さいました。その神の愛によって私たちの前に、御子を信じて救いに至る新しい道が開かれたのです。17節に語られているように、神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです。私たちを愛し、私たちが一人も滅びることなく救われて永遠の命を得ることを願って、神は御子を遣わして下さったのです。つまり神は、私たち全ての者を、御子による救いへと招いて下さっているのです。この招きに応えて御子を信じる者となるなら、それだけで私たちは、永遠の命に至る救いにあずかることができます。立派な善い行いをするとか、愛に満ちた人間になるというような私たちの側の資格や条件は、この救いには全く必要がありません。神は私たちへの心からの愛によって、独り子主イエス・キリストを与えて下さり、その十字架の死と復活による救いを既に実現して下さっているのです。この神の愛を受け入れて、御子を信じる者となって生きることによって、滅びに至る道を歩んでいた私たちが、永遠の命に至る道を歩む者へと新しくされるのです。

洗礼と聖餐への招き
 本日はこれから聖餐にあずかります。聖餐は、洗礼を受けた者のみがあずかることのできるものです。洗礼を受けるとは、神が独り子をすら与えて下さる愛によって救いへと招いて下さっている、その招きに応えて、御子を信じる者となることを意味しています。洗礼を受けて、御子を信じる者となり、御子イエス・キリストによる救いにあずかって生きている者たちが、聖餐において、主イエスの体と血とを表すパンと杯をいただき、神の独り子であられる主イエスが私たちのために肉を裂き、血を流して十字架にかかって死んで下さった、その救いの恵みを心と体全体で味わい、その恵みによって養われていくのです。聖餐にあずかることができるのは、その人が特別に立派な人だとか、善いことをしたからではありません。洗礼を受けるというのは、何かの資格を得ることではなくて、神がその独り子をお与えになったほどに自分を愛して下さっていることを信じ受け入れて、御子イエス・キリストのもとに来て、その救いにあずかり、御子を信じて生きる者とされる、ということです。その洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ、神の独り子主イエスと共に生きていくことへと、神は全ての人を招いて下さっているのです。

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