主日礼拝

わたしの福音

「わたしの福音」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第56章1-8節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第16章25-27節
・ 讃美歌:8、142、377

賛美による締めくくり
 主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めてきましたが、本日をもってそれを終えることになりました。この手紙の講解説教を始めたのは2015年の3月でしたから、3年余りをかけて読んで来たことになります。教会のホームページにはその説教が全て載っており、通し番号が付けられています。今回が第96回となるようです。
 本日ご一緒に読む最後の部分、16章25-27節は、神を賛美することによってこの手紙を締めくくっているところです。聖書のいわゆる「写本」の中にはこの部分がないものもあるので、ここは後から誰かがつけ加えたのではないか、とも考えられています。しかしここには、この手紙においてこれまで語られてきたいくつかの重要なテーマのまとめがなされているという面があります。この手紙全体の内容をしっかりと自分のものにしている人のみが語れる文章だと言えると思います。ですからこの最後の賛美の言葉を読むことは、この手紙全体のおさらいをするようなことにもなります。なので本日は、この手紙のあちこちに戻りながらお話をすることになることをご了解下さい。

ひとつながりの文章
 さて、新共同訳聖書ではこの部分は四つの文章に分けて訳されています。マルが四つあるわけです。しかし原文においては、25-27節はひとつながりの文章です。以前の口語訳聖書は原文を生かして一つの文として訳していました。このようになっていたのです。「願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン。」
 原文はこのように全体で一つの賛美の文章です。それを新共同訳のように分けて訳すと、最初の三つは説明の文章で、最後の27節だけが神への賛美であるように感じられてしまいますが、25-27節全体で神を賛美しているのです。しかし今聞いていただいて分かるように、全部を一つの文として訳すと、それぞれのことのつながりがよく分からなくなります。だから新共同訳は文を分けて訳したのです。こちらの方が語られている内容はよく分かります。

あなたがたを強めることができる方
 さてひとつながりである原文の文章は、「あなたがたを強めることができる方に」という言葉から始まり、「栄光が世々限りなくあるように」という言葉で閉じられています。「あなたがたを強めることができる方に栄光が世々限りなくあるように」。これがこの賛美の文章の枠組みなのです。そしてその間に、その方が何によって、どのようにしてあなたがたを強めて下さるのかがいろいろと説明されているのです。「あなたがたを強めることができる方」、それは勿論神です。だから新共同訳は「神は、あなたがたを強めることがおできになります」という文を冒頭に置いています。しかし原文においてはそのような説明の文章ではなくて、「あなたがたを強めることができる方を賛美する」と言われているのです。そしてそれに続いて、その方が三つのことによってあなたがたを強めて下さることを語っています。第一は「わたしの福音」によって、第二は「イエス・キリストについての宣教」によって、第三は「秘められた計画の啓示」によってです。これがこの文章の流れです。口語訳はその三つを原文の通りに並列的に並べていますが、新共同訳はその三つが相互に関係していることを表す訳となっています。先ず「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教」とあります。あなたがたを強める第一のものが「わたしの福音」ですが、第二のものである「イエス・キリストについての宣教」がその「わたしの福音」の内容なのだ、ということです。さらに「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」と訳すことによって、第三のものである「秘められた計画の啓示」が「わたしの福音」によってなされていることを示しています。つまり新共同訳は、神が「わたしの福音」によってあなたがたを強めて下さる。その「わたしの福音」の内容は「イエス・キリストについての宣教」であり、それによって神の「秘められた計画の啓示」がなされている、そのようにして私たちを強めて下さる神を賛美する、というこの部分の意味内容が明確に分かる訳となっているのです。

福音こそ神の力
 神が私たちを強めて下さる、神を信じることによって私たちは強くされる、ということは、この手紙の大事な主題でした。1章11節にパウロのこういう願いが語られていました。「あなたがたにぜひ会いたいのは、〝霊〟の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」。この「力になりたい」が25節の「強める」と同じ言葉です。あなたがたのところに行ってあなたがたを強めたい、とパウロは言っているのです。パウロはローマに行くことを願っています。それは1章15節にあるように「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」からです。福音を告げ知らせることによってあなたがたを強めたい、そのためにローマに行くことを願っているのです。次の16節にはこのように語られています。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。福音こそが、救いをもたらす神の力だから、その福音を告げ知らせることによってローマの教会の人々を強めたい、その福音に込められている神の力を彼はこの手紙において語っているのです。

福音による本当の強さ
 福音は私たちをどのように強くするのでしょうか。そのことをパウロはこの手紙の8章31節以下で語っていました。少し長いですが、この手紙のクライマックスとも言える箇所ですから、振り返って読んでおきたいと思います。

「第8章31-39節」。
 これこそが、福音によって与えられる強さです。それは私たち自身の力が強くなり、能力が高まることではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活と昇天とによって、神の愛が私たちに豊かに注がれており、罪と死に対する神の恵みの勝利が確立している。そのことがはっきりと分かり、その神の愛から私たちを引き離すことができるものはこの世に何もないという確信を与えられることによる強さです。福音は私たちを、この神の救いの恵みへの確信において強くするのです。そしてこの手紙の14、15章でパウロが語ったのは、そのように福音によって強められた者は、他の人の弱さを受け入れ、相手を裁くのではなくて弱い人を担い、支えることができるはずだ、ということでした。そのような愛に生きることこそが、信仰によって与えられる本当の強さの印だ、ということです。このように、神の力である福音が私たちをどのように強くするのかを語ることが、この手紙の中心的な主題の一つだったのです。

わたしの福音
 神は福音によって私たちを強くして下さいます。パウロはその福音を「わたしの福音」と呼んでいます。これを本日の説教の題としました。この「わたしの福音」についての竹森満佐一牧師の説教の言葉を共に味わいたいと思います。「福音がイエス・キリストから与えられることは、明らかなことであります。しかし、福音というからには、自分にとって、それが全く思いがけないような喜びを与えてくれるものでなければなりません。そうでなければ、福音といっても、他人事になってしまって、自分の福音ということにはならないのです。ですから、福音は、いつでも、イエス・キリストの福音であると同時に、わたし自身にとって、まことに福音であるのです。したがって、わたしの福音といえなければ、福音が福音にはならないのであります。その意味で、この言葉は非常に重要であると思います。それならば、パウロにとってだけでなく、だれにとっても、福音は、わたしの福音といえるものでなければならないのです」。イエス・キリストの福音は、このわたしにとっての福音なのです。主イエス・キリストが、この私のためにこの世に来て下さり、この私の罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、そしてこの私を新しい命に生かすために復活なさったのです。キリストによる救いが、罪人であるこの私に与えられている。しかも、私が清く正しい立派な人間になったからではなくて、ただキリストを信じる信仰のみによって神が私を義として下さっている。それが「わたしの福音」であり、それこそが神の愛へと確信を与え、私を強めるのです。

イエス・キリストについての宣教
 このように「わたしの福音」とはイエス・キリストの福音です。イエス・キリストについての宣教によってこそ私たちは神の力である福音にあずかることができるのです。ですから「わたしの福音」とパウロが言っているのは、私が福音と感じるものがわたしの福音だ、ということではありません。イエス・キリストについての宣教こそが福音であり、神はそれによって私たちを強めて下さるのです。その「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教」を語っている中心的なところを読んでおきます。5章6節以下です。「第5章6-11節」
 私たちはこの福音を教会の毎週の礼拝において聞いています。このことが自分のためだったことに気づく時に、それは「わたしの福音」となり、それが私たちを強くするのです。

秘められた計画の啓示
 神が私たちを強めて下さる第三のものが「世々にわたって隠されていた、秘められた計画の啓示」です。わたしの福音、即ちイエス・キリストについての宣教において、神の秘められたご計画が啓示されているのです。「秘められた計画」は口語訳聖書では「奥義」と訳されていました。原文の言葉は「ミュステーリオン」です。「ミステリー」の元となった言葉で、「神秘」と訳すこともできます。その意味は、人間の理性や感性には隠されていて、神ご自身が啓示して下さらなければ分からない事柄、ということです。だから「秘められた」と訳されているのです。そして「啓示」とは、人間には隠されている神の奥義、神秘を、神ご自身が明らかにして下さることです。福音即ちイエス・キリストについての宣教において神は、人間には考えることも感じることもできない秘められた神の奥義、神秘を啓示して下さったのです。「計画」とされていますが、それは私たちの救いのために神が立てて下さっている計画です。神の愛のみ心と言ってもよいでしょう。神が罪人である私たちを愛して下さっており、救おうとしておられる、その愛のみ心はずっと隠されていたけれども、それが今や、イエス・キリストにおいて現されたのです。このこともパウロがこの手紙において語ってきたことでした。3章26節にこのように語られていました。「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。主イエス・キリストによって救いのみ業を行って下さるまでは、神は人間の罪を忍耐しておられたのです。1章24節にはこうありました。「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」。欲望によって罪を犯す人間たちを、神はその思いのままに任せられたのです。それは神の忍耐によることでした。しかし今やその忍耐の時は終り、神は行動を起されたのです。その行動とは、これまでは我慢してきたがもう赦さない、堪忍袋の緒が切れた、ということではありません。神が起された行動とは、ご自分の独り子イエス・キリストを遣わし、その御子が私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を赦して下さるということでした。このことこそ、人間の思いや考えをはるかに超えた、神の秘められたご計画、奥義、神秘です。それが主イエス・キリストによって啓示され、実現したのです。この神の恵みのみ心を啓示されることによって、この世の様々な事柄に翻弄され、人間の思いに支配されている私たちはそこから解放されるのです。福音はそのようにして私たちを強めるのです。

異邦人の救い
 26節には、この神の救いのご計画が、今や現され、預言者たちの書き物を通して、全ての異邦人に知られるようになった、とあります。「預言者たちの書き物」とは聖書のことであり、それは私たちにおける旧約聖書です。「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教」によって啓示された神の救いのご計画は、旧約聖書を通して、全ての異邦人に知られるようになった、と言っているのです。旧約聖書は基本的に、ユダヤ人が神に選ばれた民であり、彼らを通して神の救いのみ業が行われたことを語っています。しかしその旧約聖書において既に、ユダヤ人でない異邦人にも神の救いのご計画が及んでいくことが語られていたのです。その代表的な箇所が本日共に読まれた、イザヤ書第56章です。ここには、異邦人も、主なる神のもとで、消し去られることのないとこしえの名を与えられ、主の聖なる山、祈りの家における喜びの祝いに連なることを許されることが語られています。旧約聖書においても、このような所に既に、異邦人にも及んでいく神の救いのご計画が示されていたのです。パウロはこの神のご計画のために選ばれ、立てられています。1章5節で彼は「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」と語っています。この手紙の宛先であるローマの教会も、異邦人の信者を中心とした群れでした。神は今や異邦人をも招いてご自分の民として下さり、救いにあずからせて下さっているのです。

人間の思いを超えて壮大な神の救いのご計画
 しかしそれと同時に、この手紙の9-11章において彼は、その福音はユダヤ人たちに先ず与えられたものであり、キリストの教会はユダヤ人の神の民としての歩みを受け継いでいるのだということも力を込めて語っていました。ユダヤ人たちは今イエス・キリストの福音を受け入れずに、神の救いから落ちてしまっている。しかしそれは、異邦人にも救いの恵みが及んでいくという神のご計画の一部なのであり、ユダヤ人に対する神の選びの恵みは決して失われることはない。神はご自分の民として選んだユダヤ人たちを、最後にはキリストによる救いにあずからせて下さるのだ、ということが9-11章には語られていたのです。そこでパウロが見つめているのは、神の秘められた計画、私たちを救いにあずからせて下さる恵みの奥義、神秘の大きさであり、それが人間の思いをはるかに超えて壮大なものだ、ということなのです。
 その神の救いのご計画が今私たちにまで及んできています。私たちが今こうして、教会において主イエス・キリストの父である神を礼拝しているのも、神の壮大な救いのご計画によることです。神がみ心によって私たち一人ひとりを選んで下さり、導いて下さっているので、私たちは教会の礼拝を守る者とされているのです。私たちはこの礼拝において、イエス・キリストについての宣教を通して神の救いの恵みを告げる福音を聞いています。その礼拝の体験を積み重ねる中で、イエス・キリストの十字架の死と復活が、自分のための救いの出来事だったことが示される時が来ます。主イエスがこの私の罪を負って十字架にかかって死んで下さった。そしてこの私が神の子とされて新しい命を生きるために復活して下さった。主イエスの十字架の死と復活において神の愛が私たちの罪と死とに既に勝利しており、神はこの私にも、主イエスと同じ復活と永遠の命を与えると約束して下さっている。もはや死の力も、この神の愛から私を引き離すことはできない。私たちがそのことを信じる時、いやむしろ神が私たちを導いて信じさせて下さる時、話として聞いていたイエス・キリストの福音が、「わたしの福音」となります。その「わたしの福音」は、私たちを神の救いのご計画にあずからせ、本当の意味で強い者とするのです。

信仰による従順
 「わたしの福音」によって強くされた者は、「信仰による従順」へと導かれます。主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた神の救いの恵みに感謝し、喜びをもって主のみ心に従って生きる生活がそこには生まれるのです。この手紙の12章から15章にかけてパウロが語っていたのは、その「信仰による従順」とは何かでした。その中に先程の、本当の意味で強くされた者として、弱い者の弱さを担い、愛に生きることも含まれているのです。その信仰による従順の根本を語っているのが、12章の1、2節です。そこも大事な箇所ですから読んでおきましょう。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。「わたしの福音」によって強くされ、キリストによる神の愛を確信して生きる者は、自分自身を神にお献げする礼拝に生きるのです。それによって私たちは、聖霊のお働きを受けて新しく造り変えられ、この世を支配している様々な人間の思いや力から解放されて、神の御心をわきまえ、またそれをこそ求めて歩む者となるのです。それが「信仰による従順」です。神は私たちをも、この信仰による従順へと招いておられます。この手紙を読み終えるにあたって、ここに語られてきたキリストの福音が私たち一人ひとりにとって「わたしの福音」となり、それによって神の愛への信頼において強められ、信仰による従順に生きる者とされていくことを、願い求めていきたいと思います。主は私たちを必ずそのように強め、導いていって下さいます。
 救い主イエス・キリストによる救いを与え、聖霊によって私たちを新しく生かして下さる唯一の父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

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