「御心ならば」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:レビ記 第13章45-46節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第1章40-45節
・ 讃美歌:215、479
<主イエスの宣教>
前回の夕礼拝では、主イエスが大勢の人々を癒されたあと、1:35にあるように「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。そして、自分たちのところに留まって欲しいと願う人々を置いて(並行箇所ルカ4:42)、弟子たちに、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」と言われました。主イエスは、「わたしたちは人々の願いに従うのではなく、神の御心に従って、みんなで福音を宣べ伝えよう」と仰って、弟子たちを伴って、ガリラヤ中の会堂に出て行き、宣教し、悪霊を追い出されたのです。
主イエスが宣べ伝えておられる福音とは、1:15にあるように「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。それは、神のご支配が来たから、神から離れて、自分中心に歩んでいたその罪を悔い改めて、神のもとに立ち帰りなさい。そして、罪の支配ではなく、神の恵みのご支配の中で、神と共に生きる者となりなさい、ということです。
そうして、主イエスは、神の権威、神の力によって、その語られている福音、良い知らせがまことの知らせであることを示し、人々を癒し、また悪霊を追い出して下さったのでした。1:27には、主イエスの教えや、御業を見た人々が、「権威ある新しい教えだ」と言ったとあります。主イエスが語られること、なされる業は、これまで見たことも聞いたこともない、新しいことでした。
主イエスは、神が遣わして下さった神の御子、救い主であり、イスラエルに約束され、すべての人々に与えられた、神の救いの御心、神のご支配を、いよいよ実現するために来られた方なのです。
<ツァラアト>
そうして、主イエスが会堂から会堂へ、福音を宣べ伝えておられる途中のことだと思われますが、本日の箇所、1:40には「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところにひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」とあります。
「重い皮膚病を患っている人」と書かれていますが、これは少し古い翻訳の聖書では「らい病人」と訳されていました。今でいう、ハンセン病のことです。しかし現在は、これはハンセン病のことを指しているのではない、ということが分かっています。
「重い皮膚病」の症状については、旧約聖書のレビ記13章に詳しく書かれています。旧約聖書のもとの言葉のヘブライ語では「ツァラアト」と書かれていて、これは「神に打たれた者」という意味です。後にギリシア語で、それが「レプラ」という言葉に訳されました。このマルコが書かれているギリシア語でもこの部分は「レプラ」となっています。
このツァラアトというのは、特定の病気のことではなく、聖なる神との交わりにふさわしくないとされる、「汚れ」の状態を現す言葉です。
イスラエルの民というのは、神に選ばれ、神を礼拝する共同体ですが、レビ記に書かれているような症状が出た者は「ツァラアト」とされ、神を礼拝する共同体から出なければなりませんでした。
本日お読みしたレビ記13:45-46は、ツァラアトの人がどのような生活を強いられたかということがよく分かる箇所です。「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
人との接触は、相手にこの「汚れ」が移るとして禁止されました。また、家族と一緒に住むことも出来ません。人々の生活圏から外に出て、独りでいなければなりませんでした。また、症状がなくなったら、それで回復した、ということではなく、体を祭司に見てもらって、清めの儀式をしなければなりませんでした。
ですから、本日の箇所は、小見出しは「重い皮膚病を患っている人をいやす」とありますが、聖書の本文中には「いやす」という言葉は出てこないで、「清くなる」と言われているのです。
ここで主イエスがなさったことは、単に病を癒した、ということではなく、神との交わりを絶たれた状態にある人を清めてくださること、神との交わりを回復させて下さる、という出来事なのです。
<「御心ならば」という信仰>
1:40節には、このツァラアトとなり、宿営の外に一人でいた人が、主イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った、とあります。先ほどのレビ記にあったように、律法に定められているので、この男は町の中に入っていくことが出来ません。入ったなら、人々が大騒ぎをするでしょう。
主イエスが町へ、村へ移動するにあたって、宿営の外に出られるのを待ち構えていたのかも知れません。そしてこの男は、主イエスが来られると、近づき、ひざまずいて願ったのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」
ひざまずくのは、神を礼拝する姿勢であり、また王への敬意を示す態度です。そして、「清くしてください」ではなく、「あなたは、わたしを清くすることができる」と言ったのです。主イエスがそのような力を持つ方であること。神の子であること。この男は、まずそのことを受け入れています。
しかもその前に、「御心ならば」と言いました。「もし、わたしを清くすることを、あなたが望んで下さるなら、あなたの御心であるならば、意志であるならば、そのようになります」と言ったのです。それは、「清くなることが、もし主イエスの御心ではないのなら、あなたは清くする力をお持ちだけれど、わたしを清くすることはなさらないでしょう。しかしあなたが、わたしを清くすることを御心と思って下さるなら、望んで下さるなら、あなたはそれをわたしにして下さるでしょう」ということです。この男は、神の主権に、自分をすべて委ねています。
普通は、「病を癒して下さい。わたしを清めて下さい」と、自分の願いを申し上げ、聞いてもらおうとするところです。それどころか、わたしたちは、神にそのような力があるのなら、神はわたしを癒すべきだ。主イエスはわたしを助けるべきだし、その責任を持っておられるはずだ。なのにどうして、それを今すぐなさらないのかと、神に対して不満を抱きさえするかも知れません。
もちろん、人の病の苦しみや、共同体から追い出される心の苦しみは、人を絶望に、時には死に追いやるほど深刻です。その苦しみを取り除いて下さい、というのは、命がけの、切実で真剣な願いです。その願いを神に求めてはいけないのではありません。他でもない、神に、主イエスに、そのことを求めることは、正しいことなのです。
しかし、その前に、神を礼拝するということを、わたしたちはこの男の姿から学びます。わたしが御前に立って、祈り求めようとしている神は、どのようなお方なのか。わたしをお造りになった方、天地を創造された方、すべてを支配なさる方なのです。
この男はそれを知っており、主イエスの御前にひざまずき、その神の力を信頼し、また主の御心に従うということを表明したのです。すべては、神の自由なご意志によること。神がご自身の決断によって、すべての御業をなるということを認め、神の御手に、御心に、自分を委ねたのです。神は、自分にとってではなく、神ご自身において、最も良い時に善い御心を行って下さる。そのことを信じ、自分の人生の主導権を主イエスに渡しているのです。これが信仰に生きる姿、神を礼拝する姿です。
しかしまた同時に、この男は、もうこのようにするしかなかった。自分の存在を主イエスの御手に渡すことしか出来ませんでした。この男は、今の「汚れ」の状態を、自分ではどうすることも出来ません。良いことをするとか、人を助けるとか、努力するとか、そんなことは、「清くなる」ために何の役にも立たないのです。人に近づくことさえ出来ない。たった一人で、宿営の外に座っているだけです。徹底的に無力で、まったく何もできない中で、この男はただ、自分に近づいて来られた主イエスを求め、神に自分をすべてお委ねしたのです。そしてこの男が神の御子と出会ったときから、神との交わりは回復し始めているのです。
わたしたちは、なまじ少しでも自分で何かを出来るかのように思っているから、なかなか自分の人生を主の御手にお渡しし、ひざまずこうとしないのかも知れません。
<深く憐れまれる主イエス>
さて、主イエスは、そのようにひざまずいて、御心に自分を委ねて御前に出て来たこのツァラアトの男に対して、「よろしい。清くなれ」と言われました。
よろしい、と訳されているのは、英語で「I will」、「わたしはそうしよう」ということです。「わたしはそのように意志を持とう。そのように望み、それをわたしの心としよう」ということです。主イエスは、この男が清くなることを望んでくださいました。
主イエスはその時、「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」とあります。「深く憐れんで」という言葉は、主イエスにのみ使われる言葉で、「はらわたがよじれる」というような意味をもつ、深く強い感情を現す言葉です。単に可哀想に思うとか、同情した、というレベルではありません。それは、主イエスがこの男に触れて下さったことからも分かります。
主イエスはその激しい思いをもって、男に触れて下さいました。当時の人々からすれば、汚れている人に触ることは、自分自身も汚れることになりますから、ツァラアトの人は自分で「汚れた者です」と呼ばわって人を遠ざけなければならなかったし、あえてこの人に触れることなど、常識では考えられないことでした。
しかし主イエスは、手を伸ばして触れて下さった。誰も触れようとしない、自分自身でも嫌になってしまうような、今置かれている自分のあらゆる苦しみの原因に、人のそのような部分に、主イエスは御自分の手で触れて下さるのです。
むしろ触れることで、その汚れを共に担って下さり、ご自分の苦しみとして下さり、そして、その男が苦しみから解放されることを、望んで下さる。そして、神の力で清めてくださる。これが、父なる神の御心に適う「神の子」、主イエスの御心です。
<町の外に立たれる主イエス>
主イエスがご自分から汚れに触れ、その苦しみを担って下さったということは、ツァラアトの男が清くなった後、45節にあるように、主イエスご自身が、最終的に町の外の人のいない所におられることになった、ということが象徴的に表していると思います。
宿営の外に一人でいるしかなかった男が、清められ、神を礼拝する共同体に復帰できるようになったことの代わりに、主イエスが町の外の人のいない所に立たれることになったのです。
主イエスは、清められた人を立ち去らせるとき、厳しく注意した、とあります。これも、強烈な感情を現す言葉で、「怒る」と「厳しく戒める」を足したような言葉です。そして44節で、今起こった出来事を「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と言われました。
これは律法に定められている、汚れた者が清くされるためになすべき手続きです。祭司に体を見せ、また汚れを清める儀式で動物の献げ物をします。この手続きを終えると、神を礼拝する共同体に復帰することができ、祭儀にも参加することが出来るようになるのです。それは、神との交わり、そして人との交わりが回復するということです。
どうして主イエスは激しい感情をもって、このことを男に指示されたのでしょうか。
それは、神の御子を求めて、自分自身を「御心ならば」と委ねてきた男が、このような神との交わりを絶たれた場所、人々の交わりから外された場所に、一秒も長くいてはいけない、神との、人との交わりを失った者の悲惨さに、こんな憐れなことがあってはならない、という強い思いを抱かれたのでしょうか。
このようにして主イエスに送り出され、男はそこを立ち去りました。しかし、男は「だれにも、何も話さないように」と言われたことを破って、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めたのです。
汚れの中で絶望している中、主イエスと出会い、自分が清くなることを望んで下さり、汚れている自分に触れて下さった。そして、清めて下さった。この神の恵みに触れた男は、このことを語り出さずにはいられなかったのでしょう。
主イエスに禁じられたことではありましたが、しかしこれは、神に救われた者の、自然な喜びの姿であると思います。
主イエスがだれにも言ってはならないと仰ったのは、他の多くの人々は、神の国の福音に耳を傾けず、ただただ癒しを求めて、目に見える業を求めて主イエスのところにやって来る、ということを知っておられたからでしょう。
主イエスの御業は、神の主権、神の権威を現すものとして、神の国は近づいたという福音の「しるし」として行われているものです。
しかし、人々はその御業だけを求め、主イエスを腕の良い医者や、奇跡を行ってくれる人としか受け止めません。自分たちに都合のよい便利な方として、主イエスを求め、自分のところに留めておこうとします。
清められた男のように、「御心ならば」と言って、主イエスを自分の人生の主人として迎えるのではなく、自分の人生が平穏無事に、思い通りにいくように、自分の願いを叶えるために、主イエスを迎えようとしているのです。
そして実際、この清められた男の話を聞いて、大勢の人々が集まってしまい、主イエスは「公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられ」ることになったのです。
人の自己中心的な思いは、主イエスを外へ追いやります。しかし本当は、共同体の外、神からの交わりを絶たれ、隣人との関係も失ってしまう孤独な場所は、自ら神に背き、神との清い交わりを失ってしまい、罪に汚れてしまった者が立つところです。その町の外は、本来わたしが立つべきところなのです。
しかし、主イエスが、わたしの代わりにそこに立っておられる。わたしの罪に、汚れに触れて、それらをすべてご自分の身に引き受け、罪人が立つべきところに、神の子が立っておられるのです。はらわたのちぎれる思いでわたしたちを憐れみ、もっとも深く深刻な汚れに触れ、わたしたちをご自分の血で清めて、神との交わりに生きる者に回復させてくださるのです。
<主イエスの「御心ならば」の祈り>
このように、わたしたちのために救いの御業を行って下さる時、十字架の前に、主イエスも父なる神に向かって「御心ならば」という祈りをささげられました。
マルコの14:36のゲッセマネの祈りで、主イエスは「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られたのです。
主イエスも、ご自分の歩みを父なる神に委ねておられました。主イエスは、十字架という想像を絶する苦しみと死を前に、「この杯を取りのけてください」と祈られました。しかし、「父なる神の御心に適うことが行われますように」、と言われたのです。
そして、この苦しみの杯を取りのけることは、父なる神の御心ではありませんでした。父なる神は、わたしたちの罪の赦しのために、救いの実現のために、御子である主イエスが十字架にかかって死なれることを御心とされたのです。
神の御心に従うということは、厳しいことです。本当に神の御心に従って正しく歩むことができる人は、まことの人となって下さった神の御子、主イエス・キリストただお一人です。
こうして主イエスが、死に至るまで従順に神に従い抜いて下さったおかげで、神の御心、それは、すべての人間が主イエスの御業を信じることによって、罪を赦され、神と共に生きる者となる、ということが実現したのです。
わたしたちが、主イエスによって、聖なる神との交わりに永遠に生きること。そして、神の民の共同体の中で隣人とよい交わりのうちに生きること。これこそ、神が望んで下さっていること、神の御心なのです。
今、わたしたちは、主イエスの十字架と復活の出来事によって実現して下さったこの神の御心を、はっきりと示されています。
かつて神から離れ、罪のために人とも断絶し、孤独に、外で立ちつくしていたわたしたちに、主イエスが訪れて下さいました。無力で絶望するしかないそこに、神の子がおられる。そして、苦しみに触れて下さり、罪の汚れをご自分が負って下さり、罪を贖って下さるのです。そうして、神を礼拝する共同体である教会に招いて下さったから、わたしたちは神のもとに立ち帰り、神と交わり、隣人と共に、今ここで礼拝する者とされているのです。
また、わたしたちはこの神の御心を知っているなら、生かされているなら、他の人々を排除したり、共同体から締め出したり、孤独なままにしておくのではなく、かつて主イエスがわたしにそうして下さったように、苦しみに、孤独の中にある人を尋ね、触れ、共に苦しみを担い、共に生きる者とされるのです。
神の救いの御業が実現した今や、わたしたちは、一人でも多くの人々が主イエスと出会うことができるように、喜んで、大いにこのことを人々に告げ、言い広めたいのです。主イエスは地の果てまで、わたしの証人となれ、と言っておられます。
神は、わたしたちが清くなること、神を愛し、人を愛し、神を礼拝する共同体の中で、共に喜びに生きることを望んでおられる。「これがわたしの心だ。よろしい。清くなれ」と言って下さるのです。共に御前にひざまずき、神を礼拝しましょう。