主日礼拝

弱いときにこそ強い

「弱いときにこそ強い」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第23編1-6節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第12章6-10節
・ 讃美歌:7、120、543

弱さをかかえていたパウロ
 今日のお話の題は「弱いときにこそ強い」です。これは、先程朗読された新約聖書の箇所であるコリントの信徒への手紙二の第12章10節の終りから取ったものです。そこには「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」とあります。これを語っているのはパウロという人です。生まれたばかりのキリスト教会における最大の伝道者であり、イエス・キリストを信じる信仰を宣べ伝えるために、今日からしても驚くほどの距離を旅して回った人です。紀元1世紀に、キリスト教がローマ帝国の全域に広がったことの土台を築いたのはこのパウロだと言って間違いありません。そういう偉大な伝道者であるパウロですが、彼は、ある「弱さ」をかかえていました。そのことについて本日の箇所の7節の後半で彼はこのように語っています。「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」。自分の肉体に一つのとげが与えられている、そのとげが自分を痛めつけている、と言っているのです。そのとげとは病気のことだろうと考えられています。パウロがある病気をかかえていたことは、彼が書いた他の手紙にも出てきます。それらの箇所を読むと、彼は病気のために肉体的な苦しみを感じていただけでなく、人に軽蔑されるようなこともあったようです。時々この病気が出るゆえに、人々から信頼されなかったり、まともに話を聞いてもらえなかったり、ということを彼は体験していたのです。本日の箇所の少し前のところには、彼が、わたしのことを、手紙は力強いが、実際会ってみると弱々しくて話も下手くそだと言っている人たちがいる、と言っているところがあります。どうもパウロという人は、自信と活力をもってバリバリと仕事をこなし、雄弁に語るというタイプの人ではなくて、弱々しくて風采の上がらない、しかも病気がちな人だったようです。彼はそのことで苦しんでいました。8節には「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」とあります。自分を痛めつけているとげを取り除いてくださるように、このとげによってもたらされている弱さから解放して下さるように、彼は主イエス・キリストに祈り願ったのです。「三度願った」というのは、本当に真剣に、熱心に祈り願ったということです。自分がかかえている弱さから抜け出してもっと強い者になりたい、人々に馬鹿にされたり、風采の上がらないやつだなどと言われない者になりたい、もっと勢力的に仕事ができる者になりたい、とパウロも真剣に思い、そのように神に祈り願っていたのです。

弱さに苦しむ私たち
 こういう願いを私たちの誰もが持っていると思います。私たちはそれぞれにいろいろな弱さをかかえており、そのために苦しんでいます。病気の苦しみを負っている人、また年を取ってきたために弱りを覚えている人がいます。生まれた時から何らかの障がいを負っている、という人もいます。肉体においてだけでなく、心の病いによる弱さをかかえている人もいます。そういうはっきりとした弱さだけではありません。私たちが弱さを感じるのは、他の人ができることを自分はできない、という時です。あの人はあんなことができるのに、自分にはできない、そこに自分の弱さを覚えるのです。つまり私たちは自分の弱さを人との比較によって意識させられる、ということがあります。だから、周りの人から見て全然弱そうに見えない人でも、本人は弱さを感じて苦しんでいるということがあります。世の中、上を見ればきりがないわけで、自分よりもいろいろなことができる人、力のある人はいくらでもいるのです。だからどんな人でも弱さを感じて悩み、もっと強くなりたいと思っていることが必ずあるのです。
 私も子供の頃そういう思いを抱いていました。私は、勉強はそこそこに出来ましたので、その点では周りから一目置かれていましたが、運動、スポーツは全然ダメで、みんなの足を引っ張るばかり。出来ないからますますやろうとしない、やりたくない、だから全然上達しない。体も今よりずっと弱くて、明るく元気に走り回るようなタイプではありませんでした。ですから私は、勉強はそんなにできなくても、明るくて、スポーツ万能でみんなの人気者、という子が羨ましかった。そういう子と自分を比較して自分の弱さを嘆いていたのです。そして私の家は教会だったわけで、毎週日曜日に自分の家で行われている教会学校に通っているわけですが、もし自分がスポーツ万能でクラスの人気者だったら、学校の友だちがみんな教会学校に来るだろうに、特に女の子たちが…、と思っていました。神さまが自分をそういう人気者にしてくれていたら、教会学校にもっと人が集まったのに…。まあそれはただ女の子にモテたかったというだけで、そのために神さまを利用しようとしていたわけで、そんな願いはかなえられるはずもなく、そして今にして思えば、そんな何でも万能なんて奴のいる教会なんか誰も行きたいとは思いませんよね。それこそ自分の弱さを見せつけられるだけですから。
 こんなのは一つの笑い話に過ぎませんが、パウロがここで語っている弱さ、つまり具体的な病気の苦しみは笑い事ではありません。それはまさに「とげ」であって、自分を刺し貫き、ずきずきとした痛みを与えているのです。私たちの間にも、病気や、老いや、その他様々なとげを負って、その痛み苦しみ悲しみを日々、肉体においても、心においても受けている方々がいます。またそのような弱さ、痛みを受けている家族を支えている人たちにも、同じような苦しみ悲しみがあります。そのような方々にとって、このとげを取り除いてほしい、この弱さ、苦しみから抜け出したいという願いはまことに切実なものです。パウロもそのような苦しみの中で真剣に熱心に、自分の弱さからの解放を祈り求めていたのです。そのパウロがしかし本日の箇所の最後のところでは、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言っているのです。自分は弱さをかかえており、それによって苦しみ悲しみを味わっているが、でもその中で満足している、なぜならわたしは弱いときにこそ強いからだ、と言っているのです。彼はなぜそのように言うことができたのでしょうか。弱いときにこそ強い、とはどのようなことなのでしょうか。

人間の弱さの中で発揮される神の力
 彼がこのような思いを与えられたのは、「このとげを取り除いてください」という真剣な祈りに対する主イエス・キリストの答えを聞いたことによってでした。主はこうお答えになったのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。弱さを取り除いてください、という彼の願いは聞き入れられませんでしたが、その代りにこういう答えが与えられたのです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」この主のみ言葉が、「わたしは弱いときにこそ強い」とパウロが語ったことの根拠です。私たちはこのことを間違って受け止めないようにしなければなりません。これは、自分の弱さを自覚していることによってこそ、ある意味で開き直って、なりふり構わず、思い切ってがむしゃらに、全力を出し切ることができる。するとそこには自ずと道が開けていくものだ、というようなことではありません。弱いと感じる時にこそ人間はむしろ自分の持っている力を十分に発揮できる、ということではないのです。弱さの中でこそ十分に発揮される力とは、人間の力、私たちの力ではありません。それは神さまの力、キリストの力です。私たちが自分の弱さを感じるとき、自分にはあれもできない、これもできない、と感じて苦しみや悲しみを覚えるとき、人と自分を比較し、あるいは比較されてしまう中で、あの人には出来ることが自分にはできない、自分はなんてダメなんだ、と絶望を覚えるとき、そこにおいてこそ、神さまの力が働き、救い主イエス・キリストが恵みのみ業を行って下さるのです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」というのはそういう意味です。だからそれに続いてパウロはこう言っているのです。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。自分の弱さを誇るというのは、弱さを自慢するということではなくて、自分の弱さ、自分が弱いという事実を受け入れて、自分の内に「キリストの力」が宿り働いて下さることを願い求めること、神の力による救いをこそ求めることです。私たちは、自分が強い者になりたいと願っている間は、自分の力によって歩もうとしています。自分であれこれのことをできるようになりたいと願い、それができるようになることが救いだと思い、そういう救いを願い求めているのです。しかしそこには、神の力、キリストの力が発揮される余地はありません。神の力が働くためには、自分の力によって歩もうとすることを止めなければなりません。止めると言うよりも、自分の力ではどうにもならない、自分には力がない、自分は弱いということを認めて、神さまどうぞあなたが力を発揮してください、救い主キリストが私の内でみ業を行ってください、と願い求めていくのです。それが、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇」る、ということです。そこにこそ、神の力、キリストの力が十分に発揮されていくのです。そしてキリストの力が発揮されていくところには、私たちの弱さの現実の中でも、「わたしの恵みはあなたに十分である」ということが見えてくるのです。パウロが、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています」と言っているのはそういうことなのです。

「病者の祈り」
 パウロがここで語っているような体験を印象深く描いている詩があります。この後聖歌隊によって歌われる「『病者の祈り』より」という曲は、その詩を元にして作曲されたものです。その歌詞が週報に挟み込まれて皆さんのお手元にありますのでご覧いただきたいのですが、この詩は、ニューヨーク州立大学のリハビリテーション研究所の壁に掲げられているものであり、日本語では「病者の祈り」という題でよく知られています。しかし原文の題は「The Answer to All My Prayers」、訳せば「私の全ての祈りへの神の答え」です。祈りの詩と言うよりも、神が祈りに答えて下さったという体験を語っている詩なのです。この詩を私の訳でご紹介させていただきます。
 「何事かを成し遂げようとして強い者となることを神に願い求めたが、謙遜に従うことを学ぶようにと弱い者にされた。
 より偉大なことができるようにと健康を願い求めたが、より良いことができるようにと病弱を与えられた。
 幸せになるために富を願い求めたが、本当の意味で賢くなるためにと貧しさが与えられた。
 人の賞賛を得たくて力(権力)を願い求めたが、自分が神をこそ必要としていることを感じることができるようにと弱さを与えられた。
 人生を喜び楽しむためにあらゆるものを得たいと願い求めたが、人生そのものが、あらゆるものを喜び楽しむために与えられていたのだ。
 願い求めていたものは何一つ得られなかったが、しかし私は望んでいたものをすべて得た。
 私自身の思いにはほとんど反していたが、私の心の中に隠されていた言葉にならない祈りは答えられた。
 私はすべての人々の中で最も豊かに祝福されている。」
 この詩を書いた人は、自分の弱さの苦しみの中で、神に救いを祈り願ったのです。この弱さと、それによる苦しみ悲しみを取り除いて下さいと願ったのです。しかし願ったことは何一つ叶えられませんでした。強い者となりたいと願ったのに、弱い者とされました。健康を願い求めたのに、病気を与えられました。富を願い求めたのに、貧しさを与えられました。力・権力を願い求めたのに、弱さを与えられました。願っていたのと反対のものばかりが与えられたのです。しかし彼はそこに、神の恵みがあったと言っています。弱い者とされたのは、謙遜な者となり、神に従うことを学ぶためだった、病気になったのは、偉大なこと、立派なことではなくて本当に良いこと、神の恵みが現され、人々がそれを共に喜ぶことができるようなことをする者となるためだった、貧しさを与えられたのは、本当の意味で知恵ある人、人間の富や力に頼り、それを誇って生きるのではなく、弱い者、貧しい者と共にいて下さる神によって生かされる者となり、同じように弱さや貧しさの中いる人々と共に生きることができる者となるためだった、人に賞賛される力や権力ではなく、むしろ軽蔑されてしまう弱さを与えられたのは、自分が神の恵みなしには生きることができないことを知り、神の前に跪くことによって、他の人々に対しても謙遜になり、弱い人、軽蔑されている人を受け入れることができる者となるためだった。神はそのように、私に弱さや病気や貧しさを与えることによって、私を神の恵みの中で、神と共に生きる者として下さったのだ、ということを彼は見つめているのです。

「得る」ことから「与えられる」ことへ
 「人生を喜び楽しむためにあらゆるものを得たいと願い求めたが、人生そのものが、あらゆるものを喜び楽しむために与えられていたのだ」というのも味わい深い言葉です。多くのものを手に入れることによって人生を喜び楽しむことができると考え、それを願っていたが、その時には、あれがない、これが手に入らない、という不足を感じて喜んで生きることができなかったのです。しかし彼は気づかされました。何かを得ることによって喜んで生きることができるようになるのではなくて、私たちの命、人生そのものが、神によって与えられたものであることを知ることによってこそ、人生のあらゆることを喜び楽しむことができるようになるのです。何かを得ることによって喜びを得ようとしている間は、いつまでたっても不平不満から抜け出すことはできません。「自分が得る」ことから、「神によって与えられる」ことへと思いが向き変わることによってこそ、人は喜んで生きることができるようになるのです。

苦しんでいる人こそが告白できる信仰
 この詩の作者は、自分が人生のとげとして苦しんでおり、取り除いてほしいと願っていた弱さを、神が、自分を神の恵みの中で生かすために用いて下さっていることに気づかされたのです。それが彼の祈りに対して神が与えて下さった答えでした。彼は喜んで生きることができるようになりたいと切に願っていました。そのためには、自分の弱さが取り除かれて、強くならなければならない、そうでなければ自分は喜んで生きることができないと思っていました。しかしそうではなかった。自分の弱さ、苦しみ悲しみを、神が用いて下さって、その弱さ、苦しみ悲しみを感じないで生きるよりもむしろより良い人生を与えて下さったのです。より良い人生とは、神の恵みをより豊かに味わい知り、喜びに生きる人生、しかもその喜びを他の人に分け与えていけるような人生です。喜んで生きることができるようになりたいという彼の願いは、求めていたのとは全く違う、正反対の仕方でだったけれども、しっかりと聞き届けられ、叶えられたのです。だから私は誰よりも神に祝福されている、幸いな者だ、と彼はこの詩を締めくくっています。この詩は神への感謝に満ちた信仰の表明です。この詩の題は先程申しましたように「The Answer to All My Prayers」、「私の全ての祈りへの神の答え」ですが、副題もあって、「A Creed for Those Who Have Suffered」、「苦しんでいる人のためのCreed」です。Creedは「信条」と訳されますが、日本語で「信条」というのは普通「これが私の信条だ」とか「思想、信条の自由」というふうに使われており、自分の信念とか主義主張と理解されることが多い言葉です。ですからこの副題を「苦しみの中にいる人が信条とすべきこと」と理解する人もいます。しかしこのCreedはむしろ「信仰の告白」ということです。礼拝の中で私たちが唱和している「使徒信条」の信条です。つまりこの詩の副題は、「苦しんでいる人のための信仰告白」であり、さらに説明的に言えば、「苦しんでいる人こそが告白できる信仰」ということでしょう。弱さをかかえ、苦しみを覚えている人が、その苦しみの中から神に救いを真剣に祈り願い、その祈りへの答えとして、神がその弱さ、苦しみを通して自分に恵みを与え、導いて下さっていることを示されるときに、このような信仰告白が与えられていくのです。

キリストのために
 パウロも、弱さ、苦しみの中での祈りへの答えとして、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というみ言葉を聞いたのです。そのことによって、「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」という信仰の告白を与えられたのです。このパウロの信仰告白の中で、さらに注目しなければならないのは、「キリストのために」という言葉です。弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態にあっても彼が満足することができるのは、「キリストのため」なのです。9節でも、「キリストの力がわたしの内に宿るように」、自分の弱さを誇ろう、と言っていました。私たちの弱さの中でこそ十分に発揮される力とはこのキリストの力なのです。このキリストの力を知らなければ、「弱いときにこそ強い」という彼の言葉は、願いが叶えられなかった中でのただのやせ我慢に聞こえます。先ほどのあの詩も、病気などの弱さで苦しんでいる人が、その苦しみにも何らかの意味があるのだと無理に考えることによって必死に自分を慰めている、ということになってしまうでしょう。しかし決してそうではありません。パウロはただやせ我慢を語っているのではないし、あの詩も、自分で自分を慰めているのではなくて、神への感謝の告白なのです。そしてパウロやあの詩の作者がこのように語ることができるのは、神が私たちの救い主としてこの世に遣わして下さった独り子イエス・キリストのゆえにです。主イエスは、神の子であり、ご自身がまことの神であられるのに、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さいました。それは主イエスが、私たちの弱さを、それによる苦しみ悲しみを、身をもって味わい知り、それを担って下さるためでした。また主イエスは、私たちの罪を全て背負って、私たちの身代わりとなって十字架につけられて殺されました。主イエスは、私たちの弱さと罪、それらによって生じる苦しみや悲しみを全て身に負って死んで下さったのです。それによって、罪人である私たちに赦しの恵みが与えられました。この主イエスが、罪や弱さのために苦しんでいる私たちと共にいて下さり、支え導いて下さっています。主イエス・キリストによってこそ、私たちの弱さの中で発揮される神の恵みが示されているのです。

主イエスによって示されたこと
 主イエスは十字架にかかって死ぬために、この世を生きて下さいました。主イエスはそのように歩むことによって、成功して何かを成し遂げることよりも神に謙遜に従うことの大切さを身をもってお示しになりました。さらに主イエスは、病気などの弱さの中でこそ、神の恵みに依り頼みその恵みを分かち合っていくより良い生き方が与えられることを示して下さいました。貧しさの中でこそ、神に求め、互いに支え合って共に生きるまことの知恵が与えられることも、主イエスが教えて下さいました。富ではなく神の恵みこそが、私たちが生きるために本当に必要なのだということも教えて下さいました。神が私たちに命、人生を与えて下さったのは、私たちが与えられた人生を喜んで生きるためなのだということは、神は独り子主イエスをこの世に、私たちのために与えて下さるほどに世を愛して下さったことによってはっきりと示されています。私のために神の独り子が死んで下さったのですから、私の命は、人生は、そこにどんな弱さや苦しみ悲しみがあったとしても、生きるに値するもの、おろそかにしてはならないものなのです。

弱いときにこそ強い
 聖書は、私たちの弱さを担って下さり、弱く罪深い私たちを救うために十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストが、復活して生きておられる方として共にいて下さることを私たちに告げています。この主イエスが、救いを求める祈りに答えて「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と語りかけて下さったので、パウロは、「わたしは弱いときにこそ強い」と言うことができたのです。この主イエスを信じ、主イエスが共にいて下さることを味わっていたので、あの詩の作者も、「願い求めていたものは何一つ得られなかったが、しかし私は望んでいたものをすべて得た。私自身の思いにはほとんど反していたが、私の心の中に隠されていた言葉にならない祈りは答えられた。私はすべての人々の中で最も豊かに祝福されている」と感謝をもって語ることができたのです。彼らにこのような恵み、祝福を与えて下さった主イエス・キリストが、今私たち一人ひとりにも、「わたしの恵みはあなたに十分である」と語りかけて下さっています。このみ言葉を聞きながら生きることが、キリスト教信仰です。その信仰によって私たちも、自分の弱さ、苦しみの中で、しかし喜びと感謝をもって、「わたしは弱いときにこそ強い」という人生を歩むことができるのです。

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