夕礼拝

わたしについて来なさい

「わたしについて来なさい」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第33編1-22節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第1章16-20
・ 讃美歌:12、516

<主イエスから声をかける>
 先週は、主イエスがガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、神の福音を宣べ伝えられたところを聞きました。

 本日の箇所は、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられる場面から始まります。
 ガリラヤ湖は、南北20㎞、東西が最大のところで12㎞もある、大きな湖です。周りは山地に囲まれて、天気が変わりやすく、突風が吹くこともあったようですが、魚がとても豊富な、豊かな湖だそうです。そのほとりを、主イエスはお一人で、歩いておられました。

 そのとき、湖では、シモンとアンデレという二人の兄弟の漁師が、網を打っていました。シモンは、後に主イエスに「ペトロ」という名前を付けられる人です。二人の兄弟にとっては、いつもの湖で、いつも通りに漁をする当たり前の生活が、この日も繰り返されていました。
 その二人を、主イエスはご覧になりました。たまたま、目に入った、というのではありません。ここの「ご覧になる」と訳された元の単語は、意志を持ってしっかりと見つめる、という時に使われます。主イエスはこの二人の兄弟に、意識して目を留め、声を掛けられたのです。そして言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」
 「わたしについて来なさい」の部分は、直訳すると、「わたしの後ろに来なさい」となります。従いなさい、ということです。
 二人はすぐに網を捨てて従った、とあります。

 主イエスの後ろに、シモンとアンデレが従い、今度は3人でガリラヤ湖のほとりを歩いています。少し進むと、もう一組の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、舟の中で網の手入れをしていました。主イエスは、この二人を「ご覧になりました」。そして、すぐに彼らをお呼びになった。ここでは主イエスの言葉は何も書かれていませんけれども、たぶん先ほどと同じように「わたしについて来なさい」と仰ったのでしょう。するとヤコブとヨハネの兄弟も、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残して、イエスの後について行った、とあります。

 主イエスを先頭に、4人の弟子たちが従っていきます。漁師だった彼らは、この日から突然、主イエスの弟子としての人生が始まりました。突然、主イエスという方と出会い、見つめられ、声をかけられ、「わたしの後について来なさい」と招かれ、そして従ったのです。

<招かれる>
 わたしたちは、ここに書かれていることが、とても不思議なことだと感じるのではないでしょうか。
 どうしてシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟は、主イエスに急に声を掛けられて、すぐに、網を捨てて、従うことが出来たのでしょうか。急に人がやってきて「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われても、「なんで?」となるのが普通でしょう。網を捨てることは、仕事を捨てること、つまり、生活の糧を失うことです。何も考えなかったのでしょうか。しかも、ヤコブとヨハネは父親や雇い人たちまで、その場に置き去りにしてしまった。後のことが心配ではなかったのでしょうか。こんなことが可能なのでしょうか。

 わたしたちは、自分の人生を選んだり、進んだりしていく時に、たくさんの理由や条件を考えます。突然、これまでと違う生き方への道が示されたら、普通は、「ちょっと準備するので待って下さい」とか、「生活はどうなるのかな」とか、「今後大丈夫かな」とリスクを計算したりとか、色々考えないといけないことがあると思います。もし、転職のお誘いとか、選択肢の一つを選ぶという場面なら、他の可能性を検討したり、条件を比較してよりメリットのある方を選んだり、そういうことも必要なのかも知れません。

 しかし、ここの出来事で重要なのは、漁師たちに出会い、声をかけたのは、神の救いの約束を成就するために来られた、神の子イエス・キリストである、ということです。
 主イエスに従うということは、人生の歩みの中で、たくさんある選択肢の中の一つなのではありません。主イエスと出会い、招きを受けたなら、人生をかけて、従うか、従わないかのどちらかだけです。

 主イエスは「わたしについて来なさい」と言われます。そして、そのお言葉に従って、主イエスの後に続くことが、主イエスの弟子になる、ということです。
 これは、今ここにいて礼拝をささげている、わたしたち一人一人も受けた招きです。なぜ、わたしが招かれたのかは分かりません。それは漁師だった4人の弟子たちも同じです。
 漁師であった彼らは、そんなに教養があったという訳でもないでしょう。また、性格も、ヤコブとヨハネは「ボアゲルネス(雷の子)」などと呼ばれて、とても気性が激しかったようです。また、後に主イエスのことを語るために、弁舌鋭い者が選ばれた、という訳でもないでしょう。意志が固く、忍耐強いから、とも言えません。それは、選ばれた弟子たちが後にみんな、主イエスの十字架の時に逃げ去ってしまったことからも明らかです。
 選ばれた側には、何の理由も、条件も、思い当たらない。むしろ、弟子にはふさわしくないような者なのです。しかし、主イエスは、一人一人に目を留め、じっとご覧になり、ご自分から近付いてこられ、「わたしについて来なさい」、わたしに従い、わたしと共に歩みなさい、と招かれます。ここにはただ、神のご意志だけがあるのです。

 わたしたちが主イエスと出会うということ、また信じて従っていく、信仰を持つということは、自分から探し求めて、つかみに行って、頑張って手に入れることではありません。また、キリスト者にふさわしいから、キリスト者になるのでもないのです。だれもふさわしくない。でも、神が選ばれました。
 すべてのはじめに、まず神の選びと、神の招きがあるのです。わたしたちは、この神の招きに、お応えするかどうか、ということを求められています。

 15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との主イエスの言葉は、世のすべての人に向けての、神の招きです。神から離れて生きており、また自分では神から離れていること自体にも気付くことが出来ないような者に、神は主イエスを遣わし、神のもとに立ち帰るようにと告げられました。そうして罪の中から救いだし、神の愛のもとで、恵みの中で生かそうとして下さっているのです。
 しかも、福音はただ遠くで告げられたのではありません。神に遣わされ、世に来られた神の御子、主イエスは、一人一人に近づき、日常の生活の中に入ってこられ、目を留め、声をかけ、「わたしについて来なさい」と招いて下さるのです。

 ここにいるキリスト者となっている人の中には、生まれた時からクリスチャンの家庭にいた、という人もいるでしょうし、また、人生の半ばで、教会に通うようになり、洗礼を受けた、という人もいるでしょう。まだ洗礼を受けていない方もいらっしゃるでしょうけれども、とにかく日曜日に時間をつくり、教会に来て、礼拝を今守っています。
 教会に繋がったきっかけは色々あると思います。誰かに誘われたとか、看板が目にとまったとか、興味があったとか。中には、数ある宗教の中で、キリスト教が一番良いと思うから選んでいるのだ、とか、自分で求めて、自分の意志で教会を探して来たのだ、という人もいるかも知れません。

 でも本当は、ここにいるすべての人が、教会に来るということの初めに、まず、主イエス・キリストの招きがあったのです。主イエスから、出会って下さった。わたしたちが望む前に、神が、ここにいる一人一人を選び、目を留め、招かれた、という出来事があるのです。
 この神の招きなくしては、わたしたちは神に近付くことは出来ません。自分から天に行き、神に近付いて、救いや命をもぎ取ることは出来ないのです。罪の支配の中で、まったく無力なわたしたちです。しかし、神の方から近づいて来られる。主イエスが、一人一人に目を留め、ご自分のもとへ招くために、訪れて下さるのです。

<従うこと>
 しかし、わたしたちはやはり戸惑うでしょう。それは、招きがあったとして、シモンたちのように、網を捨てて、仕事を捨てて、生活を捨てて、家族を捨てて、招きに応えることが出来るだろうか。すぐに、主イエスに「はい」と言って、従うことが出来るだろうか、ということです。
 もし、「そうだ、そうしなければならない!すべてを捨てて、覚悟を決めて、主イエスに従わなければならない!」ということになるならば、わたしたちはやはり救いを、自分自身の力や覚悟に頼っていることになるし、そんなことは出来ない、と思ってしまいます。

 しかし、ここで求められているのは、覚悟をすることや、ストイックな生き方をすることや、家族を蔑ろにしてでも信仰を守れ、というようなことではありません。
 シモンたちがしたことは、これまで仕事や家族が、生活や人生の中心であったけれども、それらを中心からどけて、これからは、主イエスを中心にして生きていく、ということです。主イエスに何もかも頼っていく。この方からすべてを頂く。それが、主イエスに従うということでしょう。仕事のことも、家族のことも、すべて主イエスにお任せしていくのです。自分の人生を、すべてを、主イエスの御手にお委ねしてしまうのです。人生の中心に、自分や、仕事や、家族ではなく、主イエスがおられる。それは、これまでとは違う、まったく新しい生き方です。

 主イエスは「わたしの後について来なさい」と言われました。先立って歩き、わたしの人生を引き受けて下さるのは、神の御子、主イエスご自身です。
 主イエスは、神の救いの約束を成就するために来て下さった方です。わたしたちを罪と死の支配の中から救い出し、永遠の命へと導き出して下さる方です。そのために、神から離れ、罪の中で喘いでいるわたしたちのもとまで、ご自身が来られ、罪人と同じところに立ち、わたしたちの先頭に立って下さる。この方が悪と戦って下さり、わたしたちの罪を負って十字架で死なれることによって、命への道を切り拓いて下さるのです。救いへの道を、神に立ち帰る道を歩ませて下さるのです。この方に頼り、ひたすら後についていく。わたしたちに出来ることは、ただそれだけです。

 ところが実際、この招きに応えること、ただ恵みを受け取ることも、神の助けがなければ出来ないほどに、わたしたちは疑い深く、頑なになっています。神に従い、神を中心にして生きるより、自分の思いに従って、自分中心に生きる方が、自由で、有意義な気がしています。しかしその歩みこそが、神から離れる罪の歩みそのものであり、また隣人との関係の破壊を招き、ますます苦しみへと向かわせています。その頑なさこそ、主イエスが十字架に架かって下さらなければ赦されることのない、神への背きなのです。
 しかし、そのようなわたしたちの罪のために、主イエスは十字架の苦難の道を歩まれます。そして、一人一人を見つめ、近づき、名を呼び、「わたしについて来なさい」と語りかけ、闇の中から光の方へと、嘆きの中から喜びの方へと、神との関係の断裂の中から神との愛の交わりへと、招き続けて下さるのです。
 神の言葉には力があります。それは世界を造り出す言葉です。また、わたしたちを新しくする言葉です。わたしたちを恵みへと引き出す言葉です。この方が選び、目を留め、「わたしについて来なさい」と語りかけて下さった。主イエスとの出会いが、神の言葉が、わたしたちを新しく変え、主イエスに従う者として下さいます。

 そしてわたしたちは、そのように神の愛を受け取り、招きに応えて主イエスの後に従い、神との交わりに生かされる時に、はじめて、神に造られ祝福された、自分の本当の人生を、味わい楽しむことができるのです。本日の詩編33:1で「主に従う人よ、主によって喜び歌え」と言われているように、主に従うことによって、主によって生きる本当の喜びを知ることが出来るのです。

 ですから教会は、覚悟を決めた人や、熱心な人や、ストイックな人が、我こそはと自ら集まっているのではありません。罪の中から、弱さの中から、ただ神に選ばれ、主イエスと出会い、語りかけられ、命へと導かれた者たちの集まり、群れなのです。
 主イエスが「わたしについて来なさい」と言われた。その御声に従い、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネと続き、今日まで、神が招いて集められた人々の群れに、今、わたしたちも加えられているのです。

<弟子になる>
 そうして主イエスに従う時、わたしたちの人生は、わたしたちのものではなくて、主イエスのものとなります。主イエスに贖われた命、与えられた命です。そうして、主イエスに生かされ、支えられ、歩んでいくのです。
 主イエスは弟子たちを招かれて「人間をとる漁師にしよう」と言われました。主イエスのもとで、新しい生き方、新しい人生が与えられます。神は、招き、召されたわたしたちを、ご自分の働きに用いようとなさいます。そうして、神に従う者は、生きておられる神のお働きを、恵みの業を目撃しつつ、さらなる喜びや恵みに、与ることがゆるされているのです。
 
 ところがマルコでは、この後、弟子たちは、様々な失敗を重ね、裏切り、逃げ去り、散々な歩みをすることが語られていきます。自分を守るために、主イエスとの関係を否定しさえします。でも、この弟子たちを招かれた主イエスは、決して弟子たちを見捨てません。恵みの内に彼らを捕え、守って下さいます。ご自分の十字架においてその罪を赦し、新しい命を与えて下さるのです。
 弟子たちは、罪を贖い、死に勝利された復活の主イエスと再び出会います。その弟子たちは、今度は主イエスを証しする者として遣わされ、どんな苦難に遭っても、迫害に遭っても、神の恵みによって、復活の主イエスの支えによって、喜んで自分を主イエスのために献げていく者へと変えられていました。

 神に仕えること、主イエスに従うことを、身を献げる、と書いて「献身」と言います。狭い意味では、牧師や伝道者になることを言いますが、本来、主イエスに従う者、キリスト者は、みんな献身しています。伝道者は、これまでの仕事を辞めて、生活を献げて、教会に仕えるという仕方で献身しますが、すべての教会に招かれた者が、それぞれ与えられた場所で献身します。それぞれの家庭で、職場で、学校で、生活の場で、主イエスの弟子として生きるのです。そして、自分が主イエスによって生かされていることを証しし、主イエスが救いの恵みに多くの人を招こうとしておられる、そのお手伝いをするのです。
 わたしたちも、つまずいたり、失敗してばかりですが、弟子たちのように、ただ主イエスの恵みによって、このように仕えることが可能とされていくのです。
 主イエスをすべての中心として、主イエスの恵みに自分をお委ねする時、主イエスは、わたしたちの生活も、仕事も、家族も、人間関係も、すべてを御手の内に置き、神の御心に適うように導いて下さるでしょう。
 「わたしについて来なさい。」この主イエスの招きに、わたしたちも従っていきたいのです。

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