主日礼拝

隣人を喜ばせよう

「隣人を喜ばせよう」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第69編8-13節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第15章1-6節
・ 讃美歌:323、129、411

信仰の強い者?
 本日は、ローマの信徒への手紙第15章1節以下よりみ言葉に聞くのですが、ここを読むに際してどうしても最初に注意しておかなければならないことがあります。それは冒頭の1節に「わたしたち強い者は」と言われていることを私たちがどう受け止めるか、についてです。この「強い者」というのは勿論腕力が強いとか体力があるということではなくて、信仰におけることです。私たち信仰の強い者は、と言っているのです。それを読んだ途端に私たちは、「あ、これは自分のことではない」と思ってしまうのではないでしょうか。この手紙を書いた使徒パウロは確かに信仰の強い者だった、迫害の中でキリストを信じていた最初の頃のキリスト信者たちもみんな強い信仰の持ち主だっただろう、でも私はそんな強い信仰は持ち合わせていない、私の信仰はまことに弱く、あやふやなものだ、私は「強い者」などではない、だからここに語られていることは私とは関係がない、私などよりもっと強い信仰を持って、しっかりとした信仰者として生きている人たちに対してここは語られているのだ…。そのように思ってしまうとしたらそれは全くの間違いだ、ということを最初に言っておきたいのです。「私たち強い者は」というのは、特別に信仰の強い人に対して語られていることではありません。そもそも私たちの中に、特別に信仰の強い人などいるでしょうか。ひょっとしたら皆さんは、牧師は特別に信仰の強い人だと思っているかもしれませんが、それは大きな誤解です。牧師というのは、信仰が強いからなるものではありません。神に召されたからなるものです。そして神は、信仰が強いからその人を牧師へと召すのではありません。私は、自分が召されたのは、神さまが、こいつは牧師にしないと信仰が維持できそうもないと思われたからだと思っています。一人の信徒として、一般社会の中で生活しながら信仰を守っていくことは、牧師として生きるよりもよほど難しいことです。ですから私は信徒の皆さんのことを、お世辞ではなく尊敬しています。私にはとてもできそうもない。だから私は牧師へと召されたのだと思うのです。これは謙遜でも何でもなく、マジメに、心底からそう思っているのです。長老として奉仕しておられる方々もおそらく同じではないでしょうか。「自分は信仰が強いから長老をしている」などと思っている人は誰もいないでしょう。つまり私たちの中に、特別に信仰の強い人など一人もいないのです。だったらパウロがここで語っていることの当てはまる人はいないのかというと、そんなことはありません。パウロは、自分は信仰の弱い者だ、と感じながら歩んでいる私たち全ての信仰者に向かって、「わたしたち強い者は」と語りかけているのです。そのパウロの心を、本日の箇所から聞き取っていきたいのです。

強い者と弱い者
 ここに「強い者」とか「弱い者」と言われているのは、14章に語られていた、「肉を食べる人」と「食べない人」の問題を受けてのことです。14章1節に「信仰の弱い人」とありました。それは、肉を食べずに野菜だけを食べていた人々のことです。偶像の神々の前に供えられた国は汚れているから、ただ一人の神を信じる信仰者はそれを食べるべきでない、とその人たちは考えていたのです。それに対して、主イエス・キリストの十字架による贖いによって私たちは罪を赦され、清くされたのだから、これを食べたら汚れる、というようなものはもはやない、何を食べてもよいのだ、と考える人々がいました。パウロ自身もその一人です。彼は、何を食べてもよいと考えている人を「信仰の強い人」、食べ物の掟にこだわっている人を「信仰の弱い人」と呼んでいます。その強さ弱さは、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みへの信頼の強さ弱さです。裏返して言えば、自分は弱い者、罪人であって、自分の清さ正しさによって救いを得ることができない、ということを認めて、ひたすら主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みに依り頼んでいる人が信仰の強い人であり、自分の正しさによって救いを得ることができるとなお思っている人が信仰の弱い人なのです。

強い者の陥りがちな過ち
 14章でパウロはこのように、信仰の強い人と弱い人がいることを見つめていましたが、それは、信仰の弱い人に、そんなことではだめだ、もっと強くなりなさい、と言うためではありませんでした。彼はむしろ、信仰の強い人たちに対して、彼らがその強さによって弱い人を軽蔑したり裁いたりして傷つけること、それによってその人をつまずかせ、その人をも救って下さる神のみ業を妨げ破壊してしまうことへの警告を語ったのです。つまりここでパウロは、信仰の強い者を褒めているのではなくて、強い者がその強さのゆえに陥りがちな過ちを指摘しているのです。ですから「私たち強い者は」と言っているパウロは、「私たちは強いのだ」と自慢しているのではなくて、私たちは深刻な過ちに陥る危険の中にいるから気をつけなければならない、と言っているのです。その過ちとは、兄弟姉妹を軽蔑し、裁き、傷つけてしまうことです。それによって神の救いのみ業を破壊してしまうことです。私たちもしばしばそういう過ちに陥るわけですが、その時私たちは、「強い者」となって「弱い者」を傷つけているのです。先程申しましたように私たちは誰も「自分は強い者だ」とは思っていません。むしろ「自分は信仰の弱い者だ」といつも思っています。しかし口ではそう言いながら私たちはしばしば、人を軽蔑したり裁いたりして傷つけてしまう。それは私たちが心の中で、自分をその人より強い者、信仰においてより正しい者としているということです。ですから、ともすれば人を軽蔑し、裁き、傷つけてしまう私たちは誰もが皆、「わたしたち強い者は」というパウロの言葉を自分に対する語りかけとして聞かなければならないのです。

本当に強い人とは
 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」。このパウロの教えは、本当に信仰が強いとはどういうことかを語っています。本当に信仰が強い人というのは、信仰者らしい立派で品行方正な生活をしているとか、良い行いを沢山している人ではありません。本当に信仰の強い人とは、人の弱さを担うことができる人です。そのために、自分の満足を求めることをやめることができる人です。人を軽蔑し、裁き、傷つけるようなことは、本当に信仰が強い人はしないのです。それは人の弱さを担おうとせずに、自分の満足を求めているから起ることです。そこにあるのは間違った強さです。本当に信仰が強い者は、人を軽蔑したり裁いたりして自分が満足するのではなくて、その人の弱さを担うのです。先程、強い者がその強さのゆえに陥りがちな過ちをパウロは見つめていると申しましたが、それは実は、本当に強い者になれていないことによって起る過ちです。本当に信仰が強いということがどういうことかを分かっていないから、自分の強さを誇り、それを振りかざして人を傷つけるようなことが起るのです。

人の弱さを担う
 つまりパウロはここで私たちに、本当に信仰の強い者となるようにと促しています。それは、人の弱さを担い、自分の満足を求めないで生きるということです。人の弱さを担うというのは、弱い人に親切にしてあげて、「ああ良いことをした」と満足するようなことではありません。この「担う」という言葉は「担ぐ、背負う」という意味です。ルカによる福音書では「自分の十字架を背負って私に従いなさい」という主イエスのお言葉にこの言葉が用いられています。つまり「担う」とは、重荷を負うこと、苦しみを負うことです。人の弱さを担うことには苦しみが伴います。それは人の罪とそのもたらす結果を背負うことだからです。それをすることによって私たちは、良いことをした、という満足感を得るのではなくてむしろ重荷を負って苦しむことになるのです。だからそれは、自分の満足を求めていてはできないことなのです。

善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努める
 2節はこのことをもっと積極的に、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」と言い替えています。人の弱さを担うとは、隣人を喜ばせることです。軽蔑したり裁いたりして傷つけ、悲しませるのではなくて、喜ばせるのです。それは勿論何でも隣人の望み通りにして喜ばせるということではありません。善を行って喜ばせるのです。善を行うとは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった救いの恵みに基づくことを行うことです。キリストによる救いの喜びを共有しようとすることことです。それは「互いの向上に努める」ことでもあります。「向上」は直訳すれば「建て上げる」という言葉です。それは聖書においてしばしば、キリストの体である教会の交わりを兄弟姉妹と共に建て上げるという意味で用いられています。ですから互いの向上に努めるというのは、お互いが立派な人になるように努めるということではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの恵みに共にあずかる群れが築かれていき、そこにおいてお互いがキリストに結ばれた兄弟姉妹としての信仰の交わりを確立していくことを努める、ということです。自分の満足を求めるのでなく、人の弱さを担うことによって、キリストによる救いの恵みに共に生きる信仰の交わりを築く、つまり教会を築く、そのようにして隣人を喜ばせる、それが、本当に信仰の強い人のあり方なのです。人を軽蔑し、裁き、傷つけていたのでは、隣人を悲しませ、神の救いに共にあずかる兄弟姉妹の交わりを破壊していくことにしかなりません。間違った強さを求めていくとそういうことが起ります。そうではなくて本当に信仰の強い者となろう、とパウロは勧めているのです。

キリストも
 しかし私たちは、そのような本当に強い信仰に生きることが果してできるでしょうか。そんなことはとてもできそうにない。だからこの勧めはやはり、ごく一部の特別に信仰の強い人にだけ通用するものであって、自分のような凡人にはとても手が届かない教えだ、と感じてしまうのが私たちではないでしょうか。その私たちに対して、3節が語られているのです。「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」。この「キリストも」という言葉にとても深い意味があると思います。以前の口語訳聖書はここを「キリストさえ」と訳していました。「さえ」と訳すとそれは、神の独り子である主イエス・キリストでさえそのように、つまり人の弱さを担い、自分の満足を求めずに歩んで下さったのだから、私たちがそうするのは当然ではないか、ということになります。しかしそのように言われると私たちは反発を覚えるのです。「そういうことは主イエスだからできたのであって、だから私たちにもそうしろと言われてもそんなことは無理だ」と思うのです。「あのような偉い、立派な方でさえこうしたんだから、あなたがたもそうしなさい」という教えに私たちは押し付けがましいものを感じて、反発を覚えるのです。しかしパウロがここで語っているのはそのような押し付けがましい教えではありません。彼はもっと単純に、「キリストもこうなさった」と言っているのです。それは教訓ではなくて事実です。神の子であられる主イエス・キリストは、罪人である私たちの救いのために、自分の満足を求めるのではなくて、私たちの弱さを、罪を、全て担って、十字架にかかって死んで下さったのです。そのようにして私たちに善を行い、私たちを喜ばせ、救いの恵みに共にあずかる群れである教会をご自分のもとに集め、築いて下さったのです。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」という引用は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所である詩編第69編の10節からのものですが、まさにそのことが主イエスにおいて現実となったのです。神をそしり、嘲る者、それは私たちです。神を神として崇めず、背き逆らう私たちの罪が、神の子である主イエスにふりかかり、主イエスがそれを担い、背負って下さったのです。それが主イエスの十字架の苦しみと死です。それによって主イエスは、私たちの罪と弱さを担い、それに打ち勝って下さったのです。この主イエスの救いのみ業によって私たちは罪を赦され、神を信じる者として新しく生かされているのです。私たちが信仰者であることができるのは、この主イエスが私たちを担って下さっているからです。私たちは、自分の信仰は強いとか弱いとか言います。人と自分を比べて、あの人の方が信仰が強い、自分は信仰が弱い、とよく言います。そうやって言い訳をしているような所もあります。しかし、私たちの信仰は私たちの信仰の強さによって支えられているのではありません。信仰が強かろうが弱かろうが、私たちがキリスト信者であり得るのは、主イエス・キリストが、私たちの弱さを担って下さっているからです。自分の満足を求めることなく私たちの弱さを担って下さっている主イエス・キリストの強さによってこそ、弱い私たちが救いにあずかり、信仰を持って生きることができるのです。「キリストも御自分の満足をお求めになりませんでした」という言葉はこの事実を述べているのです。

キリストと一つにされている私たち
 そしてそこに、「キリストも」と言われていることに深い意味があります。この「も」によって、私たちの弱さ、罪を担って下さった主イエス・キリストが私たちと一つになって下さっていることが示されているのです。主イエス・キリストと私たちは、「主イエスも、私たちも」と言うことができるような関係なのです。キリストが私たちを担って下さったことによってそういう関係が与えられているのです。それは洗礼を受けてキリストのからだである教会に連なる者とされることによって与えられる関係であり、聖霊なる神のお働きによって実現している関係です。私たちはキリストと一つにされ、キリストの体の一部とされているのです。だから私たちも、自分の満足を求めるのでなくて人の弱さを担って、隣人を喜ばせ、互いの向上に努めていくことができる。そのように歩もうではないか、とパウロは勧めているのです。ですから「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」という言葉は、キリストですらこのようにしたのだから、あなたがたもそれに倣って同じことをしなさい、という押し付けがましい説教ではありません。キリストが私たちを愛して下さり、私たちの弱さと罪を担って十字架にかかって死んで下さるほどに、私たちと一つになって下さった。そのキリストの思いを、私たちも、自分の思いとして生きることができる。聖霊の働きによって共にいて下さるキリストに支えられ、力づけられて、私たちも、自分の満足を求めて生きるのではなくて、人の罪や弱さを引き受けてその重荷を担い、批判したり裁いたりして人を傷つけ、交わりを破壊してしまうのではなくて、善を行って人を喜ばせ、キリストによる救いに共にあずかる者としての良い交わりを築いていくために努力していくことができるのだ。そういう思いを込めてパウロは「キリストも」と言っているのです。

忍耐と慰めと希望
 4節には、「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです」とあります。「かつて書かれた事柄」とは、パウロにとっては、3節に引用された詩編の言葉などに代表される、旧約聖書のことです。しかし私たちはそこに、このローマの信徒への手紙など、新約聖書の全体をも含めて考えることができます。聖書に書かれている事柄は全て、私たちを教え導くためのものなのです。どのように教え導くのか。4節後半は「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と続いています。聖書は私たちを「忍耐と慰め」へと教え導くのです。忍耐、それは人の弱さを担い、その重荷を背負い、自分を満足させるのでなく隣人を喜ばせて生きるために必要なことです。忍耐することなしに人の弱さを担うことはできません。信仰の強さとは、この忍耐力であると言ってもよいのです。しかしそれは、言いたいことを言わずにただ我慢することではありません。聖書は、忍耐と共に慰めへと私たちを教え導くのです。この「慰め」という言葉は、「勧め」とも「励まし」とも訳すことができます。元々の意味は、「傍らに呼ぶ」です。神が私たちを傍らに呼んで下さり、懇ろに語りかけて下さるのです。そのようにして神が悲しんでいる私たちを慰め、途方に暮れている私たちに歩むべき道を示し、力を失っている私たちを励まして下さるのです。神が与えて下さるこの慰めに支えられているから、私たちは忍耐して、人の弱さを担って生きることができるのです。その忍耐に生きることは、我慢に我慢を重ねていってどこかで限界が来て爆発するような歩みではありません。忍耐と共に慰めを与えられることによって私たちは希望を持ち続けることができるのです。私たちが自分の忍耐力によって人の弱さを担おうとするなら、それは長続きせず、またそこに希望を見出すことはできないでしょう。私たちは弱い、罪深い者であって、とうてい人の弱さを担うようなことはできない者です。しかし私たちは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストによって担われているのです。主イエス・キリストの愛と忍耐こそが私たちの愛と忍耐の源であり、また希望の源なのです。

祈り、聖霊の働き
 信仰とは、キリストによる忍耐と慰めと希望に生きることです。それは私たちの努力によって獲得できるものではなくて、神が与えて下さるものです。それゆえに5、6節のパウロの言葉は神への祈りとなっていくのです。5節で彼は「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ」と祈っています。私たちを担って下さっている主イエスと同じ思いを自分自身が抱き、また兄弟姉妹が共に同じ思いを抱くようになることを祈り求めていくところに、忍耐と慰めに生きる教会の交わりが築かれていくのです。
 さらに6節には「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」とあります。これは、主イエス・キリストの父なる神を礼拝させてください、という祈りです。私たちが、聖書から忍耐と慰めを学び、希望を持ち続けることができるのは、礼拝に連なって生きることによってです。礼拝においてこそ私たちは、キリストが御自分の満足を求めることをせず、私たちの弱さを担って下さった、その恵みを味わい知ることができるのだし、主イエスに担われている者として自分も人の弱さを担い、忍耐に生きようという志を与えられるのです。そしてさらに大事なことは、礼拝において私たちは、心を合わせ声をそろえて、主イエス・キリストの父である神を賛美し、拝むということです。私たちの間にはいろいろな違いがあり、時として対立もあります。それぞれが弱さ、罪を持っているからそうなるのです。パウロがここで語っていることの背景にも、教会の兄弟姉妹の間での対立がありました。しかしそのような様々な違いがあり、対立もはらみながら、私たちは共に、主イエス・キリストの父である神を礼拝するのです。共に聖書から忍耐と慰めを学び、心を合わせて祈り、声をそろえて賛美を歌うのです。その礼拝において、聖霊なる神がみ業を行って下さり、私たちを一つに結び合わせて下さるのです。この礼拝において聖霊のみ業に共にあずかっている兄弟姉妹であるからこそ私たちは、忍耐と慰めと希望に支えられて、お互いの弱さを担い合っていくことができるのです。

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