主日礼拝

わたしに従いなさい

「わたしに従いなさい」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第143編10節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第21章15-19節
・ 讃美歌:16、521、483

<復活の主イエスと弟子たち>
 4月の第一週目は、イースターでした。十字架に架かって死なれた主イエス・キリストが、死者の中から復活なさったことをお祝いする礼拝を、共にささげました。それから早いもので、もう4月の最後の週になりました。
 聖書の使徒言行録というところには、主イエスが復活のあと、40日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話された、とあります。その後、主イエスは天に上げられました。そして、五旬祭のときに聖霊が降り、ペンテコステの出来事が起こって、教会が誕生しました。来月には、そのペンテコステの礼拝をささげます。

 本日の聖書箇所は、十字架の死から復活なさった主イエスが、弟子たちに現れて共に食事をし、その後ペトロと会話をなさった場面です。ちょうど、イースターとペンテコステの間の出来事、ということになりますので、今の時期にぴったりだと思いました。

 さて、今日の箇所の直前のところ、14節を見ていただくと、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」と語られています。
 場所はティベリアス湖畔です。21章1節以下には、弟子たちがティベリアス湖畔で一晩漁をしても魚が獲れなかったけれども、夜が明けたころに主イエスが岸に立っておられて、「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われてその通りにすると、大漁になった、ということが書かれています。「主だ」と分かると、ペトロは湖に飛び込んで主イエスのところに行き、ほかの弟子たちは船で戻ってきました。陸には炭火が起こしてあり、魚とパンがのせられていて、朝の食卓が整えられていたのでした。
 主イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。そうして主イエスと弟子たちが朝食を共にし、15節の「食事が終わると」ということになったのです。

<神の愛>
 復活の主イエスは、ペトロに三度、問われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、主イエスへの愛を問われます。
 これはこの礼拝に集う、主イエスの救いを信じる者すべてが問われる問いでしょう。
 ここでは、信じることはもちろんですけれども、「愛する」ということを問われています。

 わたしたちが、主イエスにこのように問われたら、何と答えることが出来るでしょうか。「あなたはわたしを愛しているか。」
 「愛する」ということは、どういうことなのでしょうか。「愛している」と言えば良いのでしょうか。相手が喜ぶことを何かをしてあげれば良いのでしょうか。わたしたちは、今まわりにいる大切な人のことも、本当に「愛する」ことが出来ているのでしょうか。
 自分の気に入った者を愛することや、自分の愛に応えてくれる者を愛することは、できるかも知れません。でも、主イエスの愛は、自分が満足するものや、見返りを求めるものではありませんでした。

 主イエスは十字架に架かられる前に、13:34で新しい掟として「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました
 「わたしがあなたがたを愛したように」と言って、主イエスがわたしたちに示して下さった「愛」は、自分を裏切り、見捨てる者であっても、その者のために苦しみを受け、辱められ、ご自分の命を捨てる「愛」です。敵対する者を、自分の命によって救う愛です。
 その主イエスを遣わして下さった父なる神の愛は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とあるように、ご自分に逆らい、背く者のために、ご自分の御子の命を与える、そのような愛です。

 主イエスは、そのようにわたしたちを愛して下さいました。神に背くわたしたちの罪のために、苦しみを受け、十字架で死なれました。そこに神の愛が示されています。
 復活の主イエスは、「わたしの十字架の死はあなたのためだ」と、「確かにわたしはあなたを愛した」と言って下さいます。この、わたしのために死んで下さった方が、愛してくださった方が、「あなたはわたしを愛しているか」と問われるのです。

<愛せるかどうか?>
 わたしたちは、この方の救いを信じ、罪を赦され、生かされている。新しい命をいただいている。復活の希望を与えられている。数えきれない恵みを、慰めを受けています。それは、主イエスがわたしを愛して下さったからです。

 そのことに感謝をして、わたしも「あなたを愛しています」と言いたい。でもわたしたちは、主イエスがわたしを愛してくださったように、主イエスを「愛する」ことが出来るのでしょうか。
 恵みにお応えしたい。仕えていきたい。でも、それが敵のためにも自分の命を捨てるような「愛」であるならば、自分の中にそれほどの「愛」はあるだろうか。本当に、死ぬ最後の時まで、その愛をもって主イエスを愛することが出来るだろうか。苦しみや、悲しみや、痛みや、恐れが自分を取り囲む時、それらを一つ一つ受け入れて、自分を主イエスのために献げ、愛し抜くことができるのだろうか。
 わたしは自分自身の弱さを見つめ、この問いの前に、答えを口ごもってしまいます。
 もし、そのようなことも覚悟することが、主イエスに「あなたを愛しています」と答えることであるならば、わたしは答えられないかも知れません。

 また一方で、「わたしは耐えられる!死んでも主を愛することができる!その覚悟がある!」と言える人がいるかも知れません。その代表が、かつてのペトロでした。
 十字架に架かられる直前の夕食の時に、13:36で主イエスは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。するとペトロは、「主よ、どこへ行かれるのですか」「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と、勇ましく喰らいついたのです。主イエスのためなら、死ぬことも出来ると、そのように豪語したのです。
 しかし、主イエスはそのように意気込むペトロに、裏切りの予告をなさいました。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(13:33~38)

 ペトロはこう言われて、どう思ったのでしょうか。「主イエスのために命を捨てます」とまで言ったのです。その自分が、「主イエスを知らない」などと言うはずがない。わたしは命を捨てる覚悟まで出来ている。必ずあなたにどこまでも従っていく。わたしのこの心からの言葉を疑われるのだろうか。
 主イエスの裏切りの予告は、ペトロにとって、とても納得のいかないことだったに違いありません。

 確かに、この時のペトロの「命を捨てます」という思いは、本心だったと思います。
 しかし実際は、ペトロは主イエスが捕らえられた時、あなたは主イエスの弟子ではないかと指摘されると、「違う」と三度、主イエスとの関係を否定してしまったのです。自分の身を守ろうとして、主イエスとの関係を捨ててしまったのです。ペトロが愛していたのは、主イエスではなく自分自身であることが明らかになったのです。
 ペトロの「あなたのためなら命を捨てます」という言葉は、そうしてあっけなく虚しいものになってしまいました。

 自信なく口ごもることも、堂々と表明することも、どちらも根底にある考えは同じです。
 それは、「主イエスを愛すること、従うことが、自分に出来るかどうか」と考えている、ということです。自分の力や、熱心さや、覚悟などの、強さ、弱さを見つめて、主イエスに従えるかどうかを考えているのです。
 自分の弱さを見つめて、自信がないと思ったなら、主イエスに従います、愛していますと答えることができません。
 また自信があっても、ペトロのように、人の覚悟や決心は、脆く虚しいものだということが示されています。
 わたしたちは、どのように主イエスの「あなたはわたしを愛しているか」という問いにお答えすることができるのでしょうか。

<主イエスの問いかけ>
 ペトロが愛を問われているのは、朝のティベリアス湖畔での食事が終わった時ですが、主イエスと弟子たちが一緒に食事をするのは、ヨハネによれば、おそらく十字架に架かられる直前の、最後の晩餐以来でした。ヨハネによる福音書は他の福音書とは違って、パンと杯のことではなく、その最後の夕食の場面で、主イエスが弟子たちの足を洗われたという出来事を伝えます。そこで、先ほどの、主イエスがペトロの裏切りを予告した場面がありました。そしてその通りに、ペトロは主イエスを見捨ててしまったのでした。

 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と問われたとき、その時のことを、ペトロは思い起こしていたに違いありません。
 ペトロはすべてを捨てて、主イエスに従っているつもりでした。彼は、家も、漁師の仕事も捨てて、主イエスに従ってきました。しかし、主イエスを三度「知らない」と言った時、そして主が十字架に架けられたとき、あっけなく裏切ってしまった自分の弱さを、ずるさを、情けなさを、心底味わったに違いありません。
 そして、主イエスがまことに復活され、現れて下さった時も、その驚き、喜びと共に、目の前におられるこの方を裏切ってしまった恥ずかしさと後悔で、いっぱいだったのではないでしょうか。

 ペトロは主イエスの問いに答えます。
 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」
 少し違和感のある表現です。ペトロは、自分の言葉の力のなさ、虚しさを、感じずにはいられなかったと思うのです。かつて「あなたのためなら命を捨てます」と力強く語ったペトロの言葉は、自分自身の主イエスを否認する言葉で、まったく虚しいものになってしまったからです。
 主イエスが同じ質問を三度繰り返された時、ペトロは自分の「愛している」という言葉の虚しさを、ますます感じたかも知れません。17節には、「ペトロはイエスが三度目も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」とあります。明らかに、ペトロが三度主イエスを「知らない」と言ったことと重なるからです。

 三度目にペトロは答えます。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
 ペトロは、「あなたがわたしのことをすべてご存知です」と、そのように言うしかありませんでした。ペトロの言葉は確かに虚しい、偽りの言葉となりました。しかし、主イエスに従いたい。主イエスを愛したい。それが出来なかったこともあなたはご存知だけれど、しかし、わたしはあなたへの愛を抱いている。わたしの愛を、あなたが知ってくださっている。ペトロはそう言いました。
 この「あなたは何もかもご存知です」の「ご存知、知る」という言葉は、見る、という言葉がもとになっています。あなたは、わたしを見て下さっている、ということです。
 ペトロは、主イエスが、裏切り、偽りの言葉を語ったペトロの内に、主イエスが仰る「愛」からはかけ離れているけれども、それでも愛を見出だして下さることに、委ねるしかなかったのです。

 しかし、ペトロがこのように言うことができたのは、主イエスのペトロへの「愛」が、真実の、まことの愛であったからです。自分自身の愛はあやふやなものであっても、主イエスの愛は疑いようもなかったからです。裏切った自分のことも愛し抜いて下さり、復活して出会って下さった。確かな、まことの愛を示されて、ペトロは自分の言葉や、自分の愛は信じられないけれども、自分をさらけ出し、復活の主イエスの愛を信じ、この主イエスがペトロのすべてを知ってくださっていることを、信じることができたのだと思います。これはペトロの精一杯の愛の告白です。

 その通り、主イエスは、ペトロ本人以上に、ペトロの弱さも、そして主イエスを愛したいという思いも、ご存知です。そして、そこでペトロと向かい合い、真剣に問いかけて下さる。「あなたはわたしを愛しているか。」罪を赦して下さった方が、復活の主イエスが、虚しい言葉しか語ることができなかった者に、それでも問うて下さいます。復活の主と対話する関係へと、交わりへと、招いて下さいます。

 わたしたちも、主イエスが与えて下さる愛を前にして、自分自身の弱さに、罪に、悲しみを覚えるしかない者です。しかし復活の主イエスは、わたしたちに問いかけ、答えることをお求めになります。そうして、足りない言葉でも、自分の弱さに打ちのめされていても、それでも、主イエスの愛が、わたしたちから主イエスを愛する言葉を引き出して下さる。わたしたちも、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と信じ、答えたいのです。
 わたしたちは、主イエスの愛に答えることも、このような主イエスの愛の中でしか、すべてをご存知の方の、赦しの眼差しの中でしか、答えられません。
 主イエスの「わたしを愛しているか」という問いは、ペトロの失敗を咎めるためではありませんでした。主イエスはペトロに向かい合い、愛を問いかけて下さることで、ペトロの三度の裏切りの言葉を、三度の愛の告白の言葉に変えて下さったのです。

 まことの愛は、自分の中からは一切でてきません。自分の強さや弱さでどうこうなるものではありません。ただ、主イエスの愛を受け、主イエスが教えて下さり、主イエスに助けていただかなければ、わたしたちは愛することができない者なのです。
 しかし、反対に言えば、主イエスが共にいて下さることで、主イエスとの交わりの中で、わたしたちは主によって、まことに愛する者となることができる、ということなのです。

<わたしの羊を飼いなさい>
 復活の主の前で三度「あなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えたペトロに、主イエスはその度、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。
 主イエスは良い羊飼いです。10:11に、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と書かれています。主イエスは羊のために命を捨てて、羊を守り、養い、生かされた。そのように主イエスが愛された羊を、あなたが飼いなさい、とペトロに委ねられたのです。なんという信頼でしょうか。
 そして、主イエスが命を捨てて愛された羊を飼うことは、ペトロが羊のために命を捨てること、そしてそれは、主イエスのために命を捨てることなのです。
 ペトロ自身がどれだけ「命を捨てます」と覚悟し、熱心に意気込んでも出来なかったことを、復活の主イエスが命じられるのです。

 この時、主イエスはペトロの死についての予告もなさいました。18節で「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」そして、19節に「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」とあります。
 これは、ペトロの殉教の様子を表していると言われています。実際にペトロは、ローマで十字架刑に処せられて、横木に腕を広げて縛られ、腰には縄が蒔かれ、しかも主イエスと同じ十字架では恐れ多いと言って、十字架を逆さまにして欲しいと要求した、という伝承があります。
 これは不吉な予告、と思われるかも知れませんが、そうではありません。なぜなら、ペトロは、主の羊を飼うがゆえに、主イエスを愛し、主イエスに従うがゆえに、自分で望まないところへも行くことができるのだ、主イエスを愛することができるのだ、という約束でもあるからです。
 実際、ペトロの最期は、三度主イエスを知らないと言った彼とは別人のようです。しかしこれは、ペトロが反省をして変わったとか、今回は決心が揺らがなかった、ということではありません。
 ペトロが、復活の主イエスとの愛の交わりに生きることを許されたからです。主イエスが、ペトロが弱く、情けない、裏切るような者と知りながら、それでもペトロを愛して下さり、に愛を問うて下さり、ペトロのすべてを見つめ、信頼して下さったからなのです。

<わたしに従いなさい>
 ペトロの裏切りの予告の時、13:36で、主イエスは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。
 そして、復活なさった今、ペトロに三度、愛を問われた後、主イエスは「わたしに従いなさい」と言われました。今度は「ついて来ることはできない」とは仰いませんでした。

 主イエスがついて来ることができないと言われたのは、十字架の苦難と死への道です。主イエスは、弟子たちがついて来ることができない十字架の道を、お一人で歩み通されました。
 すべてをお一人で担われました。人が誰も貫くことのできない愛を、主イエスだけが最後まで貫きとおし、御自分の命を惜しまずに、すべての者を愛し抜いて下さったのです。
 そうして、主イエスは父なる神に復活させられ、罪を赦し、死に打ち勝ち、弟子たちのところに戻って来て下さったのです。そして、誰もついて行くことができなかった十字架の道ではなく、御自分の血によって切り拓いて下さった、復活の道に、主イエスは弟子たちを、そしてわたしたちを迎えて下さり、「ついて来なさい」「わたしに従いなさい」と命じ、共に歩むことへと招いて下さるのです。

 この主イエスの招きなくしては、誰も主イエスに従っていくことは出来ません。ペトロはこの主イエスの招きによって、「わたしに従いなさい」とのご命令によって、変えられたのです。そして主イエスのための務めを与えられ、主イエスのために生きる者とされたのです。
 わたしたちも、主の日の礼拝で、御言葉によって、聖餐によって、復活の主イエスと出会います。すべてをご存知の方が、見つめて下さっている方が、十字架の死にいたるまで愛し抜いて下さった、その愛の中で問いかけて下さいます。
 「あなたはわたしを愛しているか。」
 わたしたちも、弱さも、欠けも、小ささも、すべてを抱えたままですが、ただ主イエスの真実の愛にのみ寄り縋って、問うて下さった主イエスにお答えしたいと思います。
 「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
 復活の主が。罪を赦して下さり、死に勝利して下さり、わたしを愛し抜いてくださる主が、御自分の愛の確かさによって、主の問いに答えさせて下さいます。
 そして、主イエスの愛に生きる務めを、与えて下さり、「あなたは、わたしに従いなさい」と言って下さるのです。

 主によって、わたしたちは新しくされ、主イエスに従う者へと変えられていく。「命を捨てられるかどうか」「自分にそれが出来るかどうか」と、考える必要はありません。自分で出来ないことは分かっています。自分の決断や、覚悟ではなく、主イエスのまことの愛を受け、交わりに生きることによって、復活の主イエスと共に生きることによって、主イエスを愛し、互いに愛し合う者へ、従う者へと変えられていくのです。
 日々の中で、この主の愛の問いかけを、「わたしに従いなさい」との招きを覚えましょう。わたしたちの日々の歩みは、つたなくても、弱々しくても、愛することが難しくても、主イエスの愛によって、主イエスの愛に委ねて、歩むことができるのです。

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