主日礼拝

父なる神と子なる神

「父なる神と子なる神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ダニエル書 第12章1-4節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第5章19-30節
・ 讃美歌:337、134、196

主イエスを殺そうとしているユダヤ人  
 本日この礼拝においてご一緒に読むのは、ヨハネによる福音書第5章19節以下ですが、その冒頭の19節に「そこで、イエスは彼らに言われた」とあります。その「彼ら」とは誰でしょうか。その前の18節に「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」とありました。ユダヤ人たちが、ますますイエスを殺そうとねらうようになったのです。「彼ら」とはそのユダヤ人たちです。主イエスを激しく批判し、殺そうとすら思うようになったユダヤ人たちに対して、主イエスがご自分の主張、考えを述べていかれた、それが本日の箇所なのです。

神と等しい者  
 ユダヤ人たちが主イエスを殺そうとねらうようになったのは、18節にあったように主イエスが「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたから」でした。主イエスが神を御自分の父と呼んだ、それは17節の「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのである」というお言葉のことです。天地の全てを造り、支配しておられる神を主イエスは「わたしの父」と呼びました。ということは自分はその子であるということであり、自分は神の子だ、と言ったのです。神が父であり、自分は神の子である、それは自分も父と同じく神である、ということです。父は神だが子は神ではない、ということはあり得ません。神の子である方は神です。神を「わたしの父」と呼んだ主イエスは、自分もまた神であると言ったのです。それは、唯一の神のみを信じているユダヤ人には決して受け入れることのできない物言いでした。天地を造られた唯一の神のみが神であり、その他の全ては被造物、つまり神に造られたものであって神ではない、創造者である神と被造物とははっきりと区別し、神でない被造物を神とするようなことは絶対にあってはならない、というのがユダヤ人の基本的信仰です。それゆえに、一人の人間であり、従って被造物に過ぎない者であると彼らが思っていたイエスが、神の子を名乗り、自分を神と等しい者であると主張することはとんでもない傲慢であり、神を冒頭する発言なのです。それは彼らにとって、律法のどれかの掟を破る、というのとは次元が違う、決して許すことのできないことでした。だから彼らはイエスを殺そうとねらうようになったのです。

はっきり言っておく  
 このようなユダヤ人たちの激しい敵意を受けて主イエスは、彼らと正面から向き合い、その批判に答えておられます。それが本日の箇所です。主イエスはここで彼らの批判をしっかりと受け止め、ごまかしたりはぐらかしたりせずに、真剣にそれに答えておられます。そのことを示しているのが、ここに三度にわたって語られている「はっきり言っておく」という言葉です。19節と24節と25節にそれがあります。これはヨハネによる福音書に特徴的な言葉で、これまで読んできた所にも既に何回か出て来ました。その時にも申しましたが、これは原文をそのまま訳すと「アーメン、アーメン、私はあなたがたに言う」という言葉です。「アーメン」という言葉が二度繰り返されており、そのことを意識して以前の口語訳聖書では「よくよくあなたがたに言っておく」と訳されていました。新共同訳の「はっきり言っておく」という翻訳ははっきり言ってあまり良い訳ではないと思います。新しく出た聖書協会共同訳では、「よくよく言っておく」に戻っています。どう訳すかはとにかく、これは主イエスが大切なことを宣言なさる時にお語りになった言葉です。「アーメン」とは「まことに、本当に」という意味の言葉です。それが二度重ねられているわけで、本当に真剣に語られ、受け取られるべき真理を告げる、という思いがそこに現れているのです。主イエスはそのような真剣な思いで、ユダヤ人たちの批判に答えておられるのです。

父なる神と子なる神の関係  
 しかし、神を父と呼び、ご自分を神と等しい者とされたことを批判しているユダヤ人たちに対して主イエスがここでお答えになったのは、なぜ私は神を父と呼ぶことができるのか、なぜ自分を神と等しい者とすることができるのか、という弁明や説明ではありません。つまり主イエスはご自分が神の子であることを証明しようとしておられるのではないのです。主イエスがお語りになったのは、父である神と、子であるご自分との関係です。それをさらに詳しく言うならば、父である神がどのような思いで子であるご自分をこの世にお遣わしになったのか、子である自分が父である神に対してどのような思いをもって歩んでいるのか、そして父なる神とその子である主イエスとを信じることによって人間に与えられる救いの恵みは何か、ということです。ご自分が神の子、独り子なる神であられることは、主イエスにとって、証明しなければならないようなことではなくて、自明の前提でした。むしろ大事なのは、父である神とご自分との関係であり、そこに示されている、人間を救おうとしている神の思いです。それこそが、本当に真剣に語られ、受け取られるべき真理なのです。私たちが本日の箇所から聞き取るべきであるのもそのこと、つまり父である神と子である主イエスとの関係と、そこに見えてくる、人間を救って下さる神のみ心なのです。私たちも、ユダヤ人たちと同じようにいろいろなことを疑問に思います。天地を造られた神は分かるが、人間として生きた主イエスが神の子であり神と等しい者であるとはどういうことか、イエスが神であるという証拠はどこにあるのか、父なる神とその子主イエスが共に神であるとしたら、神は二人いるということになるのではないのか…。しかしそういった疑問をいくら追求しても答えは得られません。むしろ主イエスがここで語っておられる、父なる神と子である主イエスの関係を受け止め、そこに示されている神のみ心を知ることによってこそ、主イエスを独り子なる神と信じることができるようになるのです。

父に完全に従う子  
 さて、父なる神と子である主イエスの関係について、主イエスが先ずお語りになったのは、19節後半の「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」ということです。子である主イエスは、父である神のなさることを見てその通りにする、父と関係なしに独自に何かをすることはない、つまり子は父のみ心に完全に従って歩むのだ、と主イエスは言われたのです。子なる神主イエスは父なる神にどこまでも服従なさる、そのことは、パウロがフィリピの信徒への手紙第2章で、神の身分であり神と等しい者であられた主イエスが、徹底的にへりくだって、人間となり、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と言ったことと繋がります。主イエスは父なる神のみ心に従順に、十字架の死に至る道を歩み通されたのです。

子に全幅の信頼を置く父  
 しかし主イエスのこの父に対する従順は、次の20節の「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」ということと裏表の関係にあります。父なる神は子である主イエスを愛しておられ、御自分のなさること、つまりみ心、ご計画をすべて子である主イエスにお示しになっているのです。つまり父は子に全幅の信頼を置いているのです。その信頼に答えて、子は父に服従して歩み、父のなさる通りにする、つまりみ心をそのままに行うのです。父である神と子である主イエスの間にはこのような完全な信頼関係があります。この信頼関係の中で、20節後半に語られていることが起ります。そこには、「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」とあります。人々が驚く大きな業、それは21節に「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように」とあること、つまり父なる神が主イエスを復活させること、十字架につけられて殺される主イエスの三日目の復活です。父なる神の信頼の中でそのみ心に従順に十字架の死への道を歩まれる主イエスを、父は復活させ、永遠の命をお与えになるのです。主イエスの復活という人々が驚く奇跡は、父なる神と子である主イエスのこのような完全な信頼関係の中で起こったことであり、その信頼関係の証しなのです。そしてこの父なる神の驚くべきみ業を、子である主イエスもそのとおりになさるのです。それが21節後半の「子も、与えたいと思うものに命を与える」です。父が子を復活させて与えて下さった新しい命、永遠の命を、子も、与えたいと思う者に、ということはご自分を信じる者に与えて下さるのです。つまりここには、主イエスが私たちに永遠の命を与えて下さることが語られているのです。父なる神が子である主イエスに全幅の信頼を置いてみ心を示し、主イエスがそれに応えて父に従順に十字架の死への道を歩むことによって、主イエスの復活が起こるだけでなく、私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるという神の救いのみ業が実現する、そのことがここに告げられているのです。

裁きは子に任されている  
 22節には「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」とあります。父なる神は子である主イエスを信頼して、裁くことを任せておられるのです。そのことは、27節にも語られていて、「また、裁きを行う権能を子にお与えになった」とあります。人々を裁く権威と力を父なる神は子である主イエスにお与えになったのです。しかし同時に30節にはこうあります。「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」。裁きを行う権能を父から与えられた主イエスは、それを自分の意志によって勝手に行使するのではなくて、父から聞くままに、つまり父の御心に完全に従ってなさるのです。この裁きにおいても、父が子に全幅の信頼を置き、子は父に完全に服従して歩む、という信頼関係があります。この信頼関係があるから、主イエスは人々を、つまり私たちを、正しくお裁きになることができるのです。

子を敬う者こそ父を敬う  
 主イエスに委ねられている裁きがどのようになされるのか、何によって主は私たちをお裁きになるのか、そのことが23、24節に語られています。先ず23節に、「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わないものは、子をお遣わしになった父をも敬わない」とあります。裁きは、神を敬うか敬わないか、ということに基づいてなされるのです。神を敬う、それは、神を神として信じ、神との関係を正しく持って生きようとすることです。神を愛し、神のみ心に従って歩もうとすることです。その「神を敬う」ことは、父である神を敬うように、父がお遣わしになった子である神主イエスを敬うことです。つまり神を敬うとは、天地を造り支配している神がおられることを信じて、その神を漠然と敬うということではなくて、この世を人間として生きることによって私たちと関わって下さり、十字架の苦しみと死、そして復活によって救いのみ業を具体的現実的に行って下さった独り子なる神を敬い、その救いのみ業をしっかり受け止めて歩むことなのです。父なる神が子である主イエスをこの世に遣わして下さったことによって、地上を生きている私たちが具体的現実的に神を敬って生きることができるようになったのです。子である主イエスを敬う者こそが、父である神を本当に敬うことができるのです。神による裁きにおいてはそのことが問われるのです。

永遠の命か死か  
 それを受けて24節が語られています。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。ここに、本日の箇所における二回目の「はっきり言っておく」が語られています。本当に真剣に語られ、受け取られるべき真理がここでも告げられているのです。それは神による裁きについての宣言です。神による裁きとは、私たち人間が永遠の命を得るか、それとも死に支配されたままで終わるか、そのどちらかに分けられることです。生まれつきの私たちは皆罪の支配下にあり、永遠の滅び、死へと向かっています。その私たちが、神が救い主として遣わして下さった独り子である神主イエスの言葉を聞いて、その主イエスを遣わして下さった父なる神を信じるなら、死から命へと移され、永遠の命を与えられるのです。しかし子である神主イエスのみ言葉を信じることなく、主イエスを遣わして下さった父である神をも信じないならば、死の支配の下に留まり続けることになるのです。私たちが永遠の命を得るか、それとも死の支配の下に留まったままであるか、その裁きが、父なる神から子である主イエスに任されているのです。

永遠の命を与えるために  
 しかしこの24節では実際には、主イエスの言葉を聞いて父なる神を信じる者が永遠の命を得ること、裁かれることなく死から命へと移っていることのみが語られています。つまり主イエスによって救いが与えられることが見つめられているのであって、裁きの結果滅びと死の支配下に留まることは語られていないのです。父である神が子である主イエスに裁きをお任せになったことの意図がそこに示されています。父なる神は子である主イエスに裁きをお任せになることによって、人々が、つまり私たちが、主イエスを信じることによって永遠の命を得、死から命へと移ることをこそ願っておられるのです。そのことは25節以下にも語られています。25節に、第三の「はっきり言っておく」があります。そしてここで宣言されているのは、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」ということです。神の子、つまり主イエスの声を聞くならば、つまりその言葉を聞いて、主イエスを遣わした父なる神を信じるならば、罪の内に死んでいる者が生きるのです。死から命へと移されるのです。主イエスのみ声を聞く者に永遠の命が与えられるという救いが、今や、主イエスが来られたことによって始まっているのです。それが父である神のみ心によることであることを26節が語っています。「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」。父がご自身の内にある永遠の命を、子である主イエスにお与えになった。それは、主イエスがその命を私たちに与えて下さるためです。21節に「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」と語られていたことがこれと結びつきます。父である神が子である主イエスに復活と永遠の命をお与えになったのは、主イエスがその永遠の命を私たちに与えて下さるためだったのです。そのようにして私たちが死の支配下から命の下へと移され、永遠の命を生きる者となることを父なる神は望んでおられるのです。その父の思いを子である主イエスははっきりと弁えておられ、その救いを実現なさる、そのことに全幅の信頼を置いて、父は子をお遣わしになりました。そして子である主イエスは、その父のみ心をその通りに行い、実現して下さったのです。この父と子との完全なる信頼関係によって、罪に支配されて滅びと死に向かうしかなかった私たちに、復活と永遠の命の約束が与えられたのです。

最後の審判  
 この復活と永遠の命の約束が、将来、世の終わりにおける人の子主イエスの再臨の時になされる裁きにおいて実現することが、28、29節に語られています。「驚いてはいけない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」。善を行った者も悪を行った者も、復活して人の子主イエスの前に立ち、永遠の命を与えられるか、永遠の滅びに至るかの裁きを受ける、という最後の審判のことがここに語られています。その終りの日の裁きにおいて、私たちの命と死が最終的に決まるのです。自分はいったいどちらだろう。永遠の命にあずかることができるだろうか、むしろ永遠の滅びに至ってしまうのではないだろうか、という恐れが当然私たちの内に起ります。しかしここで思い起こすべきことは、これらのみ言葉が、主イエスが父なる神の等しい方であることを否定し、主イエスを殺そうとねらっていたユダヤ人たちに対して語られた、ということです。主イエスが神の独り子であられ、父が全幅の信頼を寄せつつ子である主イエスを遣わし、主イエスがその信頼にしっかりと応えて、父なる神のみ心を行い、十字架の死と復活による救いを実現して下さっている、この父と子の信頼関係を受け止めることなく、主イエスが独り子なる神であることを否定して敵対し、殺そうとすること、それが「悪を行う」ことです。その罪に留まるなら、終りの日の裁きにおいて永遠の滅びに至ることになるのです。しかし父なる神が子である主イエスに信頼してお任せになった裁きは、私たちがそのような罪に留まることなく、子である主イエスの言葉を聞いて主イエスをお遣わしになった父なる神を信じ、子を敬うことによって子をお遣わしになった父を敬う者となり、それによって永遠の命を得、死から命へと移ることを目的としているのです。「善を行う」とは、主イエスこそ神の独り子であり、父なる神のみ心に従って私たちのための救いを実現して下さった方であることを信じることです。主イエスを独り子なる神と信じることによって私たちは、復活と永遠の命の約束が自分に与えられていることを確信して、希望をもって待ち望むことができるのです。

聖餐において  
 本日はこれから聖餐にあずかります。聖餐も、父である神がその独り子である主イエスを遣わして、その十字架の死と復活による救いを約束して下さっている、その神の恵みのみ心を私たちが味わい知り、その救いを待ち望んで生きるために与えられているものです。聖餐にあずかることによって私たちは、主イエス・キリストが、十字架にかかって肉を裂き、血を流して私たち罪人の救いを成し遂げて下さったこと、つまり独り子なる神であられる主イエスが、ご自身を徹底的に低くして下さり、父なる神のみ心に従って歩んで下さったことによって私たちの救いが実現したことを覚え、その救いを味わいます。その救いは、父である神が子である主イエスを信頼して遣わし、私たちの救いのための全てのことを主イエスに委ねて下さったことによって実現したのです。父なる神と子なる神の間にある深い信頼関係によって与えられた救いの恵みを私たちは聖餐において味わい、かみしめるのです。

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