主日礼拝

あなたに欠けているもの

「あなたに欠けているもの」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第40編1-12節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第10章17-22節  
・ 讃美歌:117、129、197

自分自身の話として  
 本日はマルコによる福音書第10章17節以下をご一緒に読むのですが、ここには「金持ちの男」という小見出しがついています。それはこの話の最後の22節に、ここに出て来る人が「たくさんの財産を持っていた」と語られているからですが、しかし私たちはこの話を、一人の「金持ちの男」の話として読んでしまわないように気をつけなければなりません。この人が金持ちだったことは最後の22節になって初めて分かることで、それまでは17節にあるように「ある人」、直訳すれば「一人の人」の話なのです。最初から「ある金持ちの話」だと思って読んでしまうと、自分は金持ちではないと思っている私たちの中の大部分の者たちにとってこの話は、自分とは種類の違う人の話に感じられてしまいます。しかし聖書は「ある人」と言うことによって、私たちの誰もがこれを自分自身の話として読むことを求めているのです。このような小見出しは、便利でもある反面、問題もあると言わなければなりません。

主イエスの道  
 さて17節の最初に「イエスが旅に出ようとされると」とあります。ここは以前の口語訳聖書では「イエスが道に出て行かれると」でした。「旅に出る」というと、「気分転換に旅行に行く」という感じもしてしまいますが、原文は「道に出る」という言葉です。その道とは、10章1節に「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」とあったその道です。その道はエルサレムへと向かっています。エルサレムで主イエスは十字架に付けられて殺されるのです。その十字架の死への道を主イエスは今歩んでおられるのであって、その道をさらに一歩先へと歩み出されたということをこの17節は語っているのです。

善い先生  
 そこに、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねました。「ひざまずいて」という言葉に、この人が主イエスを尊敬し、教えを乞おうとしていることが見て取れます。主イエスのもとにはしばしばファリサイ派の人々が悪意をもって質問しに来ていましたが、この人は、純粋に教えを乞おうとして主イエスの前にひざまずいたのです。彼が主イエスを「善い先生」と呼んだことにもそれが表れています。この「善い」という言葉は、ユダヤ人の間では、人に対してはあまり用いない、神様にのみ用いる言葉だったようです。普段は神様にのみ用いるような言葉を、彼は主イエスに対して用いたのです。しかしそのような彼の語り掛けに対して主イエスは「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」とお答えになりました。「善い」という言葉は神様に対してのみ用いられるべきであって、ご自分に対して使われるべきではない、と主イエスはおっしゃったのです。「エホバの証人(ものみの塔)」の人たちは、このお言葉のゆえに、イエスは神ではないと主張しています。しかしこのお言葉は、主イエスが神であるかないかを語っているのではありません。主イエスはこの人の問いに対する答えとしてこれを語られたのです。彼の問いと切り離してこのお言葉を考えることはできないのです。

永遠の命を受け継ぐ  
 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」これがこの人の問いでした。「永遠の命を受け継ぐ」、これこそが神様による救いにあずかることです。私たちは、自分の日常生活の中でのいろいろな悩みや苦しみが解決するとか、病気が治るというようなことを救いとして期待することが多いですが、そういうことは悩みの解決ではあっても、神様による救いではありません。「永遠の命を受け継ぐ」ことこそが、神様による、神様のみが与えることができる救いなのです。永遠の命とは何でしょうか。それは肉体をもって生きているこの命が、死ぬことなく永遠に続くことではありません。そういうのは「不老不死」ですが、不老不死と永遠の命とは全く違います。肉体の命がいつか終ることはむしろ自然なことであり、ある意味で必要なことです。みんなが不老不死になり、生まれる人だけで死ぬ人がいなくなったら、たちまち地球は人で一杯になり、食料も枯渇します。人間は、他の動物もそうですが、死ぬからこそ生きることができるのです。永遠の命というのは、その肉体の死が、私たちの歩みの最終的な帰結ではない、私たちの歩みは、死んでしまっておしまい、ではなくて、肉体の死を越えた彼方に、神様の恵みによる新しい命が与えられる、ということです。つまり、私たちを最終的に支配するのは死の力ではなくて、神様の恵みなのだ、ということです。そのことを信じるならば、私たちの人生は、そこに様々な苦しみや悲しみがあっても、また肉体の死による終りに直面しても、なお生きる価値のある、喜びのある、神様の恵みによって支えられている歩みとなるのです。永遠の命を受け継ぐとはそういうことであり、それこそが、神様が与えて下さる救いです。この人は、現世的なご利益ではなくて、この永遠の命を求めて主イエスのもとに来たのです。ただ一人の善い方である神様が与えて下さる永遠の命に至る道を主イエスが示してくれると信じて、主イエスを「善い先生」と呼んだのです。

失望させる答え  
 しかし主イエスはこの人がご自分を「善い先生」と呼ぶことを拒みました。それは何故か、という問いを抱きつつ次の19節を読みたいと思います。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と主イエスはおっしゃいました。これらはいわゆる「十戒」の後半の教えです。父母を敬えという教えが本来は先に来るべきところが最後になっているという順序の問題がありますが、基本的には十戒の後半の、人間どうしの関係についての掟が並べられているのです。これが、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という問いに対する主イエスの答えでした。しかしこの答えはこの人を失望させました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」という彼の言葉には失望感が感じられます。十戒を守ることはユダヤの人々にとっては当たり前のことで、特別立派なことでも何でもないのです。しかもこの人は、永遠の命を受け継ぎたいと真剣に願っていたわけですから、人一倍熱心に、厳格に十戒を守っていたのでしょう。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」という彼の言葉に偽りはないし、そこに彼の自負があったのです。彼が聞きたいと思っているのはそんな当たり前のことではなくて、それ以上のこと、十戒を守ることに加えてさらに何をしたらよいか、なのです。

神の恵みによってこそ  
 この人を失望させたこの答えと、「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」というお言葉とはつながっています。この人は、永遠の命を受け継ぐためには、十戒を守る以上に何か善いことをしなければならないと思ったのです。そして主イエスこそ、その善いことを教えてくれる善い先生だと思ったのです。主イエスはそのような彼の思いを根本からひっくり返そうとしておられるのです。自分が善い行いをし、善い者となることによって、永遠の命を、つまり神様の救いを獲得できるという彼の思いは根本的に間違っているのです。神様の救いは、永遠の命は、私たちが自分の力や努力で獲得するものではないからです。それは神様が恵みによって与えて下さるものです。だからそれを受け継ぐためには、自分がどういう善いことをし、どのように立派な者になるかではなくて、ただ一人の善い方である神様をこそ見つめ、その恵みをこそ求めていかなければならないのです。それが、「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」というお言葉の意味です。このお言葉によって主イエスは、善いことに励んでいる自分自身ばかりを見つめているこの人を目を、主なる神様の恵みへと向け変えようとしておられるのです。彼が分かり切っている十戒の掟を並べたのもそのためです。「何をすればよいか」と問うならば、この十戒に、神様が私たちに求めておられることが示されているのです。しかし十戒はもともと、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、神様の救いの恵みに感謝して生きるために与えられた指針です。つまり神様の恵みによって生きる神の民の基本的なあり方が示されているのであって、この人自身も感じているように、それは特別に立派なことでも何でもないのです。十戒を持ち出すことによって主イエスは、神様が私たちに求めておられるのは、恵みに感謝して生きることであって、何か特別なことをすることではない、と言っておられるのです。

主イエスの愛のまなざし  
 「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言っている彼はしかし、主イエスが彼に示そうとしておられることを全く分かっていません。この言葉には、主イエスの答えへの失望と、また自分が努力してきたことへの自負と、そしてこんな当たり前のことではなくて、それ以上に何をするべきかが知りたいのだ、という思いが込められています。続く21節には、主イエスが「彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。主イエスはこの人をじっと見つめたのです。その目は慈しみに満ちていました。この「慈しんで」はもっとはっきりと訳せば「愛して」という言葉です。主イエスはこの人を愛しておられるのです。このことは、本日の箇所を読む上で土台となる大事なことです。これを見落としてしまうと、この箇所の理解を根本的に間違うことになります。主イエスは、自分が努力して善い行いをすることによって永遠の命を、神様の救いを獲得しようとしている、それができると思っているこの人を、決して責めたり批判してはおられないのです。お前のそんな思いは間違っている、顔を洗って出直して来い、と追い返そうとしているのではないのです。むしろ主イエスは彼を愛して、慈しんでおられるのです。その慈しみ、愛のまなざしの中で主イエスは、「あなたに欠けているものが一つある」とおっしゃったのです。

あなたに欠けているもの  
 このお言葉を聞いた時、この人はおそらく目を輝かせて主イエスを見上げたのではないでしょうか。永遠の命を受け継ぐためには何をしたらよいかと問うて、返って来た答えは、十戒を守れというありきたりなものでしかなかったと失望しているところに、「あなたに欠けているものが一つある」と言われたのです。「そうです、私が聞きたいのはそのことなのです。私になお欠けているもの、私がなお努力し、行うべき一つのこととは何でしょうか」、彼はそういう期待をもって主イエスの次のお言葉を待ったことでしょう。ところが、主イエスが次にお語りになったことは、彼の度肝を抜くようなことでした。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。財産を全て売り払って貧しい人々に施し、わたしに従って来る、それが、あなたになお欠けている一つのことだと主イエスはおっしゃったのです。この言葉を聞いた途端に彼の顔は曇りました。彼はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ったのです。主イエスが言われるそんなことは、自分にはとてもできないと思ったからです。永遠の命を受け継ぐためにしなければならないことがこれほどのことであるなら、自分はとてもそれを得ることはできない、と思ったのです。そういう絶望の内に彼は主イエスのもとを立ち去ったのです。  
 私たちもまた、主イエスのこのお言葉によって度肝を抜かれ、たじたじとならずにはおられません。永遠の命を受け継ぐためには、つまり神様の救いにあずかるには、全財産を売り払って貧しい人々に施し、無一物になって主イエスに従っていかなければならないのだとしたら、私たちもこの人と共に、気を落とし、悲しみながら立ち去るしかないと言わざるを得ないでしょう。しかし主イエスのこのお言葉は果して、永遠の命を受け継ぐために私たちが満たさなければならない条件を語っているのでしょうか。主イエスがこの人を慈しみと愛のまなざしで見つめておられたということと、このお言葉はどう結びつくのでしょうか。先程、主イエスは、自分の善い行いによって永遠の命を獲得しようとしている彼の思いを根本からひっくり返そうとしておられるのだと申しましたが、全財産を売り払って施すことが永遠の命を得るための条件だというのではそれとは矛盾しています。主イエスはそういうことを言っておられるのではないのです。

天に富を積め  
 それでは主イエスのこのお言葉の意味は何でしょうか。この人はこれまで、自分が善い行いを積み重ねることによって永遠の命を獲得しようと努力してきました。しかしいくら努力しても、「これで十分」とは思えなかったのです。まだ何かが足りない、永遠の命を得るにはまだ十分でない、という不安をぬぐい去ることができなかったのです。それで、自分になお欠けているものが何かを教えてもらおうとしたのです。その彼への答えとして主イエスがおっしゃった、「全財産を売り払って施し、私に従いなさい」というお言葉は、彼がさらに努力していくべきことは何かを示したと言うよりも、彼の生き方を根底からひっくり返そうとしているのです。主イエスは彼に、これまでのような、自分の力、努力で善い行いをし、その実績によって救いを獲得しようとする生き方を捨てなさい、と言っておられるのです。彼が子供の時からずっとしてきたのは、自分の善い行いという財産をせっせと積み上げることでした。その財産を増やしていくことによって救いを獲得しようとしていたのです。主イエスのところに来たのも、その財産を十分に増やす仕方を教えてもらうためでした。しかし主イエスが彼に語ったのは、あなたが積み上げている財産を全て放棄しなさい、ということです。自分が貯め込んでいる善い行いや立派さによって、つまり自分が相応しい者になることによって救いを得ようとすることをやめて、ただ神様の恵みによって救いにあずかるという新しい歩みを始めなさい、ということです。それがここに語られている「天に富を積む」ということなのです。財産を売り払って施すことによって天に富を積むことになる、と言われているのは、そのような人々の度肝を抜くような善い行いをすることによって天の銀行に莫大な富を積むことができ、それによって救いを得ることができる、ということではありません。天の富というのは、私たちの善い行いではなくて、神様の恵みです。私たちが、自分の善い行いという富によって救いを得ようとする思いを捨てて、神様の恵みのみにより頼むようになることによって、その神様の恵みという富が、私たちのために天に積み上げられていくのです。逆に私たちが、自分の力、自分の善い行いを頼りにして、それで救いを得ようとするなら、神様の恵みという天の富は失われてしまうのです。

わたしに従いなさい  
 「それから、わたしに従いなさい」と言われているのもこれと同じことです。主イエスに従っていくというのは、主イエスの弟子という立派な人になるということではなくて、ひたすら主イエスの恵みにより頼み、主イエスによってこそ生かされる者となることです。主イエスなしにでも生きていけるような立派な人、強い人は、従っていく必要はないのです。主イエスの恵みなしには一日たりとも生きていくことができない、そういう弱い、罪深い者が、主イエスに従っていくのです。この人がもともと目指していたのは、主イエスなしに自分の力で救いを得ることができるような立派な人、強い人になることでした。そのようになるための方法を教えてもらおうとしたのです。しかし主イエスは彼に、そのように自分の力で生きていこうとすることをやめて、私についておいで、と言っておられるのです。

子供ように神の国を受け入れる  
 ですから21節の主イエスのお言葉は、永遠の命を受け継ぐための厳しい条件を示して、それを満たすことのできない者を救いから締め出そうとしておられるのではありません。むしろ主イエスはこの人を、そして私たちを、神様の恵みによって生きることへと招いておられるのです。永遠の命を受け継ぐことは、何か特別に善いことをすることによってではなくて、ひたすら神様の恵みによりすがることによってこそ与えられるのです。その点でこの話は、この前の所、13節以下において、主イエスが子供たちを迎え入れて「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃったことと結びつきます。子供たちは、神の国に入るためのどんな条件をも満たすことができないのです。恵みによって与えられる神の国をただいただくだけ、それが子供たちです。主イエスはここでこの人にも、「子供のようになって神の国を受け入れなさい」と言っておられるのです。

財産を手放せない私たち  
 ところが彼は、主イエスのこの招きを受けとめることができずに、気を落とし、悲しみながら立ち去ってしまいました。それはたくさんの財産を持っていたからである、と語られています。しかし彼は、金持ちだったから財産を捨てられなかったのではありません。自分が金持ちだとは思っていない私たちも、この人と同じように感じるのです。金持ちであるかどうかが問題なのではありません。ここに描かれているのは、私たちが、自分の力や努力による善い行いという自分の富、自分の立派さや相応しさにより頼んでいることがいかに多いか、ということです。私たちは誰もが皆、たくさんの財産を持ち、そして自分の持っている財産にしがみついています。それから手を離して、神様の恵みに身を委ねることがなかなかできないのです。そういう私たち一人一人の姿がここに描かれているのです。

十字架へと歩む主のまなざしの中で  
 悲しみながら立ち去っていくこの人を主イエスはどのような目で見つめておられたのでしょうか。この後讃美歌197番を歌います。その1節はこの場面を歌ったものです。「ああ主のひとみ、まなざしよ、きよきみまえを去りゆきし、富める若人見つめつつ、なげくはたれぞ、主ならずや」。立ち去っていくこの人を見つめて主は嘆いておられます。しかしそれは、「嘆かわしい」という怒りや裁きの思いではありません。主イエスはこの人を愛と慈しみのまなざしで見つめておられたのです。去っていく彼にも、その愛と慈しみのまなざしは注がれていたでしょう。最初に申しましたように、主イエスは今、十字架の死への道を歩んでおられるのです。私たちの全ての罪を背負って主イエスが死んで下さり、復活して下さったことによって、永遠の命を受け継ぐ救いの恵みが、私たちのどんな善い行いによってでもなく、ただ神様の恵みと慈しみによって与えられる、その救いの道が今や開かれようとしているのです。主は、悲しみながら立ち去ったこの人のためにも、十字架にかかって死のうとしておられます。去って行く彼を、主はそういう恵みのまなざしで見つめておられたに違いないのです。私たちも、全てを捨てて私に従いなさいというみ言葉の前に、うなだれて立ち去るしかない者です。しかし私たちが、自分は善い行いによって永遠の命を受け継ぐことができるような者ではなく、主のみ前から悲しみつつ立ち去るしかない者であることを本当に知る時に、そこからむしろ新しい道が開かれていくのです。私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストの恵みに、何のいさおしもない一人の罪人としてただよりすがっていくという道です。主イエスは愛と慈しみのまなざしをもって私たちをその道へと招いておられます。その招きに応えて主イエスによりすがっていく時に私たちは、何か立派なことをしなければ救いを得ることができない、自分のしていることはまだ足りないのではないか、という不安から解放されて、喜んで主イエスに従い、また自分に与えられているものを隣人のために喜んで用いていく者とされるのです。

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