夕礼拝

パンだけ食べていても

「パンだけ食べていても」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:申命記 第8章1-10節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第4章1-11節  
・ 讃美歌:18、56

本日共に聞きました新約聖書の箇所は、「荒野の誘惑」と言われている箇所です。 この荒野の誘惑は、イエス様が荒野で40日間断食をしているときに起こりました。 誘惑を仕掛けたのは、悪魔です。悪魔が三つの誘惑を仕掛けた、とここに語られています。第一は、四十日間、つまり四十日四十夜、昼も夜も断食して空腹の絶頂であったイエス様に、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言ったということです。第二は、イエス様を神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、ここから飛び降りてみろ。天使たちが守ってくれるはずだ」と言ったことです。第三は、イエス様にこの世の国々とその繁栄ぶりを見せ、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんなあなたに与えよう」と言ったということです。 これが荒野で起きた3つの誘惑の内容です。

本日は最初の誘惑を中心にして、ともに神様の御言葉を聴きたいと思います。

 なぜ荒野にイエス様がいったのかということを、見て行きたいと思います。1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」と書かれています。なぜイエス様が、この誘惑を受けなくてはいけなかったのか、それは、3章15節で前回共に聞いた所の、洗礼者ヨハネにイエス様が言った言葉にその答えがあります。イエス様が洗礼を受けられる前に、「正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです」と言われました。この「正しいこと」というのは、すなわち「義」ということです。ここで言われている義は、人間の行うことの出来る「義」すなわち「正しいこと」です。イエス様は、ご自身が人となり、十字架で死に犠牲となることで、人間の行いとしてではなく、人間を自身を、神様の義として示してくださいました。神様の正しさには、人間はいくら努力しても、修行をしても、到達できるものではありません。しかし、そのような人間を正しいもの、義であるとされたのは、神様の一方的な恵みによって、すなわちイエス様の死によって、人間は神様によって正しい者と認められました。その神様に正しいと認められた人間が通るべき正しい道を、イエス様は洗礼を受けることで示してくださいました。「私のように洗礼を受けて、聖霊を注がれて新たにされなさい」と、本当は洗礼を受ける必要のないイエス様が、そのようにして、示してくださいました。今日の荒野の誘惑も、イエス様が「正しいことを成就する」ためになさったことで、それは、またわたしたちが将来、歩むことになる道の上で起こることです。わたしたちに先立って、言葉を換えるならば、わたしたちの先頭にたって、イエス様は荒野で誘惑にあわれたのです。ですから、聖書は、荒野で誘惑を知らないうちに受けたとは語らず、イエス様が荒野に行ったのは「悪魔から誘惑を受けるため」であると、イエス様の積極性を語るのです。また荒野で悪魔から誘惑を受ける、その場へとイエス様を導いたのは「霊」であった、と語られています。この「霊」は、3章16節に出てきた「霊」です。イエス様は、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。その時受けた、神の霊が、荒れ野の誘惑へとイエス様を導いたのです。つまりこれは霊を授けた父なる神様のご意志でありました。イエス様が、悪魔の誘惑を受けることを、父なる神様ご自身が望まれたのです。父なる神様も、わたしたち人間に歩むべき正しい道、義の道を示すために、この荒野でイエス様が誘惑を受ける必要があるとお考えになっていたのです。
 イエス様は、わたしたちの先頭に立って、義の道の第一歩目は洗礼を受けることであると、示してくださいました。(一歩目を歩む前に、自分の罪を告白し、悔い改めることが必要であるといっておられます。)そして、義の道の歩む道標は、「霊」、聖霊なる神様です。イエス様も霊に導かれて、道を歩まれました。受洗して、義の道を歩みだし、霊に導かれて歩んでいたら、いきなり誘惑です。この義の道はなんと険しい道かと思ってしまいます。

ではその誘惑はなんだったのか見ていきましょう。

 誘惑の最初に、出てくるのは「飢え」に関することです。イエス様は、四十日四十夜断食をされていて、空腹状態でした。このことを簡単に受け取ると、「わたしたちも義の道を歩むために断食をしなければいけないのか」と思ってしまいますが、それはちがいます。イエス様は、断食をされて、あえて悪魔に誘惑される状況をつくられました。それは、わたしたちの歩みにも、形は違うが、誘惑が迫ってくるということをお示しになるためです。ですから、わたしたちがイエス様を見習って、あえて悪魔に誘惑をされやすい状況をつくるのは間違っています。
 イエス様のお腹がペコペコだった時に、イエス様を誘惑するものがきたと書かれています。ここで、興味深いのは、聖書は、「誘惑する者が来た」と書いていることです。聖書を書いた著者は、その後の展開を分かって書いているのに、あえてここで悪魔と書かずに、誘惑する者と書いています。これは、イエス様が、この時点では、悪魔を悪魔として、認識されておられないということを示すためでしょう。5節で、聖書の著者が、誘惑する者のことを「悪魔」と言い換えているので、イエス様は、誘惑する者の言葉を聞いた時に、悪魔であると認識されたといえると思います。イエス様が「退け、サタン」と名指しで言われたのは、3つ目の誘惑の後、10節のところにおいてです。サタンであると正体を暴露された悪魔は、離れ去りました。ここから、悪魔というのは、真っ黒で、角と、しっぽが生えている、バイキンマンのような格好をしている、一目瞭然なものではないということがわかります。イエス様も、見ただけでは、わかなかったように、どうやら悪魔は見た目から分からないものであるようです。
 イエス様は、断食をされていたのは、悪魔の誘惑を誘うためであると先ほど申し上げましたが、それだけではないかもしれません。イエス様は、わたしたち人が持つ、「飢え」という苦しみを、共に味わうためにこのように断食されていたとも言えるでしょう。四十日四十夜食べないというのは、生命を落としかねないレベルです。イエス様は、人となることによって、その生涯で、人生の初めから終わりまで、人が味わうことになる、すべての苦しみを味わわれ、共感され、憐れまれます。イエス様は、洗礼を受け、義の道の一歩目を歩みだされた後に、直ぐに、飢える人間の苦しみ、悲しみを深く味わわれたのです。
 その苦しみ悲しみの頂点の時に、イエス様を誘惑する者は言います。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」?と。わたしたちが、これを簡単に読むときには、「イエス様は今空腹だから、石をパンにして食べたら、お腹が満たされる、だからそれを利用して悪魔は、イエス様に神の力を使わせようとしている」読むと思います。 それは正しい読み方だと思います。でもそこにある、悪魔の意図をわたしたちはまだ見ていく余地があります。では悪魔が神様の力をイエス様に使わせようとしているのはなぜでしょうか。3節で、「神の子なら」と悪魔がいうのは、「お前は本当に神の子なのか?」という問いをイエス様に投げかけています。さらに悪魔は、本当に神の子なのか?「神の子であるならば、石をパンにしてみろ」と言っています。ここで、悪魔は、「お前は神の子なのか」と問うことで、イエス様と神様との信頼関係を崩そうとしています。悪魔はイエス様に「自分は神の子である」とイエス様の自身の行いや業によって、確かめさせようとしているのです。
 イエス様は石をパンにする力をもたれていました。しかし、それを使わないのは、イエス様は自分で自分を「神の子」であると証明したくないからです。イエス様は、3章で洗礼を受けた時に、神様に「これは私の愛する子である」と宣言されておられました。イエス様は、その父なる神様の宣言を信じておりましたから、自分が神の子であるかどうかというのを、その行いや奇跡の力で確かめなくても良いのです。自分が神の子かどうかと不安になり、その行いや奇跡、しるしによってしか信じることができないというのであれば、イエス様は父なる神様の宣言、神様の言葉を疑っているということになります。そのように、悪魔は、空腹という状態を使って、イエス様に神の子の証明をさせ、神様との信頼関係を崩そうと考えているのです。義の道の先を歩まれるイエス様がこの誘惑を受けられたということは、わたしたちにも、この誘惑が起こるということです。わたしたちも、洗礼を受け、父なる神様の子どもたちの一人とされています。しかし、時に、自分は本当に神様の子なのだろうか、言葉を変えれば自分は救われるのだろうか、と不安になります。不安になりますから、神様の子どもの一人であるならば、必ず清く正しく生きるだろう、熱心に教会に通うだろう、みんなにやさしくするだろうと思い、そのようにして、良い行いをすることで、自分が神の子であると、自分を安心させようとします。それは、次元が違いますが、「石をパンにしてみる」ことと一緒です。それは自分が、神の子であると、自分の行いや業によって、確かめようとすることです。わたしたちは、義の道を歩む最初に洗礼を受けています。それは、父なる神様から、「あなたは私の愛する子」と宣言されています。そのしるしとして、目に見える形で洗礼という大きな神様からの証明をもらっています。ですから、わたしたちは自分の力で、再度神の子であるかということを、確かめないで良いのです。「あなたは神の子である」という父なる神様の言葉を信頼することが大事なのです。悪魔は、父なる神様とわたしたちの関係を崩そうと考えています。
 イエス様はわたしたちの前を歩き、誘惑を退けるための信仰をその身で示してくださっています。その信仰の姿勢とは、宣言して下さった父なる神様の言葉のみを信じるということです。イエス様は、3つの誘惑に対して、3つの聖書の言葉、すなわち神様の言葉で、悪魔を退けます。最初の誘惑への返しの言葉は、今日共に聞きました、申命記8章3節の言葉です。イエス様は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と申命記を引用して悪魔に立ち向かいました。
 イエス様は空腹で今にも、倒れそうなときにこの「人はパンだけで生きるものではない」と言いました。世の中で、飢えに苦しんでいる人と同じ苦しみ、悲しみを味わわれたイエス様が、この言葉を述べるというのは、大変厳しい言葉に聞こえます。現実にわたしたちは、パン、すなわち腹を満たすものがなければ、生きていけませんし、言葉を聞くことだってままなりません。そのように考えていくと、飢えに苦しんでいる世界の人々に対して、イエス様が石をパンにかえて、この世の食料事情を解決し、世界から飢えをなくしてくれれば、皆救われるのではないかとわたしたちは考えてしまいます。イエス様も、飢えに苦しむものと同じ苦しみを味わっているのだから、「石をパンにかえる」ことをすれば、今、「私の空腹のみならず、世界の人々の空腹を満たすことが出来る」とお考えになったかもしれません。 しかし、その時、「これは違う」とイエス様は思ったはずです。それは本当に人を救うことにはならないとお考えになったでしょう。

 悪魔の最初の誘惑は、神様とイエス様の関係を崩す意図とさらには、イエス様の救いのやり方を捻じ曲げようと試みています。

 この後者の悪魔の試みの意図は、わたしたちの内側にある、神様に対しての試み似ていると言えます。わたしたちは、どこか、神様が本当の神様であったら、石をパンにかえるように、自分の苦しみを癒し、満たされない心も直ぐに満たしてくれるだろうと思ってしまうことがあります。そのようにしてくれない神様は、本当の神様といえるのだろうかという問いを抱くことがあります。苦しみや、不幸な目にあう度に、悲しみにぶつかる度に、わたしたちは神様が自分にとって便利なかみさまでないことに、腹を立てたことはないでしょうか。
 この思いは、この物語の後に登場します、イエス様の弟子たちの中にも表れます。それをペトロが示しています。ペトロは、十字架に架けられて死に、三日目に復活するということをイエス様から聞いた時に、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。その時、イエス様は、今日の10節に出てくる「退け、サタン」と同様の言葉「サタン、引き下がれ」という言葉を使われました。ペトロは、ローマ帝国の支配を終わらせ、世直しをする改革者としてイエス様を見ていました。その時のペトロの救いは、ユダヤ人の解放です。その改革者のイエス様が受刑者として死んでしまうのは納得いかないし、復活することで、救いが完成するということも、ペトロは納得出来なかったので、「そんなことあってはなりません」といったのです。これも、一つの、「石をパンに変えてみろ」という試みと一緒です。自分の納得する救いではないから、考えなおして欲しい、自分の理想の救いにして欲しいということです。
 ペトロがイエス様を誘惑しているのと同様に、先ほど申し上げたとおり、わたしたちもイエス様に対して試みていることがあります。苦しくなると、直ぐに助けて欲しい、この苦しみから救われることが救いだ、だからイエス様救ってくださいと願うわたしたちのその思いが、イエス様に対する小さな試みです。
 そのわたしたちの誘惑に対して、イエス様は戦われています。イエス様は御自分の愛されている人間、愛されているわたしたちの救いの期待、しかもご自身が味わわれて、一番理解している、苦しみからの救いの期待に対して、そこには、救いはないと言い切られたのです。それは、本当の救いを示すためです。本当の救いは、十字架の上での死です。イエス様は、愛している人々の考える期待に応えることをなさらず、本当の救いのために、お一人で十字架への道を歩まれました。
 その十字架への道が、わたしたちの義の道です。

 その義の道を歩む上でも、もう一度イエス様の引用された言葉を見てみましょう。 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」というのは、「神様の言葉を聞くことだけが良いことで、パンを食べることがいけないことである」ということではありません。この言葉は、申命記第8章3節の引用であると先ほど申し上げました。ここでは、エジプトを脱出した後の、イスラエルの民の四十年間の荒れ野の歩みが思い出されて書かれています。神様はその旅の間、彼らを、マナと呼ばれる、天からのパンによって養い、支えて下さったのです。4節には「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」と言われています。つまり神様はご自分の民に、必要なパンを与え、また必要な衣服を整えて、いつも養って下さるのです。神様はわたしたちがパンを食べること、求めることを否定しておられません。むしろそれをちゃんと備えて下さるのです。つまり「人はパンだけで生きるものではない」というこの言葉は、パンなどを求めてはならない、そんな物質的な、外面的なものではなく、内面的で、精神的な神の言葉をだけ求めて生きなさい、ということではありません。そうではなくてイエス様は、神様はあなたがたにパンをお与え下さる、あなたがたが生きるのに必要なものをすべて備えて下さる、それは恵みである。しかし神様の恵みはそれに尽きるのではない、神様はそのことを通してむしろもっと大きな恵みを、神様の口から出る一つ一つの言葉によってあなたがたを生かし、導くという恵みを与えようとしておられます。   

 イエス様は、わたしたちを神様のみ言葉によって生きる者とするために、この道を選び、わたしたちに先立って歩まれておられます。わたしたちはそのことを見つめなければなりません。イエス様によって与えられる救い、恵みはそこにこそあるのです。パンを求めること、この世の生活が守られ、支えられることを願い求めることは決して間違いではありません。それは確かに神様が与えて下さる恵みなのです。しかしパンだけを食べていれば、その恵みはとても小さいものとしか思えなくなるでしょう。パンだけを求めていれば、わたしたちは神様のことを、ただパンだけ与えてくださる方としか実感できなくなるでしょう。パンだけを求めていれば、いつの日か、神様にすべて養われていることが、当たり前になり、神様の本当の御心を忘れてしまうことになってしまでしょう。それは、わたしたちの経験の中にも、あると思います。わたしたちは子供の時に親に食事や衣服を与えられておりました。しかし、物心つく頃には、親に養われるのが当たり前になって、感謝することはありません。その時のわたしたちは、親がその養いを通して、わたしたちに示していた思い、愛情などは気がつくことができません。親に愛されているということは、物質によって支えられているだけでなく、その親の「愛している」という言葉を聞くことがなければ愛情には気づくことができないでしょう。   
 神様は、わたしたちに、御言葉を通して「あなたを愛している」「わたしの愛する子だ」といってくださっています。その神様の恵みの御言葉が物質よりも、腹を満たすパンよりもさらに大きな恵みなのです。その恵みの御言葉を、イエス様によってわたしたちはいただくのです。イエス様が父なる神様の御心をイエス様ご自身の口を通して、ご自身の生涯の出来事を通して、わたしたちに示してくださっています。イエス様=神様のみ心の現れです。すなわちイエス様は、神様のおっしゃりたいこと、わたしたちに伝えたい御言葉なのです。イエス様は神様を信じて、神のこどもになり、永遠の生命に与りなさい。そのために悔い改めて、福音を信じなさいとわたしたちに言われています。その福音がわたしたちの大きな恵みです。その福音とは、イエス様の十字架の死によって、わたしたちの罪が赦されたことです。その福音を信じるものは、イエス様の死と復活に与り、永遠の生命を与えられます。それがわたしたちの本当の救いです。その永遠の生命に与り、神様の国で神様と共に生きるというのが、わたしたちの希望です。   
 その恵みと希望からからわたしたちの目を逸らさせ、パンの恵みだけを見つめ、求めるようにさせようとしているのが悪魔の誘惑です。イエス様が最初の誘惑を退けて下さったことを見つめることを通して、わたしたちも、この誘惑に打ち勝ち、イエス様によって与えられる、本当の救いの恵みにあずかっていきたいのです。 「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。それは、神様との交わりによって生きるということです。神様がわたしたちに恵みのみ言葉を語りかけて下さり、わたしたちがそれを聞き、それを信じ、また神様に祈りでもってはなしかける、そういう応答関係こそが、神様との交わりです。神様と応答するためには、信頼関係がしっかりしていなければなりません。神様はわたしたちがどんなにダメな奴でも、いつでも話しかけてくださろうとされています。信頼関係を結ぼうとされています。しかし、その神様の差し出し手を、吟味するかのごとく、わたしたちは、神様を試そうとしてしまいます。神様の恵みをいつも、試すことで、確認しているようでは、そこにはその人の神様に対する信頼はありません。「石をパンに変えてみろ」、「わたしの考える救いを実現して欲しい」「そうしてくれなければ、あなたが神であると信じない」、そのように試していては、信頼関係はうまれません。いつも相手の気持ちを試しているようなところに、信頼関係は生まれないのです。神様とわたしたちの間においても、人と人との間でも、それは同じです。悪魔は、イエス様と父なる神様との間の信頼関係を壊そうとしました。また悪魔はわたしたちと神様の信頼関係も壊そうとしています。イエス様はその悪魔の誘惑を退けて、父なる神様への信頼の内に救い主としての道を歩み通されました。その道は十字架の死への道でしたが、イエス様が父なる神様を信頼してその道を歩み通して下さいました。
 それ故、今わたしたちは、罪の赦しの恵みを与えられ、神様との交わりに生きることができるのです。パンだけの恵みに与り、それで満足していてはなりません。パンとともに、神様の本当の御心が表される、神様の御言葉を聞かなければ、わたしたちは本当の恵みを実感できません。わたしたちはその本当の恵み、神様の愛のみ心を知る時、わたしたちは、日々神様に感謝して歩むことが出来るようになります。この日々の養い、パンも、服も、住むところも、神様がわたしたちを愛して下さっている故に、与えられているのだと、知ることできます。

 わたしたちは今、イエス様が歩んで下さった道の上を歩んでいます。その歩み方は、神様を信頼し、わたしたちも神様を裏切ることなく、父なる神様の愛の御心が表される御言葉を聞き、感謝をして歩む道です。それがわたしたちに備えられた、義の道なのです。

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