「十字架の主に従う(2)」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:創世記 第22章1-19節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第8章31-38節
・ 讃美歌:4、300、504
主イエスの前から後ろへ
この9月の最初の主の日、1日に、本日と同じマルコによる福音書第8章31節以下からみ言葉に聞きました。主イエスがこれから苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺される、そして三日後に復活する、ということをご自分からはっきりと語り始められたこと、それを聞いた弟子のペトロが、主イエスをわきへ連れ出して諌めたこと、それに対して主イエスが、「サタン、引き下がれ」と厳しくお叱りになったことをご一緒に読んだのです。ペトロは、主イエスがお語りになったことは、メシア、つまり救い主であられる主イエスには相応しくないと思ったのです。世の救い主ともあろう方が、苦しみを受けて殺されるなどという惨めな、敗北の道を歩むはずがない、もっと力強い、栄光に満ちた、勝利の道を歩むはずだと思ったのです。それゆえに彼は、主イエスのお語りになったことを間違っていると思い、その間違いを正してあげなければと思ったのです。ここでペトロは、自分が主イエスの弟子であることを忘れてしまっています。弟子として主イエスに聞き従うのではなくて、むしろ主イエスに正しい道を教え、導こうとしているのです。何と大それたことを、と私たちは思いますが、しかし私たちもこれと同じことをよくしてしまうのだ、と前回申しました。私たちはそれぞれ、神様とはどのような方か、神様の救いとはどのようなものか、について自分なりのイメージを持っていて、そのイメージからなかなか抜け出すことができません。そのために、聖書を自分の思いに引き寄せて読んでしまったり、また礼拝において説教を聞いても、自分が抱いているイメージに合うことだけを聞き取り、それと違うことは耳に入って来ない、ということが起るのです。私たちはしばしばそのようにして、自分の思い描いているイメージを神様に、主イエスに、押し付けてしまいます。しかし人間どうしの交わりにおいても、相手に自分が期待している姿を一方的に押し付けていったのでは交わりは成り立ちません。交わりが成り立つためには、相手が語ることをよく聞き、そのありのままの姿をよく見ることが必要です。神様との交わりも同じであって、自分が神様について抱いているイメージに固執するのでなく、神様ご自身が語っておられることをよく聞き、神様が示して下さっているお姿をしっかりと見つめることが必要なのです。ペトロもここで、主イエスがメシア、救い主であられることについて自分が抱いているイメージを主イエスに押しつけようとしました。つまり主イエスに従うのではなくて、自分が主イエスを導く主人になろうとしたのです。
それに対して主イエスは厳しく「サタン、引き下がれ」とお叱りになりました。この「引き下がれ」は、前回も申しましたが、「私の後ろにつけ」という言葉です。つまり主イエスはペトロに「どこかへ行ってしまえ」とおっしゃったのではなくて、私の後ろについて、私に従って来いとおっしゃったのです。主イエスの後ろに従っていくことこそ、弟子であるペトロの本来の姿です。主イエスはこの厳しいお叱りの言葉によって、ペトロを、弟子としての本来の位置に戻し、主イエスの後に従う者としようとしておられるのです。主イエス・キリストを信じ、従っていく信仰者は、主イエスの前にではなく、後ろにつくべき者です。ところが私たちはしばしば、自分の抱いている思いに捕えられて、主イエスの前に立ってしまい、主イエスをも自分の思いに従わせようとしてしまう、そのことをよく警戒しなければなりません。
主イエスの後ろに従うとは
さて以上のことは1日にお話ししたことの復習です。本日は、この箇所の34節以下に焦点を当ててみ言葉に聞いていきたいと思います。34節にはこのように語られています。「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」。「わたしの後に従いたい者は」とあります。ここには先ほどのペトロに対する「引き下がれ」と同じ言葉、つまり「私の後ろに」という言葉が用いられています。「わたしの後ろにつけ」とペトロに対しておっしゃった主イエスが、それに続いて、「わたしの後ろに」従いたい者はこうしなさい、とおっしゃったのです。主イエスの弟子、信仰者は、主イエスの前に立って導くのではなくて、主イエスの後ろについて従う者でなければならない、それを受けて、それでは、主イエスの後ろに従うとはどのように歩むことなのかがここに語られているのです。主イエスの後に従って歩むためには、自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従うことが必要なのです。
私たち全ての者に
このことの内容に入る前に、この教えが、「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」語られたということに注目しておきたいと思います。「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と語りかけられたのは、ペトロだけではないし、十二人の弟子たちだけでもなかったのです。主イエスは周囲にいた群衆全てにこのように語り掛け、お勧めになったのです。このことは、自分を捨てて、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくべき者は、ある特別な人々だけではない、ということを意味しています。私たち全ての者にそのことが求められているのです。私たち一人一人が、主イエスの弟子となり、その後に従っていく者となることを主は求めておられるのです。ですから、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というみ言葉を、自分とは関係のない、特別に強い信仰を持っている立派な人たちに対する言葉であって、自分のような弱い、信仰の薄い罪人にはこのことはあてはまらない、と思ってしまってはならないのです。主イエスは、今この礼拝に集っている私たち全ての者に、「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と語りかけておられるのです。
自分のイメージに固執せずに
それでは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従う」とはどのようなことなのでしょうか。自分を捨てるにしても、自分の十字架を背負うにしても、大変なことだと思わずにはおれません。そんなことが自分に出来るだろうか、とても自信がない、と誰でも思うのです。しかし私たちがここで先ず見つめなければならないのは、自分に何が出来るかではなくて、主イエス・キリストが私たちのために何をして下さったか、です。何故ならば主イエスはここで、「わたしの後に従いなさい」と言っておられるからです。私たちの信仰者としての歩みは、主イエスの後についていく歩みなのであって、私たちの前を主イエスが歩んでおられるのです。私たちはいつもその背中を見つめながら、一歩一歩主イエスの後について行くのです。その主イエスが歩んでいこうとしておられる道が31節に語られていました。多くの苦しみを受け、人々に捨てられ、十字架につけられて殺されるという道を主イエスは歩もうとしておられるのです。その主イエスの後に従って行く私たちの歩みも、当然、自分の十字架を背負って歩むものとなるのです。ですから私たちは、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というお言葉に、驚いたりとまどったりしてはならないのです。もしそれに驚いたりとまどったりするとしたらそれは、私たちが、信仰者の歩みについて自分の抱いているイメージに固執しているからです。私たちは、神様について、その救いについてと同じように、信仰者の生き方についても、自分なりにいろいろなイメージを持っています。正義を愛し、悪を憎み、品行方正に生きることが信仰者として生きることだと思っている人もいるでしょうし、やさしく柔和な愛に満ちた人として生きることだと思っている人も、どんな苦しみ悲しみにおいても動じることなく、平安を失わずに生きるのが信仰者だと思っている人もいるかもしれません。あるいは、自分の力では一歩も歩めない弱い自分がただ神様におんぶされ、だっこされて生きることだと思っているかもしれません。しかしそれらはどれも、信仰者の生き方について私たちが勝手に抱いているイメージであって、主イエスはそんなことを言ってはおられません。主イエスは、信仰者として生きるとは、主イエスの後に従っていくことだと言っておられるのです。その主イエスが、神の独り子としての栄光を捨てて人間となり、苦しみを受け、十字架の死に至る道を歩まれたのですから、私たちも同じように、自分を捨て、自分の十字架を背負って歩んでいくのです。
主イエスの十字架と私たちの十字架
けれども、主イエスが十字架を背負って歩まれたことと、私たちが自分の十字架を背負って歩むこととでは勿論意味が違います。主イエスが苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺されたのは、私たちの救いのためでした。神様の独り子であり、ご自身は何の罪もない方である主イエスが、私たちの罪を全て背負い、身代わりとなって死んで下さったのです。31節の受難の予告は、主イエスがそのように罪人の身代わりとなって裁かれ、殺されることによって、罪人である私たちの救いが実現する、そのことが神様のご意志、ご計画であり、そのために主イエスはこの世に遣わされたのだ、ということを語っていたのです。主イエスの苦しみと死は、私たち罪人の救い、罪の赦しのための代理としての死、罪の贖いのための死でした。もっと簡単に言えば、本当は私たちが自分の罪のために死ななければならなかったのに、主イエス・キリストが代わって死んで下さったおかげで、私たちは赦されて新しく生きることができるのです。それが主イエス・キリストの十字架による救いです。私たちは主イエスの十字架によって実現したこの救いが自分のためであり、自分にそれが与えられていることを信じて、その救い主であるイエスに従って行くのです。その歩みにおいて私たちも、主イエスに倣って、自分を捨て、自分の十字架を背負います。それは、自分が救いを得るためでも、誰かを救うためでもありません。たとえ私たちが主イエスと同じように十字架につけられて殺されたとしても、それによって自分を救うことはできないし、誰かを救うこともできないのです。それでは私たちが自分の十字架を背負って歩むことにはどんな意味があるのでしょうか。それは、主イエスの十字架の苦しみと死によって私たちを救って下さった神様に感謝して、その恵みを証しし、指し示すためです。私たちが自分を捨て、自分の十字架を背負って、つまり苦しみを自分から背負って生きるのは、自分の力ではとうてい得ることのできない救いが、主イエスの十字架によって与えられたことに心から感謝しているからです。私たちは、自分が主イエスの苦しみと死とによって罪を赦され、救われた、その救いの生き証人として歩むのです。自分の十字架を背負って主イエスに従う信仰者の歩みにはそういう意味があるのです。
人生のイメージチェンジ
別の言い方をすれば、信仰者となることによって、私たちの、人生について抱いているイメージが変わるのです。生まれつきの私たちは誰でも、自分の人生は、自分の力、実力によって一歩一歩道を切り開いていき、成功を目指して努力していくものだというイメージを持っています。成功して、栄光と誉れを得ることが人生の目的だと思っているのです。失敗や挫折や恥辱をできるだけ避けて、少しずつでも栄光と誉れに向かって進んでいけるような人生を歩みたい、と願っているのです。そのことはいわゆるビジネスの世界だけの話ではありません。信仰においても私たちは同じイメージを抱いているのではないでしょうか。信仰においても、自分が成功し、栄光と誉れを得ることを目指しており、失敗や挫折を恐れているのです。それが、主イエスを諌めたあのペトロの姿です。救い主であられる主イエスが、苦しみを受け、人々に捨てられ、殺されるなどということがあるはずはない、あってはならないという彼の思いは、そのまま、彼が自分の人生について思い描いているイメージです。苦しみのない、失敗しない、成功し、栄光と誉れを得ることができる人生を彼はイメージしており、それを求めているのです。彼が主イエスの弟子になったのも、信仰において成功し、栄光と誉れを得ることを願ってのことだったのでしょう。ところがここへ来て主イエスは、彼の思い描いているイメージをぶちこわすようなことをおっしゃったのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」。だから彼は躍起になって、「そんなことがあってはなりません」と主イエスの言葉を否定しようとしたのです。主イエスはそのペトロに、そしてペトロと同じように信仰においても成功し、栄光と誉れを得る人生をイメージし、求めている私たちに、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくという生き方を示し、与えようとしておられるのです。それは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによる罪の赦しによって常に支えられつつ歩む人生です。自分は神様に対しても隣人に対しても罪を犯し続けている者だけれども、主イエスの十字架の死によって神様は自分を赦して下さっており、導いて下さっている、そのことを土台とする人生です。そしてペトロは気が付きませんでしたが、主イエスは31節において、「三日の後に復活することになっている」とも語っておられました。十字架につけられて殺される主イエスを、父なる神様は復活させ、新しく生かして下さるのです。この主イエスの復活の命にあずかって新しく生かされる人生を、主イエスはペトロに、そして私たちに示し、与えようとしておられるのです。
十字架を背負って主イエスに従うとは
主イエスが示して下さっているこの新しいイメージによって自分の人生を見つめていく時、私たちの生き方は変わります。成功して栄光と誉れを得ることだけを人生の目的だとは思わなくなるのです。失敗や挫折やそれによる恥辱を恐れずに受け止めることができるようになるのです。世間の目には栄光や誉れや成功と思われることを、主イエス・キリストのゆえに捨て去り、何の誉れも栄光もない虚しいこと、恥辱と思われるようなことを、主イエス・キリストのゆえに引き受けることができるようになるのです。それが「自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従う」ということです。そのような新しい生き方は、人生のイメージの転換によってこそ得られるのです。自分が成功して栄光や誉れを得ることを目指す人生から、主イエス・キリストの苦しみと死とによって与えられた神様の救いの恵みを喜び、感謝して、それを証ししていく人生へと、人生のイメージが変わるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従う」という歩みはそこにこそ実現していくのです。
命を得るには
35節には「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とあります。「自分の命を救いたいと思う」、それは私たちが、自分の力で成功して栄光と誉れを得ようと努力していくということでしょう。そのように成功を追い求めていく人生は、結局、命を失うのです。何故ならばそこでは、失敗や挫折、苦しみや悲しみを受け止め、それに耐えることができないからです。私たちの人生は死へと向かっています。この世でどんなに成功し、栄光と誉れを得た人も、結局最後は死んで全てを失うのです。自分が勝利し、成功することによって命を救いたいと思っている者は、最終的には死の力に敗北して全てを失うのです。しかし、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とあります。主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命の約束という福音を信じる者は、今この人生から、その新しい命を生き始めることができます。その新しい命は、人生における失敗や挫折や敗北によっても、そして死によって全てのものが失われる時にも、決して失われることがありません。この命を与えられている者は、人生における苦しみを、主イエス・キリストが自分のために受けて下さった苦しみと死とにあずかることとして積極的に受け止めることができます。そして世の終わりに主イエスの復活にあずかって永遠の命を与えられることを信じて待ち望むことができます。この新しい命こそ、何物にも換え難い貴重なものです。36節の「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」という言葉は、この命を得ることは全世界を手に入れるよりも大事だと語っています。また37節には、「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とあります。この命は、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死という代価によって神様が買い取り、与えて下さるものです。私たちが自分の持っている何かによってそれを買い取ることはできないのです。
自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスの後に従うとは、神様が与えて下さるこの新しい命に生きることです。この新しい命に生きるために、何か特別な苦しみを背負わなければ、と気負い込む必要はありません。自分は主のためにどれだけの苦しみを背負っているだろうか、などと考えることは、結局自分の立派な行ないによって誉れを得ようとするのと同じことです。求められているのはそういうことではなくて、自分の人生の土台には主イエスの十字架の死と復活による神様の救いの恵みがあり、それが自分の歩みを支えているのだ、ということをしっかりと見つめることです。
主の山に、備えあり
本日は、共に読まれる旧約聖書の箇所として、創世記の22章を選びました。アブラハムが、ようやく与えられたただ独りの息子イサクを、焼き尽くす献げ物として献げよという命令を神様から受けた、という場面です。アブラハムにとってイサクは、「あなたの子孫は大いなる国民となる」という神様の祝福の約束の印でした。神様に従ってきたこれまでの人生が無駄ではなかった、神様は約束通りに祝福を与えて下さった、ということを彼はイサクの存在によって確認しつつ生きていたのです。そのイサクを殺して献げよと神様がお命じになる。それは彼にとって、人生の意味、成功、誉れの全てを捨て去らなければならないということでした。しかしアブラハムは、神様のみ言葉に従います。7節でイサクが「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ねると彼は8節で、「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えるのです。「神が備えてくださる」これが彼の信仰です。アブラハムは、自分の人生を、自分の手で道を切り開き、成功を勝ち取っていくものとしてではなくて、神様が備えて下さる道を、神様の支えによって歩んでいくこととして捉えていたのです。このように、神様が導いて下さり、良いものを備えて下さっていると信じることによってこそ、自分にとって大切なものをも手放して、主に従って生きることができるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従う」ことは、「主の山に、備えあり」と信じて生きることと表裏一体なのです。私たちは、「主の山に備えあり」と信じるがゆえに、自分の成功も、誉れも富も、捨てることができるし、十字架の苦しみを背負っていくこともできるのです。アブラハムのために主の山に備えられていたのは、イサクの代りに焼き尽くす献げ物となる雄羊でした。私たちのために主の山に備えられているのは、私たちに代って十字架の苦しみと死を引き受けて下さった独り子イエス・キリストです。主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを見つめて生きることによって、私たちは人生における成功や栄光や誉れの全てを捨て去って、主イエスの後に従っていくことができるのです。そしてその歩みの中で私たちも、「主の山に、備えあり」ということを体験していくのです。