主日礼拝

イエスの名により命を受ける

「イエスの名により命を受ける」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章6-7節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第20章30-31節
・ 讃美歌:

ヨハネ福音書の元々の締めくくり
 本日は、ヨハネによる福音書第20章の終わりのところをご一緒に読むわけですが、実は、ヨハネ福音書は元々はこの20章で終わっていたのではないかと考えられています。つまり本日の20章30、31節が、元々はヨハネ福音書の締めくくりの言葉だったのではないか、と考えられているのです。そう言われてみれば、ここは確かにしめくくりに相応しい文章です。31節でヨハネ福音書が終わっても全く違和感はありません。むしろその後に21章が始まることの方が、「あれ、まだ終わりじゃなかったの?」という感じがするのです。その印象は正しいのであって、21章は後からつけ加えられた部分だと考えられています。ただし、その付け加えはかなり早い時期に起ったことです。ですから、聖書が手で書き写されて伝えられていった、いわゆる「写本」の中の古いものには21章がないものがある、ということではありません。もしそうなら、例えばマルコによる福音書の終わりのところのように、あるいはヨハネ福音書では8章の始めのところの、姦通の場で捕らえられた女の話のように、括弧に入れられているはずです。あの括弧は、有力な写本の中にこの部分がないものがある、という印なのです。しかし21章には括弧は着いていません。ヨハネ福音書は古くから、21章を含んだ形で伝えられて来たのです。それにもかかわらず、ここが後から付け加えられたと言われるのは、語られている内容からの判断です。この福音書が生み出された教会において、その成立から間もない時期に、21章が書き加えられたのだと考えられるのです。20章で一旦閉じられていたところに21章が加えられて、ヨハネ福音書は完成したのです。なぜそういうことが起ったのか、21章は何のために付け加えられたのか、それは来週のお楽しみとしたいと思います。

イエスはキリストであると信じるため
 というわけで本日の箇所は、元々はこの福音書のしめくくりの言葉だったと思われるわけですが、ここには、この福音書が何のために書かれたのかが語られていて、小見出しも「本書の目的」となっています。その目的を語っているのは31節です。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。この福音書を読む人が、イエスは神の子メシアであると信じて、イエスの名によって命を受ける、つまりは救われる、そのためにこの福音書は書かれたのです。ここで「メシア」と訳されている言葉の原語は「クリストス」つまりキリストです。ですから「イエスは神の子キリストである」と人々が信じるためにこの福音書は書かれた、と言われているのです。そのキリストという言葉は、ヘブライ語の「メシア」がギリシャ語に訳されたものであり、「油を注がれた者」という意味です。神によって油を注がれ、救い主として立てられた者、を指しています。だからここの意味は、「イエスは神の子、救い主である」と信じるため、となります。意味が分かるように訳すならそのようにすべきです。原文の言葉を生かして訳すならば、キリストという原語は一般にもよく知られているのですから、「イエスは神の子キリストである」と訳せばよいのです。以前の口語訳聖書はそうなっていました。原文の「キリスト」という言葉を、より知られていない元のヘブライ語の「メシア」と訳すのは解せません。メシアという言葉もこの福音書には出て来るのであって、4章25節には「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」とあります。ここには「キリスト」と「メシア」が並んで出て来ているので、「キリスト」はそのまま「キリスト」と訳されているわけです。つまり箇所によって同じ言葉が「キリスト」と訳されていたり「メシア」と訳されているという不統一が生じています。これは新共同訳に対する私の文句です。聖書に対して文句を言っているのではありません。訳し方に対してです。この訳し方は新しい聖書協会共同訳でもそのままなので残念です。

七つのしるし
 文句を言うのはそれくらいにしておいて、イエスが神の子キリストであると人々が信じるためにこの福音書は書かれたわけですが、そのためにこの福音書は、主イエスがなさった「しるし」を語ってきました。主イエスがなさった奇跡のことをこの福音書は「しるし」と呼んでいます。イエスが神の子キリストであることの「しるし」として、奇跡はなされたのです。そのことが最初に語られているのは2章11節です。そこには「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」とありました。ガリラヤのカナでの婚礼において、水をぶどう酒に変えたことが、主イエスのなさった最初のしるし、奇跡でした。それによって弟子たちはイエスを信じた、つまりイエスが神の子キリストであると信じたのです。
 この最初のしるしから始まって、この福音書には主イエスのなさった七つのしるし、奇跡が語られています。4章43節以下には、王の役人の息子の病気を癒したことが、5章1節以下には、エルサレムのベトザタの池のほとりで、三十八年間病気で苦しんできた人を癒したことが、6章1節以下には五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にしたことが、6章16節以下にはガリラヤ湖の水の上を歩いて弟子たちの乗る舟のところに来られたことが、9章1節以下には生まれつき目が見えずに物乞いをして生きていた人を癒して見えるようにしたことが、そして11章には、死んだラザロを復活させたことが語られていました。これらのしるしがなされ、それをめぐって弟子たちや、周囲の人々や、敵対するファリサイ派の人々との間でいろいろなやりとりがなされていった、そのやりとりの中で、主イエスは神の子キリストであることが示されたのです。ヨハネ福音書は主イエスのご生涯を、この七つのしるしを中心として語ることによって、イエスは神の子キリストであることを証ししてきたのです。

多くのしるしの中から七つを選んで書いた
 本日の箇所の30節には、「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」とあります。この福音書を書いた人は、自分が語ってきたこれらの七つのしるしのほかにも、主イエスは多くのしるしをなさったが、私はそれらをこの書物に書かなかった、と言っているのです。この福音書を書いたのは、弟子の一人であるヨハネであると言われています。彼ヨハネは、主イエスがなさった数々のしるし、奇跡を直接目撃した人です。イエスがこのほかにも多くのしるしをなさったのを彼は自分の目で見てきたのです。だから、語ろうと思えばこのほかにも語れることは山ほどあるわけです。しかしそれらの全てを書くのではなく、敢えてこの七つのしるしのみを彼は書いたのです。勿論、その七つのしるしに加えて、主イエスの十字架の死と復活のことも彼は書き記しました。主イエスの復活こそが最大の奇跡であり、主イエスが神の子キリストであることを最もはっきりと示している出来事であると言えますが、これは主イエスがなさった「しるし」ではなくて、父なる神による救いのみ業です。主イエスがなさった七つのしるしと、主イエスの十字架と復活という父なる神の大いなる救いのみ業を彼はこの福音書に書いたのです。それは何のためかというと、これを読む人たちが、イエスは神の子キリストであると信じるためです。そのために本当に必要なことを選んで、彼はこの書物に書いたのです。つまり、彼自身が目撃した、主イエスのなさったしるしはこのほかにも数多くあるけれども、その中で、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるために本当に必要なことはこれだけだ、これを読めば、その他の多くのしるしのことは知らなくても、あなたがたも私と同じように、イエスは神の子キリストであると信じて、主イエスの名によって命を受けることができる、と彼は言っているのです。

見ないで信じる者の幸い
 つまりこの締めくくりの言葉には、主イエスを直接自分の目で見て、その奇跡、しるしを体験したヨハネを始めとする弟子たちと、主イエスを直接見てはおらず、彼ら弟子たちが語った証言、証しを聞くことによって、イエスは神の子キリストであると信じている「あなたがた」とがいることが意識されています。「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」と言われている「あなたがた」とは、主イエスをこの目で見てはいないけれども、イエスは神の子救い主であると信じている人々、つまり後の教会の信仰者たちのことです。その中には私たちも含まれています。主イエスをこの目で見てはいない私たちが、イエスは神の子キリストであると信じるために、直接の目撃者であるヨハネが、主イエスのなさった七つのしるしと、その十字架の死と復活を証ししている、それがこの福音書なのです。
 そして大切なことは、そのように主イエスを直接見ることなしに、目撃者たちの証言を聞いて主イエスを信じている私たちのことを、この福音書は「幸いである」と言っていることです。私たちはともすれば、主イエスを自分の目で見て、そのなさったしるしを直接目撃できた弟子たちは幸いだけれども、私たちにはその幸いが与えられていない、私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることができず、主イエスを目撃した人々の証言を、聖書を通して読むことしかできない。目に見える証拠なしに、言葉を聞くことだけで信じなければならない私たちは、彼らほど幸いではない、と思いがちです。しかしそんなことはないのです。むしろ反対なのであって、主イエスを見ないで信じている人こそが幸いなのです。そのことが、この箇所の直前のところ、29節に語られていました。主イエスは、「見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃったのです。「見ないのに信じる幸いな人」とは、弟子たちが語った主イエスについての証しを聞いたり読んだりすることによって、イエスは神の子キリストであると信じている人々であり、つまりこの福音書を読んでいる「あなたがた」であり、要するに私たちのことです。このように本日の箇所の締めくくりの言葉は、直前のトマスの話と深く結びついています。トマスの話の結論として、「見ないで信じる人は幸いである」ということが示されました。それを受けて、あなたがたがその幸いな人として生きるために私はこの福音書を書いた、これを読むことによってあなたがたも、見ないで信じる幸いにあずかることができる、と語ることによって、この福音書は締めくくられているのです。

聖霊のお働きへの信頼
 著者がこのように、主イエスを直接見ることなしに信じて生きる者の幸いを語っているのは、一つには、この福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃には、教会に連なっているほとんどの人たちがもう、主イエスを直接には見たことのない人々となっていた、という事情があります。つまり教会は今や、17章20節で主イエスが祈りに覚えて下さっていた、「彼ら(弟子たち)の言葉によってわたしを信じる人々」の世代となりつつあったのです。その人々が「幸いである」と語ることによってこの福音書は、主イエスをこの目で見ることなしに信じている人たちを勇気づけようとしているわけです。しかしそれだけではありません。著者が「見ないで信じる人は幸いである」と語ることができたのは、14章15節以下に語られていた主イエスのお言葉に信頼しているからです。14章で主イエスは、私は間もなく、父なる神のもとに行く、そしてそこから「弁護者」と呼ばれる聖霊をあなたがたに遣わす、とおっしゃいました。14章18節に「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」とありましたが、この「戻って来る」は、聖霊を遣わして下さることによって実現する恵みを語っておられたのです。主イエスは復活して天に昇り、父なる神のもとに行かれるので、それ以後、地上を生きる人間は主イエスのお姿をこの目で見ることはできません。だから私たちも、この目で主イエスを見ることはできないのです。しかし聖霊が来て、み業を行って下さることによって、私たちも、主イエスをこの目で見ることなしに、しかし主イエスを神の子キリストと信じ、復活して生きておられる主イエスが、戻って来て共にいて下さることを信じて生きることができるのです。「見ないで信じる人は幸いである」と言えるのは、この聖霊のお働きへの信頼のゆえです。聖霊が、主イエスのお姿をこの目で見る以上の幸いを与えて下さるのです。著者が本日の箇所で、主イエスがなさったしるしは他も多くあるが、それらは書かなかった、と言っているのも、この聖霊への信頼のゆえです。あなたがたは聖霊のお働きによって、生きておられる主イエスと共に歩むことができるのだから、主イエスが地上のご生涯においてなさったしるしを全て知らなくてもいい、私がこの書物に書いたあの七つのしるしと、そして主イエスの十字架と復活のことだけを知っていれば、あなたがたは聖霊の導きによって、見ないで信じる幸いな信仰に生きることができる、イエスは神の子キリストであると信じて、イエスの名によって命を受けることができる、そのようにこの福音書は締めくくられているのです。つまりこの締めくくりの言葉には、聖霊のお働きへの深い信頼が語られているのです。

イエスの名による命
 聖霊のお働きを受け、イエスは神の子キリストであると信じることによって私たちは、イエスの名による命を受けることができます。主イエス・キリストは、私たちに命を得させるためにこの世に来て下さいました。私たちに命を得させるために、主イエスは十字架にかかって死んで下さったのです。10章10、11節にはこのように語られていました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。良い羊飼いであられる主イエスは、ご自分の羊である私たちが命を受けるために、ご自分の命を捨てて下さったのです。主イエスの十字架の死は、神に背き逆らっている罪人である私たちが本来受けなければならない死でした。それを主イエスが代って受けて下さったことによって、私たちは罪を赦され、命を与えられたのです。ですからその命は、主イエス・キリストを信じて、主イエスと結び合わされることによってこそ与えられるものです。「イエスの名にる命」と言われているのはそのためです。私たちのために命を捨てて下さった良い羊飼いである主イエス・キリストの名によってこそ、命が与えられるのです。

永遠の命を受ける
 そしてその命は永遠の命です。死を乗り越え、もはや死に支配されることのない命です。5章24節にはこうありました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。主イエスを父なる神が遣わして下さった独り子なる神、救い主キリストと信じるなら、私たちは罪に対する裁きと死とから解放されて、永遠の命を与えられるのです。17章3節にも「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とありました。主イエスを父なる神が遣わして下さった独り子、救い主と信じることによって、永遠の命が与えられるのです。それは、繰り返し読んできたあの3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉に示されている父なる神の愛によることです。その神の私たちに対する大いなる、驚くべき愛が、主イエスのご生涯を通して、そこにおいて主イエスがなさった七つのしるし、奇跡によって、そして何よりも主イエスの十字架の死と復活において、示されているのです。主イエスの復活は、神が与えて下さる「永遠の命」が、単に死んでも魂が永遠に生き続けるということではなくて、からだのよみがえりを伴う、神が与えて下さる新しいからだをもって新しく生かされることであることを示しています。11章の、最後の七つ目のしるしが「ラザロの復活」であることもそれを示しています。それは主イエスの復活を指し示すしるしであると共に、主イエスの復活を通して私たちにも与えられる復活と永遠の命のしるしでもあるのです。
 その11章25節以下において主イエスはマルタに問われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。ヨハネ福音書全体を通して、主イエスはこのことを私たちにも問いかけておられるのです。私たちは、天に上って父なる神のもとに行かれた主イエスのお姿をこの目で見ることはできませんが、聖霊のお働きを受けて、この問いかけに、マルタと共に、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」という信仰を告白する者とされるのです。それによって私たちも、主イエスの名による命を受けることができます。「見ないのに信じる幸いな人」となることができるのです。マルタの信仰告白の言葉における「メシア」も原文は「キリスト」です。私たちが、主イエスこそ、神から遣わされた独り子、救い主キリストであると信じて、主イエスの名による永遠の命を受け、その新しい命を生き始めるために、ヨハネ福音書は書かれ、私たちに与えられているのです。

関連記事

TOP