主日礼拝

復活の主に派遣されて

「復活の主に派遣されて」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第2章1節―第3章3節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第6章6b―13節  
・ 讃美歌:325、321、519、67、77

壮行の時として
 本日はイースター、主イエス・キリストの復活の記念日です。それと同時に本日は3月31日、2012年度の最後の日であり、本日をもって長尾ハンナ先生はこの教会の副牧師の任を終え、東京神学大学を卒業した長尾大輔さんと共に、明日横浜を立って山口県の山口教会に赴任されます。長尾ハンナ先生と長尾大輔さんを伝道者として召して下さり、立てて下さった主なる神様が、お二人を山口へと派遣しようとしておられるのです。本日はそのことを覚えつつみ言葉に聞きたいと思います。本日ご一緒に読むのは、マルコによる福音書第6章の6節後半から13節です。ここには、主イエスが十二人の弟子たちを伝道へと派遣なさったことが語られています。礼拝においてマルコ福音書を読んできて、今日ちょうどこの箇所にさしかかったのです。長尾先生ご夫妻が主によって新たな地へと派遣される、その記念すべき日にこの箇所が与えられたことは主の導きだと思います。本日はこの箇所をご一緒に読むことをもって、主によって派遣されるお二人への壮行としたいと思うのです。

復活の主による派遣
 ところで、主イエスが弟子たちを伝道へと派遣なさったことが語られている箇所がこの福音書にはもう一か所あります。それは最後の16章の14節以下です。そこを読んでみます。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』」。お分かりのようにここは、復活なさった主イエスが弟子たちを、福音を宣べ伝えるために全世界へと派遣なさったという箇所です。弟子たちは、死者の中から復活した主イエスによって伝道へと派遣されたのです。今日世界中に教会が広がり、エルサレムから見たらまさに地の果てであるこの日本にもイエス・キリストを信じる者たちがおり、このような礼拝が毎週行われている、そのことへと直接つながっているのは、この16章における、復活した主イエスによる派遣です。これが、弟子たちの派遣の本番でした。第6章における派遣は、この16章における派遣のための準備、予行演習だったと言うことができます。本日の第6章における弟子たちの派遣の箇所は、復活した主イエスによって弟子たちが派遣される16章を目指して語られているのです。そういう意味でここは、主イエスの復活を喜び祝うイースターに読まれるのに相応しい箇所でもあるのです。

二人ずつ組にして
 さて主イエスの十二人の弟子たちが伝道へと派遣されたのですが、7節には、彼らが二人ずつ組にして遣わされたと語られています。二人が一組になって伝道していくようにと主イエスは配慮しておられるのです。このことにはいろいろな意味があります。二人が共に歩むことによって、互いに助け合い、励まし合い、支え合うことができます。それによって、一人では耐えられないような苦しみ、困難に直面しても、力を合わせて乗り越えていくことができる、ということが第一に言えるでしょう。信仰を与えられ、主イエスの弟子とされてこの世に遣わされていく私たちは、一人で生きるのではなくて、教会の仲間と共に生きるのです。信仰者の歩み、伝道の働きにおいては、「孤軍奮闘」は勧められていません。主イエスの弟子は、一人で孤独に立つ者ではなくて、仲間と共に歩む者なのです。長尾大輔さんとハンナ先生は、4月から共に伝道者である夫婦として歩み出されます。主イエスがまさにこのお二人を組にして、伝道へと派遣して下さるのです。それはまことに幸いなことです。お二人が力を合わせ、助け合い支え合って伝道していくことによって、1+1が2以上の3や4の実りを生んでいくことを信じています。
 さてしかし、この二人ずつ組にしてということには、助け合い支え合うということとは別の意味もあります。二人で共にというのは、自分の好き勝手にはできない、ということでもあるのです。主イエスの弟子となり、主に派遣されて伝道していくことにおいて私たちは、自分一人の思いではなくて、共に歩む仲間たちとよく相談しながら歩むことが大切なのです。その相談とは、ともすればぶつかり合う人間の思いの間に折り合いをつけ、妥協点を見出すための相談ではありません。自分たちを派遣なさった主イエスのみ心を尋ね求め、それに従っていくための相談です。私たちは主のみ心を尋ね求めることにおいても、自分の考えこそが正しいと思いがちです。そこにおいて、共に遣わされている仲間の語ることをよく聞くことによって、自分の考えを直ちに主のみ心と同一視してしまうことから解放されつつ歩むことが大切です。二人ずつ組にしてというのはそのためでもあるのです。

主イエスの召しと派遣
 8、9節には、主に派遣される者たちの旅支度のことが語られています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」。杖一本の他は、パンも、袋も、金も持つなというのです。これは要するに、自分の歩みを、自分が持っているいろいろな意味での財産によって支えようとするな、ということでしょう。これこれのものを持っていれば、身に着けていれば、それで安心できるという思いを捨てなさいと言われているのです。主イエスの弟子として生きる信仰者の生活は、能力や資質や身に着けたスキルなどを含めた、自分の財産によって支えられるものではありません。信仰者の歩みにおいては、「自分にはこれこれの能力があるから、これこれの働きができる」ということはないのです。逆に言えば、「これこれの能力がないからできない」ということもないのです。主イエスの弟子となり、信仰者として生きていくのに、パンも袋も金もいりません。持っているもの、身に着けているものが何もなくても、身一つで、今直ぐに、誰でも、主イエスの弟子、信仰者として生きていくことができるのです。そのことは主に派遣されて伝道者として歩むことにおいても同じです。何らかの能力やスキルがあれば伝道者として働くことができるというものではないのです。弟子たちがそうであったように、伝道者として歩むための唯一の根拠は、主イエスの召しと派遣です。主イエスが召して下さり、派遣して下さるならば、何も持っていなくても、福音を宣べ伝える働きをすることができるのです。逆に、主イエスが召し、派遣して下さっていないなら、どんなに豊かな能力を持っていたとしても、伝道者として生きることはできません。ですから最も大切なことは、主イエスの召しと派遣をしっかりと確認することなのです。長尾ハンナ先生は、神学校を卒業して4年間、この横浜指路教会の伝道師、副牧師として仕えながら、主イエスの召しと派遣を確認してこられました。その召しや派遣を見失いそうになるような体験もあったとご本人が語っておられます。主の召しと派遣を確認するというのはそういう厳しいことです。自分がこうしたいと思えばそれが主の召しなのではありません。むしろ、こんなことはしたくない、どうしてこんなにつらいことをしなければならないのか、と感じる中で、しかし主がそのことへと自分を召しておられることを示されていくのです。長尾大輔さんも、4年間の神学校と教会での学びと生活とを通して主の召しを確認して来られました。今お二人は、召し出して下さった主によって新たな地に派遣されようとしています。今お二人はいろいろな不安を覚えていることでしょう。それは当然です。「自信があります」なんて言っていたらその方がよほど心配です。しかし主イエスによる召しと派遣があれば、お二人の歩みは必ず支えられるのです。自分たちが何を身に着けているか、どんな力があるかではなくて、主イエスの召しと派遣をこそ常に見つめ、確認し続けていただきたいと思います。

居心地の良さを求めるのではなく
 10節には、「また、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい』」とあります。ここで前提とされているのは、町や村を旅しつつ伝道していく人の姿です。そのような伝道においては、行った先の町で、自分たちを迎え入れてくれる誰かの家に入り、そこにやっかいになりながら伝道していくのです。ここに語られているのは、そのようにある家に迎え入れられたら、その町を去る時までそこに留まり、同じ町の中で滞在先を転々とするな、ということです。転々とすることが起るのは、あちらの家の方が待遇が良い、より親切にしてくれて居心地が良い、ということによってでしょう。それは、主に派遣されて歩んでいるはずなのに、主の導きに従い、主に身を委ねるのではなくて、自分の工夫や知恵によって道を切り開こうとすることであり、さらには、居心地の良さを求めて人の好意や親切に甘えていくことです。そういう思いを主イエスは戒めておられるのです。主の召しと派遣とを見つめ、派遣して下さった主にのみ信頼することをやめてしまうならば、このように自分の居心地の良さを求めて右往左往するようなことが、伝道者にも起っていくのです。

あなたは何により頼んで生きているのか
 このようにここには、主イエスによって派遣されて伝道者として歩む者たちがわきまえておくべき大事な事柄が語られています。ここに教えられているのは、どうすれば伝道ができるかというテクニックやノウハウではありません。むしろ大切な問いかけが与えられているのです。その問いかけとは、「あなたがたは何により頼んで生きているのか」ということです。自分の力、財産、能力、知恵により頼んでいるのか、それとも主イエスによる召しと派遣とを見つめ、派遣して下さった主イエスに信頼して生きているのか、そのことが問われているのです。これこそ、伝道者として生きる者に主イエスが与えておられる最も大事な問いかけです。そしてそれは根本的には、伝道者のみでなく、主イエスを信じる信仰者全てに与えられている問いかけです。洗礼を受け、信仰をもって生きるとは、主イエスから、「あなたは何により頼んで生きているのか」と常に問われつつ生きることなのです。

主イエスの復活を信じることによって
 主イエスが私たちにこのように問いかけられるのは、勿論私たちが「私は自分を信仰へと召し、導いて下さり、それぞれの場へと派遣して下さった主イエスによる召しと派遣を見つめ、主イエスにこそ信頼して生きています」と答えることを主が期待しておられるということです。主イエスの問いかけにそのように答えることこそが、信仰者として、主イエスの弟子として生きることなのです。しかし私たちが主イエスのご期待に応えて、主イエスによる召しと派遣とを見つめ、派遣して下さった主イエスにこそ信頼して生きる者となることは、復活して今も生きておられ、まことの神としての権威と力を持っておられる主イエスが、自分を召して下さり、派遣して下さっていることを信じることによってこそできるのです。主イエスが復活して今も生きておられるのでなければ、自分を召し、派遣して下さっている主イエスにこそ信頼して従っていくなどということはとうていできないでしょう。主イエスをその目で見ていた弟子たちですら、復活なさった主イエスによって派遣されて初めて、全世界へと伝道に出て行くことができたのです。まして私たちは、復活して永遠の命を生きておられる主イエスによって召され、派遣されるのでなければ、主イエスをこそ信頼して生きていくことはできないのです。

主イエスは生きておられる
 主イエス・キリストが復活して今も生きておられるからこそ、私たちは、主イエスにおいて成し遂げられた救いを信じることができます。私たちが生きているこの世の現実には、苦しみや悲しみが満ちています。私たち自身の罪と、隣人の罪がその苦しみや悲しみをもたらしています。また肉体をもってこの世を生きる私たちの歩みは、病や老い、そして最終的には死の力によって常に脅かされています。それらのことによって苦しみ、悲しみ、恐れを覚えずにおれないのが私たちの現実なのです。その私たちの救いのために、神様の独り子である主イエス・キリストがこの世に来て下さいました。そして主イエスは私たちの全ての罪と、苦しみ悲しみの全てを背負って十字架にかかって死んで下さいました。主イエスは十字架にかかって私たちの苦しみや悲しみを共に背負って下さり、ご自分の死によって私たちの罪を償い、赦しを与えて下さったのです。聖書は神様によってそういう救いが実現したことを語っています。しかしもしもそれだけだったならば、それははっきり言って過去の話です。かれこれ二千年の昔にこういう救いの出来事がありました、それは私たちにとってこういう意味を持っています、という説明を聞くだけのことです。それは有り難い話だけど、本当だろうか、本当にその救いがこの自分に与えられているのだろうか、半信半疑だ、というのが正直なところではないでしょうか。しかし神様の救いのみ業は主イエスの十字架の死で終わりではありませんでした。父なる神様は主イエスを復活させて下さったのです。神様はこのことによって、主イエスの十字架の死が、確かに私たちの罪の赦しのための死であり、この死によって救いが成し遂げられたのだということを明らかに示して下さったのです。また、主イエスをも捕えた死の力を打ち破り、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったことによって、私たちにも、同じ復活と永遠の命を与えることを約束して下さったのです。主イエスの復活によってこそこれらの救いが与えられています。しかしこれらのことにも増して大事なのは、復活なさった主イエスが今も生きておられる方として私たちと出会って下さり、語りかけて下さり、そして私たちを召して、伝道へと派遣して下さるということです。主イエスの復活によってこそ、主イエスによる召しや派遣は、私たちが自分の心の中で考えた思想や、本を読んで学んで理解する知識ではなくて、私たちが聖霊の導きの中で今実際に体験する現実となるのです。長尾先生ご夫妻を山口教会へと派遣し、その歩みを支え導いて下さるのは、復活して今も生きておられる主イエス・キリストなのです。

権威ある言葉
 今も生きておられる復活の主によって派遣された者の語る言葉には権威が伴います。本日の箇所の11節には「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」とあります。「足の裏の埃を払い落とす」とは、「もうあなたがたとは何の関係もない」ということを示すしぐさであり、「あなたがたが私たちの言葉を受け入れずに滅びてもそれはあなたがた自身の責任だ」ということです。主イエスによって派遣される弟子たちは、そういう権威ある言葉を語ることができるのです。先ほど共に読まれた旧約聖書の箇所、エゼキエル書第2章に語られていることもそれと通じます。神様が派遣した預言者は、人々が聞き入れようと拒もうと、与えられたみ言葉を語らなければならない、反逆する人々によって迫害されても、恐れたじろいではならないのです。人々がみ言葉を拒み、聞き入れないなら、その責任はその人々にこそあるのです。主に派遣された預言者、伝道者の言葉にはこのように神の言葉としての権威が与えられるのです。しかしその権威は、語る伝道者が、復活の主による召しと派遣とを見つめ、派遣して下さった主イエスにこそ信頼して歩むことによってこそ与えられるものでしょう。自分の力により頼み、自分の能力で何かをしようとしている者がこのような権威をふりかざしたならば、それは鼻持ちならない傲慢な言葉となり、人が人を支配しようとする言葉となり、誰もその言葉に聞き従うことはないでしょう。しかし、復活の主が自分を派遣して下さったことを見つめ、今も生きて語りかけ、導いて下さっている主に信頼して語るなら、弱く貧しくつたない言葉であっても、神の言葉としての権威がそこには与えられていくのです。12節には「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」とあります。復活の主の派遣によってみ言葉が語られていく時、そこには悔い改めが生じます。神様に背き逆らっている罪人が、神様の方に向き直り、主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みを信じて、神様に従って生きる者へと方向転換するという奇跡が、伝道者の語る言葉によって起っていくのです。13節には「そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」ともあります。苦しみや悲しみや恐れに捕えられている人々が、主イエスの十字架と復活による神様の救いの恵みによって癒され、慰められ、力づけられ、励まされるということが、伝道者の語る言葉によって起っていくのです。それは驚くべきことであり、伝道者自身が畏れおののかずにはおれないようなことです。自分のような罪深く弱く貧しい者の語る言葉によってそのような恵みの奇跡が起こるとはどういうことだろうかと思うのです。しかしそれは、復活して今も生きておられる主イエスが、聖霊の働きによって確かに共にいて下さり、み業を行って下さっているということなのです。

天に召された兄弟を覚えて
 今日のこのイースターの礼拝において、一人の兄弟が洗礼を受け、群れに加えられます。復活の主が聖霊の働きによってこの兄弟と出会って下さり、主イエスの十字架と復活による救いを信じる信仰を与えて下さった、その恵みのみ業を今日も私たちは見ることができるのです。また私たちはこの礼拝を、先週の木曜日に天に召された教会員Kさんを覚えつつ守っています。兄弟は知的な障碍を負っておられましたが、教会員であった廣井惇子(あつこ)さんが園長をしておられたくるみ会の「やすらぎの園」に入園したことによってこの教会の礼拝に集うようになり、2003年のクリスマスに洗礼を受けました。丁度そのころから「白寿荘」という老人施設に入所し、平穏な日々を送って来られました。週日聖餐礼拝の常連として、教会に来ることを楽しみにしておられました。79年間のその生涯には、私たちの知らない多くの苦しみ悲しみがあったと思いますが、復活の主がKさんを召し出して下さり、廣井さんとの出会いを通して恵みの内に導き入れ、その晩年の歩みに平安を与えて下さったのです。ご家族が引き取って葬儀をなさいますので、教会においてお別れをすることはできませんが、しかし私たちは、復活の主が既にKさんをみ手の内に迎えてねぎらいと安らぎを与えて下さっており、そして世の終りに、地上の歩みにおいて背負っていた全ての苦しみ悲しみ、そして障碍からも解き放たれ、永遠の命を生きる者とされたKさんと再会することができると信じています。その希望を与えて下さっているのも、復活して今生きて私たちを召し、派遣して下さる主イエス・キリストなのです。
 その復活の主イエス・キリストが、長尾大輔さんとハンナ先生ご夫妻を召し、山口教会へと派遣しようとしておられます。お二人が、主の召しと派遣とを見つめ、派遣して下さった主イエス・キリストにこそ信頼して歩まれますように。復活の主がいつもお二人と共にいて下さり、聖霊によって支え導き、お二人を通して恵みのみ業を行なって下さいますように。

関連記事

TOP