主日礼拝

神の選び

「神の選び」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記 第21章1-21節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第9章6-18節
・ 讃美歌:12、120、392

パウロの悲しみ
 ローマの信徒への手紙の第9章を読み進めています。毎回申しておりますが、この手紙は9章から11章が第二の部分です。その主題は、この手紙を書いているパウロの同胞であるユダヤ人たちの救い、ということです。ユダヤ人は、最初の先祖アブラハム以来、神に選ばれ神の民とされた人々でした。ところがその神の民であるはずのユダヤ人たちの大部分の者が今、神が遣わして下さった独り子であり救い主である主イエス・キリストを受け入れず、主イエスをキリストつまり救い主と信じる人々の群れである教会を迫害しているのです。ということは、彼らは神の救いから落ちてしまっているということです。神が独り子主イエスを救い主として遣わして下さったというのは、他にもいくつかある救いの道の一つとして、ということではありません。他の道を通っても救いに至ることができるくらいなら、神の独り子が人間になり、まして十字架にかかって死ぬ必要はなかったのです。罪人である私たち人間の救いは、神の子キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによってしか実現され得ないから、神は独り子主イエスをこの世に人間として遣わして下さったのです。その主イエス・キリストを拒み敵対することは、救いからの脱落に他なりません。ユダヤ人たちがそうなってしまっていることが、パウロにとって深い悲しみであり、絶え間ない痛みだったのです。

神の選びによる救い
 それは、先週も申しましたように、単に同胞への愛、同胞も救いにあずかってほしい、という願いのみから来ていることではありません。このことによって、パウロが宣べ伝えており、私たちが信じている、主イエス・キリストによる救いという福音の根本が脅かされ、危機に瀕しているのです。何故ならば、先週も申しましたように、主イエス・キリストによる救いとは、私たちの善い行いによって得られるものではなくて、ただ神の恵みのみによって与えられるものだからです。私たちの側が条件を整えることによってではなく、神の恵みのみによって救いが与えられる、それは言い換えれば、救いは神の選びによって与えられるということです。私たちが救われるに相応しい者になったからではなくて、神が救いへと選んで下さったことによって私たちは救われるのです。ですから、イエス・キリストによる救いを信じるというのは、神が自分を選んで、キリストによる救いを与えて下さったことを信じることです。私たちの救いは、私たちがキリストを信じたことの見返りとして与えられるのではなくて、ただ神の選びの恵みによって私たちはキリストを信じることができ、救いにあずかることができるのです。

救いの確かさはどこにあるのか
 そしてそうであるなら、神に選ばれ、神の民とされているはずのユダヤ人たちが、キリストを受け入れず、神が与えて下さっている救いを受け入れず、そこから落ちてしまっていることは大問題です。神が彼らを選んで下さったのに、その選びが彼らにおいて救いの実りを生んでいないとすれば、神に選ばれても救われないことがある、ということになるからです。もしそうなら、神に選ばれて信仰を与えられている私たちの救いも不確かなものとなります。今選ばれていても、この先どうなるか分からない、私たちが信仰において挫折すれば、選びは無効になってしまう。そうであるなら、結局救いは私たちの側の信仰という条件によることになります。その救いは、まことにあやふやな、心もとないものだと言わざるを得ません。私たちの側の信仰、神を信じる思い、神に感謝する思いは、常にふらふらしています。私たちは、何か嫌なことがあっただけで、例えば少し体調が悪くなっただけで、信じる気持ちを失い、救いなどどこにあるのか、と思ったりするのです。私たちの側の信仰によって救いの確かさが決まるとしたら、その救いは全く不確かなものです。つまりパウロがこの9-11章で、選ばれた民であるユダヤ人の救いの問題を取り上げているのは、私たちの救いの確かさはどこにあるのか、ということを確認するためなのです。救いは人間の側がちゃんと信じているかどうかによるとするなら、信じていないユダヤ人が救われないのは、残念ではあるが仕方のないことです。しかしそうなると、今申しましたように私たちの救いはまことに不確かなものとなります。そうではなくて、救いは神の選びの恵みによるのだ、だから私たちの側の状態によらずに確かなものなのだ、ということをパウロは信じているのです。その信仰においては、選ばれた民であるユダヤ人が救いにあずかっていない現状をどう理解したらよいのか、という問題が生じて来るのです。

神の言葉は効力を失わない
 パウロが9-11章で格闘しているのはそういう問題なのですが、そこにおいて彼が根本的に確信し、前提としていることを語っているのが6節の前半の言葉です。「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」。パウロはこのことを確信しているのです。この「神の言葉」とは、ユダヤ人に対する選びの言葉、彼らに祝福を与えるという約束の言葉です。神がイスラエルの民に与えた選びの恵み、約束は、大部分のユダヤ人たちがキリストを受け入れず敵対しているという現状においても、決して無効になったわけではない、つまり神の選びが失敗に終わったとか、人間の背きによってそれが効力を失ったなどということはない、とパウロは言っているのです。9-11章において彼が語っていることは結局この一言に尽きる、と言っても過言ではありません。つまり、選ばれた民であるユダヤ人たちがどんなに反抗し、選びを無にするようなことをしていても、それによって神の選びのみ言葉、祝福の約束が無効になってしまうことはない、神のみ言葉は決して効力を失わず、確かなものとして立ち続けるのだ、ということです。それを言い換えれば、救いはあくまでも神の側の選びの恵みによるのであって、人間の側の信仰という条件によるのではない、ということになります。ユダヤ人たちの現状は、神の選びが無になってしまったように見えるけれども、しかし神の言葉は決して効力を失うことはない、選びの恵みはなお確かにあり、それは無になることはないのだ、そのことを色々な角度から明らかにしようとしているのが9-11章なのです。

皆が選ばれているのではない?
 神の言葉は決して効力を失ったわけではない、そのことを明らかにするためにパウロが先ず語っていることが6節の後半から7節にかけてです。「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない」とあります。パウロはここで、アブラハムの子孫という血筋におけるユダヤ人が皆イスラエル人、つまり選ばれた神の民なのではない、ということを語っています。それによって彼は何を示そうとしているのでしょうか。血筋によるユダヤ人が全て選ばれた民なのではなく、本当の意味で神に選ばれているのはその中の限られた人々なのだ、ということでしょうか。だとすると、今主イエス・キリストを受け入れずに敵対しているユダヤ人たちは皆、本当には選ばれていない、主イエスを信じ受け入れている者たちだけが真のイスラエル、本当に選ばれた民なのだ、ということになります。しかしそのように読んでしまうと、パウロのここでの心の痛みや切なる願いが無意味なことになってしまいます。パウロは、同胞であるユダヤ人たちが皆、本来神に選ばれた民であるはずなのに、救い主イエス・キリストを受け入れていないことに深い悲しみと嘆きを覚えているのです。そして3節にあったように、彼らが救われるためなら、自分はキリストから離され、神から見捨てられてもよい、とさえ言っているのです。ですからパウロは、今キリストを受け入れていないユダヤ人たちは本当には選ばれていなかったのだから、救われなくて当然だ、などとは思っていないのです。それでは、「イスラエルから出た者が皆イスラエル人ということにはならない」という彼の言葉は何を意味しているのでしょうか。

神の選びは特権ではない
 彼がこのように語っている背景には、ユダヤ人たちが、自分たちはイスラエルの民、神に選ばれた民であるということを、先祖代々の血のつながりによって与えられている権利のように思っている、ということがあります。彼らは、神に選ばれた民であることを、神の大いなる恵みとしてよりも、自分たちの特権のように受け止めており、それによって自分たちが他の民よりも優れているように思っているのです。彼らが主イエス・キリストによる救いを受け入れないのも、この特権意識、誇りによることです。彼らは、自分たちが、イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦していただかなければ救われない罪人であるということを受け入れないのです。そのような教えは、選ばれた神の民であるイスラエルの誇りを傷つけるものであり、我慢がならないのです。そのように、神に選ばれた民であることを、自分たちの特権のように思っているユダヤ人たちに対してパウロは、神の選びをそのように人間の特権のように思うことは大きな間違いだ、ということを示すために、イスラエルから出た者が皆選ばれた神の民であるわけではない、ということを語っているのです。そしてパウロはこのことを、旧約聖書における、ユダヤ人たちの祖先の例をあげて証明して見せるのです。血の繋がりにおいては同じ条件の下にあった二人の内、一人だけが神の祝福を担う者として選ばれ、他の一人は選ばれなかった、という例です。そういう霊が二つあげられています。最初は、アブラハムの息子イサクと、ここには名前が出て来ませんが、アブラハムのもう一人の息子イシュマエルのことです。第二の例は、イサクの二人の息子たち、ヤコブとエサウのことです。

イサクとイシュマエル
 第一のイサクとイシュマエルの話は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第21章に語られています。アブラハムとサラの夫婦には、長い間子供が与えられませんでした。自分はもう子供を生むことはできないと思ったサラは、自分の女奴隷であるハガルを、アブラハムの二人目の妻として、彼女によって子供を得ようとしたのです。そのようにしてアブラハムとハガルの間に生まれたのがイシュマエルでした。しかしその後、神はサラに息子イサクを授けて下さいました。自分の子供が生まれると、サラにとってハガルとその子イシュマエルは邪魔な存在となり、二人を追い出そうとします。アブラハムは二人の女と二人の息子たちの間で板挟みになって苦しんだのですが、そのアブラハムに神がお告げになったのが、本日の7節の「イサクから生まれた者が、あなたの子孫と呼ばれる」というみ言葉です。それは創世記21章12節の「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」の引用です。つまり同じアブラハムの息子たちであっても、神の民としての祝福は、イシュマエルによってではなく、イサクによって伝えられていくのです。そこに神の選びがあります。そのことが8、9節にこのように言い表されています。「すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。約束の言葉は、『来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる』というものでした」。神の約束の言葉に基づいて、つまり神に選ばれて生まれたのは、イシュマエルではなくてイサクだったのです。そのように、神の選びは、血筋によって権利として継承されるのではなくて、み言葉によって示される神の選びのみ心によって与えられるのです。

ヤコブとエサウ
 第二の、ヤコブとエサウの例はそのことをもっとはっきりと示しています。イサクとイシュマエルは、父は同じでも母が違います。正妻の子と奴隷の子という違いが彼らの間にはあります。しかしヤコブとエサウにはそういう違いは全くありません。彼らは双子でした。10節に「リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合」とあるのは、彼らが血筋においては全く同じ条件の下に生まれたことを強調しているのです。ところが全く同じ条件の下に生まれた双子の兄弟なのに「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました」とあります。神は二人が生まれる前から、弟ヤコブを選び、兄エサウは選ばれていなかったのです。それはエサウが何か神のみ心に適わないことをしたからとか、ヤコブがエサウより信心深い立派な人だったからではありません。それをはっきりさせるために「まだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに」と語られているのです。つまりこの選びは、人間の側の何等の条件によるものでもありません。12節後半にあるように「自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるため」だったのです。神はご自分の自由によって、ある者を選び、ある者を選ばないことがおできになる、そういう神の選びによって神のご計画が進められていく、ということをヤコブとエサウの例は示しているのです。

神の憐れみによる救い
 これらのことから、後にいわゆる「選びと予定」の教えが生まれました。神はその自由な選びのみ心によって、ある者を救いへ、ある者を滅びへと予め予定しておられる、という教えです。これは大変つまずきの多い教えです。神は気に入ったものを救いへ、気に入らない者は滅びへと定めてしまう、そんな身勝手な暴君のような存在なのか、という疑問が起るのです。そのことは次の13節の「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という、これは旧約聖書マラキ書1章2節から3節にかけての引用ですが、このみ言葉とも結びついて、理由なく人を愛したり憎んだりする気紛れで恣意的な神という印象をも与えています。しかしパウロはここで、神は自由なんだから、何をしても、誰を愛し誰を憎んでも人間が文句を言うことはできない、ということを言おうとしているのではありません。そのように受け取られかねないことをパウロも意識して、14節で「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない」と言っているのです。パウロがここで見つめ、語ろうとしていることの中心は15、16節です。「神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」。パウロが神の選びを語る時にそこで見つめているのは、「神の憐れみ、慈しみ」なのです。注意深く読まなければならないのは15節の、これは出エジプト記33章19節の引用ですが、この文章は「わたしは自分の憐れもうと思う者を憐れみ、見捨てようと思う者を見捨てる」ではないということです。見つめられているのは、憐れみと慈しみです。つまりパウロは、先程私が後に生まれた教えと申しました、いわゆる「二重予定」、つまり神がある者を救いへ、ある者を滅びへと予定しておられる、ということを語っているのではなくて、私たちの救いは、神の選びによることであり、それは神の私たちへの憐れみ、慈しみのみ心によることだ、ということを語っているのです。「自由な選びによる神の計画」というのは、この憐れみと慈しみのご計画です。理由なく人を愛したり憎んだりする気紛れで恣意的な、計画とは言えないような計画とは全く違うのです。神は本当に自由な方です。誰も神を強制して何かをさせることはできません。拝み倒して何かをしてもらうということもできません。神は、全く自由なご自分の思いによってのみ行動されるのです。けれども神はその自由を、私たちを憐れみ、慈しむために発揮して下さり、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架の死にまで至らせて下さったのです。私たちは、神のこの自由な憐れみ、慈しみのみ心によって救われるのです。私たちの側に、救いを受けるに相応しい何かがあるわけではありません。私たちの側の条件を見つめるならば、この手紙の最初の方、1章18節から3章20節までに語られていたように、全ての人間は罪人であり、神の怒りによって滅ぼされるしかないのです。ですから、神が誰かをことさらに滅びに予定しておられるのではありません。私たちは誰もが、そのままでは自分の罪によって滅びるしかない者なのです。そのような人間たちの中から神は私たちを、自由な恵みによって選んで下さり、主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずからせて下さった、それが神の選びです。神に選ばれるというのは、神が私たちには到底相応しくない、あり得ないような憐れみと慈しみを与えて下さるということなのだ、とパウロは語っているのです。そのことを忘れてしまって、選びを自分の特権のように、血筋によって継承されてくる財産のように思ってしまったらそれは大きな間違いです。パウロはそのことを語るために、「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない」と言っているのです。

神の選びは喜びと感謝を生む
 このことから分かるように、神の選びを信じる信仰とは、決して、自分が何か特権を得たかのように誇ったり、他の人に対して高ぶったりするようなことを生むものではありません。むしろ私たちは、自分の選びにおいて、神の自由な憐れみと慈しみの恵みを見つめるのです。その選びが、私たちの側の何らかの条件によるものではないことを常に覚えて、ただただ選んで下さった神に感謝するのです。アブラハムとサラがイサクを与えられた時もそうでした。神は「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」と約束して下さいました。しかし既に年老いていたアブラハムもサラも、その言葉を信じることができずに、この年になってそんなことがあるはずはないと思って、笑った、と創世記18章は語っています。神の祝福を告げる約束の言葉は、この世の目に見える現実の中で生きている人間の常識においては、何をバカなことを、と笑うしかないようなものなのです。しかし神は、神の約束のみ言葉を疑い、笑ってしまう人間の不信仰にもかかわらず、自由な憐れみ、慈しみによって、イサクを与えて下さいました。イサクという名は、創世記21章6節にあるように「笑い」という意味です。「神はわたしに笑いをお与えになった」とサラは歌っています。この笑いは、喜びに満ちた、神の祝福に感謝する笑いです。神の自由な選びの恵みが、「何をバカなことを」という人間の不信仰な笑いを、喜びと感謝に満ちた笑いへと変えて下さったのです。神の選びは、このように人間の不信仰の現実を貫いて実現し、信仰の喜びと感謝を生み出して下さるのです。
 ヤコブの生涯においてもそれと同じことが言えます。彼は生まれる前から神に選ばれていました。しかし彼の歩みは、むしろ自分の知恵と才覚で兄エサウから長子としての特権を奪い取り、そのために兄に憎まれ、故郷を追われて逃亡の生活を送らなければならないというものでした。しかしそのような彼の罪と苦しみの中でも、神は彼をしっかり捕えて離さなかったのです。イスラエルという名はこのヤコブが神から与えられたものです。彼もまた、自分の罪や醜さにもかかわらず、神が自由な恵みによって選び、憐れみと慈しみを与えて下さったことをその人生において体験し、喜びと感謝に生きたのです。

神の自由な憐れみ、慈しみによる選びを信じる
 神の選びとはこのようなものです。選ばれた者の歩みは、エスカレーターに乗って何の問題もなく上昇していくようなものではありません。選ばれた者にも、その選びが見えなくなることがあります。神のみ心を見失い、罪に陥ることがあります。しかしそのような人間の罪によって、神の選びの恵みは、その約束のみ言葉は決して効力を失ってしまうことはないのです。人間の不信仰や罪の中でも、神は救いのみ業を前進させて下さるのです。私たちには、この神の自由な憐れみ、慈しみによる選びが、独り子イエス・キリストを信じる信仰において与えられています。私たちは、キリストを信じる信仰という条件を満たすことによって救われるのではなくて、神の自由な選びによってキリストによる救いを信じる信仰を与えられているのです。神のこのような選びの恵みが与えられていることを信じることが、私たちの信仰なのです。

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