主日礼拝

神の国の秘密

「神の国の秘密」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第6章1―10節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第4章1―20節  
・ 讃美歌:276、205、506、74

たとえ話を語る意味
主の2013年最初の主の日を迎えました。本日の礼拝においても、先週と同じく、マルコによる福音書第4章1~20節をご一緒に読みたいと思います。この箇所を読むことによって昨年の歩みを終わり、また同じこの箇所を読むことによって新しい年の歩みを始めるのです。そのことの意味をも後でご一緒に考えたいと思います。さて、マルコによる福音書第4章の1節から34節までは、「たとえ話集」と呼ぶことができる箇所です。最初の1?20節には「種を蒔く人のたとえ」が語られています。この箇所は三つの部分から成っており、小見出しもそのようにつけられています。9節までは「種を蒔く人のたとえ」そのものです。10?12節には、人々の問いに答えて、たとえ話を語ることの理由、意味について主イエスが語られたお言葉です。そして13節以下は、「種を蒔く人のたとえ」についての主イエスご自身の説明です。先週は、このたとえ話の意味と、それが私たちに語りかけていることについてご一緒に考えました。本日は、主に第二の部分について、つまりたとえを用いて語ることの理由が語られている部分について考えていきたいと思います。主イエスは多くのたとえ話を語られましたが、それは何のためだったのでしょうか。普通私たちは、たとえ話は難しいことを分かりやすくするために語られるものだと思います。しかし、主イエスのたとえ話はそういうものではないということを先週もお話ししました。その時に読んだのが、11、12節のお言葉です。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」。つまり、たとえで語ることによって、それを聞いた人がよく分かって納得するということが必ずしも起るわけではなくて、「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず」ということも起るのです。たとえ話はわかりやすく説明するために語られたわけではないのです。

神の国を描き出す
そもそも主イエスはたとえ話によって何を語られたのでしょうか。今読んだ11節に「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが」とありました。たとえ話によって主イエスは、「神の国の秘密」を語られたのです。「神の国」、それはどこかにある「おとぎの国」のようなものではなくて、神様のご支配ということです。神様のご支配が確立すること、それが神の国なのです。主イエスはその神の国の到来を宣言なさいました。それが1章15節の、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というお言葉です。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国、神のご支配が決定的に近づいている、実現しようとしている、と語られたのです。たとえ話はこの神の国を描き出そうとしています。それゆえに、それは分かりやすい説明の話にはなり得ないのです。神の国、神様のご支配は、分かりやすく説明することによって納得するようなものではないからです。神の国がもしも「おとぎの国」ならば、あるいは「死後の世界としての天国」のことならば、それはどんな所で、そこへ行くためにはどうすればよいか、という説明が必要でしょう。しかし神の国は神様のご支配です。それは説明を聞いて納得するかどうかではなくて、神様のご支配を認めて従うか、それとも認めずに反抗するか、そのどちらかなのです。説明を聞いて納得できたら受け入れてやるというのは、神様のご支配に従う姿勢ではありません。そこでは、主人として支配しているのは自分です。自分が主人となって受け入れるかどうかを決めようとしているのです。それは神の国に対する正しい姿勢ではありません。神の国は、あるいはそれを信ずる信仰はと言ってもよいですが、説明によって納得するというものでは根本的にないのです。勿論神様のご支配にも筋道があり、論理があります。「イワシの頭も信心から」とは違うのです。ですから説明や解説がなされるし、それも必要なことです。しかし神の国は根本的には、受け入れるか否か、従うか否か、なのであって、説明を聞いて納得できたらお買い上げ、のような世界ではないのです。それゆえに、神の国を描き出そうとしている主イエスのたとえ話も、分かりやすい説明のための話ではなくて、むしろ私たちに、神のご支配に服して生きる信仰の決断を迫っているのです。たとえ話を聞いて、主イエスによって実現している神の国を信じ、神様のご支配に服する時に、そのたとえ話が本当に「分かった」と言えるのです。しかしそのご支配を信じることも受け入れることもないなら、そのたとえ話は分からないのです。そこでは「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず」ということが起っているのです。

秘密、ミステリー、謎
神の国の「秘密」と言われていることの意味がそこにあります。「秘密」と訳されている言葉の原語は「ミュステーリオン」です。英語の「ミステリー」の元となった言葉です。つまり「神の国のミステリー」を主イエスは語っておられるのです。ミステリーとは、明らかでないこと、隠された謎です。神の国、神様のご支配も、隠されており、明らかではないのです。それが隠されているからこそ、信仰が必要なのです。信仰というのは、今は隠されていて誰の目にも明らかではない事柄を信じることです。明らかになっていることならば、信じる必要はありません。隠されていて、誰の目にも明らかではない神の国、神様のご支配を事実として信じる、それが信仰です。主イエスの「神の国は近づいた」の「近づいた」というお言葉も、それがまだ来ていない、目に見える仕方で実現してはいない、しかし今や決定的に接近している、実現しようとしている、それを信じなさいということを語っています。神の国はまだ実現していない、しかしそれが必ず実現すると信じて待ち望みつつ生きる、それが神の国を信じることであり、それゆえに神の国は「秘密、ミステリー」なのです。たとえ話も、この隠されている神の国を描き出そうとしているがゆえに、基本的にミステリー、謎としての性格を持っているのです。分かりやすい説明ではなくて、今は隠されている神の国をチラリとかいま見させてくれる、しかし神の国はあいかわらず隠されたもの、謎であり続ける、そういう働きをするのです。そもそも、「たとえ」という言葉も、むしろ「謎」という意味なのではないかという議論が学者たちの間にあります。そうなると11節は「あなたがたには、神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてが謎で示される」ということになります。先週も申しましたように、主イエスはたとえ話によって私たちに「謎かけ」をしておられるのです。謎かけは、その秘密を打ち明けられている者には分かりますが、そうでないとまさに謎のままであり、分からないのです。

「あなたがた」と「外の人々」
そのことを語っているのが11節の「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」というお言葉です。「あなたがた」と「外の人々」とが対比されています。「あなたがた」には、神の国の秘密が打ち明けられている、直訳すれば「与えられている」のに対して、「外の人々」には、謎としてのたとえしか与えられていないのです。その「あなたがた」とは、10節にある「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」のことです。「外の人々」とは、1節にある、「おびただしい群衆」です。その人々は、主イエスの周りに集まって来て、種蒔きのたとえ話を聞きました。そして多くの人々は、それだけで帰って行ったのです。その人々は、主イエスのたとえ話を聞いて、それを自分なりに理解し納得して、あるいは「どうもよく分からない」と思いながら帰って行ったのです。しかしその後に、なお主イエスのもとに留まり続けた人々がいたのです。彼らの中心にいるのは「十二人」、つまり主イエスが選び、ご自分の側に置いておられた弟子たちです。その周囲に、彼らと一緒にイエスの周りにいた人たちがいます。この人々には、「神の国の秘密」が示された。しかし主イエスのもとを去って行った人々には、謎であるたとえ話が与えられただけだったのです。

主イエスのもとに留まり続けることによって
ここには、神の国を信じる信仰がどのようにして与えられるのかが示されています。その信仰は、神の国を描き出そうとしているみ言葉を聞くことから始まります。ここで言えば、たとえ話を聞くことから始まるのです。しかし、それを聞いて、自分なりに理解し、納得しようとして「分かる」「分からない」と言っている間は、そのみ言葉は謎でしかありません。神の国の秘密が打ち明けられ、その謎が解かれるのは、み言葉を聞いてその後もなお主イエスのもとに留まり、主イエスと共に歩むことの中でなのです。なぜならば、神の国は論理や思想ではなくて、主イエス・キリストのもとでこそ実現している「出来事」だからです。その出来事の中に身を置き、体験していくことの中でこそ、神の国の秘密が分かるようになっていくのです。ですから、神の国の秘密を知るために必要なのは、理解力や感受性を磨くことではないし、難しい本を読んで勉強することでも、あるいは優れた、分かりやすい説明を聞くことでもないのです。神の国、神様のご支配のもとに身を置き、そこに留まること、具体的には、「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」のように、主イエス・キリストのもとに留まり続けることが必要なのです。その人たちに主イエスは、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが」とおっしゃいました。それに対して「外の人々には、すべてがたとえで示される」。外の人々とは、たとえ話は聞いたけれどもそれだけで帰ってしまった人たちです。「今日はいい話を聞いた」と思って帰ったのかもしれません。あるいは「今日の話はよく分からなかった」と思ったのかもしれません。いずれにしても、自分でそれを判断し、評価して、いいとか悪いとか言っているのです。そういう人々にとっては、神の国、神様のご支配はいつまでも謎のままであり、「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず」ということになるのです。

主イエスのまことの家族
このことによって、3章と4章とのつながりが見えてきます。3章の終わりには、主イエスの母と兄弟たちが来て、外に立って主イエスを呼ばせたことが語られていました。しかし主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」とおっしゃり、ご自分の周りに座っている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃったのです。ここには、本日の箇所と同じく、主イエスの周りにいる人々と、外に立っている人々との対比があります。主イエスの周りにいる人々は、主イエスの足もとに座ってみ言葉に耳を傾けているのです。その人々こそ主イエスのまことの家族であり、彼らには神の国の秘密が打ち明けられる、しかし外の人々、外に立って自分の思いで主イエスのことを判断し、いいとか悪いとか言っている人々には、神の国の秘密が分からず、いつまでも謎のままなのです。主イエスの肉親であっても、そのような外の人々になってしまうことがあるのです。このことを受けて第4章は、主イエスの周りにいる「あなたがた」と「外の人々」の違いが、たとえ話を聞くことにおいてさらに明らかになることを語っているのです。

「種を蒔く人のたとえ」の説明
主イエスが、ご自分の周りに留まっている者たちに神の国の秘密が打ち明けて下さる、そのことが13節以下の「種を蒔く人のたとえ」の説明においてなされています。先週申しましたように、その秘密の中心は、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」という所にありました。神の言葉の種が蒔かれる、つまりみ言葉が語られ、聞かれるところに、三十倍、六十倍、百倍の実が結んでいく、そこに神の国が描き出されているのです。当時の農業の収穫率はせいぜい十倍だったようです。三十倍、六十倍、百倍は驚くべき収穫です。神の国、神様のご支配は、そのように人間の思いをはるかに越えた驚くべき豊かな実りとして実現するのだ、ということがここに示されています。神の言葉は、そのように素晴しい神の国の実りをもたらす種なのです。しかしその種は、道端に落ちて鳥に食べられてしまうことがあります。石だらけで土の少ない所に落ちて、芽が出ても育たずに枯れてしまうこともあります。茨の中に落ちたために、茨に塞がれて実を結ばないこともあります。それはこの世の現実、今私たちの目に見えていることです。つまり、神の国は隠されているのです。神様のご支配よりも、この世の様々な力、人間の罪の力の方が現実を支配しているように見えるのです。しかし、神の言葉の種は既に蒔かれている、神の国は近づいているのです。その種は、なすすべなくサタンに奪い去られてしまうように見えるし、艱難や迫害に負けて枯れてしまうようにも見える、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望に塞がれてしまうようにも見える。しかし、神の言葉の種は最終的には実を結ぶのです。その実りは、私たちの想像をはるかに越えた、素晴しく豊かなものなのです。その、神の国の完成、神様のご支配の確立を信じて、希望をもって歩むようにとこのたとえ話は教えているのです。

主イエスの十字架と復活によって
しかしその希望が本当に分かるようになるのは、主イエス・キリストのもとに留まり、そこに実現する神の国の出来事の中に身を置くことによってです。主イエス・キリストこそ、人となった神の言葉であり、神様が私たちのために地に蒔いて下さった一粒の種です。その一粒の種は、この世の現実に対して、私たちの罪や苦しみ悲しみに対して何の力もないように見えます。鳥に食べられてしまったり、芽を出してもすぐに枯れてしまったり、茨に塞がれてしまうということによって、この種の無力さが描かれているのです。その無力さの極みが、主イエスの十字架の死です。主イエスは罪人である人間の手によって殺されてしまったのです。しかしその十字架の死を通して、この一粒の種は豊かに実を結びました。主イエスの十字架の死と、それに続く復活によって、私たちの全ての罪が赦され、神の子とされて新しく生きる幸いが、そして私たちも世の終わりには死の支配から解放されて復活し、永遠の命を生きる者とされるという希望が確立したのです。神の国の完成を信じて希望をもって生きる信仰は、主イエス・キリストのもとに留まり、主イエスと共に歩み、そして主イエスの十字架と復活によって神様が与えて下さった救いの恵みを信じることによってこそ与えられるのです。

立ち帰って赦される
神の国、神様のご支配を信じて希望をもって生きるためには、主イエスのもとに留まり続けることが必要です。外の人々、つまり主イエスのもとに留まることをせず、主イエスの十字架と復活によって実現する神の国の現実の中に身を置こうとしない者は、み言葉を聞いても理解できずに、「立ち帰って赦されることがない」と12節にあります。それは裏を返せば、「あなたがた」つまり主イエスのもとに留まり、主イエスと共に歩む者は、「立ち帰って赦される」という恵みにあずかることができるのです。この「立ち帰って赦される」ことこそ、神の国、神様のご支配によって私たちに与えられる恵みです。先ほども申しましたように、神様のご支配は、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しにおいて実現しています。それによって、私たちが神様のみもとに立ち帰って赦される道が開かれているのです。神様は主イエスによってその道を開き、私たちがみもとに立ち帰ることを、つまり悔い改めることを待っておられ、そして悔い改めるならば、豊かな赦しを与えて下さるのです。「悔い改めて福音を信じなさい」とはそういうことです。

良い地へと変えられていく
私たちは、神様のもとから繰り返し迷い出て、罪に陥っていく者です。神様はそのことをよく知っておられます。その私たちにみ言葉を語りかけ、私たちをみもとへと呼び戻し、立ち帰らせ、赦しを与えようとしておられるのです。主イエス・キリストを信じて生きるとは、何の罪も犯さない者になることではありません。むしろ、神様の赦しを信じて、常に立ち帰り続けることです。悔い改め続けることです。そこに、神の国、神様の恵みのご支配が実現していくのです。種を蒔く人のたとえに即して言うならば、道端や石だらけで土の少ない所や茨の中であるような私たちが、神様のもとに立ち帰り続けることによって、次第に良い地へと変えられていくのです。良い地とは、「御言葉を聞いて受け入れる人たち」であると主イエスはおっしゃいました。み言葉を聞いて受け入れるとは、主イエスによる招きのみ言葉を聞いて神様のみもとに立ち帰ることです。そのことによって私たちは良い地とされ、神の言葉の種が三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことを体験することができるのです。

希望をもって新年を歩み出そう
先週、2012年の最後の主の日に、私たちはこの箇所を読みました。昨年一年の歩みを振り返る時に、主の豊かな恵みを感謝すると共に、犯してきた数々の罪をも思わずにはおれません。それらの罪を悔い改めて、主に立ち帰り、赦しをいただくことによって昨年を終えたのです。そして本日、主の2013年の最初の主の日に、私たちは先週と同じこのみ言葉を読み、本年の歩みを、主のみもとに立ち帰ることから始めるのです。神様はそこに、主イエス・キリストの十字架による赦しを約束して下さっています。そしてその赦しの約束を私たちに確信させるために、聖餐の食卓を整えて下さっているのです。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、主イエス・キリストが十字架の上で肉を裂き、血を流して私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった恵みを深く味わい、悔い改めて主に立ち帰りつつ、この新しい一年を歩み出すのです。本年の私たち一人一人の、また教会の歩みにおいて、主のみ言葉の種が、三十倍、六十倍、百害の実を実らせていくことを信じて、希望をもって歩み出したいと思います。

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