主日礼拝

種は神の言葉

「種は神の言葉」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第126編1―6節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第4章1―20節  
・ 讃美歌:255、158、457

たとえ話によって
 礼拝において、マルコによる福音書を読み進めており、本日から第4章に入ります。この第4章は34節まで、主イエスがお語りになったみ言葉が並べられています。そのみ言葉の中でも、この第4章にまとめられているのは、いくつかのたとえ話です。これらのたとえ話は一度に続けて語られたものではないでしょう。折にふれて語られたたとえ話が、マルコによってここに集められているのだと思います。主イエスはたくさんのたとえ話によって人々を教えていかれましたが、それは何のためだったのでしょうか。私たちは普通、たとえ話というのは、難しい抽象的なことを身近な、具体的な事柄を用いて分かりやすく説明するものだと思っています。人々がよりよく分かるためにたとえ話が語られたのだと思っているのです。確かに、たとえ話は、聞いている人々が実感できる、身近なことを用いて語られています。本日の箇所の「種を蒔く人のたとえ」もそうです。畑に種が蒔かれ、それが芽生え育っていって実を結び、それを収穫するという、当時の人々がみんな日常的に体験していることがとりあげられています。そういう意味でこのたとえ話は確かに分かりやすい話だと言えるかもしれません。しかし本日の箇所には、たとえ話が語られたのは必ずしも分かりやすくするためではないことが示されています。11、12節で主イエスご自身が、たとえ話を語るのは何のためであるかを語っておられます。そこにはこうあります。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」。この不思議なお言葉については、来週もう一度同じ箇所を読んで考えていきたいと思っていますが、本日確認しておきたいのは、たとえ話を語ることによって、聞いた人が皆よく分かって納得するということが起るわけではなくて、「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず」ということも起るのだと主イエスご自身が言っておられることです。つまり、主イエスがお語りになったたとえ話というのは、分かりやすく説明するための話ではなくて、言わば「謎かけ」のようなものなのです。

心を耕される
 そのことは9節のみ言葉からも分かります。たとえ話の最後に主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいました。これは、「聞く耳を開いて、耳の穴をかっぽじってよく聞きなさい」という意味に取ることもできますが、しかしそういうことは、たとえ話を語り始める前の3節における「よく聞きなさい」という言葉によって語られているわけです。この9節はむしろ、「私のかけたこの謎を解く耳を持ちなさい」という意味であると考えてよいのではないでしょうか。主イエスはたとえ話によって、聞く者に、また私たちに、謎をかけ、それをよく考えさせようとしておられるのです。主イエスのたとえ話を読む時に私たちはいろいろなことを考えさせられます。このたとえによって主イエスが言おうとしておられることは何なのだろうかと悩むのです。それこそがたとえ話の目的です。たとえ話によって何かがよりよく分かって納得すると言うよりも、いろいろ考えさせられ、心を揺さぶられ、かき回されるのです。たとえ話だけでなく、主イエスのみ言葉は全てそうです。み言葉を聞くことによって私たちは、何かが分かって、それで納得して落ち着くのではなくて、むしろ心を騒がせられるのです。それまで考えもしなかったことを考えさせられたり、当り前だと思っていたことに疑問を抱かせられていくのです。また全く新しいことを示されて目から鱗が落ちるような体験をするのです。それはたとえて言えば心を鋤で耕されるようなもののです。それによって心が柔らかになり、心の中の風通しがよくなるのです。そこにこそ、み言葉を聞くことの意味があり、またその醍醐味があります。そういうことが起こっていないとしたら、それはみ言葉を聞いてはいないのです。

私たちの現実
 さてそれでは、本日の箇所にある「種を蒔く人のたとえ」にはどのような謎が語られており、私たちはこのたとえ話によってどのように心を耕されるのでしょうか。先程申しましたようにここには、当時の人々にとって身近な、種を蒔き、それが芽を出して育っていき、実を結ぶ、という農耕の生活が取り上げられています。当時のこの地域の種蒔きは、種を蒔いた後で耕すというやり方だったとも言われています。そういう種蒔きの仕方だったがゆえに、蒔かれた種が道端に落ちて、鳥が来て食べてしまうこともよくありました。石だらけで土の少ない所に落ちることも、茨の中に落ちることもありました。そのような地に落ちた種は芽を出すことがないし、芽は出してもじきに枯れてしまい、実を結ぶには至らない、それは人々がいつも体験している身近な現実でした。そこには少しも謎はありません。そしてこのことは、農業を営んでいなくても、私たちの誰もが人生の中で体験していることだと言えるでしょう。いっしょうけんめい種を蒔いても、それが芽を出さなかったり、実らなかったりすることはよくあります。希望する学校に入るための受験勉強や、就職や資格を取るために努力して勉強するというのも、種を蒔くことに当ります。しかしその種が芽を出さなかったり、実を結ばない、願っていたような結果、成果が得られない、ということがあります。仕事の上で何かの目的のために努力していっても、成果が上がらずに失敗するということもあります。子供を育てることにおいてもそれが言えるでしょう。子育てはまさに、種を蒔き、水をやり、肥料をやり、いろいろと手をかけて、何年もかけてなす大事業です。しかしそのように手をかけても、自分が期待していたような実りが得られないということは多々あります。親が期待していた通りに子供が育つ、などということはまずないわけで、むしろそれが健全な姿なのだと思いますが、しかし親としては、「あの時もっとこうしていれば」と後悔することが多い、それが子育ての常なのでしょう。そのように、期待して努力しても願ったような実りが得られないということは、私たちの人生においていくらでもあるのです。それは謎でも何でもない、私たちがいつも体験している現実です。

驚くべき収穫の謎
 ですからこのたとえ話の7節までの所には謎はありません。謎は8節にあるのです。「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。当時の農業において、種を蒔いて得られる収穫の量は、良くて十倍だったようです。ですから、三十倍、六十倍、百倍の収穫というのは、当時の人々の体験からして驚くべき、奇跡的なことでした。これを聞いた時人々は目を丸くしたのではないでしょうか。いったいこの素晴しい収穫は何か、どうしてそんな収穫が得られるのか、そこに、この話の謎があるのです。それは私たちにとっても謎です。いっしょうけんめい種を蒔いても実らないことの多い私たちの現実において、三十倍、六十倍、百倍の実りが与えられるとはいったいどういうことか、その実りとは何であり、そのような実りを生む種とは何であり、その種を実らせる「良い土地」とは何なのか、そういう謎をこのたとえ話は私たちも与えているのです。この謎によって私たちは心を揺さぶられ、耕されるのです。

種は神の言葉
 13節以下で主イエスはこのたとえ話の解説をしておられます。つまり主イエスが自ら謎解きをして下さっているのです。その謎を解く鍵となるのが、14節の「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」という言葉です。三十倍、六十倍、百倍の実りを生むこの種とは、神の言葉なのです。神の言葉は、私たち人間の常識を越えた、驚くべき実りを生むのです。私たちが自分の力でどんなに努力しても実らせることのできないような素晴しい実りが、神の言葉によってもたらされるのです。このたとえ話は神の言葉の力を語っています。それが、このたとえ話の謎解きの第一歩です。

種が実らない土地
 種は神の言葉である。そうすると、その種が蒔かれるとは、神の言葉が語られ、聞かれることです。種が蒔かれる土地とは私たち人間なのです。神の言葉をどのように聞くかによって、いろいろな違いが起ってきます。その違いがいろいろな土地として描かれているわけです。神の言葉が道端に蒔かれるような場合がある。それは15節に説明されているように、「そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」ということです。神の言葉が心の中に全く入っていかずに失われてしまうことがあるのです。石だらけの所に蒔かれるとは、16、7節にあるように、「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」という場合です。土の薄い石地は、芽は出しやすいけれども、根を張ることが難しい。植物は表に現れている部分よりも地面の中に隠れている根の部分が大事です。根がしっかり張っていて全体を支え、また必要な水や養分を吸収していないと実は実らないように、信仰も、深い所でしっかり神様につながり、いつも神様からの養いと導きを受けていなければ続かない、艱難や迫害に耐えることができないのです。茨の中に蒔かれるとは、18、9節にあるように、「御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」ということです。神の言葉以外の「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」が心を覆ってしまい、神の言葉が育つ余地がなくなってしまうのです。この世の事柄だけに心が覆われてしまっていると信仰は育ちません。信仰は、自分の心を、生活を、時間を、意識的に神様に明け渡すことによってこそ育っていくのです。もっと心に余裕ができたら信仰のことを考えよう、と思っていると、そんな余裕はいつまでたっても訪れません。私たちの心の余裕にはすぐに茨が伸びてきて塞いでしまうのです。その茨を刈り取って、神の言葉が芽生え育つ場所を確保しなければ信仰は育たないのです。

良い土地
 み言葉の種が蒔かれても芽を出さなかったり、育たなかったり、実を結ばないというこれらのケースはそれぞれに、私たちが自分のこととして大いに思い当る現実です。自分は神の言葉をどのように聞いているか、神の言葉の種のどのような土地になっているか、と振り返って見るならば、道端も石だらけで土の少ない地も、茨の中も、それぞれ自分のことだと認めざるを得ないのです。それでは最後の「良い土地」とはどのような場合でしょうか。20節に「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」とあります。「御言葉を聞いて受け入れる」それが「良い土地」であり、そこでは、神の言葉の種は素晴しい実りを生むのだと言われているのです。しかしこの「良い土地」が自分のことだと言える人はいないでしょう。他の三つの土地はみんな自分のことだと言えるけれども、この「良い土地」だけは、これは自分のことではないと自信を持って断言できる、それが私たちではないでしょうか。主イエスは、当時も今も変わらないそういう人間の現実をよくご存じのはずです。それなのに何故この「良い土地」についてお語りになるのか、そこにこのたとえの謎があるのです。

種は私たち
 その謎を解く鍵は、「良い土地に蒔かれたものとは」という20節のお言葉にあります。「良い土地とは」ではないのです。つまり主イエスはここで、み言葉を聞く私たちのことを、種を蒔かれた土地として見ておられるのではなくて、「蒔かれたもの」つまり種として見ておられるのです。15節から実は既にそうでした。「道端とは」ではなくて、「道端のものとは」と語られていたのです。その後も、「石だらけの所に蒔かれるものとは」「またほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである」となっていました。み言葉を聞く私たちのことが、蒔かれた種として語られているのです。これは先程の14節の、蒔かれる種は神の言葉であるということと矛盾するようにも思われます。しかし、それが矛盾ではないことが分かることこそが、このたとえ話における最も大事な謎解きです。私たちは主イエス・キリストのもとに集い、神の言葉を聞きます。み言葉の種が私たちに蒔かれるのです。その意味で確かに私たちは、み言葉の種が蒔かれる土地です。しかしみ言葉を聞く時に私たちは実は、主イエスによって蒔かれた種となるのです。主イエスが私たちを種として蒔き、その種を養い育てて、豊かな実を実らせようとしておられるのです。主イエスが私たちにみ言葉を語って下さるのはそのためです。つまり主イエスは、私たちという土地を利用して何かの収穫をあげてそれで自分が儲けようとしておられるのではなくて、私たち一人一人が、み言葉を聞きつつ生きることによって、人間の力ではとうてい考えられない、三十倍、六十倍、百倍もの実りを生むことを願っておられるのです。私たちが神様の恵みと祝福の中でそのような豊かな実を結び、充実した人生を歩むことを願って、主イエスは私たちに神の言葉を語って下さっているのです。

収穫の約束
 主イエスによって神の言葉を与えられ、この世の現実の中に蒔かれているのが私たちです。その私たちが直面する現実、置かれている環境は、豊かな実りを生むのに決して良い現実、環境ではありません。この世は道端であったり、石だらけで土の少ない地であったり、茨の中であったりするのです。そのような現実の中で私たちは、芽を出すことができなかったり、出してもすぐに枯れてしまったり、茨に塞がれてしまったりして、なかなか実を結ぶことができません。最初の三つの場合は私たちのそのような日々の現実を現しているのです。しかし最後の「良い土地」の話は、み言葉を聞いて受け入れる良い土地であることができるかどうかによって実りが決まる、だから聞いたみ言葉をしっかり受け入れて良い土地にならなければいけない、ということを語っていると言うよりも、主イエスによって神の言葉を与えられて生きる私たちは、良い土地になることができれば、三十倍、六十倍、百倍もの素晴しい実りを生むことができる、神の言葉にはそのような力があるのだ、という約束を語っているのです。しかし私たちは果して「良い土地」になることができるのでしょうか。その謎がなお残っています。

種を蒔く人、主イエス
 このたとえ話には、「種を蒔く人」のたとえという小見出しが付けられています。それは3節のこのたとえ話の語り出しの言葉、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」から来ています。これは「馬から落ちて落馬した」みたいな同語反復的な言い方ですが、まさにこれによって主イエスは、このたとえ話の主人公は誰かを示しておられるのです。それは「種を蒔く人」です。その人は、種を蒔くだけではありません。その土地を耕し、水をやり、肥料をやり、雑草を抜き、いろいろな世話をして、実を実らせるのです。「種を蒔く人」のそのような労苦なしに、三十倍、六十倍、百倍の実りは得られません。つまり「良い土地」とは、「種そ蒔く人」によって整えられた土地なのです。「種を蒔く人」とは誰か、言うまでもなくそれは主イエス・キリストです。主イエスが、私たちにみ言葉の種を蒔いて下さり、それによって同時に私たちを種としてこの世に蒔いて下さり、その私たちがよい実を実らせることができるように、地を耕し、水を与え、肥料を与え、雑草を抜き、いろいろな世話をして私たちを整えて下さるのです。私たちが、み言葉を聞いて受け入れる良い土地となることができるのも、主イエスがそのように、私たちの頑な心の土地を耕して下さり、柔らかく、風通し良くして下さり、水や肥料を与え、雑草を抜きというふうに、汗水たらして働いて整えて下さることによってなのです。主イエスは、私たちの弱さ、罪、苦しみ悲しみを背負って、涙を流しつつこの地上を歩み、十字架にかかって死んで下さいました。そして復活して、今も聖霊の働きによって私たちに語りかけ、働きかけ続けて下さっています。この主イエスが私たちをご自分のもとへと招き、あきらめることなく語りかけ続けて下さっていることによって、最初は道端のようだったり、石だらけで土の少ない所だったり、茨の中だったりする私たちが、次第にみ言葉を聞いて受け入れ、主イエスを信じる者へと変えられていくのです。信仰を与えられている者たちは皆、そのように主イエスによって、み言葉を聞いて受け入れる「良い土地」とされたのです。最初から良い土地である人がどこかにいるのではありません。良い土地は、種を蒔く人である主イエス・キリストが、ご自分の汗と涙と血とによって開墾し、造り出して下さるのです。

豊かな収穫の希望
 ですから私たちは、このたとえ話を読む時に、自分はこの中のどの土地だろうか、良い土地であることが出来るだろうか、と考える必要はありません。このたとえ話から見つめるべきことはむしろ、種を蒔く人である主イエスが、み言葉を頑なに拒む私たちの、鋤も立たないような心を耕して下さっていることです。道端や石だらけの土地や茨の中であるような私たちにも、神の言葉の種を蒔き続けて下さっているのです。その種は鳥に食べられてしまったり、芽を出しても艱難や迫害によって枯れてしまったり、この世の様々な思い煩いや誘惑、欲望によって塞がれて実を結ばなかったりします。そのように実を結ばずに枯れていったみ言葉の種が私たちの心には沢山埋もれているのです。しかし主イエス・キリストご自身が、一粒の種として地に蒔かれ、そして死んだことによって、神様による救いの実現という豊かな実りが生まれたように、私たちの心に蒔かれたそれらの種が無駄になってしまうことはありません。主イエスが私たちの心を耕し続け、み言葉の種を蒔き続けて下さることによって、私たちは良い地へと変えられていくのです。神の言葉である種にはそういう力があります。主イエスはそのみ言葉の力に誰よりも信頼してこのたとえ話を語っておられます。このたとえ話によって、私たちの心にみ言葉の種を蒔き、私たちの心を揺さぶり、耕して、み言葉の種が豊かな実りを生む良い土地へと整えて下さっているのです。「種を蒔く人」である主イエス・キリストが、私たちに神の言葉の種を、涙と共に蒔いて下さっていることを知る時に、喜びの歌と共に刈り入れ、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくるという収穫への希望が確かに与えられるのです。

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