主日礼拝

聖霊と悪霊

「聖霊と悪霊」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第49章22―26節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第3章20―30節
・ 讃美歌:231、56、390

主イエスの家  
本日ご一緒に読むマルコによる福音書の箇所の冒頭に「イエスが家に帰られると」とあります。主イエスの家とはどこだったのでしょうか。2章の1節に、「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り」とあります。主イエスの家は、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにあったことが分かります。しかしこの家は、主イエスの家だったわけではなくて、おそらくは、1章29節で「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った」と言われているその家です。つまりこれは最初の弟子となったシモンとアンデレとの家なのです。主イエスはこの家で、熱を出して寝ていたシモンのしゅうとめを癒したのです。それ以来シモンの家族がこの家を、主イエスのガリラヤにおける伝道の拠点として提供したのだと思われます。主イエスはガリラヤ中を巡回して伝道し、時おりカファルナウムのこの家に帰って来られたのです。ここに、主イエスが帰って来ることのできる家があったのです。本日の箇所を読む上で鍵となる大事な言葉がこの「家」です。家とは家族のいる所です。主イエスにおいて、そして私たちにおいて、家とはどこであり、家族とはどのような者たちなのか、そういうことをこの箇所は語っているのです。

主イエスの愛  
さてあちこちで神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病気を癒す奇跡を行っていた主イエスが、ひさしぶりに家に帰って来られました。しばし休息の時を持とうとされたと言えるでしょう。しかし前回この家に来られた時もそうでしたが、人々は主イエスを休ませてはくれません。イエスが来たという知らせはまたたく間に伝わり、20節後半にあるように、「群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」のです。「食事をする暇もないほどであった」のは、主イエスがそれらの人々を皆迎え入れてみ言葉を語り、癒しをしておられたからです。つまり主イエスは、「今は休暇中だから相手はできない」と言って「本日休診」の札を掲げることはなさらなかったのです。そこに、主イエスが私たち人間にどのように関わって下さるのかが示されています。主イエスは徹底的に、何の留保もなく常に全てをささげて私たちを迎え入れ、受け止め、関わって下さるのです。つまりとことん私たちを愛して下さるのです。その歩みの行き着く先が十字架の死でした。主イエスはまさにご自分の命を投げ出して、私たち罪人を、苦しみ悲しみをかかえている者たちを、愛して下さったのです。この主イエスのお姿は、だから私たちも主イエスを見倣ってそうするべきだ、ということではありません。私たちにはそんなことは出来ないし、するべきでもありません。そんなことは続かないからです。休むべき時に休まないと、人間の活動は維持できません。私も先々週は少し体調を崩して皆さんにご迷惑をおかけしたのですが、一つの要因として、疲れが溜っていたということがあると思います。休むことによって体調をしっかり管理することは人間の責任の一つです。私がそう考えていたわけではありませんが、誰であても、このイエス様に倣って自分も、などと考えてはならないのです。 食事をする暇もない人々  そのように、ここに描かれているのはまさに主イエスならではの愛の姿なのですが、しかしここに、「一同は」食事をする暇もないほどであった、と語られていることにも同時に注目しなければなりません。一同とは、主イエスに従っていた弟子たち、特に、先週読んだ所で主イエスによって使徒として任命された十二人の弟子たちのことでしょう。また、この家の人々、つまりシモンの家族たちもそこに含まれているでしょう。彼らは、主イエスが人々を迎え入れて相手をしていかれる、その愛のお働きに巻き込まれてとても忙しい思いをし、結果的に彼らも、食事をする暇もない程になったのです。私たちもこういうことを体験します。主イエスが徹底的に人々に関わっていかれることによって、その主イエスに従っていく者たちもまたとっても忙しい思いを、大変な思いをしていく、ということはあるのです。弟子たちにしても、シモンの家族にしても、そして私たちにしても、特に何か主イエスのお手伝いが出来るわけではありません。主イエスの愛のお働きを一部肩代わりして引受ける、などということは出来ないのです。働いておられるのはもっぱら主イエスです。しかしその主イエスのもとに集い、従っていこうとする私たちも、主イエスの徹底的な愛のお働きに文字通り巻き込まれていきます。私は牧師の、また教会員の皆さんの教会における忙しさとはそういうものなのだと思うのです。だから忙しい方がよいのだ、などとワーカホリックなことを言うつもりはありません。しかし信仰に生きていくとやはりそういうことは起るのです。本日の箇所においても、主イエスと一同が食事をする暇もないほどであったことは、あってはならないこととして語られてはおらず、むしろ「主イエスが来られれば当然そうなる。そういうものだ」という思いで語られているのです。

身内の人たち  
さてそこに、主イエスの「身内の人たち」が登場します。この人たちのことはこの後の31節以下にも語られています。そこには「イエスの母と兄弟たち」とあります。つまり家族です。主イエスの家族をはじめとする身内の人たちが、21節にあるように「イエスのことを聞いて取り押さえに来た」のです。イエスのどんなことを聞いたのか。それは「あの男は気が変になっている」ということです。家族たちは、イエスについてのそういう噂を聞き、その通りだと思って取り押さえに来たのです。「気が変になっている」という言葉は、文字通りには「外に立っている」という意味です。自分自身の外に立ってしまっている、つまり自分が自分でなくなってしまい、本来の自分でない別の自分になってしまっている、そういう意味で「気が変になっている」というわけです。お育ちになったナザレの村において、主イエスはそのように見られていたのです。それはある意味で当然のことだったでしょう。その村で三十歳まで、大工の息子として普通に育ち、家業を継いでいたイエスが、ある時突然家を飛び出し、村をも出ていなくなったと思ったら、ガリラヤ中の町や村で、「神の国は近付いた、悔い改めて福音を信じなさい」と語って歩いており、病気を癒したり、悪霊を追い出したりという奇跡を行っているという噂が伝わって来たのです。これは気が変になった、取り押さえて家に連れて帰らなければ、と彼らが思ったのは当然です。この家族とのやりとりについては31節以下に譲るとして、ここには大変興味深い状況が生じていると言えると思います。つまり一方には、イエスは本来の自分を見失い、気が変になったと思っている家族がいます。彼らはイエスのことを憎んでいるわけではありません。愛しており、心配しているのです。しかしもう一方には、イエスが家に帰られたと語られているその家に、イエスを信じ従っていこうとしている人々がいます。彼らはイエスの愛の働きに巻き込まれ、イエスと共に大変忙しい生活を送っているのです。いったいどちらが本当に主イエスの「身内、家の人、家族」なのだろうか。そもそも家族であるとはどういうことなのだろうか。そんなことを考えさせる場面がここに生じているのです。

エルサレムからの律法学者たちの判断  
さて家族、身内の人たちのことは本日の箇所ではこの21節のみで、22節以下はそれとは違う話になっていきます。エルサレムから来た律法学者たちが登場するのです。この人たちが「エルサレムから来た」ということが大切です。今ここはガリラヤ地方の町カファルナウムです。ガリラヤはユダヤ人たちにとっては、エルサレムのあるユダヤの北にあって常に対立しているサマリアよりさらに北にある、辺境の地です。それに対してエルサレムはユダヤ人の信仰と文化の中心地、中央です。ガリラヤ地方にも律法学者たちはいましたが、エルサレムから来た律法学者は権威が違います。本場の、最高の権威を持った学者たちが来て、新しい教えを説いて問題となりつつあるイエスについての判断を下したのです。彼らが下した判断は、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」ということでした。「ベルゼブル」とは「悪霊の頭」です。イエスは悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれており、その悪霊の頭の力で人々から悪霊を追い出しているのだ、と彼らは語ったのです。そこから分かることは、彼らも、主イエスが悪霊を追い出しておられるという事実を認めざるを得なかった、ということです。主イエスには確かにそういう力があることを、エルサレムの最高の律法学者たちも認めたのです。しかしそこに働いているのは神の力ではない、悪霊どもの頭の力だ、自分たちの頭の命令だから、悪霊どもも言うことをきくのだ、ということです。ちょうどヤクザの親分が、悪さをしているチンピラを叱って、「カタギの人に迷惑をかけるんじゃねえ」と言っているような話です。彼らのこの説明はある意味でうまくできています。つまり主イエスによって悪霊からの解放という救いの業が行われていることを一方で認めながら、その主イエスを信じ、従うことを拒むことができる理屈となっているのです。

サタンとの全面戦争  
主イエスはこの律法学者たちを呼び寄せてお語りになりました。23~26節のお言葉を先ず読んでみます。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」。悪霊の頭ベルゼブルはここでは「サタン」つまり悪魔と言い換えられています。人間を支配し、罪にひきずり込み、そして滅びへと追いやろうとする力がサタンです。悪霊の働きはそのサタンの業の一環なのです。主イエスはここで、内輪もめをしていたら、国も家も成り立たない、というたとえを用いておられます。だから、主イエスによる悪霊の追放はサタンの内輪もめではない、ということです。それは言い換えれば、そこに起っているのは、サタンと主イエスとの、つまり神様との、全面戦争なのだということです。主イエスは、サタンの力に支配され、それこそ気が変になってしまっている、本来の自分を見失い神様に敵対する思いや言葉や行いに陥り、それによって他の人をも、また自分自身をも苦しめている、そのような人間を救おうとしておられます。そのために悪霊、サタンと対決し、それを滅ぼし、人をその支配から完全に解放し、自由を与えようとしておられるのです。それが、主イエスの悪霊追放のみ業です。つまりそれは、主イエスによって神の国、神様の恵みのご支配が到来していることのしるしなのです。主イエスが来られたことによって、サタンの支配が打ち破られ、神様のご支配が始まろうとしています。サタンはもはや自分の陣営内で内輪もめをしているような余裕はありません。神様からの決定的な攻撃が主イエスによって始まっているのです。その一つの現れが悪霊追放のみ業です。サタンは全勢力を結集してこれと戦わなければなりません。そういう全面戦争が既に始まっているのです。先ほどはヤクザの親分とチンピラのたとえをあげましたが、それに即して考えるなら、チンピラが悪さをするのは一つの脅しであり、それを抑えることによってヤクザは結局「みかじめ料」を取るわけです。つまり親分がチンピラを叱ったからといってヤクザからの解放が得られるわけではなく、結局その支配が続いていくのです。しかし主イエスにおいて起っているのは、そういうヤクザの支配の終わりです。ヤクザが来て暴れるんじゃないかといつもビクビクしているような生活からの解放です。罪の力に恐れ脅えながら生きるのでなく、神様によって造られ、生かされ、守られている本来の自分を取り戻し、喜びをもって神様に従い仕える者となるのです。主イエスはそのために、私たちを支配しているヤクザ、サタンと戦って下さっているのです。 強い人を縛り上げなければ  27節には「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」とあります。家に押し入って家財道具を略奪するには、という物騒なたとえですが、押し入ろうとしているのは主イエスです。主イエスがご自分を強盗にたとえておられるのです。そこに主イエスのユーモアがあります。主イエスが押し入ろうとしている家とは私たちのことです。その家は今、「強い人」によって占拠されています。それがサタンであり悪霊の頭ベルゼブルです。「ベルゼブル」という言葉のもともとの意味についてはいくつかの説があるのですが、その一つは「家の主人」という意味だという説です。まさに私たちの家を占拠し、支配している主人がベルゼブルなのです。そのベルゼブルの下に手下が、チンピラが沢山いるわけですが、そいつらをいくらやっつけても問題は解決しません。この家を支配し主人となっている強い人、親分を縛り上げなければ、この家は、私たちはその支配から解放されないのです。主イエスはまさにこのサタンと戦って下さっているのです。主イエスがその戦いに勝利し、サタンを縛り上げて下さることによってこそ、私たちは、この家は、解放されるのです。

聖霊を冒涜する罪  
主イエスは今、神様から遣わされた神の子、救い主として、サタンと、悪霊の頭と、全面戦争を戦っておられるのです。その戦いは人間をサタン、悪霊の支配から解放し、救いを与えるためです。主イエスがそのように自分たちのために戦って下さっているのを、「あれは悪霊の頭が子分に命令しているのだ」などと捉えることはとんでもない間違いです。それは主イエスにおいて働いている神様の力、聖霊の働きを悪霊呼ばわりするとんでもない忘恩なのです。そのことを語っているのが28節以下です。「『はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである」。「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」というのは恐ろしい言葉であり、私たちは、知らない内に聖霊を冒涜する罪に陥っていたらどうしよう、と心配したりするわけですが、これは、今見てきたように、主イエスにおいて神様とサタンとの厳しい戦いが繰り広げられており、それがこの私の救い、解放のための戦いであるということを認めず、そこに聖霊の働きではなくて悪霊の業を見ようとすることです。何か特定の行為が聖霊を冒涜することに当り、それを知らずに犯してしまうなどということはないのです。むしろ、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」とあります。私たちが意識的に、また無意識の内に犯す罪は全て赦されるのです。そういう罪に陥っている私たちのために、神様の独り子である主イエスは、サタンと、悪霊の頭と戦って下さったのです。それは大変に厳しい戦いでした。サタンの側も、全勢力を傾けて立ち向かって来たのです。その激しい戦いの中で主イエスは十字架にかかって死ななければなりませんでした。主イエスの十字架の死において、サタンがこの戦いに勝利したかのように見えたのです。しかし父なる神様は、主イエスを死者の中から復活させて下さいました。罪と死の力を打ち破って、新しい、永遠の命を生きる体を主イエスに与え、それによって私たちにも、罪を赦されて新しい命を生きる道を開いて下さったのです。この主イエスの十字架の死と復活によって、神様がサタンとの激しい戦いに勝利し、サタンを縛り上げて下さったことによって、私たちは、罪や冒涜の言葉を赦されて、神様によって造られ、生かされ、守られている本来の自分を取り戻し、喜びをもって神様に従い仕えることができるようになったのです。 主イエスの本当の身内とは?  人々は、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言っていました。それは「あの男は気が変になっている」というのと同じことです。汚れた霊、悪霊に取りつかれることによって、本来の自分を見失い、悪霊の思い通りに行動し、悪霊の言葉を語るようになってしまう、イエスもそのように気が変になっているのだ、と人々は噂していたのです。身内の人たちもそれを信じて、主イエスを取り押さえに来ました。ということは、身内の人たちも、エルサレムから来た律法学者たちと同じように、主イエスが悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれていると思っていた、ということです。本日の箇所に登場する、身内の人たちと、エルサレムからの律法学者たちは、主イエスに対して同じ受け止め方をしているのです。主イエスにおいて働いているのは神様の力、聖霊の力ではなくて、悪霊の力だ、という受け止め方です。そして最初の方で申しましたように、ここにはもう一方で、主イエスを信じて従っている弟子たちが、また自分の家を主イエスの家として提供しているシモンの家族たちがいます。彼らは、主イエスにおいて働いているのは神様の救いの恵みであり、聖霊の力であると受け止めています。それゆえにそのみ業を、何もできないながらもサポートしようとし、そのために食事をする暇もないほどになっているのです。なぜこのような違いが生じているのでしょうか。そして、本当の意味で主イエスの身内、家族であるのはどちらの人々なのでしょうか。 主イエスの家族が共に囲む食卓  この違いは、主イエスこそ神様から遣わされた救い主であり、そこに神様の救いの恵みが、聖霊の力が働いていることを信じるか否かによります。それを信じるならば、主イエスこそが家の主人となり、私たちは主イエスの家族となるのです。しかしそれを信じることなく、受け入れないならば、家の主人は主イエスではなくて自分だということです。しかし自分が家の主人だというのは、そう思いたいというだけの話であって、実際には私たちは、いつもヤクザに脅されその言いなりになっているような歩みに陥っています。本当に自由に、本来の自分として生きてはいないのです。悪霊の頭ベルゼブルの支配下に置かれ、悪霊の思い通りに行動し、悪霊の言葉を語り、人をも自分自身をも傷つけてしまっているのです。その悪霊の支配から解放されるための唯一の道は、主イエスを家の主人としてお迎えすることです。主イエスは既に、十字架の死と復活とによって、サタンとの激烈な戦いに勝利して下さった方です。主イエスが、私たちを支配している悪霊の頭を縛り上げて下さることによってこそ、私たちは、神様によって造られ、生かされ、守られている本来の自分を取り戻し、喜びをもって神様に従い仕える者となることができるのです。そのように主イエスが家の主人となって下さることによって、私たちは主イエスの家族、本当の意味で身内の者となります。その主イエスの家族が共に囲む食卓、それが本日共にあずかる聖餐です。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、主イエスが十字架の苦しみと死とによってサタンと戦い、勝利して下さった、その恵みを共に味わい、主イエスと共に生きる神様の家族としての絆を深められていくのです。  
本日からアドベントに入ります。主イエスがこの世に来て下さった、そのご降誕を喜び祝うクリスマスに備えていく時です。そしてそれと同時に私たちは、私たちの家の主人である主イエスが、いつかもう一度来て下さり、そのご支配を完成して下さる世の終わりにおける救いの到来を待ち望み、それに備えていくのです。聖餐は、その救いの完成において主のみもとに備えられている喜びの食事の先取りでもあります。主イエスという主人の下に共に生きる家族としての喜びと希望を味わいつつ、このアドベントの時を過ごしていきたいのです。

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