主日礼拝

荒れ野にて

「荒れ野にて」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書第11章6-10節
・ 新約聖書: マルコによる福音書第1章12―13節
・ 讃美歌:6、284、492

すぐに
 6月の第一主日以来ひさしぶりに、マルコによる福音書に戻り、読み進めていきたいと思います。本日の箇所である1章12節のはじめに、「それから」とあります。ここは以前の口語訳聖書では「それからすぐに」となっていました。こちらの方が原文に忠実な訳です。原文には「すぐに」という言葉があるのです。実はこの言葉は、マルコ福音書にしばしば出てくる特徴的な言葉です。この後の16節以下には四人の漁師たちが主イエスの最初の弟子になったことが語られていきますが、その18節と20節に「すぐに」という言葉があります。29節も「すぐに」と始まっています。42節に「たちまち」とあるのも、原文では同じ「すぐに」という言葉です。また既に読んだ10節にも「水の中から上がるとすぐ」とありました。今あげた箇所は原文においてはみんな同じであって、直訳すれば「そしてすぐに」という言い方になっています。第1章だけで六度、この言葉が語られているわけです。この後にもしばしばこの言葉が用いられていて、マルコによる福音書は「すぐに」「すぐに」とどんどん先を急ぐような語り方になっています。この福音書を書いた人はよっぽどせっかちな人だったんだろうなあ、などと冗談を言いたくなります。マルコがこのような書き方をしていることの意味はおいおい考えて行きたいと思いますが、先ずは、本日の12節に、新共同訳には現れていませんが、マルコに特徴的な「すぐに」という言葉があることを指摘しておきたいと思います。そしてそのことは本日の箇所において見過ごしにすべきでない大事な意味を持っていると思うのです。

荒れ野に追いやられた
 「すぐに」というのは、その前に語られていることとこれから語っていくことを結びつける言葉です。前に語られていることから時を移さずにすぐに、これから語ることが起った、と言っているわけです。本日の箇所の前に語られていたのは、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったことでした。先ほど指摘したように「するとすぐに」、天から・霊・が、鳩のように主イエスに降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのです。主イエスが洗礼を受けたことと、「あなたはわたしの愛する子だ」という父なる神様の宣言を聞いたこととがこのように密接に結びつけられています。その出来事の後すぐに起ったことが本日の箇所に語られているのです。すぐに何が起ったのでしょうか。それは、「・霊・はイエスを荒れ野に送り出した」ということでした。洗礼を受け、ご自分が神の愛する子であるというみ言葉をお聞きになった主イエスは、すぐに、・霊・によって荒れ野へと送り出されたのです。「送り出した」という訳は原文の言葉とニュアンスが違います。口語訳聖書ではここは「御霊がイエスを荒れ野に追いやった」となっていました。「追いやった」の方が原文の意味に近いのです。「送り出した」というと、「行ってらっしゃい、気をつけて」という感じですが、そうではなくて、主イエスは・霊・つまり聖霊によって、荒れ野へと追いやられたのです。有無を言わせず無理矢理に行かされてしまったのです。荒れ野というのは、人間が生きることのできない、耕して作物を得ることもできない、人間の一切の営みを拒む厳しい、不毛な場所です。そのような場所へと主イエスは追いやられた。そのことが、洗礼を受け、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声を聞いた後すぐに起ったのです。

荒れ野を生きる私たち
 主イエスを荒れ野へと追いやったのは・霊・、つまり聖霊です。ということは神様ご自身が愛する子である主イエスを荒れ野へと追いやったのです。「あなたはわたしの愛する子」なんて言っておいてすぐにそれは、ちょっとひどいんじゃないか、と私たちは思います。けれどもこのことこそまさに、私たちが体験しているこの世の現実なのではないでしょうか。私たちも、洗礼を受け、主イエス・キリストの救いにあずかり、神様を信じて生きる者として歩み出します。独り子主イエスを信じることによって神様が私たちにも、「あなたは私の愛する子だよ」と宣言して下さり、神の子として新しく生まれ変わらせて下さるのです。その恵みを受けて私たちは信仰者として歩み出すのですが、そこで「すぐに」体験していくのは、荒れ野のようなこの世の厳しい現実です。洗礼を受ければ悲しみや苦しみがなくなってハッピーな日々が送れる、なんていうことはありません。私たちを取り巻く現実は相変わらず厳しいのです。信仰者も、世間の人々と違う世界を生きているわけではありません。現在のこの社会のいろいろな困難な現実の中で私たちも生きていくのです。社会保障と税の一体改革の一環として消費税を上げる法案が衆議院で可決されました。小沢一郎はそれに反対して民主党を飛び出そうとしています。増税反対を掲げれば国民がこぞって賛成し、支持してくれると踏んだのでしょうが、彼を支持する声はあまり聞かれません。そこにはいろいろな理由があるでしょうが、一つには、この国の社会保障の危機を皆が実感しており、そのためには消費税を上げることも仕方がないという思いが強くなっているからでしょう。一億総中流なんて言っていた時代は完全に過去のものとなり、貧困が広がり、セーフティーネットが崩壊してきています。産業が空洞化して、若い人たちの雇用不安が深刻になり、また年配の人々も年金が減っていくという不安の中にあります。この社会の状況はまさに、人が生き生きと生きることを阻害する、不毛な荒れ野の様相を呈してきているのです。そこにさらに、東日本大震災とそれに伴う原発事故が追い打ちをかけています。その及ぼす直接間接の影響、苦しみ、悲しみはこの先何年続いていくのか、見当もつきません。私たちは今そういう社会を、日々苦労しつつ、出口の見えない閉塞感の中で、先行きへの不安をかかえて生きているのです。

信仰ゆえの荒れ野
 しかしそれだけではありません。洗礼を受け、主イエスを信じる信仰者となって生きていこうとする時、私たちはある意味で荒れ野へと追いやられるような体験をするのです。この社会には、私たちが主イエスを信じ、神様を礼拝しつつ生きることを妨げる力が渦巻いています。日曜日の午前中のこの時間、教会に来て礼拝をするということ一つにも、いろいろな戦いが伴います。日本人の一般的な感覚からすれば、日曜日に毎週教会の礼拝に集うなどということはよっぽど変わった異常な行動に見えますから、そのことを職場や学校や家庭における周囲の人々に理解してもらうのは大変です。特定の宗教にのめり込むことは危険だ、という感覚が、特にオウム事件以降日本にはありますから、「あまり深入りしない方がいいよ」などという好意ある忠告をしてくれる人たちもいるわけです。あるいはキリスト教に対するあからさまな敵意を持って、「ああいう一神教が宗教対立や戦争の元凶だ」などと言う人たちもいます。私たちはそういう宗教的状況の中を生きていくわけで、洗礼を受けたとたんに、そういう荒れ野を歩むことになるのです。それは洗礼を受け、神様の愛のみ言葉を聞き、信仰者として生き始めたことによって追いやられる荒れ野です。主イエスが洗礼を受け、「あなたはわたしの愛する子」というみ言葉を聞いてすぐに、聖霊によって荒れ野へと追いやられたことは、私たち自身のそのような体験と重なると言えるのです。

誘惑を受けた主イエス
 「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」と13節にあります。荒れ野に追いやられた主イエスは、サタンの誘惑にさらされたのです。誘惑というのは、本来あるべき姿を失わせ、進むべき道から逸れさせようとすることです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というみ言葉を聞き、父なる神の独り子として、み心に適う救いのみ業を行うために歩み出した主イエスを、サタン、悪魔は誘惑し、救い主としての歩みを妨げ、間違った道へと歩ませようとしたのです。マタイとルカ福音書には、主イエスがサタンから受けた誘惑の内容を語っています。三つの誘惑を受け、それを退けたことが語られているのです。しかし最初に書かれた福音書であるマルコには、誘惑の内容は語られていません。ただ「サタンから誘惑を受けられた」とあるだけです。なぜマルコにはその内容が語られていないのか。マルコはその話を知らなかったのか、ということを巡って学者の間にも議論があります。しかし、「誘惑を受けた」ということだけが伝わっていて、その内容は知らなかったというのは不自然です。マルコも、三つの誘惑の内容は知っていたのだと思うのです。しかし敢えてそれを書かなかったのです。なぜでしょうか。マタイ、ルカが語っている三つの誘惑は、順序は違う所がありますが、「あなたが神の子なら、石をパンに変えて人々に食べさせればよいではないか」ということと、「神殿の屋根から飛び下りて、天使が支えてくれることを人々に示せ」ということと、「サタンを拝めばこの世の全ての繁栄を与えよう」ということです。これらは三つとも、主イエスが神の子、まことの神であられることを前提とした誘惑です。私たちに、例えば「石をパンに変えろ」などと言われても、それは誘惑にも何にもならないわけです。つまりこの三つは、主イエスならではの、主イエスにおいてのみ成り立つ誘惑です。それゆえにマルコは、その内容を知りつつも、敢えて書かなかったのではないでしょうか。マルコがここで語ろうとしているのは、主イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受けたということであり、それは洗礼を受けた者の誰もが、しかも信仰者として歩み出してすぐに体験するのと同じことだったのだ、ということなのです。そのようにマルコは、主イエスの歩みを私たちの信仰の歩みと重ね合わせようとしているのです。

誘惑にさらされている私たち
 主イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受けられたように、私たちも、荒れ野のようなこの世を歩む中で様々な誘惑を受けます。主イエスを信じ、神様の愛を受けて神の子として生きていこうとしている私たちの歩みを妨げ、そこから逸らせようとする様々な力が私たちの周囲に働いているのです。先ほど申しましたような、周囲の人々の無理解や敵意にさらされることがあります。しかし本当の問題は、そういうことの中で私たち自身の心の中に、信仰に対する疑問や疑いが生じてくることです。主イエス・キリストを信じて生きることがとても変った、異常なこととして受け止められてしまう状況の中で、「自分はやっぱりおかしなことをしているのだろうか」と思ってしまうこともあるでしょう。キリスト教へのいろいろな批判的コメントに触れて、それに影響されてしまうこともあるでしょう。あるいは、東日本大震災における津波のような自然災害を見て、神様がおられるなら、しかも私たちを愛していて下さるなら、どうしてこんなことが起るのか、という問いによって、神様の存在や愛が信じられなくなる、ということもあるでしょう。さらには、教会における人間関係によって傷ついてしまい、同じ信仰に生きているはずの人の姿につまずいてしまう、ということも起ります。そういう意味では教会の外が荒れ野なのではなくて、教会そのものが荒れ野のように感じられてしまうこともあるのです。それらの全てが、私たちを主イエス・キリストへの信仰から、神様の愛を信じることから引き離し、信仰者として生きることを妨げようとする誘惑です。私たちは日々そういう誘惑にさらされているのです。主イエスが荒れ野に追いやられ、そこでサタンから誘惑を受けられた、というマルコ福音書の記述は、主イエスの歩みを私たちのそのような現実に重ね合わせています。主イエスご自身が、洗礼を受けて歩み出してすぐに、このような誘惑を体験なさったのです。そしてここには、マタイやルカのように、主イエスがサタンの誘惑を明確に退けてそれに打ち勝ったことは語られていません。「誘惑を受けられた」とだけ語られているのです。それはやはり主イエスの歩みと私たちの歩みとを重ね合わせるためだと言えるでしょう。私たちは誘惑を明確に退け勝利することなどできません。私たちは、いつも誘惑にさらされながら、サタンの攻撃を受けながら歩んでいくのです。マルコ福音書は、主イエスのご生涯もそうだったということを語ろうとしているのではないでしょうか。サタンの誘惑は、この後もずっと、十字架の死に至るまで、主イエスのご生涯において繰り返されていったのです。そのようにして主イエスは、私たちが今味わっているのと同じ歩みを体験して下さったのです。

四十日
 主イエスは四十日間荒れ野に留まり、誘惑を受けたとあります。四十という数は、聖書において大事な場面に出てきます。主イエスは復活して四十日にわたって弟子たちにお姿を現されました。また旧約聖書には、エジプトを出たイスラエルの民が、約束の地カナンに入る前に四十年間荒れ野を旅しなければならなかったとも語られています。また預言者エリヤが、自分を殺そうとしているアハブ王とその妃イゼベルとから逃れて、四十日四十夜歩き続けて神の山ホレブに着き、そこで神様の声を聞いたという話もあります。いずれの箇所においても、神様による救いの歴史において新しい局面が開かれ、救いのみ業が進展していく印として、四十日あるいは四十年という時が用いられているのです。主イエスが四十日間荒れ野に留まり、サタンの誘惑をお受けになったことにおいても、神様による救いのみ業が新しく進展しようとしていると言うことができるでしょう。このことによって、どのような新しい局面が開かれようとしているのか、それを語っているのが13節後半の「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」という所だと思います。

野獣の中で
 主イエスは荒れ野において野獣と一緒におられた。このことによってマルコは何を語ろうとしているのでしょうか。荒れ野は人間の住める場所ではありません。そこにいるのは野獣であり、そういう意味でも荒れ野は人間にとって危険極まりない所です。荒れ野に四十日とどまったというのは、その間主イエスはそのような危険にさらされておられた、ということです。しかし、天使たちが仕えていたので、その危険から守られていた。「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」という翻訳は、そういう解釈に基づいています。確かにそういう意味が一方にあると言えるでしょう。特に、主イエスの荒れ野に追いやられたことを私たちの信仰の歩みと重ね合わせて捉えるなら、そういう意味が大事になってきます。私たちも、荒れ野のようなこの世を歩む中で、誘惑と共に野獣の危険にさらされています。信仰をもって生きようとする私たちに野獣のように襲いかかろうとするいろいろなものがあって、私たちを恐怖に陥れるのです。人間もまた時として野獣のようになり、襲いかかって来ることがあります。そのような時、私たちは恐しくなって立ちすくみ、逃げ出したくなります。洗礼を受けたがゆえに、信仰者となったがゆえにこんな恐しい目に遭うのなら、いっそのことやめてしまいたいと思うのです。そのような恐怖を私たちは自分の力で克服することはできません。神様が共にいて支えて下さらなければ持ちこたえることはできないのです。そのために、神様は天使を遣わして下さる、主イエスが天使の守りと支えの中で荒れ野の四十日を歩まれたように、私たちの荒れ野の歩みにおいても、神様が共にいて守り支えて下さるのだ、マルコはそのことを語っていると言えるのです。

救いの完成の先取り
 しかしそれだけではありません。ここは、野獣と一緒にいるという危険の中にあったが天使たちが仕えていたので守られた、というのとは違う意味にも読めるのです。その根拠となるのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第11章6節以下です。そこをもう一度読んでみます。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共 に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」。最後の10節に、「その日が来れば」とあります。「その日」とは、神様の救いが実現する日です。ここは、神様による救いの完成の日に実現することを語っているのです。その時には、狼や豹や若獅子という野獣が、小羊や子山羊や子牛と共におり、小さな子供がそれらを導く、牛と熊が一緒に草を食べ、獅子も牛も共に干し草を食べる、乳飲み子は毒蛇の穴に遊び、幼子は蝮の巣に手を入れるが、何の害を受けることもなく、皆が共に平和に生きるようになるのです。主イエスが荒れ野において野獣と一緒におられたというのは、このイザヤ書の預言の成就であると考えることができます。つまり主イエスは荒れ野において、野獣の危険にさらされていたが天使によって守られていたのではなくて、野獣たちと平和の内に共におられるという、神様の救いの完成において実現する恵みを先取りしておられたのです。天使たちが仕えていたというのも、その救いの完成を示すもう一つの印なのです。
 ということは、マルコはここで、主イエスが洗礼を受けてすぐに聖霊によって荒れ野へと追いやられ、そこでサタンの誘惑を受けたことを語ることによって、洗礼を受け主イエスを信じる信仰者として荒れ野のようなこの世を、様々な誘惑にさらされつつ生きていく私たちの姿と主イエスのお姿を重ね合わせ、私たちの信仰の歩みに主イエスが共にいて下さることを語っていると同時に、主イエスはその荒れ野の四十日のサタンによる誘惑の中で、神様による救いの完成において与えられるまことの平安を先取りし、野獣との間にも平和を実現しておられたことを語っているのです。それは、主イエスによって、荒れ野がもはや荒れ野ではなくなり、「わたしの聖なる山」となり、そこでは「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」ということが実現する、という約束です。主イエスによって、神様による救いのみ業がそのように新しく進展し、荒れ野のようなこの世を生きている私たちに新しい展望が開かれ、希望が与えられていることを、マルコ福音書は示そうとしているのです。

聖餐にあずかりつつ
 勿論、主イエスが荒れ野において野獣と一緒におられ、天使たちが仕えていたということだけによって、神様による救いのみ業が進展し、新しい展望が開かれたわけではありません。この箇所は、主イエスによって実現する救いにおける平安、平和を先取りしているのであって、その実現は、この福音書がこれから語っていく主イエスのご生涯の全体によって、なかんずく十字架の死と復活とによって与えられるのです。私たちと同じように荒れ野へと追いやられ、サタンの誘惑をお受けになった主イエスは、私たちが荒れ野のようなこの世で体験する苦しみや悲しみ、誘惑に負けてしまう弱さや罪の全てを背負って十字架にかかって死んで下さり、それらの全てから私たちを解放し、復活によって新しい命の先駆けとなって下さいました。主イエスの十字架と復活によってこそ、神様の救いのみ業は進展し、私たちの歩みに新しい展望が開かれたのです。これからあずかる聖餐は、主イエスの十字架と復活によって実現した神様の救いの恵みを、この世の荒れ野を生きている私たちが体をもって味わい、それによって養われ、支えられ、世の終わりの救いの完成において与えられる恵みを先取りして味わいつつ生きるために主イエスが与えて下さったものです。洗礼を受け、信仰者として生きていく私たちは、そのことによってかえって荒れ野へと追いやられることを体験します。しかし洗礼を受けた私たちは聖餐にあずかることができます。聖餐において主イエス・キリストの十字架と復活による救いの恵みにあずかり、約束されている救いの完成を先取りして味わいつつ生きる私たちは、荒れ野のようなこの世において、共にいて下さる主イエスの守りの中で、野獣とも一緒に、しかも天使たちに仕えてもらいつつ生きることを体験していくことができるのです。

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