週日聖餐礼拝

アーメン

「アーメン」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第46章1―4節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章19―20節

キリスト教を代表する言葉
 「アーメン」は私たちの信仰においてとても大事な言葉です。祈りにおいても、信仰告白においても、また洗礼が授けられる時や、結婚式や、長老・執事の任職式などにおいて、神様の前での誓約がなされる場面でみんなが「アーメン」と唱えます。それゆえにこの言葉は、十字架と並んでキリスト教のシンボルとなっています。私が子供の頃は、教会に行っていることを知られると、子供たちの間で、「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」などとからかわれたものです。あるいは、クリスチャンのことが「アーメン」と呼ばれることがあります。「あんたはアーメンかい?」という具合です。お前はクリスチャンか、という意味のもう一つの問いに、「あんたはキリストかい」というのがあります。これは答えに困ってしまいます。「いや私はキリストではないですが、クリスチャンではあります」というわけです。アーメンという言葉はキリスト教のことを全然知らない人たちもよく知っている、キリスト教を代表する言葉なのです。

然り
 その意味は、先ほど朗読したコリントの信徒への手紙二の1章19節にあった「然り」ということです。「その通り」という同意、肯定の言葉です。ですから祈りの最後にみんなでアーメンと言うのは、今祈られた祈りは私たちみんなの共通の思いです、ということを表しています。信仰告白においても同じです。洗礼や任職、また結婚式においても、参列している皆がそこでなされる誓約に加わり、神様の恵みと祝福を一致して祈り求めることをこの言葉が表していると言えるでしょう。
 けれども、この言葉は私たちが何かに同意し、肯定するという私たちの意志を示すための言葉なのではありません。つまりこれは「異議なし」という言葉とは違うのです。そのことをこの聖書の言葉は教えています。19節には「神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです」とあります。主イエス・キリストにおいて、「然り」が、つまり「アーメン」が実現した、と言っているのです。「アーメン」は、私たちが何かに同意したり肯定すると言うよりも、神様が独り子イエス・キリストにおいて実現して下さった事柄なのです。神様は主イエスにおいて何を実現して下さったのでしょうか。20節には「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです」とあります。主イエスにおいて、神様の約束が然りとなった、アーメンとなった、つまり実現したのです。

神の約束
 神様の約束、それは私たちに救いを与えて下さるという約束です。私たちは生まれつき神様に背き逆らい、神様をも隣人をも、愛するよりも憎んでしまうような罪人ですが、神様はそのような罪の中にいる私たちをなお慈しんで下さり、私たちの罪を赦し、罪の支配から解放して、神様の子どもとして新しく生かして下さるという救いを約束して下さいました。その救いの約束が、人間となってこの世を生きて下さった神様の独り子イエス・キリストにおいて実現したのです。主イエスの歩みによってどのようにしてその約束が実現したのでしょうか。それは、主イエス・キリストが、私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりとなって十字架の死刑を受けて下さったことによってでした。主イエスの十字架の死によって、私たちの罪の贖いがなされ、私たちには赦しが与えられたのです。独り子の死に免じて、神様は私たちの罪を赦して下さったのです。それだけではありません。私たちに罪の赦しを与えるために十字架にかかって死んで下さった主イエスを、父なる神様は復活させて下さいました。死の力を打ち破って、主イエスに新しい命、罪と死の支配から解放された永遠の命を与えて下さったのです。それは、私たちにもその復活の命、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さるという約束の印です。主イエスを信じ、主イエスと結ばれてその罪の赦しにあずかって生きている私たち信仰者は、主イエスに与えられた復活の命が、世の終わりの救いの完成の時に、自分たちにも与えられることを信じて待ち望むことができるのです。主イエスの十字架の死と復活によって、神様による罪の赦しと、永遠の命の約束が与えられました。主イエスにおいて、神様の約束が然りとなった、アーメンとなったというのはそういうことなのです。
 それは、神様が約束を忘れずに実現して下さった、というだけのことではありません。主イエスによって実現したこの救いは、神様が、罪人である私たち、神様に背き逆らってばかりいる私たちに対して、「然り」と言って下さった、私たちのことを否定し、拒否し、退けるのではなくて、肯定し、赦し、招いて下さったということです。主イエスの十字架と復活によって、神様が私たちに「アーメン」と言って下さっているのです。神様の、私たちに対する「アーメン」が、主イエスによって実現したのです。

担い、背負い、救い出して下さる神
 先ほど、旧約聖書、イザヤ書46章をも朗読しました。その3、4節にこうあります。「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。ここにも、主なる神様がご自分の民に与えて下さった約束が語られています。私はあなたたちを造った。それゆえにあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていく、私はあなたたちを造った者として、最後まであなたたちを担い、背負い、そして救いを与えるのだ、と神様は約束して下さったのです。この約束が、主イエス・キリストにおいて実現しました。しかも、この約束はイスラエルの民に対して与えられたものでしたが、今やそれは主イエス・キリストの体である教会に召し集められた私たちキリスト者全体へと拡大されているのです。神様は、弱さと罪に支配されて生きている私たちを、主イエスの十字架と復活によって赦して下さり、ご自分の民として下さり、担い、背負って下さり、そして復活と永遠の命の約束を与えて下さっているのです。その恵みは、私たちが年齢を重ね、体の弱さや不自由をかかえるようになっても、またいろいろなこの世の事情の中で主の日の礼拝に毎週集えない時にも、変わらずに与えられています。主なる神様が、いろいろな弱さや事情をかかえている私たちを、ご自分の民の一人として担い、背負い、救って下さっている、その確かな恵みを確認するために、この週日聖餐礼拝は持たれています。これから共にあずかる聖餐も、主イエスによるこの確かな救いの恵みを私たちが心と体の全体で味わい、それによって支えられていくために備えられているものです。

「アーメン」と唱えて生きる私たち
 このように神様は主イエス・キリストによって私たちに救いを与え、「アーメン」と語りかけ、私たちを肯定し、生かし、導いて下さっています。この恵みに応えて私たちも、「アーメン」と唱えて神様をほめたたえるのです。「アーメン」という言葉は、神様が独り子イエス・キリストによって私たちに与えて下さった救いの恵み、罪の赦しと永遠の命の約束を私たちが信じ、それを受け入れ、その恵みに感謝して、主イエスと共に生きていく、その思いを言い表すものです。私たちの信仰は、この「アーメン」という一言に凝縮されていると言うこともできるのです。
 アーメンという言葉を知らされ、それを毎日の生活の中での祈りにおいて心から唱えることができる私たちは幸せです。人生の大事な節目節目において、この言葉によって神様の恵みを確認し、信仰を言い表し、また神様の前で誓いをして生きていくことができる私たちは、まさに神様によっていつも担われ、背負われ、救い出されつつ生きることができるのです。だから私たちは「あんたはアーメンかい?」という問いに対して心から喜んで言いたいのです。「そうです。私はアーメンです。毎日、アーメン、アーメンと唱えながら、神様の恵みを喜び、感謝し、ほめたたえつつ生きている者です。あなたも私と一緒に、アーメンと唱えつつ生きる者となりませんか。神様は主イエス・キリストによって、あなたにも、アーメンと語りかけ、あなたを担い、背負い、救い出して下さるのですよ」。

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