「イエス・キリストの福音」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第40章9-11節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章1節
・ 讃美歌:333、52、196
伝道のために福音書を
先週まで私たちは、主日礼拝において、ルカによる福音書を連続して読み、み言葉に聞いてきました。先週でそれが終り、本日からはマルコによる福音書に入ります。礼拝において聖書のどの書を読んでいくかは、長老会で意見を聞きつつ私が最終的に決めておりますが、ルカによる福音書の次にどこを読むかについては、いろいろ考えた末にマルコ福音書にしました。福音書を一つ読み終えたのですから、次は数多くある手紙の一つを読む、というのも一つの考え方です。あるいは、求道者会で学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」に基づいて説教をしていく、というやり方もあります。しかし敢えて、また福音書を読んでいくことにした決定的な理由は、伝道のために、ということです。手紙から説教をする場合には、必然的に、イエス・キリストを信じる信仰の中心的な教理を学び、それに基づく生活についての教えを聞くということになります。「信仰問答」に基づく説教もまさに「教理の学び」という内容になります。いずれも「学び」という性格が強くなるのです。それはそれでとても大切なことであって、信仰を養い、育て、また勝手な思い込みを正し、主イエス・キリストに従っていく歩みを整えるために学びは欠かせません。しかしそれらの前提となる最も肝心なことは、そもそも主イエス・キリストを信じることです。その信仰は、学ぶことによって得られるものではありません。学んだから信じられるのではなくて、信じているからこそ学んだことが本当に身に着くのです。そういう意味では、学ぶことは信仰において側面的な支えを与えるものです。その学びは他のいろいろな集会においてすることとして、主の日の礼拝においては、学びが意味あるものとなる土台である主イエス・キリストを信じる信仰を毎週新たに与えられ、共に主イエスを礼拝する時を持ちたいというのが私の願いです。そして教会に連なる信仰者、教会員がそのような礼拝をささげていくことの中で、そこに共に集っている、まだ主イエス・キリストを信じていない方々にも信仰が与えられていく、つまり伝道がなされていくと思うのです。その伝道こそ、私たちに今主から与えられている大切な使命です。2012年度の私たちの教会の年間主題は「キリストの福音を伝道する教会」です。その解説の中にこういう文章があります。「また私たちの教会は主から様々な点で豊かな賜物を与えられている。それは私たちが自分たちの群れのことだけを考えるのでなく、教勢の低迷が続く日本の教会の現状の中で、伝道の牽引車的役割を果たしていくことを主が求めておられることを意味している」。伝道はいつの時代にも、どの教会においても常に大切な使命です。しかし私たちの教会は今、特別に強く深く、その使命を主から与えられていると思うのです。主のご委託に応えてしっかりと、キリストの福音を宣べ伝えていきたいと思います。そしてその中心に、主の日の礼拝があります。その礼拝を、伝道の使命をしっかりと覚えつつささげていきたい、そう思う時に、そこで読まれ、語られる聖書の箇所としては、福音の内容そのものである主イエス・キリストのご生涯を直接に語っている福音書こそが相応しいと思ったのです。
福音の初め
なぜマルコによる福音書なのか。それは一つには消去法によってです。ルカ福音書は終ったばかり、ヨハネ福音書は今、水曜日の聖書研究祈祷会で学んでいます。マタイ福音書は長尾先生が夕礼拝で語っておられます。残るはマルコ福音書ということになるわけですが、しかし単に消去法でこれが残った、というだけではありません。「キリストの福音を伝道する教会」として歩もうとする時に、大切なのはその「キリストの福音」をしっかりと見つめることです。そのために、マルコによる福音書こそが最も基本的な導きを与えてくれるのです。そのことを示しているのが、本日ご一緒に読む1章1節、マルコ福音書の書き出しの文章です。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。このようにこの福音書は書き始められています。「初め」という言葉に初めに注目しなければなりません。原文においては、この言葉が冒頭にあるのです。原文の語順に従って直訳すれば「初め、福音の、イエス・キリストの、神の子の」となります。日本語に訳すと語順が変ってしまって目立たないですが、この福音書は「初め」という言葉から始まっているのです。ヨハネによる福音書の冒頭も、「初めに言があった」となっています。マルコの冒頭と同じ言葉が用いられています。そしてさらに、旧約聖書創世記の冒頭「初めに、神は天地を創造された」をも思い起こすことができます。「初め」というのは聖書において意味深い、大事な言葉なのです。しかし創世記やヨハネ福音書が「初めに」神はこのようなみ業をなさったとか「初めに」言があったと語っているのと、マルコ福音書が「初め」と言っているのでは意味が違います。「初めに」という言い方は、この世の初めないしはその前に何があったかを語っているのに対して、マルコは、「神の子イエス・キリストの福音」の初めを語っているのです。「キリストの福音の初め」を語っているこの福音書こそ、「キリストの福音」を見つめていくための基本的な導きを与えてくれるのです。
最初の福音書
そして実際、このマルコ福音書こそ、四つの福音書の「初め」に位置するものです。新約聖書の四つの福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという順に並べられていますが、それは以前にはこの順序で書かれたと考えられていたことによります。しかし聖書の文献的な研究が進むにつれて、マルコが最初に書かれ、マタイもルカもマルコを土台としつつ書かれたことが分かってきました。ヨハネはその二つよりもう少し後の時代のものですので、最初に書かれた福音書はマルコなのです。「福音書」はマルコから始まったのです。まさに「キリストの福音の初め」はマルコにこそあるのです。ですから私たちはこの1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」という文章を、マルコ福音書全体のタイトルとして受け止めることができます。この福音書に語られていることの全体、つまり主イエスのみ業、教え、そして十字架の死と復活、その全体が、「キリストの福音の初め」であり、そこから始まった福音が、全世界へと宣べ伝えられ、キリストの福音を信じる信仰者の群れである教会が広まっていったのです。その原点となった初めの事柄をこの福音書は語っているのです。
福音とは
さて先ほど、原文の語順に基づく直訳は「初め、福音の、イエス・キリストの、神の子の」となると申しました。つまり日本語の訳をひっくり返して後ろから読めば原文の語順となるのです。ですから原文において「初め」に続く言葉は「福音の」です。マルコは、自分は「福音」の初めを書いていくのだ、という意識をはっきりと持っていたのです。しかし「福音」とは何でしょうか。先ほど指摘したように私たちの教会の今年度の主題は「キリストの福音を伝道する教会」で、ここにも「福音」という言葉が用いられています。教会において当たり前に使われている言葉ですが、その意味をはっきりさせておく必要があると思います。この言葉は原文のギリシャ語では「エウアンゲリオン」です。「エウ」は「良い」という意味、「アンゲリオン」は「知らせ」という意味ですから「良い知らせ」という意味になります。「福音」はそれを漢字で表現したわけで、「福」は「良い、幸せな」、「音」という字は「音信」などとつながる「知らせ」という意味です。ちなみに英語では福音を普通「ゴスペル」と言います。それは「ゴッド」と「スペル」という言葉が合わさって出来た言葉で、「ゴッド」は「神」ではなくて「グッド」と同じ「良い」という意味、「スペル」は「話」という意味なので、これも「エウアンゲリオン」を英語に移した言葉です。そして英語には原語をそのまま移した「エヴァンジェル」という言葉もあります。「エヴァンジェリカル」というと「福音派」、あるいはカトリックに対して福音主義つまりプロテスタントを指す言葉としても用いられます。このように言葉の成り立ちからして「福音」とは「良い知らせ」という意味なのです。
良い知らせを待ち望む
そしてこの言葉には旧約聖書の背景があります。それを示しているのが、本日共に読まれたイザヤ書第40章9節以下です。9節に「良い知らせをシオンに伝える者よ」「良い知らせをエルサレムに伝える者よ」と繰り返されています。旧約聖書の時代にも、人々は「良い知らせ」、つまり福音を飢え渇くように待ち望んでいたのです。私たちも、私たちのこの社会も今、いつにも増して「良い知らせ」を切実に待ち望んでいるのではないでしょうか。「新自由主義」と呼ばれる適者生存、弱肉強食の政策の下で格差が広がり、社会の構造そのものにきしみが生じています。経済的な落ち込みによる雇用不安が広がり、国力の低下によって外交的にも困難な事態に直面しています。そこに東日本大震災とそれに伴う原発事故が追い打ちをかけています。耳にするのは「悪い知らせ」ばかりで、良い知らせと言えば「なでしこジャパン」か「朱鷺に雛が生まれた」ぐらいのものです。良い知らせに飢え渇いているのが私たちの現状ではないでしょうか。イザヤ書40章が書かれた当時のイスラエルの人々も、それと同じような暗い状況の中にありました。国は滅び、バビロンに捕囚として連れ去られている、そういう民族滅亡の危機の中に彼らは置かれていたのです。まさに聞こえてくるのは「悪い知らせ」ばかりの中で、「良い知らせ」を待ち望んでいたのです。そしてそれは、主イエスの当時のユダヤ人たちも同じでした。彼らを今支配しているのはローマ帝国です。ローマの許しなしには何も出来ず、ローマのための税金を取られる、主なる神の民としての誇りを踏みにじられるような状況にあったのです。この当時の人々もまた「良い知らせ」を待ち望んでいたのです。
本当に良い知らせとは?
「福音」という言葉が、今は古臭くなって余り用いられなくなったとはいえ、いちおう日本語として定着しているように、当時の社会においても「エウアンゲリオン」は一般的に用いられていました。何が「良い知らせ」とされていたかというと、ローマ皇帝の即位の知らせ、世継ぎの誕生の知らせなどです。しかし本当に良い知らせとは、イザヤ書40章の10節にあるように、「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む」ということ、つまり、主なる神様が来て下さり、勝利し、そのご支配が確立することです。バビロンの王でもローマ皇帝でもなく、主なる神様が王として来て下さり、支配して下さること、それこそがまことの「良い知らせ」、福音なのです。つまり「福音」という言葉は私たちに対する一つの問いかけとなっているのです。それは、あなたは何を本当に「良い知らせ」として聞こうとしているのか、本当に良い知らせは何なのか、という問いです。悪い知らせばかりが聞こえてくる社会の状況の中では、逆に様々な「良い知らせ」もまた語られていきます。しかし私たちは、本当に良い知らせとは何なのかをしっかりと見極めなければなりません。「なでしこジャパン」や「朱鷺の雛の誕生」は素直に喜んでよい知らせですが、政治の閉塞状況の中で、耳に心地よいこと、日本人としての誇りをくすぐるような民族主義的なことを乱暴に語る政治家が登場します。そういう人が一見頼もしそうに、リーダーシップのある、決断力があって信頼できる指導者のように見えてしまうのです。その人の語ることが福音、良い知らせに聞こえていくのです。それはとても危険なことです。ヒトラーはそのようにしてドイツの独裁者となったのです。今の日本も、それと同じような間違いに陥る危険をはらんでいると思います。ですから私たちは、悪い知らせばかりが聞こえてくるようなこの時代にこそ、本当に良い知らせとは何なのか、福音とは何なのかをしっかり見極めなければなりません。マルコ福音書は、その福音の初めを、基本を、中心を告げているのです。
イエス・キリストの福音
イザヤ書が語っているように、本当に良い知らせ、福音とは、主なる神様が王として来て下さり、そのご支配が確立することです。ユダヤ人たちは、救い主メシアが来て、ローマの支配を打倒して、神の民イスラエルの国を再興して下さることによってそれが実現すると考え、それを待ち望んでいました。それが福音の内容だと思っていたのです。しかし神様はそれとは全く違う仕方でこの世に来られ、ご支配を確立なさいました。そのことをマルコは語っています。「福音」に続いて「イエス・キリストの」と語られていることにそれが表れています。神様のご支配は、イエス・キリストにおいて実現したのです。そのイエス・キリストは、貧しい人間としてこの世に生れ、神の国の福音を告げ知らせて歩みましたが、ローマの支配を打ち破るどころか、捕えられて十字架の死刑に処せられてしまったのです。いったいこのイエスのどこに、神の王としての支配の確立などが現れているのか、と思わずにはおれません。しかしマルコは、福音は「イエス・キリストの福音」だと言っているのです。イエス・キリストにおいてこそ、神様がこの世に来て下さり、そのご支配が確立したのだと言っているのです。そのことを知ることこそが、福音を聞くこと、まことの良い知らせを受け取ることだと言っているのです。ということは、「福音とは主なる神様が来て下さり、そのご支配が確立することだ」ということを知っているだけでは、福音が本当に分かっているとは言えないのです。それだけだったら、あの頼もしい指導者こそ救い主であり、神様のご支配を確立してくれる人に違いない、ということにもなります。ヒトラーはまさにドイツ民族の救い主として登場したのです。ですから私たちは、「イエス・キリストの福音」こそがまことの良い知らせなのだということをしっかり受け止めなければなりません。マルコ福音書はその「イエス・キリストの福音」を私たちに示し与えてくれるのです。
主イエスによって実現した福音
今申しましたことから言えるのは、「イエス・キリストの福音」というのは、「イエス・キリストが宣べ伝えた福音」という意味ではない、ということです。勿論主イエスは、神の国の福音、つまり神様のご支配の確立を告げる福音を宣べ伝えていかれました。主イエスの教えも、また数々の奇跡のみ業も、その福音を伝えていたのです。しかし主イエスの教えと奇跡によって福音が実現したのではありません。神の国は、主イエスの教えを聞いた人々がそれを実行していくことによって打ち立てられるものではないのです。主イエスの教えは、神の国を実現するにはどうすればよいか、というマニュアルのようなものではありません。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というお言葉に代表的に示されているように、主イエスはご自分がこの世に来られたことによって神の国がいよいよ実現しようとしている、という事実を宣言なさったのです。そしてその神の国は、主イエスの十字架の死と復活とによって実現しました。主イエスの十字架と復活によって、罪人である私たちが赦され、神の民とされて新しく生きることができる、それが「イエス・キリストの福音」です。ですからマルコが「福音」という言葉で見つめているのは、主イエスがお語りになった教えのみでなく、主イエスの十字架と復活によって実現した救いの出来事です。だからこそ、主イエスのご生涯の最後の一週間のこと、つまり受難と十字架の死と復活に全体の三分の一ほどを費やして語っているのです。マルコ福音書のことを、「詳細な序文付きの受難物語」と呼んだ人がいます。それはマルコのみでなく他の三つの福音書も基本的に同じです。どの福音書も、主イエスの十字架の死と復活に最も力を注ぎ、スペースをさいて語っています。そこにこそ、主イエスのご生涯の中心があるからです。
ですから「イエス・キリストの福音」を信じて生きるとは、主イエスの教えを聞いてそれを人生の教訓とするとか、貧しい人と共に歩み殉教の死を遂げたイエスという人の生き様に倣って自分も生きる、ということではありません。十字架の死と復活に至る主イエス・キリストのご生涯全体によって、罪人である私たちを赦し、救いを与えて下さる神様の恵みのご支配が確立したことを信じて、その主イエスをキリスト、つまり救い主と信じ、復活して今も生きておられる主イエスと共に生きる者となることこそが、「イエス・キリストの福音」を信じて生きることなのです。
イエスこそキリスト
今も言いましたように、「キリスト」というのは「救い主」を意味する言葉です。旧約聖書の「メシア」、「油注がれた者」という言葉がギリシャ語に訳されて「キリスト」となりました。ですから「イエス・キリスト」という言い方は、名字と名前ではなくて、イエスこそ救い主であるという意味の、それだけで信仰の告白となっている言葉なのです。「イエス・キリストの福音」とは、神がイエスをキリスト、救い主として遣わして下さり、そのイエス・キリストの十字架と復活に至るご生涯によって罪人に赦しを与えて下さった、そこに神のご支配が、つまり私たちの救いが実現されている、という良い知らせなのです。この福音を信じるとは、主イエスを単に人間イエスとして見つめ、模範とするのではなくて、主イエスこそキリスト、神から遣わされた救い主であると信じることなのです。
神の子主イエス
そしてこのイエスこそキリスト、救い主である、ということをよりはっきりさせるために最後に語られているのが、「神の子」という言葉です。イエス・キリストは神の子であるとマルコは語っています。この1節の写本の中には、「神の子」という言葉がないものもあります。しかしこの福音書は主イエスの十字架の死の場面、15章39節で、主イエスが息を引き取られたのを見たローマの兵隊の百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と語ったと伝えています。ですからマルコが、神の子イエス・キリストを語ろうとしていることは確かです。それは要するに、イエス・キリストはまことの神であられる、ということです。神の子というのは、神のように立派な人間、という意味ではありません。神の生みたもうた子、神と本質を同じくする、つまりご自身がまことの神である方が「神の子」です。その神の子が私たちと同じ人間となってこの世に来て下さった、それが主イエスなのです。人間としてこの世に来て下さっただけでなく、主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。そこに、主イエスの、私たち罪人の救いのための徹底的なへりくだりがあります。神の子である方が、私たちの救いのために十字架の死に至るまで身を低くして、私たちの救い主、キリストとなって下さったのです。そして神の子である主イエスを遣わして下さったのは父である神様です。父なる神様は十字架にかかって死んだ主イエスを死者の中から復活させて下さいました。それによって、私たちを支配している罪と死の力に対する神様の勝利が実現し、神様の恵みのご支配がこの世に確立したのです。それが「神の子イエス・キリストの福音」です。神様が来て下さり、そのご支配を確立して下さるという「良い知らせ」は、主イエス・キリストのご生涯と、その十字架の死と復活とによって実現したのです。マルコによる福音書はこの福音を告げ知らせています。この福音書をこれから礼拝においてご一緒に読んでいくことを通して、また本日これからあずかる聖餐において、神の子イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉と流された血とにあずかり、その救いの恵みを覚えることを通して、主イエスによって神様が実現して下さった救いの良い知らせを、心と体のすべてをもって共に喜びながら歩んでいきたいのです。