主日礼拝

地の果てに至るまで

「地の果てに至るまで」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第22編23-32節
・ 新約聖書: 使徒言行録 第1章3-11節  
・ 讃美歌:344、204、343、81

ペンテコステに備えて
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。この日、弟子たちに聖霊が降り、彼らは力を受けて主イエスこそ救い主であられることを力強く宣べ伝え始めました。その伝道によって多くの人々が主イエスを信じて洗礼を受け、弟子たちの群れに加えられました。このようにして、この世にキリストの教会が誕生した、それがペンテコステの日の出来事です。そのことについては、使徒言行録の第2章に語られています。先ほど朗読されたのは、その前のところ、第1章です。ここには、復活された主イエスが、弟子たちに現れてご自分が生きておられることを示し、そして、これから起るペンテコステの出来事に備えて待っているようにとお命じになったことが語られています。4、5節の主イエスのお言葉を読んでみます。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」。「父の約束されたものを待ちなさい」と主イエスはおっしゃいました。その約束とは、聖霊による洗礼を授けられる、ということです。これがペンテコステの出来事のことを指しています。この「聖霊による洗礼」に備えて待っているようにと主イエスはお命じになったのです。このご命令に従って弟子たちが共に集まっていた所に聖霊が降ったことが2章に語られているのです。

祈って待つこと
 本日の箇所にはこのように、聖霊による洗礼を授けられることを待ち、それに備えているようにとの主イエスのご命令が語られています。そのご命令は、ペンテコステを記念してこの礼拝を守っている私たちにとっても大切な意味を持っています。それはつまり、私たちがペンテコステの出来事を覚え、それにあずかろうとする時に、先ず必要なのは、私たちが何かの活動をするとか、何かを目指して努力することではなくて、「待つ」ことだ、ということです。聖霊が降り働いて下さることを静かに祈って待つことから、ペンテコステの出来事は始まっているのです。聖霊を受けた弟子たちは、この後見るように、力を与えられて地の果てにまで出かけて行きました。しかしそのような弟子たちの、そして教会の目覚ましい活動、働きは、聖霊のお働きを待つことからこそ始まったのだということを、私たちはしっかり確認しておきたいのです。

弟子たちの期待
 「待つ」というのは、何もしないでいることではありません。何を待っているのかをしっかり弁えていなければ、待つことはできません。本日の箇所において主イエスは弟子たちにそのことを、つまり聖霊による洗礼を授けられることを待つとは何を待つことなのかを教えて下さっているのです。それが6節以下です。聖霊による洗礼を授けられることを待ちなさいとおっしゃった主イエスに、弟子たちは6節でこう問いかけています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。つまり、主イエスがイスラエルのために国を建て直して下さることをこそ私たちは待つべきなのでしょうか、という問いです。ここには、彼らが主イエスに抱いていた期待が示されています。神様の民であるイスラエルは今、異邦人であるローマ帝国に支配されています。そのローマの支配を主イエスが打ち破って下さり、主イエスが王となってイスラエルの国を独立させ、神の民の王国を再建し、昔のダビデ王の時代のような繁栄を取り戻して下さる、そのことを彼らは期待していたのです。それは当時のユダヤ人たちが救い主メシアに対して抱いていた共通の期待でした。しかしこの時の弟子たちは、ユダヤ人たち一般が抱いていた期待以上の、まさに燃え上がるような期待に包まれていただろうと思います。なぜならば、今彼らの目の前に立っておられるのは、十字架の死から復活なさった主イエスだからです。3節に「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。捕えられ、十字架につけられて殺されたけれども、その死から復活して確かに生きておられることを数多くの証拠によって示して下さった主イエスが、神の国について、つまり神様のご支配についてお話しになったのです。死の力に勝利した主イエスが、その無敵の力によっていよいよこの神の国を実現して下さる、と彼らが期待したのも尤もです。聖霊による洗礼を授けられるという約束も、聖霊の力が自分たちにも注がれて、主イエスと共に、イスラエルの国の再建に立ち上がる時がいよいよ来るということではないか、復活なさった主イエスが一緒なのだから、もう何も恐いことはない、待ちに待ったイスラエルの再建がいよいよ始まるのだ、彼らはそういう期待を込めて「イスラエルの国の再建の時を待っていればよいのですか」と尋ねたのです。

待つべきことは何なのか
 しかし主イエスは弟子たちのこの期待に満ちた問いに対して、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」とお答えになりました。これは、主イエスの父であられる神が支配なさる神の国が実現することの否定ではありません。しかし、国の再建の時がいよいよ始まろうとしている、という弟子たちの期待に対しては、「あなたがたが待っているべきことはそういうことではない」と言っておられるのです。主イエスは、死に勝利した無敵の力をもってこの世に打って出て、敵対する全てのものを滅ぼして神の国、神のご支配を実現しようとしておられるのではないのです。弟子たちが聖霊による洗礼を受けるというのも、そのような戦いに主イエスと共に立ち上がるための力を与えられることではないのです。ペンテコステの出来事によって始まるのはそういうことではない、と主イエスは言っておられるのです。  私たちが本日このようにペンテコステを記念して礼拝を守っているのは、ペンテコステに弟子たちに起ったことが私たちにも起り、聖霊によって私たちにも彼らと同じように力が与えられることを期待しているということです。しかし私たちは、この時の弟子たちと同じように、自分勝手に、主のみ心とは違うことを期待してしまうことがあります。自分たちが願っていることの実現のために聖霊が力を貸して下さるように思い、期待してしまうのです。しかし聖霊の働きは、私たちが思っていることや期待していることとはしばしば違っています。私たちはこの時の弟子たちと共に、本当に待つべきこと、つまり神様がなそうとしておられることは何なのかを、み言葉によって教えられなければならないのです。

主イエスの証人となる
 それでは、主イエスが弟子たちに待っていなさいとお命じになったことは何だったのでしょうか。8節にそれが語られています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。聖霊が降ることによって弟子たちは確かに力を与えられるのです。しかしそれは、彼らが願い、期待していることを実現する力ではなくて、神様がさせようとしておられることを行なうための力です。神様が弟子たちにさせようとしておられること、それは「わたしの(つまり主イエスの)証人となる」ということでした。ペンテコステの日に聖霊の力を受けたことによって、弟子たちは、主イエスの証人とされたのです。主イエスこそ神の子、救い主であられることを、人々に証しする者となったのです。その彼らの証しによって多くの人々が主イエスを救い主と信じて仲間に加えられました。その人々も聖霊の働きを受けて、主イエスの証人とされていったのです。聖霊を受けた者は、主イエスの証人とされます。ペンテコステが教会の誕生の日であるというのは、聖霊が降って主イエスの証人の群れが誕生した、ということなのです。そのことこそ、ペンテコステの日に弟子たちに起ったことであり、また私たちに今起ることなのです。聖霊が降り、力を与えて下さることによって、私たちも、主イエスの証人となり、主イエスの証人の群れである教会の一員として生きていくのです。そういう聖霊の働きを祈りつつ待つことが、ペンテコステを記念する私たちの信仰なのです。

なぜ証人が必要なのか
 ところで、「あなたがたは聖霊によって力を受け、わたしの証人となる」と主イエスがおっしゃったのを聞いた弟子たちは、「おかしいな」と思ったのではないでしょうか。なぜかというと、先程も申しましたが、今彼らの目の前に、復活して現に生きておられる主イエスがおられるからです。その主イエスが、これから彼らと共に、この世の全ての人々に、ご自分が十字架につけられて殺されたけれども父なる神様の力によって復活した神の子、救い主であられることをはっきりと示して下さるのだと彼らは思っていたのです。「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いもそういう確信から出たものです。今彼らが目の前に見ているように、死の力に勝利した主イエスのお姿を世の全ての人々も今後ははっきりと見ることができる、と彼らは確信しているのです。そうであれば、彼らが主イエスの証人となることなど必要ないはずです。証人というのは証言をする人ですが、証言というのは、はっきりと分かっていない事柄について、真相を明らかにするために語られる言葉です。例えば刑事裁判において、被告が本当に犯人なのかどうかは事件現場にいなかった人には分からないわけですが、その事件を目撃した人が、確かにこの人が犯人ですと証言することによってその人の犯行であることが明らかになるわけです。主イエスの証人となる、主イエスについての証言をする、というのもそれと同じで、主イエスが神の子、救い主であられることが多くの人々にはっきりと分かっていない中でこそ証言というものが必要なのです。しかし十字架の死から復活した主イエスが生きて目の前におられるならば、主イエスこそ神の力を身に帯びた救い主であられることは一目瞭然なのであって、弟子たちの証言など必要がないはずです。そういう時がいよいよ来る、と弟子たちは確信し、期待していたのです。

主イエスの昇天
 しかしその弟子たちの期待は外れました。そのことが9節に語られています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。復活した主イエスは、このように天に昇られました。そのことによって、「彼らの目から見えなくなった」のです。つまり、これからは十字架の死から復活した主イエスが生きて目の前におられるのだから、主イエスこそ神の力を身に帯びた救い主であられることは誰にとっても一目瞭然となる、という弟子たちの期待は実現しなかったのです。主イエスが天に昇られたことによって、そのお姿は目に見えなくなり、主イエスが神の子、救い主であり、死から復活なさった方であることは、目に見えないこと、誰もが当然のこととして分かるわけではない、隠された事柄となったのです。そしてそれゆえに、弟子たちが主イエスの証人となることが大事な意味を持つことになったのです。主イエスが天に昇られたことによって、今この世においては主イエスをこの目で見ることができなくなったのです。主イエスによる救いは今は隠されており、人々がそれをはっきりと知ることができないのです。そのようなこの世において、弟子たちが、教会が、主イエスの証人となり、主イエスこそ十字架の死から復活して今も生きておられる神の子、救い主であられることを証言していく、神様はそういう使命を弟子たちに、教会にお与えになったのです。その使命を果たすための力が聖霊によって与えられているのです。

父なる神の思い
 しかしいったいどうして、せっかく復活なさった主イエスは天に昇ってしまわれたのでしょうか。そのまま地上にいて下さった方が、死に勝利した無敵の力を人々にはっきりと示すことができ、弟子たちの証言などによってではなくご自身が直接、「私こそ神であり救い主である」と人々に語りかけることができたのに、と私たちは思います。しかしそれは弟子たちが「イスラエルのために国を建て直して下さるのはこの時ですか」と問うたのと同じことであって、自分たちの期待を神様に、主イエスに押し付けているのです。私たちのなすべきことは、自分たちの期待や願いによって神様のみ業を量るのではなくて、神様がなそうとしておられることを知り、その実現をこそ待ち、求めていくことです。なぜならそこにこそ、私たちの思いをはるかに越えた神様の深い恵みがあるからです。父なる神様は、復活した主イエスが目に見える仕方で地上を歩み人々に直接語りかけるのではなくて、弟子たちを主イエスの証人として遣わし、主イエスの証人の群れである教会を用いて救いを宣べ伝えさせ、そして人々が信仰によってそれを受け止め、目に見えない主イエスを信じて生きていくことをこそ願われたのです。そのことによってこそ、多くの人々が、いつでも、主イエスと共に歩み、その恵みによって生かされることができるからです。もしも復活した主イエスがそのまま地上におられたなら、確かに主イエスをこの目で見ることはできたでしょうが、全世界の人々が同時に主イエスと共に歩むことはできません。ここにいる時にはあちらにはいない、ということになって、一度に、ほんの一握りの人たちしか、主イエスと共にあることはできないのです。天に昇られたことによって主イエスのお姿は目に見えなくなりましたが、だからこそ、私たちはいつでもどこでも、主イエスと共にあることができるのです。そのために聖霊が私たちに降り、天におられる主イエスと私たちとを結びつけて下さっているのです。

再臨の約束の中で
 主イエスを信じる信仰者たちを、主イエスの証人として、救いのみ業のために用いて下さる、それも、主イエスの昇天における父なる神様の恵みのみ心です。復活して今も生きておられる主イエスが目に見える仕方で地上を歩んでおられるなら、先程申しましたように私たちの証言など必要ないのです。つまり救いのみ業において私たちの出る幕はなくなるのです。主イエスが天に昇られたからこそ、私たちの証人としての働きが必要となり、意味を持っているわけです。主イエスが天に昇られたことと、私たちが主イエスの証人として立てられ、遣わされることはこのように不可分に結びついているのです。そしてそこにはもう一つ、神様の恵みのみ心があります。11節で「白い服を着た二人の人」、つまり天使が、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と語っています。天に昇られた主イエスは、そこからもう一度おいでになるのです。主イエスの昇天と同時に、このいわゆる再臨の約束が与えられているのです。その再臨の時には、昇天において雲に覆われて見えなくなった主イエスが、再び目に見える方として、誰の目にもはっきりと分かる仕方で、神として、救い主として来られるのです。主イエス・キリストによる救いはその時完成します。それによって今のこの世は終り、神の国が完成するのです。それがいつなのかは私たちには分かりません。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」のです。しかし私たちに知ることはできないけれども、父なる神様は確かに、その時を、神の国の完成する時をもたらして下さるのです。私たちは、この神様の約束による希望に支えられつつ、主イエスによる救いが隠されている今のこの世を、忍耐しつつ、主イエスの証人として歩み続けるのです。主イエスの証人として生きる私たちの信仰は、このように、主イエスによる救いが隠されているこの世の現実の中で、その救いがいつか目に見える仕方で完成し、あらわになるという神様の約束を信じて、忍耐して生きる信仰です。この信仰の歩みを支え、力づけるために、神様は聖霊を私たちに遣わし、与えて下さるのです。

聖霊の働きを待つ
 ペンテコステに聖霊を受けた弟子たちは、このような信仰に生きる者とされました。もともとは、主イエスが目に見える仕方で力を示し、イスラエルのために国を再建して下さることを期待していた彼らが、主イエスが神であることも救い主であることも目に見える仕方ではっきりと示すことはできないという厳しい現実の中で、目に見えない主イエスの証人として、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」出かけて行き、神様が独り子主イエスの十字架と復活によって成し遂げて下さった救いを証ししていったのです。そのような大きな転換を、聖霊が彼らにもたらしたのです。教会の歴史は、この聖霊のお働きの歴史です。聖霊が人々にこのような大きな転換をもたらし、主イエスの証人として生きる力を与え、主イエスによる救いが隠されているこの世の現実の中で、しかしその救いがいつか目に見える仕方で完成し、あらわになるという神様の約束を信じて、その希望の中で忍耐して生きる信仰を与えて下さったことによって、主イエス・キリストによる救いの恵みは地の果てにまで宣べ伝えられてきたのです。私たちのこの日本は、エルサレムから見てまさに地の果てです。今やそこにまでキリストの福音が伝えられ、今ここでこのペンテコステの礼拝がなされています。最初のペンテコステの日の弟子たちから始まって、今日に至るまで、聖霊は無数の人々に降り、その一人一人にあの転換をもたらし、彼らを主イエスの証人として立て、遣わしてきて下さったのです。その聖霊が今私たちにも注がれています。私たちも、この聖霊の力によって、目に見えない主イエスの証人となることができます。それは私たちの力や努力によってなされることではありません。頑張って主イエスの証人となりましょう、という話ではないのです。私たちのなすべきことは、聖霊のお働きを祈って待つことです。しかし、自分が何を待っているのかはしっかりと弁えておきたいのです。私たちは、聖霊のお働きによって、主イエスが神であることも救い主であることも目に見える仕方ではっきりと示すことはできない厳しい現実の中で、しかし主イエスがもう一度来て下さり、救いを必ず完成して下さるという神様の約束を信じて、その希望に支えられて主イエスを証しし宣べ伝えていく者へと新しくされるのです。その聖霊のみ業を、祈りつつ待つ者でありたいのです。

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