夕礼拝

今の時代の者たちの責任

「今の時代の者たちの責任」伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 歴代誌下、第24章17節-22節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第11章 37節-54節
・ 讃美歌21; 22、410

 
「今の時代の者たちの責任」
1 (とんでもないテーブルスピーチ)  主イエス・キリストは、実に食卓での交わりを大切にされたお方でした。招きを受けたのに、その家で食卓に着くことを拒まれた話は聞いたことがありません。今日の箇所が語るように、あのファリサイ派の人からの招きを受けた時でさえ、主はその招きに応じて、食事の席に着かれたのです。ところが、その席でとんでもないことが起こった。およそお呼ばれの席で聞くことになるとは思いも及ばなかったであろう、激しい攻撃の言葉を、このファリサイ派の人は聞くことになったのです。

 ことの発端はこのようなものでした。食事の前に、身を清める手続きを、主イエスがなさらなかった。そのことをこのファリサイ派の人が問題だと思ったのです。食前に身を清めるというのは、これは衛生上の話ではありません。当時ファリサイ派の人たちが守るべき神の戒めとして大事にし、人にもそうするよう教えていた営みであります。そうすることが彼らにとっての信仰深さであったのです。そうすることが彼らにとっての敬虔な生き方であったのです。ファリサイ派の人々はその意味で、自分たちにとっての信心深さを計る物差しを持っていた。それをもって人の一つ一つの言葉、一挙手一投足を吟味する。そこにピタリと収まる言葉と行いに生きていれば合格、そこからはみ出したり、基準を満たしていなかったりすれば不合格であります。ある意味では分かりやすい、誰にでもはっきりする話です。けれども主イエスがここで身を清められなかったということは、そういったファリサイ派の生き方、人との関わり方に対して、ご自身の行為でもって「否」を言われた、ということなのです。

 そしてファリサイ派ならびに律法学者たちに向かって、厳しい責任追及の言葉が浴びせられる。「あなたたちは不幸だ」、激しい言葉がたたみかけるように放たれる。食卓の席に招いたファリサイ派の人は、さぞかし面食らったに違いありません。私たちの常識で考えてみても、これはあり得ない話です。招いた人にとっては失礼な話です。非常識も甚だしい、ということになるでしょう。食事の席でどんなお言葉を聞くかと思ったら、とんでもないテーブルスピーチが始まってしまった、それがこのファリサイ派の人の偽らざる思いであったに違いありません。

2 (本当に神の栄光か-自分の栄光ではないか?)

「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」(39節)。あなたがたファリサイ派は掟を守って一生懸命に自分の外側はきれいにしようとするが、内側は見るもおぞましい悪い思いで充ち満ちているではないか。主はそうおっしゃる。今日の箇所のすぐ前では私たちを「外から照らすともし火の光」と、私たちの内側に住んでくださり、私たちの目を通して輝き出る「内なる光」について語られておりました。それがここでも続いているといってよいと思うのです。ただここでは、その「外からの光」と「内なる光」との結びつきが失われてしまっている。自分の内側が神に向かって明け渡されていない。依然として自分自身の内面として堅く閉ざされている。御言葉の光が入っていく余地もない。41節で主はこうおっしゃっておられます。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」。ここで見つめられているのは、明らかに外面よりも内面の真実さです。内面が神の前に真実ではないところで、 どんなに表面上の行いを取り繕ってみても、神の前に弁解はきかない。

先日の婦人会の例会の時、私たちが神の栄光を現して歩むとはどういうことか、話題になりました。何を語るにも、何を行うにも、「これも神のため」という思いをそこに刻み込んでいく、そういう歩みをしたいと願う。そういうことが話題になった時、こういう声もありました。「でも神の栄光を現すと言っても、何か表面的な気がするんです」。その通りです。神の御言葉の光によって、私たちの内面が照らし出され、吟味されるのなら、私たちの誰が、安んじて主の御前に立つことができるでしょうか。表面的には問題なく、信心深く歩んでいるように見えていても、心の底まで見通される神の眼差しの前に、私たちが堪えることはできないのです。その意味では、ここでファリサイ派に向けられている主イエスの非難のお言葉から、私たちが自由であるとは決して言えないのです。このお言葉は、私たちにこそ向けられているのです。私たちこそが、ファリサイ派なのです。その私たちが、どうしてなお神の栄光のために用いられると言えるのか、それが、今主が語られている御言葉の急所なのです。

私たちの教会生活のあらゆる場面が、主の御言葉の下、問われてまいります。十分の一の献げ物、それは私たちの献身のしるしです。私たちの命が神のものであることに感謝し、神のご用のために用いていただくことを願うしるしであります。ファリサイ派の人はここでも徹底していた。薄荷や芸香というのは、香りの強い植物で、神への献げ物としてよく用いられていた。それに加えて日常の食物である野菜もまた、必ず十分の一を捧げていた。自分の手許に入ってくるものは何であれみんな、その十分の一を取り分けて捧げていたのです。ところが、それだけ徹底したことをしているところで、肝心な「正義の実行と神への愛」はおろそかにしている、主イエスにそう言い放たれてしまう。「正義の実行と神の愛」という言葉は、「神からの裁きと神からの愛」とも訳せる言葉です。私たちが最も熱心に捧げ物を捧げている、そのところで実は御心から一番遠く離れ、「神からの裁きと愛」を最もないがしろにしてしまっている。これは不思議なことです。本当に不幸なことです。悲劇的なことでさえあります。 あなたがたのしていることは自己満足にしか過ぎない、そう言われているようなものであります。私たちも最初は神の栄光が現されることを願って献金をしていた。奉仕をしていた。それがいつの間にか、献金をし、奉仕を重ねている自分自身の姿に眼差しが移動してきてしまう。自分がどれだけ献金をしたのか、自分がどれだけ奉仕を捧げているのか、そこで今のままではまだ足りない、これでは神に喜んではいただけない、時にこう思い、自分を責める。また時には、あの人この人よりこれだけのことをやっているんだから、まだ自分の方が神に近いと思って妙な安心感に浸っている。そういう自分の姿を眺め回している時、肝心の神ご自身、その裁きへの畏れ、その慈しみの愛への感謝はどこに行ってしまっているのか、結局あなたがたはそこで自分自身の栄光を求めているだけではないのか、主はそう私たちに問われている。  教会生活が長くなるにつれ、私たちの中には信仰者とはこういうものだ、教会とはこういうものなんだ、という枠組みができてきます。それがしっかりとした教会の信仰の筋道に立っているものならよいのですが、往々にしてそれは自分なりの教会理解、自分なりの信仰理解となって、私たちの中で凝り固まってしまう。そしてそれとは違う考え方を許せない。教会のことは自分が一番よく分かっているのだ、その自分の存在をきちんと重んじてもらわなければ困る。そんな思いにとらえられて、周りの人を裁き始めているなら、その時私たちは、会堂の上席を求め、広場で挨拶されることを好むファリサイ派の人とどこが違うと言えるでしょうか。

 そのような私たちの姿は、ちょうど「人目につかない墓」(44節)のようなもので、近づく人たちにも悪い影響しか与えない。当時墓は宗教的な意味での汚れを身に及ぼす場所として、人々に敬遠されていました。墓の上を歩く人が気づかないうちに自分の身に汚れを帯びてしまう。それと同じように、私たちが周りの人を、たとえば教会に新しく来た人を、その人が気づかないうちに汚している、悪い影響を与えているようなことがあり得るぞ、と警告をしておられる。ここまで来ると、ファリサイ派の人が「激しい敵意」(53節)を主イエスに対して抱いたとしても、何の不思議もない。むしろ当然のことではないでしょうか。私たちが適当なところで誤魔化し、取り繕っている外面の信仰生活、その偽りの仮面を主の御言葉が、ここでひっぱがしているのです。

3 (預言者殺しの伝統に連なって)

 この一部始終を聞いていて、黙っておれなくなった人々がいた。律法の専門家と呼ばれる人たちです。先ほどのファリサイ派の人たちが人々に宗教的な教え、指導を与える。その際の聖書的な根拠を示し、解釈を与えるのが律法の専門家の務めでした。ですから、ファリサイ派がこれだけコテンコテンにやられたということは、彼らの聖書解釈の根拠を示していた律法の専門家もまた、侮辱されたに等しいわけです。しかし彼らの反論に対してひるむような主イエスではありません。「その通りだ。あなたがたも同罪だ」と言わんばかりです。「これをしてはいけない。あれをするのも神の栄光を汚す。聖書はそう教えているのだ」、律法の専門家はそう語った。人々に命を与えるはずの御言葉を、その解釈によって殺し、人に背負いきれないほどの重荷を負わせている。ここでは教会の語る言葉が問われている。説教が問題になります。人々を解き放つはずの言葉が、人に重荷を負わせるだけのものになってしまってはいないか。しかもその荷物を共に負うどころか、自分では指一本もそこに添えて手助けする気 がない。そういう説教であり、また説教者になりはてていはしないか。説教者を立ちすくませ、根本から悔い改めを求める御言葉です。このことは、52節でも、言い方を変えて繰り返される。救いの知識に至る扉の鍵を取り上げて、自分が入らないのはもちろん、他の人が入るのも邪魔をしてきた。人々の信仰を指導する立場にありながら、自分自身をも、救いを求める人々をも、滅びに至る道に向かわせている。

 こうした歩みを重ねている中で、あなたたちは預言者殺しの伝統に身を連ねている、主はそうおっしゃいます。「こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである」(48節)。おそらく、当時こうした預言者の働きを記念した石碑があちこちに建てられていたのでしょう。しかしそれらは歴代の預言者たちに敬意を表し、感謝をこめて建てられたものではない、というのです。むしろ神から遣わされてきた預言者たちの言葉に聞かず、先祖たちが彼らを殺害してきた、その行為を正当化し、預言者を死んだままにしておく。口封じしておく。そういう業として記念碑の建立をしてきたのだ。それが主の裁きの言葉です。この血塗られた歴史は、アベルからゼカルヤの血にまで及ぶといいます。アベルは旧約聖書の創世記に出てくる人類最初の人殺しの犠牲となった人です。アベルを殺したのはその兄弟カインでありました。それゆえに、その子孫から増え広がったとされる人類は「カインの末裔」とも呼ばれることとなったのです。 ゼカルヤは、先ほど読まれました旧約聖書の歴代誌下第24章に出てまいりました「祭司ヨヤダの子ゼカルヤ」(20節)のことであります。この預言者もまた、神の霊に捕らえられて語った御言葉を拒まれ、祭壇と聖所の間、神殿の庭で人々に殺害されたのです。当時の聖書は創世記から始まってこの歴代誌で終わっていたと考えられていますので、神の歴史の初めから終わりまで、こともあろうに神の民が、神からの語りかけに耳をかさず、これを拒み続け、神から遣わされた使徒や預言者を抹殺し続けたということなのです。その系譜の中にあなた達も今いるのだ。震え上がらせるような罪の糾弾です。その一連の流された血の責任が、「今の時代の者たち」、つまり私たちに問われるのです。「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる」(50節)。「そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」(51節)。

4 (教会よ、目を覚ませ! 命の御言葉によって!)

 「あなたたちはファリサイ派の人々は不幸だ」、「あなたたち律法の専門家も不幸だ」、「あなたたちは不幸だ」。六回も「不幸だ」、「不幸だ」と繰り返される主の厳しいお言葉。これは主の嘆きの言葉であります。私たちが、教会が、主イエスに叱られているのです。私たちはそこで力無くうなだれてしまうだけでしょうか。あるいはあのファリサイ派、律法の専門家たちのように、今の言葉で言うなら「逆ギレ」して激しい敵意をもって主イエスの言葉じりをとらえようと躍起になるのでしょうか。  ある説教者は、ここには教会を本当に改革する力ある言葉、「教会改革の言葉」が語られていると語ったといいます。神の前でけちょんけちょんにされてしまった教会の現実の有り様、しかしそこからしか本当の教会改革は始まらないというのです。言い直すなら、ここには教会を新しく生かそうとする主イエスの並々ならぬ熱意が注がれているのです。そうではないでしょうか。私たち人間同士の間でも、もし人を本当に立ち直らせ、あるべき姿に立ち帰らせようとするのなら、涙を流し、必死になって、時には語るべき厳しい言葉を告げるのではないでしょうか。もし、こいつは駄目だ、と思ってあきらめたなら、こんなにエネルギーを注いで、その人と関わることがあるでしょうか。ここで主イエスは、罪によって神にそむき、離れ去ろうとする民をなお見捨て給わない。だからこそ、ファリサイ派からの食事への招待にも、喜んで応じて、家に来てくださっているではありませんか。必死になって関わり続けてくださっている。主はここで相手を突き放して批評家風に言い放っておられるのではない。 命がけの御言葉であります。この使徒・預言者殺しの悪しき伝統の中で、ご自身もまた十字架に追いやられ、死へと追いやられることを主イエスご自身がご存知であるのです。しかしその死は今までの預言者の死と全く同じなのではない。その死をもって、預言者殺しの悪しき伝統に終止符を打つ。もはや神の民がこんな調子で歩んでいくことを放っては置かない。この民のおぞましい罪、自分の思いを神とし、気づかぬうちに自分の栄光を追求していた不幸を打ち砕き、まことの神の民として新しい命の内に生かす。神の正義を畏れ、神の愛に感謝するまことの教会を再建する。自分たち自身では刷新できなかった罪の共同体を、神ご自身が、御子の十字架の死を通して新しく生まれ変わらせてくださる。律法の専門家が人々に律法の重荷を負わせ、自分では指一本もその重荷に触れようとせず、助けようともしないそのところで、主イエスが「神の指」(11:20)で悪霊を追い出し、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」、と宣言してくださる。「まあこんなふうにやっておけば教会生活も大体いいだろう。 こんなふうに受け答えをしていれば人間関係も無難だろう。教会の語る言葉も、まあそんなに根を詰めて準備しなくてもこれまでの蓄積を繰り返していけば、型どおりの言葉にはなるが、やっていけないこともないんじゃないか」。そんな誘惑が私たちに忍び寄ってくるその時、そこで畳みかけるような「あなたたちは不幸だ」、という主イエスの叫びがとどろく。そしてその誘惑を追い払い、むしり取ってくださるのです。信仰の背筋を伸ばし、襟を正してくださるのです。

 ここで教会が主のお叱りを受けることは、幸いなことと言わねばなりません。なぜなら、神はここで私たち教会を見捨ててはおられないからです。私たちと、とことん関わり、神の民としての歩みを真実のものとしてくださる。教会の本当の改革も、主の御言葉を聴くところからしか始まらないし、そのことによってしか成し遂げられないのです。私たちは「御言葉によってつねに改革される教会」なのです。そのことを単なる標語に終わらせてはいけない。真実にそこに立つのです。主の恵みによって立たせていただくのです。私たちを愛し、ご自身が私たちに代わって神の裁きを引き受けてくださる。このお方のお叱りの言葉だからこそ、私たちは受け入れることができるのです。それによって新しくされることができるのです。立ち直ることができるのであります。ここにファリサイ派、律法の専門家、つまりはこの私たちに差し出されている、主の招きの御声を聴き取ることができる、その私たちは、本当に幸せなのです。

祈り 父なる神様、あなたが語気鋭く、「今の時代の者たちの責任」を問う、と叫ばれるなら、私共はあなたの御前に安んじて立つことを得ません。恐怖に戦き、裁きにおびえるばかりであります。しかしあなたは今、御子イエス・キリストの十字架の死によって、神の民が犯し続ける過ちと罪をも担い、御言葉の力によって教会をも、いつも新しくし、新しい命に生かし続けてくださいます。これまでの教会の歩みにおいてもそうであったように、今この私共の教会においても、御業を行ってください。私共が信仰のマンネリ化に陥っているのなら目を覚まさせてください。あなたの裁きと愛を見失いかけて、周りの人を裁きだしているのなら、「不幸な者よ、悔い改めて主に立ち帰れ」、この愛の招きの御声をもって誘惑をむしり取り、私共を立ち帰らせてください。そしてここに、与えられている恵みに本当に感謝して生きる、それゆえにあなたの栄光を現す教会を、あなたが御言葉によって築き上げてください。 まことの教会の頭なる、御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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