「神の指」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 申命記、第13章 2節-6節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第11章 14節-26節
・ 讃美歌 ; 99、360
1 主イエスが、弟子の求めに応えて口ずから祈りを教えてくださった。それが主の祈りでありました。この祈りが弟子たちに授けられ、ここに主イエスを中心とする祈りの群れが生まれ出ました。父なる神と御子との間にあるこの上ない親しい交わりの中に、この祈りを祈る者を誰でも招き入れてくれる、そういう祈りです。この祈りを祈ることによって、主イエスの祈りの世界に導き入れていただける、そういう祈りです。その祈りを祈る時の姿勢、祈りのこころを示されたお話の最後に、主はこうおっしゃいました。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。すべての祈りは聖霊を求める祈りに行き着くことになる、そうおっしゃろうとしているような御言葉です。聖霊に支えられて、父なる神が目の前で今の自分の祈りを聴いていてくださる、そしてこのお方が私と共に歩んでくださる、その幸い、喜びに生かされた群れが、こうしてここに生まれました。 さて、このようにして出発した主イエスの祈りの共同体は、さい先よく歩み始めたといえるでしょうか。今私たちに与えられている御言葉によれば、決してそうではない、いやむしろ初めから論争の中に、闘いの中に巻き込まれていったというのが正確なところだといえるでしょう。聖霊が語られた直後に、それは悪霊のしわざ、悪霊の頭であるベルゼブルの仕業と非難される仕打ちを受けるところとなったのです。祈りの群れの特徴がしっかりと現れ出た時、それはほかの群れ、周囲の人たちとの違いを鮮明にすることともなります。そこでその違いが本物の救いに基づく違いなのか、ほかの祈りの群れにはない、真理があるのかどうか、はっきりと示してみろ、という論争が始まっていくのです。
2 主イエスが口の利けない人から、悪霊を追い出しておられた。それを周囲の人がどう受け止めたのか、が今日の出来事の出発点です。周りを取り囲んでいた群衆は驚嘆した。しかしその中にこそこそと陰口をささやく人たちもいたのです。ひょっとしたら口にも出さずに、心の中でさげすむような思いとともに、こんなふうに受け止めていた人たちがいたのです。 「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)。あるいはあからさまに、主イエスを試そうとして「あなたがもし聖霊とやらによってこれらの業を行っているのであれば、その証拠をはっきりと見せて欲しい。これが神の業だというのなら、天からはっきりとしたしるしを降らせてみろ」、と迫ったのです。このしるしの問題については、主イエスは29節以下で詳しくお応えになっておられますが、今日の箇所では、初めの方の陰口、「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」、という冷ややかで突き放したような言葉が、主イエスによって取りあげられています。 この陰口を心の中でつぶやいた人は、主イエスのお姿を目の当たりにしながらも、そこにまったき主の救いを見ることができなかったのです。どこかで距離を感じているのです。これが本当に神の御業である、ということについて不確かさ、おぼつかなさを感じているのです。ベルゼブルという名前については、もとの意味に関していろいろな説明があるようですが、有力なものの一つは「家のあるじ」というものです。悪霊の家のあるじがいて、このあるじが支配する家から、子分である悪霊たちがバーッと世の中に飛び立ち、出かけていき、いろいろな人の中に入って悪さを働いていると考えられたのです。そこでその「家のあるじ」が、「おい、もうそれくらいでいいぞ。家に帰って来い」、と言って、悪霊の家へ帰還命令を出している。主イエスの悪霊追放は、そういうふうに見られたわけです。そういうふうにして説明を済ませることもできたわけです。だからこの人はこう思ったのです。「これだけではこのお方に自分を委ねることなんかできやしない。どうせ悪霊の親分の力を借りて、悪霊同士の中で八百長をやっているんだろう。仲間同士で打ち合わせておいたとおりに、悪霊が出ていく様をドラマチックに見せて、それでもってこの私をペテンにかけようとしているんだろう。そうはいかないぞ」。主イエスが今ここでなさっている御業、そこに信頼を寄せ、そこにすべての希望をつないでいく、主イエスにすべてを委ね、ほかに何の助け、支えも必要としない、そこまでの気持ちにはまだなれないのです。そこまでするには、まだこれだけでは心許ないような気がしているのです。これは言い換えれば、今主イエスにおいて始まっている神の国のリアリティーが、なかなか実感できないでいる、ということです。 そう考えると、これはなにもこの人だけの話ではない。私たちもまた、実にしばしば、神の国のリアリティーを感じる心が鈍くなっているのではないでしょうか。イラクで流血の災いが繰り返されている、祈りを重ねているが、事態はなかなかよくならない。アメリカではハリケーンで大変な被害が出ている。心を締めつけられるような映像が日々流されている。テレビのニュースは毎日のようにこれでもか、これでもかと、耳を覆いたくなるような事件を報道している。「神様なんて本当におられるのだろうか」、「本当に神様はこの世界を支配しておられるのだろうか」。世の中の現実に直面して、私たちはあまりにも軽軽しくそう口にしてはいないでしょうか。少なくともそういう思いに捕らわれてはいないでしょうか。また周囲の人々も実際、そういう問いかけを仕向けてくる。私の母は、教会員を病床に訪ねた時、病院の先生から「祈っても治らないよ」と言われたことがあります。「お前の神はどこにいるのか」、詩編の詩人を悩ませた「神に逆らう者」の声が、私たちにもしばしば聞こえてくるのです。今日一日、いやこの一週間であってもいい、振り返ってみてここに神がおられた、ここで神が働いておられた、と確信をもって言える時があったのか、どれだけあったのか、と悪魔に耳元でささやかれているような思いがしてくる。「あるなら我らにも分かるように、それを示してみろ」、と迫られているような思いがして息苦しくなってくる。 そうすると、問題になっているのは、実は主イエスの不確かさではないのではないか。主イエスのなさっていることが果たして神の御業であるかどうか、怪しいものだと評価をしている私たち自身が問題なのではないか。19節によるなら、この当時、主イエスのほかにも悪霊払いをしている人たちはたくさんいたのです。今群衆が、主イエスの御業にけちをつけるということは、少なくとも見かけ上は同じような悪霊払いをしていた彼らの仲間のしていることも信用に価しない、と彼ら自らが判断していることになるのです。おそらく彼らは普段は悪霊払いをしてくれる仲間たちに尊敬の言葉を捧げ、感謝のほほえみを向けて接していたはずです。けれども心の中では「どんなもんかね」と疑いの眼を向けていた。19節の主イエスの問いかけは、そういう群衆たちの偽りの信心を暴露するのです。自分たちの仲間の悪霊払いも信用していない、今主イエスのなさっている御業も心の中でさげすんでいる。彼らの世界観は大変悲観的なものであります。この世界のどこにも、神が生きて働いておられるのが見えないのです。いや、見ようとする心が重く閉ざされている。その願いが押し殺されてしまっている。それゆえに神がここに働いておられる、その出来事に自分の身を委ねていくことができない、この私たちの中にある不確かさ、おぼつかなさこそが、問題なのではないでしょうか。その自分の中の不確かさをごまかして、それを主イエスの中にある不確かさにすり替え、やれあれは悪霊の頭の力を借りているからできるんだ、やれ天からのしるしを見せてみろと言って心の中ですごんでいる。それが私たちの姿なのです。
3 しかし主イエスのそれに対するお応えははっきりしている。「わたしは神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。今ここで起こっているのは、サタンの仲間たち同士の内輪もめなどでは決してない。そうではなく、ここで起こっているのは、神の力とサタンの力とのせめぎ合いであり、戦争なのです。だからこそ、ある人は23節をその意味を汲み取りつつこう訳したのです。「だからわたしは言う、神と悪魔との戦いはすでに始まっている。わたしの側に立たない者は、わたしに反対する者、わたしと一しょに集めない者は散らす者である」。今、主なる神が悪魔と戦うために地上で働いておられる。その働きはどこで分かるか。神の指が動き、働かれているところで分かるのです。ある人が何か一生懸命に仕事をしている。その人が何をしているのか、それを見出すために私たちがするのは、その指先に注目をすることです。そこで何がなされているかを見るために、指先に注目をするのです。 その指先に、その人が今なしている仕事の最前線がある。同じように、今主イエスが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、そこに神の御業の最前線があるのです。そこに迫ってきている神の国の最前線があるのです。 「神の国はあなたたちのところに来ている」、ここの訳し方にはさまざまな解釈があるようです。その中で注目してよいのはこういう訳です。「神の国は触れることができるほどそばにまで近づいてきている」。これは微妙な意味合いを醸し出しています。神の国は、私たちが手を伸ばせば触ることができるほどそばまで近づいている。しかし私たちが手を伸ばさなければ触れることができないわけです。すぐそばまで来ていながら、それに触れようとせずに、あれはベルゼブルの仕業だとレッテルはりをして、そこで起こっている出来事の真実を見損なうことだってあり得るわけです。私たちの救いは、神からの一方的な恵みである、教会では繰り返しこのことが語られます。そしてそれはその通りです。しかしそこで私たちが手を伸ばしてこの恵みに触れ、神の御業に自分自身を明け渡していくのか、それともそれはあの口の利けない人だけに起こったことであってこの自分とは関係ない、と突っぱねるのか、その違いは決定的なのです。私たちを救うために、今目の前にまで、神が来てくださり、その指をもって私たちを探し回っていてくださるのです。主イエスにおいて、神の指が忙しく働いておられるのです。どうかその指に手を伸ばし、ほかでもない、あなたの上に働いてくださる主の御業として受け入れてほしい、神の恵みのご支配を受け入れてほしい、それが主イエスの願いであります。
4 ここにおいてはもはや、傍観者の態度とか、中立的な態度はあり得ません。「わたしに見方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(23節)。神の側に、神と共に立つのか、それともサタンの側に立ち、神と敵対するのか、どちらかしかないのです。評論家風の態度は許されません。いやそういう態度は既にサタンの側に荷担していることになるのです。主イエスに見方しない者は、既に主イエスに敵対する者となっているのですから。 ということは、私たち自身も、いつも主イエスに敵対する者の側にまわってしまう危険を秘めているということではないでしょうか。神の恵みのご支配を見失ってしまいそうになる。心萎えて、いったいどこに神のご支配があるというのだ、と神に愚痴を並べ立てたい気持ちに駆られる。この世界を見渡してみて、神の恵みのご支配よりも、悪霊たちが結束して暴れ回っていると解釈した方が、世の中すんなりと説明できるような気持ちにもなってくる。教会学校で育った子供がやがて成長していく中で、やっぱり世の中は聖書が語っているものとはちょっと違う。もっと現実に即して生きていかなくてはならないんじゃないか。そう思って教会と距離を取り始める。そこにも、サタンの支配に荷担する方向へ引きずり込もうとする誘惑が働いているのです。 信仰に生きる者とは皆、この神の指の業によって悪霊を追い出していただいた者です。神の国がまさに私たちのもとに来たことを信じ受け入れ、手を伸ばしてその恵みに引き入れていただいたはずの者です。ところが私たちの方がその恵みに留まり続けることができず、世の中の論理の方に魅力を感じ、神の恵みのご支配を見失いかけてしまう。その時私たちは心を頑なにして新しい主人として心の中に入ってきてくださろうとしている主を拒んでいるのです。その結果、私たちの心の中は誰も主人がいない、空虚な状態、真空状態になってしまう。心の中に隙が生じるのです。そうなったら悪霊にとってはチャンスなのです。「出て来た我が家に戻ろう」と言い、自分よりも悪い七つの霊を引き連れて、ずかずかと心の中に押し入ってくる。一度信仰を与えられ、洗礼を受けたにもかかわらず、教会から離れてしまったら、その状態は信仰に入る前よりも悪くなってしまうのです。洗礼を受けて神のものとされたのに、教会から離れ、礼拝から遠ざかってしまって久しい人。私たちが痛みに覚え、最後は神がもう一度呼び戻してくださることを信じ祈り続けるしかないのが、この再び戻ってくる悪霊の危険にさらされている方々なのです。いや人ごとではない。私たちもまたいつもそういう危険にさらされている。その時私たちも言い出し始めかねません。「あの男は悪霊の頭、ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているだけさ」。 主イエスの御言葉は、主イエスへの信頼を失いかけているそんな私たちを取り戻すための呼びかけにほかなりません。そもそも、あの心の中で陰口をたたいていた人たちを、主イエスは無視することだってできたはずです。心の中でぶつぶつ言っているだけなわけですから、放っておくことだってできたわけです。しかし主イエスは彼らの心の中を見抜き、だからこそここに繰り広げられる真剣な対話が始まったのです。ということは、主イエスはここで単に論争しているだけなのではない。ここで主イエスは何よりも、あの陰口をたたいている人たちにこそ真の神に立ち帰ってほしい、今始まっている神の国に、あなたも手を伸ばして引き入れてもらってほしいのだ、神の指の働きに身を委ねてほしい、そう語りかけておられるのではないでしょうか。ほかでもない。神の恵みのご支配を見ようとしない人、さらには一度悪霊を追い出していただいたにも関わらず、お迎えしたはずの新しい主人である神を見失ってしまっている人、そういう私たちこそが、主イエスの最大の関心事なのです。
5 先ほど読まれた旧約聖書、申命記第13章には、預言者や夢占いをする者たちが示すしるしや奇跡に惑わされるな、という呼びかけが示されていました。主に従い、主を畏れ、その戒めを守り、その御声に聞き、主に仕えつき従えと命じられているのです。「その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らはあなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなた達の神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない」(6節)。救いに与ったはずの者の歩みを迷わせる力、偽の預言や夢占いもまた悪霊の仕業です。自分の中に入り込んで住み込むこの悪霊を、ついぞ自分で取り除くことはできない私たちです。だからこそ、神の独り子であられる主イエスが私たちのもとにまで来られて、神の指として働いてくださり、ついには十字架にまでお架かりになられたのです。そしてなお悪霊に誘惑されそうになる私たちを、ご自分のものとして取り戻される戦いを戦ってくださるのです。そうして私たちを立ち直らせ、わたしの味方となって共に戦って欲しい、そう呼びかけてくださいます。 最近私は教会員の方と「礼拝を『守る』」という言い方がなされるのはなぜかということを巡って語り合う機会を与えられました。礼拝を「行う」とか礼拝に「与る」という言い方の他に礼拝を「守る」というのはなぜか。考えてみると興味深いことです。私がそこで思い当たったことは、私たちは洗礼を受けて神のものとされて、そこで終わってしまうのではない。むしろそこで自分自身をいつも神のものとして生き続けるための戦いが始まるのではないか、ということです。常に忍び寄ってきて私たちを主が歩むようにと命じられる道からそらせようとする悪霊の誘いと戦うのです。まことに主を主とする、礼拝に生きる歩み、それは守られなければならない。悪霊に脅かされる自分といつも戦って、新しく勝ち取られ、守り通されなければならない歩みなのです。
6 今日の箇所の直前で主の祈りが教えられていることは理由のないことではありません。私たちは聖霊に支えられて、祈りの戦いに入っていくのです。「私たちを誘惑に遭わせないでください」、「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」、そのように祈り続けることで、御国の共同戦線に、主と共に立つのです。主と共に立ち、主と共に新しく起こされる神の民の群れを集める働きに生きるのです。 ここ数ヶ月にわたって、三名の方の病床での洗礼が行われました。私もそのうちのお一人の方の病床洗礼に立ち会わせていただきました。まさにここに神の恵みのご支配があることを思いました。もはや悪霊の支配は取り除かれ、新しい命が脈打ち始める。神の恵みのご支配がそこにおいて始まっているのです。悪霊が追放された後、あるじがいなくなるのではない。そこに神の指が届いて、主イエスがあるじとなって私たちの内にすんでくださるのです。そしてもう二度と悪霊に譲り渡さないために戦ってくださる。その共同戦線を一緒に形づくろうと呼びかけてくださるのです。神の国は目立つ形で、誰の目にもはっきりと分かる形でやって来るのではない。しかし一人の人が神のものとして取り戻される時、確かにそこに来ているのです。いつもと変わらない営みが続いているようにしか見えないかもしれない、とある病院の一室にも、神の国がやって来るのです。 今日はこの教会の創立131周年を記念する日です。歴史の重みに耐えて、教会が歩みを続けてくることができたのは、主イエスに担われ、主イエスに支えていただき、御国のための戦いを主と共に戦ってくることができたからです。何よりも自らの中に生まれる心の隙との戦いを、主と共に戦ってくることが許されたからであります。主イエスに味方し、主イエスと共に神の民を集める群れとして歩み続ける思いを新たにする。ベルゼブルを追い出していただき、主の恵みのご支配が貫き通った家として、いつも自らを新しく受け取り直す、そのための祈りの戦いを主イエスと共に戦い続ける。それがこの日、私たちの教会が、主の御前で、この世に向かって宣言すべき所信表明となるのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、汚れた霊がもっと悪い霊を引き連れてきて、いつ帰ってこようかと隙をうかがっている、そんな誘惑に絶えずさらされ、あなたの恵みのご支配を見失う危険にいつもさらされている、そんな弱さともろさを抱えた自らであることを恐れをもって覚えます。どうか今ここに介入し、御業を行っていてくださる神の指、主イエスの御業を見させてください。あなたがここに行ってくださる恵みのご支配に身も心も委ね、あなたのものとされた自分自身であることを、いつも新しく受け取り直し、その現実にふさわしい歩みを、主イエスと共に刻んでいくことができますように。今礼拝から離れ、教会から離れてしまっている友にも、このあなたの心からの招きの御声を、どうかとどろかせてください。 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。