夕礼拝

神の救いを仰ぎ見よ

「神の救いを仰ぎ見よ」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第40章 1節-11節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第3章 1節-6節

 
1 洗礼者ヨハネが活動した時代について、福音書は丁寧に説明しています。それはローマ皇帝ティベリウスの時代、その治世の第15年のことであったといいます。これは紀元28年か29年の頃といわれています。この皇帝は初代皇帝アウグストゥスの皇位を継いだ2代目であり、帝国をヨーロッパに拡大するために力を注いだ一方、保守的な政策をとって異教を弾圧しました。イタリア本土ではユダヤ教律法の遵守を禁じ、多くのユダヤ人を追放したといわれています。
    ポンティオ・ピラトはローマが派遣した第5代のユダヤ総督です。この人もまた、過酷な政治のゆえにユダヤ人から好意を持たれませんでした。残忍な性格の持ち主で、ガリラヤ人の血を犠牲の捧げ物に混ぜて供え物としたことを聖書は伝えています(13:1)。後にユダヤ人の暴動が起こった時、その責めを負わされ、ローマに送還された後、自殺したと伝えられています。
     ヘロデはここではヘロデ・アンティパスのことで、ヘロデ大王の2番目の息子です。父の死後、ガリラヤとペレアの領主となりました。主イエスが十字架刑に処される前に、ピラトから送られてきた主イエスを審問したのはこの王です。性格は狡猾で迷信深く、主イエスにも「狐」と呼ばれました。
     その兄弟であるフィリポはダマスカスの南にあるイトラヤやトラコンなどを初めとする多くの地方の領主でした。フィリポ・カイサリアやユリアスといった町を建設したと伝えられています。リサニアはダマスカスの西、ヘルモン山の北にあるアビレネという地方の領主でした。さらにアンナスとカイアファの二人は大祭司であり、この時代の宗教的な最高責任者です。しかもこの二人はしゅうとと娘婿という親戚関係にありました。
 こういった政治的・宗教的な世界の中にあって、洗礼者ヨハネは活動を開始します。それはこのような世界に救い主が来られることを告げ知らせるためにほかなりません。救い主はあるはっきりとした時代、時間、場所にやってこられたのです。昔話や神話のように、「昔々、あるところに」と言って始まるのでは決してありません。福音書はいついつどこどこで、誰の治世に、これこれの人がかくかくの職務にあった時に、と逐一説明して語り始めるのです。そのこと自体に意味があります。
神は抽象的な世界、わたしたちとは関係のない世界に来られたのではありません。先に挙げたような支配者がこの世界を統治し、その中で悩み苦しんでいる民の只中に向かってやって来られたのです。この世界の、具体的な歴史の中にやってきて、働きかけてくださるのがわたしたちの信じる主なる神です。神がそのようなお方として、わたしたちにご自身を現してくださったのです。今指路教会では125年の教会の歩みを綴る教会史編纂の作業が続けられています。この作業もまた、神が歴史の中に働きかけて、創立以来の教会の歩みをどのように導いてきてくださったのか、その恵みの跡を辿り、主に御栄を帰する営みです。それは単に歴史的事実を書き連ねる作業ではありません。歴史的事実の中に、深い顧みとご計画をもってわたしたちに関わられる主の慈しみと栄光を仰ぎ見る営みです。
それと同じように、わたしたちの日々の具体的な歩みも、主の深い顧みの中に数え入れられています。朝起きて、食事をし、仕事に出かけたり、学校で学んだり、友人や家族と話したり、新しい出会いが与えられたり、思いもかけぬ試練や困難に直面したい、家族の看病に心を砕いたり、子供が生まれたり、・・・そういった日常の具体的な歩みの只中に、神は深いご計画をもって入って来られるのです。そのことに目を開かれた者だけが、その時、その場で「神の救いを仰ぎ見る」(6節)ことを許されるのです。
今、この神がこのわたしたちの歩みの中にやって来られることをはっきりと告げ知らせ、そのために準備をするように呼びかけている者が洗礼者ヨハネなのです。しかもそれが始まったのは「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(2節)ことによると言います。この箇所は口語訳では、「神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」と訳されています。神の言葉が「降る」ということは、とりもなおさず神の言葉が「臨む」ということなのです。「降る」も「臨む」も、それがわたしたちの内側にはないことを現しています。それは天から、上から、降ってこなければならないのです。わたしたちの外からやって来て、わたしたちのそばに、魂の真ん中に、とどまっていただかなくてはならないのです。そのようにして本来わたしたちの中にはない神の言葉が、わたしたちのところにやって来てくださり、わたしたちと関係を結んでくださる、そういう出来事がわたしたちの歩みの只中で起こるのです。
この教会の伝道師には、礼拝に先立って主の日に朗読される聖書の箇所を開いておく務めがあります。夜帰る前に、誰もいない礼拝堂で、講壇の照明だけをつけて聖書を見上げます。それは次の日に読まれる神の言葉をその内に秘めている聖書です。明日その箇所が読まれる時、その御言葉が聞く者にとって自分にとっての事柄となる、そういう出来事が起こる言葉が秘められている聖書です。そういう御言葉を内に湛えている聖書を開きに講壇を上がるとき、深いおそれとおののきを感じます。たとえ少しでも目を閉じて、頭を垂れ、思いを沈めて祈ってから上に上がる習慣ができてきました。それはそこに「聖」なるものを感じるからです。他の教会を訪ねる機会がある時、礼拝堂を見せていただく機会があります。その時もわたしたちはなんとも言えない聖なる雰囲気を感じます。帽子をかぶっている人は自然とそれを取ります。中には近くの座席に腰掛けてしばらく頭を下げて祈りを捧げる人もあります。日々の歩みの只中で、神の出来事がわたしの上に起こる、神の聖なる清らかさ、神が今この場に臨んでおられることの畏れ多さ、そういうものをビンビンと感じ取る時があるのです。
洗礼者ヨハネも、この時その聖なる神が臨んでおられることを生き生きと感じさせられたに違いありません。 

2 神の言葉に打たれたヨハネがヨルダン川の地方一帯に行って宣べ伝えたのは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」(3節)でした。それまでにも、洗礼と呼ばれるものが全くなかったわけではないようです。ユダヤ教の一部では、宗教的な清めの儀式として身を水に浸すことが行われていたようです。しかしヨハネが授けた洗礼の独自なところは、この洗礼が「罪の赦し」と「悔い改め」に結びついているところです。神が今この場に臨まれる、という時、人間には畏れが生じます。恐くなるのです。不安になるのです。心臓が早く鳴り出すのです。心が波立つのです。どうしてでしょうか。それは神がこの上なく聖なるお方であることを知る時、わたしたちはその前に立つことなど到底できない、救いようのない罪人であることを知らされるからです。「迫り来る神の怒り」を感じるのです。そのままでは神の怒りの炎を受けて焼け死んでしまうことを知るのです。御言葉を内に秘めた講壇の上の聖書を見上げる時、礼拝堂に歩み入る時、そのままでは神の前に立つことを決して許されない、自らの罪と、神の恐るべき裁きを明らかにされるのです。その時にヨハネが伝えたのが、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」であったのです。ヨハネが伝えようとしたのは、今まさに神がこの世界においでになる、それは迫り来る神の裁きを意味する、だから我々はそのことについてふさわしき準備をしなければならない、それは神の下に立ち返って心と思いを神に向けることだ、そういうことなのです。
 この呼びかけは預言者イザヤの預言の成就だ、と福音書は証ししています、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」(4-6節)。荒れ野は人間が神と出会う場所です。モーセが神に見えたのも荒れ野でした(出エジプト3:1)。イスラエル人が40年を過ごしたのは、シナイ半島の荒れ野でした(出エジプト15、民数記14:32)。モーセは荒れ野で神とまみえた時、神の言葉を受けました、「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(出3:5)。またイスラエルの民は神に背き、反逆したために、40年の間荒野をさまようこととなったのでした。荒れ野とは、そこで人間の罪の現実が暴かれ、神の前に曝され、そこで神の裁きが明らかになる場所なのです。神が臨まれるその場にあっては、すべての人間の世界における高い、低いといった事柄はすべて意味のないものとなります。経歴や才能、身分や家柄、職業や財産、社会的な影響力や名声などはまったく意味のないものとなります。すべては神の前に同じ高さで、同じラインに立たされて、裁きの場に引き出されるのです。わたしは先日神戸を訪れ、平敦盛と熊谷次郎直実が戦ったと言われる一の谷の古戦場を見学する機会がありました。一の谷は深い谷で、そこに隠れていた平家の軍隊は、谷を越えてきた熊谷次郎の軍に奇襲攻撃を受けて大変慌てたと言います。神の前に立たされるとは、そのように、神の前から隠れて、これでもう大丈夫と高をくくっていたところを奇襲攻撃されるようなものです。隠れていたところ、避けていたところから引きずり出されて、神の前に立たされるのです。すべての谷は埋められ、山と丘はみな低くされ、神の前に同じように立たされるのです。

結 けれどもその裁きの只中で同時にわたしたちは「神の救いを仰ぎ見る」というのです。なぜ裁きのど真ん中でわたしたちは「神の救いを仰ぎ見る」のでしょうか。その裁きをすべて引き受けてくださった方がいるからです。すべての罪が暴かれるあの荒れ野で、すべての悪の誘惑と戦い、これに打ち勝ってくださった方がいるからです。このお方こそ、主イエス・キリストにほかなりません。このお方を洗礼者ヨハネは指し示しているのです。ヨハネの洗礼は、民を悔い改めに導き、「自分の後から来る方、つまりイエスを信じるように」(使徒言行録19:4)と宣べ伝えるための洗礼だったのです。この洗礼は「主の御名による」洗礼、主イエスのお名前と結びついた洗礼へとわたしたちを導くのです。そこでわたしたちは神のものとされ、自らの罪に死に、反逆の民から神の民へと造りかえられて、新しい命に生き始めるのです。その時礼拝は、神の臨在の前に自らの罪が暴かれる場であると同時に、その罪がキリストのおかげで完全に赦されていることを知らされる恵みと喜びの場となります。イエス・キリストにおいて、神の裁きの只中で恵みと喜びが満ちあふれるということが起こるのです。礼拝はそれが起こる場所です。畏れと喜び、裁きと赦し、恐怖と感謝が同時に生まれるのです。
 現代の社会は「おそれ」を失っている時代です。何でも思い通りになるかのような錯覚を持ってしまう時代です。人の命さえも、自分の思い通りになるかのようなとんでもない勘違いをする人も増えています。それは「神への畏れ」や「神への立ち返り」、「悔い改め」ということを知らないからです。それゆえに神へのまことの感謝も知らない世界になっています。しかも日本の社会にあっては、神の言葉を聞いたにも関わらず人々がそれに背を向けている、という場合だけではありません。それよりも神の言葉そのものに、そもそも触れる機会さえ持っていない場合の方が多いのです。教会の責任は大きいと言わなければなりません。あの洗礼者ヨハネのように、教会は、またわたしたち一人一人は、「荒れ野で呼ばわる者の声」とならねばなりません。神の言葉を宣べ伝えて、日本の社会と世界をまことの悔い改めに導くのです。共に神の前に立つ罪人として、しかし赦されている罪人として、神の前に立ち返るよう、招かれていることを証しするのです。そうする使命にわたしたちは召されています。この国と社会、世界が切なるうめきと悩みの中で、教会がその使命に生きることを深いところで求めているのです。その魂の荒れ野の餓えと渇きに、教会が真実に応え、共々に神の救いを仰ぎ見る者として召されていることに感謝しつつ、御言葉を携えて証しの歩みへと押し出されていきたいと思います。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、わたしたちは礼拝に与かる時、自らの罪を暴かれ、おそれとおののきに深くとらわれます。しかしまた、主イエス・キリストのゆえにその罪を赦され、あなたの救いを仰ぎ見る者ともされていることを示され、心の底よりの感謝と讃美を捧げます。どうかあなたの裁きと悔い改めと、罪の赦しの福音を求めて悩み苦しんでいるこの世界に、わたしたちが「とこしえに立つ神の言葉」を携えて証しの歩みへと押し出されていくことができますよう、力をお与えください。すべてのささやかな出会いや言葉、行いも、あなたが清め別って御業のために用いてくださることを信じます。何よりも、わたしたち自身があなたの裁きと恵みの前に立たされている者であることを、礼拝のたびに真実に味わわせてください。
 今日、牧師の就任を正式に迎えたこの教会が、いよいよ喜んで主の業に励み、御言葉の灯台として、この港町を明るく照らし導くことができますよう、聖霊の光を豊かにお注ぎください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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