「必要なことはただ一つ」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 詩編、第27編 1節-14節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第10章 38節-42節
・ 讃美歌 ; 51、59、27
1 私たちが人を家に迎え入れる、というのは結構大変なことです。自分の場合を考えても、まずは部屋の掃除をするところから始めて、いろいろな準備を前からしておかなくてはならないだろうと思います。まして先生とか、親戚だとかが突然訪ねてくるなどとなったら慌ててしまうに違いありません。また、私たちは教会の集会のために多くの家庭をお訪ねしますが、そこで集会が行われるために、背後では心を込めたさまざまな準備が行われていることを、忘れてはならないと思います。けれども、そういった準備が煩わしくなり、重荷と感じられてきたとしたら、私たちは立ち止まって考えてみなければなりません。立ち帰るべき所があるのではないか、と。
2 主イエスとその一行が旅を続けていく中で、ある村にお入りになることがありました。この村で主イエスを迎え入れたのがマルタという名前の女性でした。不思議なことに、主イエスは弟子たちと一緒に旅を続けていたのに、この家に迎え入れられているのは、どうも主イエスお一人のようであります。もしかすると、この一行のそれぞれが、この村のいろいろな家に宿を取り、主イエスは特に用意された主賓用の家に宿泊されたのかもしれません。おそらく予め主イエスがお立ち寄りになることが知らされ、この家では心を込めた準備がなされてきていたのではないでしょうか。なかでもマルタは主イエスを迎え入れ、もてなすために中心的な役割を担っていたはずです。家を訪ねてくる人を迎え入れるというのは、なかなか大変なことです。面倒なこともいろいろあります。まして主イエスのようなお方をお迎えするのです。ぬかりなく準備しなくてはなりません。「失礼があってはいけない、念には念を入れて準備をしなくては」、彼女はそう思ったことでしょう。人を家に迎えるためには、長い時間をかけて準備をしなくてはなりません。部屋も掃除をしなければなりません。何よりも食料の買い出しをして、食事の準備をしなくてはなりません。
いよいよ主イエスが到着されました。水で足を洗い、家の中へ招き入れます。腕によりをかけて作った料理の品々を食卓の上に広げようと、マルタは準備にとりかかりました。ところが、気ぜわしく立ち働いているマルタをよそにして、主イエスのお話にじっと聞き入っている女性がいました。マルタの妹、マリアです。マリアは主の足下に座って、その話しに聞き入っていた、とあります。「聞き入る」という言葉は、前の口語訳の聖書でも同じように訳されています。それはただ漫然と聞いているのではない、すべての注意をそこに集中して、熱心に聞き込んでいる、という状態です。主イエスがお語りになっておられる世界に入り込んでいる、潜り込んでいます。御言葉の中に入り込んでいます。足下に座って話を聞く、という姿勢は神の掟を教えるユダヤ教の教師から話を聞く時、弟子たちが取った姿勢です。話を聞く者たちは、自分の身を低め、その足下に身をかがめて、語られる言葉に聞き入ったのであります。そのようにして上から語られる権威ある言葉に服する姿勢を現したのでしょう。マリアも今、主イエスの足下に身を低くして、「主よ、お語り下さい。私はあなたの御心を知りたいのです。そしてあなたの言葉に従いたいと願います」、そういう祈りを内に秘めながら、耳を傾けているのです。
ところが姉のマルタの方は、このマリアの様子が気になって仕様がありません。マルタは訪ねてくださる主イエスを喜ばせよう、もてなそうとして心を尽くして準備をしてきましたのです。大変な努力を払ってきたのです。すべて主をお迎えするためです。主に喜んでいただきたいがためです。それなのに主イエスからはねぎらいの言葉一つかけていただいていません。妹のマリアは自分を手伝ってくれさえしないで、さっきからずっと主の足下に座ってお話を聞いてばかりです。全然気の利かない妹のほうが、主のお近くに場所を取っていい思いばかりしている。自分の苦労が全然報われていないではないか、そんな不満がマルタの中にこみ上げてきたとしても、それはむしろ当然のことなのではないでしょうか。
3 実はこのマリアのように、神の言葉を女性が聞く、ということは当時として考えられない、革命的なことでありました。キリスト教のラジオ放送を行っているFEBCという放送局が出している機関紙がありますが、その今月号に、カトリックの幸田和生という神父の方が、この箇所についてお話をされている記事が載っています。それによりますと、当時、女性は律法を守る義務などなく、礼拝の義務もなかったというのです。ユダヤ人であり、成人であり、男性である、そういう人が律法を守り、礼拝をし、神の言葉を学ぶのであって、女性はその男性に仕えることが求められていた、というのです。そういう状況から見ますと、ここでむしろ女性にふさわしく振舞っているのは姉のマルタの方だということになりましょう。マルタの方が女性としての分をわきまえており、それに従って忠実に働いていたのです。だからこそ、自分を手伝いもしないで、女性の務めを放棄して、主の足元で話を聞いてばかりいる妹のマリアが許せなかったのです。食事をテーブルに運んでくるたびに、相変わらず主の足元に座って話に聞き入っているマリアの姿が目に映って不愉快でしょうがないのです。
マルタは家事をきちんと切り盛りするしっかり者の女性です。そしておそらくそのことに対する自負があったでしょう。自分もなかなかの者だ、という思いがあったでしょう。自分は女性としてやるべきことをしっかりやっているのです。人からほめられれば、「いえ、そんなことありませんよ」と言って謙遜の姿勢を示したでしょうが、心の底では人よりもしっかりしている、というある優越感があったでしょう。一方、マリアはあまり気が利くほうではなかったでしょう。気配りをしてきちんきちんと家事をこなすタイプではなかったかもしれません。いや彼女も、普段は姉のマルタほどではないにしても、それなりに家の働きは担っていたでしょう。けれども、今彼女はそういった務めをはるかに超える緊急性をもった出来事が家の中に起きているのを鋭く感じ取っていたのです。それは主イエスが今、自分たちの家を訪れてくださっている、ということです。マリアは姉のマルタがどんな苦労をしているか、そのことへの気配りは足りなかったかもしれないが、そのことをはるかに上回る、のっぴきならない大切なことが今この家で起こっていることを感じ取ったのです。食事の準備をどうするかといったことよりもはるかに勝って、今すべての注意を集中してそのお言葉を聞くべきお方の前に身を低くしたのです。
今マルタには、主イエスのお姿が見えなくなっています。男か女か、大人か子どもか、ユダヤ人かその他の土地の人か、そんなことに関わりなく誰にでも開かれている主の言葉、主の招きが聞こえてきません。主イエスなんかよりそばで話を聞いているマリアの姿の方が悪い意味ではるかに大きくなって見えています。気になってしょうがない存在になっています。「この女のせいで、主イエスに対する自分の奉仕も顧みてもらえなくなってしまった。誰にも気づかれない、無意味な奉仕に終わっているではないか。イエス様だってあのマリアに同調して、一緒になって私の奉仕を無意味にすることに荷担している。いったい自分の苦労をどう思っているのか!」、これがマルタの心の中の叫びではないでしょうか。それゆえにマルタは怒り心頭に発して、つかつかと二人のそばに歩み寄り、叫んだのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)。
注目すべきことに、マルタは妹のマリアに手伝うよう直接命じるのではなしに、主イエスに向かって、主イエスを責めるようにして訴えているのです。「あなたから言ってやって下さいよ!あなたも気が利いていないんですよ」、と言いたげな感じです。いや、「そもそも私がこんな不満な思いをさせられているのは、ほかでもない、あんたのせいだ」、とでも言わんばかりではないでしょうか。
4 こういうことは決して私たちと縁遠いことではない、いやむしろ大変身近な話であります。私たちはしばしば、人のために奉仕しているつもりになっていながら、その自分の奉仕が相手から受け入れられないと、大変な苛立ちを経験するのです。時には自分の奉仕を無視したり、ぞんざいに扱った相手に対して憎しみさえ持つに至ります。さっきまでこの人のために、と思っていたその当人に対してです。ここにあるのは、自分の奉仕が、自分の思うように受け入れられないことへの苛立ちであり、不満です。相手のためによかれと思ってやっていたのに、相手が喜びや感謝をきちんと表現してくれない、もっと悪いことにはほかの人の奉仕の方がもっと顧みられているようにさえ見える。そうなったら私たちの心の中にはさざ波が立ってくるのです。心穏やかならぬ思いにさせられるのです。私たちは奉仕のただ中においてさえも、罪から自由ではありません。いや、自分はよいことをしている、と思って活動している中でこそ、やっかいな形で罪が現れ出る、と言ってもよいと思います。人と比べて、自分がどれだけたくさん奉仕をしているか、自分の奉仕がどれだけ相手に受け入れられているかが気になります。ほかの人が自分よりもよい奉仕をしていると劣等感が生まれます。また自分の奉仕がほかの人よりも受け入れられ、喜ばれているのを確認すると満足し、優越感に浸ります。そういう、揺れ動く劣等感と優越感の狭間で、何とかバランスをとって自分をやっとのことで保っているのが私たちの実際の有様なのです。そのバランスも崩されれば、あの人は気が利かない、この人も鈍感だ、と言って周りを裁き始め、自分が奉仕していた相手に対してさえもつれなくし、あたり始めてしまう。その時、自分が本当に仕えていたのは、誰だったのでしょう。自分自身ではないでしょうか。大切に受け止められ、喜ばれたい、ほめてもらいたい、自分自身の思いではないでしょうか。自分自身こそが隠れたところにいた本当の主人、本当の意味で自分が仕えていた主人なのです。結局、人に仕える働きのただ中でも、私たちは自分を主人とし、自分の思いを中心にして動いているのです。
5 そこに静かに語りかけてくる声がありました。マルタの荒れ狂う声を静めるような声です。どうか私の語ろうとしていることを理解して欲しい、そんな気持のこもった語りかけです、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである」(41節)。マルタはそれまで思っていたでしょう。「主イエスをお迎えするために、あれもしなければ、これも準備しないと」。「思いを乱している」という言葉は英語の「トラブル」の元になっている言葉です。主イエスをお迎えするためにしなくてはならないことがたくさんあり過ぎて、心の中がトラブルを起こしているのです。「あれもせねば、これもせねば、あいつは何をしているんだ、全然手伝ってくれぬではないか、イエス様は自分の奉仕に気づいてくれているのだろうか」、そういうたくさんの声が心の中で入り乱れて、心の場所を占拠してしまい、もはや主イエスの御言葉を迎え入れる余地さえなくなってしまっているのです。
私たちの毎日の生活も、あれもせねば、これもまだ終わっていない、そういう思い煩いで満ち満ちています。その思いをそのまま引きずったままで礼拝の席に座っても、心ここにあらずといった状態で、説教の言葉も入ってこない、そういうことが起こります。その意味で、マルタは私たちの代表であります。マルタのように、日々の営みに忙殺されている私たちに向かっても、主は語りかけてくださるのです。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つである」。それは主イエスが「あなたもお姉さんを手伝いにいってあげなさい」、などと言って、マリアから奪い去ってしまうわけには決していかない、何よりも大事なものなのです。それはまさしく、主イエスの足下で、主の御言葉に聴くということです。主イエスに「あなたも手伝うようにおっしゃったらどうですか」、などと自分の思いをぶちまけ、主が言うべきことを指示するのではなく、主がおっしゃろうとすることに思いを集中し、「主よ、お語りください。僕(しもべ)は聞きます」、と耳を傾ける姿勢です。お座りになっている主イエスのそばに立ち、上から命じるのではなく、主イエスの足下に身を低め、上から与えられ御言葉に心を開くのです。「あなたもそうやって聴いて欲しい、あなたの心を尽くした準備のことは私がいちばんよく分かっている。さあ、もうここに来て手を休めて、マリアと一緒にわたしの言葉を聴いて欲しい」、それが主イエスのおっしゃいたいことではないでしょうか。
6 面白いことに、この箇所にはマリアがたくさん聴いていたであろう主イエスのお言葉は一つも記されておりません。ただ心を乱してヒステリックになったマルタに向かってお語りになった主の御言葉のみがここに書き記されたのです。なぜなら、この主のお言葉こそが何よりも、主がこの家を訪ねてお伝えになりたかったことだからです。日常生活の全て、自分の人生の全てを自分自身で切り盛りしなくてはならない、そう思う余り、心の内にあるさまざまな声が大きくなってしまっているマルタのような私たちこそが、ここで見つめられているのです。肝心な主イエスの御言葉が聞こえなくなってしまっている私たちに、「あなたも聴いて欲しいんだ!」と主イエスは伝えにきた、招きに来て下さったのです。マルタは主を招き、お迎えするつもりで準備していたかもしれない、主を喜ばせたい一心であったかもしれない。でも実際のところは違ったのです。マルタが主を迎え入れるに先だって、主イエスがマルタをも、ここで聴いてほしいと迎えに来て下さいました。「あれこれと食事を準備してくれることもうれしいが、何よりもあなたがわたしの言葉を聴いてそれによって生きることこそがわたしの喜びなのだ」、このことを伝えに来て下さいました。
このことは毎日の営み、日々の奉仕をおろそかにしていいということではありません。そうではなく、この御声に聴くところから本当の奉仕も始まるということです。主イエスの御言葉に聴きつつ、歩む中で、自己中心的な思いからいつも新しく解き放たれ、毎日の務めにも心をこめて当たることができるようになる、ということです。先週召された一人の姉妹は、何よりも主の御言葉に聴くことを喜びとされた方でした。しかしまた、困難の多い時代に、夫も失った中で、三人のお子さんを育てることに力を注がれました。日々の仕事にも全力で励まれました。何をするにも心を込めて、丁寧になされたのでしょう。まず御言葉に聴くということと、一つ一つの日々の務めにも心をこめてあたることとは無関係なことではありません。むしろ切っても切れない関係にあります。まず御言葉に聴くことがあったからこそ、奉仕の中にも潜む自己中心的な思いから解き放たれ、真実の意味で仕える生き方を貫くことができるのです。あれもしなければ、これもまだ終わらぬ、という自己分裂を引き起こす声から守られるのです。御言葉を聴くことが中心にあり、すべてはここを出発点として秩序が与えられるからです。他のことが究極的に自分を支配することがなくなるのです。この姉妹にあっても、奉仕の力の源泉こそが、まず御言葉に聴くことだったと思うのです。私たちの奉仕もまた、この主イエスの御言葉に聴くことから始まります。奉仕の中においてさえ、「自分が、自分が」と思い、隣人を裁き出す私たち・・・その自己中心的な思いを砕き、御言葉を聴きつつ歩む幸いへと招くために、主イエスは十字架ではりつけにされたのです。奉仕の中においてさえ、結局は自分を主人にしているだけのような私たちを、真実の主人である神の下に取り戻すためです。このお方の下で与えられる本当の自由と愛の中に生かすためです。教会の集会においても、目指すべきことは立派な食事でもってもてなし、喜んでもらうことではありません。そうではなく、この主イエスの御言葉に、集まった皆が無心に聞き入ることができるような環境を整えることが、それが何より主の喜んでくださることなのです。それよりも何よりも、すべてに先立つ主イエスの愛の奉仕をまず見つめたいのです。頑なになった私たちの心の家を訪れて、「必要なことはただ一つ」だけだと伝えてくださる、この主の訪問、主の招きをこそ受け入れたいのです。その時、私たちの奉仕そのものが清められ、「これもまた主のため」との祈りを刻みつつ、主のご栄光を現す奉仕に生きる喜びが、この礼拝を出発点として与えられていくのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、私たちは奉仕のさなかにおいても罪を犯し、あなたのことよりも、結局は自分の見栄や評価の方が気になってしまいます。そのことに心を奪われるあまり、日々の営みに追いまくられ、あれもせねば、これもまだだと、あくせく毎日を過ごしております。あなたの恵みを見失い、あなたの御声を聴くことに失敗しています。どうか世の中のたくさんの声にとり囲まれて、耳をふさいでつっぷしたくなる私たちの心に、あなたが語りかけてくださり、平安をお与えください。自分自身や隣り人を気にするのでなく、あなたが私たちに注いでくださった十字架の愛に生かされて、真実の奉仕に生きる喜びを授けてください。詩編の詩人は歌いました、「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを」。今、あなたの足元にひざまずき、御言葉に聞くことを得させてくださいました。すべてに先立ってあなたがしてくださった御言葉の奉仕を、私たちに受け入れさせてくださいました。今この祈りの宮であなたが与えてくださった朝の中をいでたつことができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。