夕礼拝

畏るべき方は主

「畏るべき方は主」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第8章11-15節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第3章13-16節
・ 讃美歌 : 471、561

善いことに熱心であるならば
 本日は、ペトロの手紙一第3章13節から16節までの御言葉に聞きたいと思います。このペトロの手紙一が書かれた時期は、始めの頃の教会に対する迫害や弾圧が強くなりかけていた時でした。ペトロは迫害と苦難の中にあるキリスト教会の信徒に向けて「励まし」の手紙を書き送りました。励ましの内容とは、迫害と苦難の中にあっても主イエス・キリストへの信仰を貫くことを勧めています。時の支配者である皇帝によるキリスト者に対する迫害がまさに始まろうとしている時に、迫り来る事態に備えて確固とした心構えを持つようにと、ペトロは心注ぎ出して勧めています。本日の箇所は「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」と始まっております。キリスト教会をはじめ、キリスト者に対する迫害、弾圧が始まっている頃に「善いことに熱心であるならば、誰が害を加えることなどできようか」と言っています。けれども、いわゆる善い行い、道徳的にも倫理的にも熱心である人が害を受けるということは、普通はないことでしょう。善い行いというのは周囲の人を喜ばせるものであります。反対にもし悪人が悪を行なっていながら何らかの理由で受けるべき罰を逃れていたとするならば許されないことであります。それだけの報いを受けるのは当然であります。ペトロはこう言います。「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」善いことに熱心な人が、害を受けるかもしれない状況があるということでしょう。「善いことに熱心な人」とは神様のため、人のために善いことを熱心に行なっている人ということです。そのような人に誰があえて危害を加えることができるでしょうか、と言っています。善いことに熱心であれば人から褒められ、誉れを受けるものであります。反対に悪事に手を染めるなら、それだけの報いを受けなければならないのです。
 「善いことに熱心である」人に誰があえて害を加えるでしょうか。この「熱心」という言葉は別の箇所では「熱心党」とも訳せる言葉です。主イエスの12弟子の中に「熱心党のシモン」というのがおりました。熱心党とは当時の一種の政治結社であり、熱狂的な愛国者たちの集まりでした。自分たちの母国を外国による支配から解放するために、どんな手段をとっても外国の勢力を追い出そうとしていた人たちです。自分の国を解放するためには生命をもいらないと考えておりました。ここでペテロが言おうとしていることは、「最も狂信的な愛国者がその国を愛するその熱心さで、善いことをしなさい」ということです。ここでの「熱心に」とはそれくらい、善の行いに励みなさいと言うことでしょう。ある人がこのように言っております。「情熱的でない心は純粋とはいえない。熱心さのないどんな美徳も確かなものとは言えない。」情熱的ではない心は清くない、熱心にならないのであればどんな道徳も、美徳も確かなものとは言えないと言っております。熱心、情熱と言うものがどれだけ大事であるのか。けれども、世の中にどのような理由かは分かりませんが、凶暴な人がおり、見境もなく義人を苦しめ、正しい人を辱める場合もあります。善いことに熱心な人に対して、害を加える者がいるということです。教会は主イエス・キリストを礼拝するために集められた群れであります。時の支配者、皇帝以外のものを礼拝するという理由のために、圧力がかけられていた。主イエス・キリストを礼拝する集団はそのために大きな被害を受けていたということです。このような事実はどのような時代にも、地域にも多少なりとも存在します。

義のために
 14節「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」とペトロは言います。ペトロがこの手紙を書き送った教会の状況は、迫害を受けつつあった教会です。「あなたたちは万が一義のために苦しむようなことがあっても、あなた方は幸いである。あなた方を苦しめる者を恐れたり、心を乱したりしてはならない」と言います。恐れず惑わず、平静に対処しなさい、と勧めます。主イエスは山上の説教の中でこうおっしゃいました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と言われました。迫害を受ける人々は幸いである、と言います。「幸いである」とは、神様の祝福があるということです。キリスト者にはどのような時においても、消えることのない神様からの祝福があり、それこそが幸いであります。キリスト者に与えられている幸いは、外部の力によって左右されず、内側から、心の中から湧き上がってくるからでしょう。外側からの力ではキリスト者の信仰にある神様からの幸いを奪い去ることはできません。それゆえに、キリスト者は外からの「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」とあります。そのように迫害や苦難を恐れなくて良いのです。時に自分の目の前に、自分の正しさに反対する者があります。正しいことを行う時には、正しいことに反対する人などいるはずがない、と思います。善い行い、正しいことと言うのは、皆から歓迎される、と思います。しかし、実際はそうはいかない場合もある。善いことを行い、なぜ害を受けるのか。全く理由が分からない時があります。自分は善いと思っても、周囲はそう納得はしない。自分の思い通りにならない時があります。また事実、善いことや正しいことを好まない人もおります。それは正しいことが、ある人にとっては自分の利益に反するからであります。色々な理屈をつけることができますが、実はそれをされると、自分が損をしてしまうと思うからであります。そのような人たちが実に多いのです。正しいことをしょうと思うと全世界が自分に反対するか、という気がするのです。善いことを行うことは、究極的には自分の臆病と、自分自身と戦うことであります。人が正しいことをして、誰かが褒められるのがやり切れなくて、反対する人だっております。そのような人々の反対や嫉妬の中で善い行いをするのです。自分がどちらの立場にいるにせよ、主なる神様が以外のもの、人々を恐れたり、心を乱したりすることなく、主なる神様に従うのです。

キリストを主とあがめる
 そのように人々を恐れることなく、心を乱すことなく善いことを行うために「心の中でキリストを主とあがめなさい。」との言葉があります。人々を恐れることなく、人の評価に心を乱さないために、心の中でキリスト「主」とあがめるのです。「キリストを主とあがめる」とは、十字架の上で死に、三日目に甦られたイエス・キリストが、今の「主」として、救い主として私たちの執り成しをしていてくださると信仰をもって生き生きと告白することです。イエス・キリストが人間の罪のために十字架にかかられ命を差し出され、復活された。このことを信じる、この確信こそが、恐れを退け、主にある平安によって心を満たします。「キリストを主とあがめなさい。」キリストを主とあがめることであります。主を礼拝するということです。けれどもキリストを主とあがめることを止めることはできません。迫害を受けていた人々は外側の自由をことごとく奪い去られても、心の中でキリストをあがめる信仰までは奪い取ることはできないと信仰を守ったのでしょう。キリストを主とあがめることだけを確保し、それによって強く生きる。キリストを真に神として、まことに神としてあがめる、心から礼拝するのです。私たちは礼拝堂で、神様を礼拝し、キリストを礼拝し、聖霊を礼拝しています。それは神様を心の中において礼拝し、キリストを心の王座にすえ、聖霊によって、心を支配されることを求めていることでもありましょう。真の礼拝の場所は私たち自身の姿であります。人を恐れないためには、キリストを真に聖霊を与える人、自分を支配するお方、自分を守って下さる救い主、いつも自分の味方である慰め主として信じることです。キリストこそが共にいて下さると信じたとき、人を恐れず、心を乱すことなく善い業に励むのです。先ほどお読みした旧約聖書のイザヤ書第8章12節後半からこうあります。「彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。」13節「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」どのような時代にも恐れてはならない者を恐れたり、恐れるべき者を恐れない人間の信仰の弱さがあります。私たちが恐れるのは主なる神様だけであります。主なる神様のみを救い主として、見つめるということです。
 更にぺトロはキリスト者にふさわしい生き方を説いています。穏やかな生き方を求めています。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」ここで「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人」と言っております。キリスト者が抱いているキリスト者が抱いている希望について要求する人がいるということです。キリスト者の希望についての弁明が要求される。キリスト者の生き方が何に基づいているのか尋ねるかもしれない。説明を要求する時があるかもしれない。そのような時にキリスト者は「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」とあります。穏やかに敬意をもって、正しい良心でそれに答えなければならないということです。何よりも、主イエスを見つめる。ペトロは、反対者たちの自発的な悔い改めを待つのが、キリスト者の信仰であると言っております。そのために、キリスト者に与えられている希望について弁明する用意をしていなければならない、と言います。この「希望」について皆に知らせ弁明し、説明し、キリスト者がこの希望において生きることができるようにする。神様の与えることのできるこの「希望」を私たちは紹介するのです。この希望を与えられるなら、人を恐れることなく生きることができる。キリスト者に出来ることは、キリストを見上げ歩むことではないでしょうか。地上の歩みは決して平坦ではない。様々な試練が私たちを追いかけるものです。主イエス・キリストが再び来られるのを待つ。迫害を受けていた者たちの中で命をも狙われていた人々もおりました。そのような中で、復活の主ともいると言う希望こそが多くの殉教者とを生み出したのではないでしょうか。キリスト者はこの希望を見つめつつ歩む。この希望の「証人」となることでしょう。私は見た、私は経験した、実際に知っているというように希望を知らせるのです。私たちが恐れるべきものを恐れず、恐れる必要のないものを恐れている世の中において、目には見えないけれども神様の力によって生きていることを証しするのであります。

穏やかに敬意を持って
 神様の与えて下さる希望を証ししていく。他者にどのように証しをするのか。証しをするとは弁明、説明とも言えます。「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」とあります。口語訳聖書では「やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。」となっております。信仰について弁明を求められる時に、やさしくするためにも、慎み深くなるためにも、明らかな良心を持つためにも、弁明できるように備えているそれは自分に対する確信、人間の力における確信ではないです。その確信は自分は罪深い人間であるが、イエス・キリストの十字架における神の赦しによって救われ、希望を与えられている。そのような確信を持っているのではないでしょうか。「やさしく、慎み深く」とはまさに主イエスのお姿ではないでしょうか。 主イエスの十字架によって希望が与えられた。私たちが見つめるべき希望とは、この主の十字架による贖いです。主によって赦されているのですから、正しい良心を持って弁明するのです。希望を見つめるとき、私たちは自分で何かを語ろうかと模索する必要はありません。神様は御霊により、必要な言葉を備えて下さいます。私たちの全てをご支配なさる主は私たち一人一人に言葉をお与え下さるのです。御計画の中に、今、私たちも置かれているのです。弁明が求められた時も、主が最も相応しい言葉をお与え下さるのです。御言葉を通して一人ひとりに言葉をお与え下さります。その中で最も大きな言葉は、主イエス・キリストであります。神様の言葉が肉となった。この方によって人間はその罪を赦され、人間は希望を与えられました。神がこんなにも大きな希望をお与え下さっている。
 キリスト者が善い行いをするのは何のためでしょうか。世の誉れや賞賛を受けるためでしょうか。イエス・キリストの十字架によって、罪が赦され、希望を与えられた。そのことに感謝して善い行いをするのです。善い行いをすることも、イエス・キリストに対する感謝であります。自分が善い行いをしても自分を誇るのではなく、ただ、キリストの恵みに感謝のささげ物をもって証しをするだけであります。

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