夕礼拝

混沌に打ち勝つ力

「混沌に打ち勝つ力」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第107篇 1節-43節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第8章 22節-25節
・ 讃美歌 ; 6、462

 
1 ある日のこと、主イエスが弟子たちと舟に乗って出かけていこうとおっしゃいました。湖の向こう岸に広がっているのはゲラサ地方と呼ばれるユダヤ人ではない人々が住んでいる土地です。これから主イエスは弟子たちと一緒にユダヤ人以外の人々が住んでいるところへ出かけていって伝道をしようというのです。まだ神を知らない民が住んでいるところへ出かけていって、神の言葉を宣べ伝えようというのです。そのためには今自分たちのいる場所とゲラサ地方とを隔てている湖を渡っていかなくてはなりません。湖を越えて向こう側に行かなければならなかったのです。教会はその最初から、この湖の上を渡っていく弟子たちの舟のように、外に向かって伝道する教会として歩みを刻んできました。主イエスが神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられたように(8章1節)、弟子たちも、そして世々の教会も、伝道の旅をし続けてきたのです。
けれどもそのような伝道の歩みを始めた弟子たち、また教会は、その一番初めから大変な困難に直面することになったのでした。突風が湖に吹き降ろしてきて、舟が沈没しそうになったのです。この湖はガリラヤ湖と考えられていますが、当時からたびたび天候が急に変わることで知られていたようです。周囲を急な丘に囲まれていたため、上から吹き降ろしてくるような風が生まれやすかったのです。この風が生み出す嵐は、湖を波立たせ、小舟を激しく揺さぶりました。弟子たちの乗っていた舟は本当に小さな舟でしたから、こんな嵐が起こればひとたまりもありません。かつて私が夏の伝道実習で大阪に遣わされた時に、岸和田の海で、ボートを持っている教会の方に乗せてもらって、沖合いまで出てもらったことがありました。ところが出発して間もなくすると、みるみるうちに青かった空に黒い雲が沸き立ってきて、大粒の雨が降り出したのです。おまけに風も出てきました。その教会の方は「あれ、これはやばいな」と言いながら、急いで予定を変更して港に戻ることにしたのでした。あの日の弟子たちの乗った舟にも、大きな波が押し寄せ、舟を吹き飛ばすような風が襲ってきたに違いありません。8章の冒頭に出てきた婦人たちもこの舟に乗っていたと考えられますから、舟の中は女性たちの叫び声と弟子たちの怒鳴り声、さらに風が吹きたけり、波が砕け散る音が入り混じり、まさに混乱そのものであったに違いありません。そもそも聖書において「水」は、混沌とした力を代表しています。それは整ったもの、扱いやすいものでは決してありません。人間にはどうにもできない、思い通りには扱えない、恐るべき破壊力を秘めたものです。この数か月間、私たちは相次ぐ台風が引き起こした大変な被害を目の当たりにしました。鉄砲水で家が押し流され、地下鉄の線路が水浸しになりました。家を打ち壊された人はテレビのインタビューに、「恥ずかしいけれどただただ涙が溢れてくるだけでした」、と応えていました。

2 教会がその最初の歩みから大変な嵐に悩まされ、体をこごえさせるような冷たい水をかぶりながら、たびたび前に進むことを阻まれたということは、珍しいことではありません。一人一人が信仰をもってこの世を歩んでいく時、また教会がこの世で証しをなしていこうとする時、いつでもそこには嵐があり、頭から水をかぶるような体験があったのです。ルカの教会はローマ帝国による激しい迫害の中を歩んでいました。時には身を隠して、地下に掘った穴の中に潜み、やっとのことで礼拝を守っていたこともあったのです。東ヨーロッパの一部の国ではつい最近まで自由な礼拝生活、信仰生活を送ることができませんでした。この日本でも、つい半世紀前までは自由な礼拝をすることがはばかられ、特別高等警察の存在を気にしながら説教を聴かなければならない時代があったのです。いや何も国全体や時代風潮に限ることはありません。私たち一人一人の信仰の歩みの中で、混沌の力、秩序を壊し、混乱をもたらす力にもてあそばれ、苦しめられる時があるのです。教会に生きている者はそのことを知っているのです。同じ礼拝に集うているこの人、あの人が、今どのような試練や困難に直面している中で礼拝に来ているかを覚えあっているのです。いやその試みや苦しみがあまりにも大きいために礼拝に来ることさえできなくなっているあの人この人がいることを覚えながら礼拝しているのです。わずか一年のうちに立て続けに家族や親戚を失う方があります。子育ての中でどうすればいいか分からない問題に直面している方があります。人とうまく関係がつくれずに行き詰まりを感じている方があります。重い病の中で、それをどう受け止めればいいのか、本人も家族も途方に暮れている家庭があります。先日イラクで殺害された日本人の青年、そのご両親は日本基督教団の教会員であると聞いています。「あの子を生かして、あの子にしかできない仕事をさせてやってください」と泣いて訴えておられたご両親は、今どんな思いで過ごされているのでしょうか。次々と世界を襲う災い、その災いの波の一部が私たちの毎日の生活にも押し寄せてくるのです。新潟で起きた地震のように、ある日突然沸き起こる混沌の力によって一挙に安定していた生活が打ち壊され、秩序のない、不安な、寒さに震える日々が始まってしまうことが起こりえるのです。
 しかも信仰に生きる者にとって大変なことは、神を信じて歩んでいる中で、こうした試みに直面しなければならないということです。そこでなぜ神はこんな大変な目にあっている自分を放っておかれるのだろう、という悩みに直面しなければならない、ということです。あの日、「湖の向こう岸に渡ろう」とおっしゃった主イエスの言葉に従って船出した時、弟子たちは大した心配もなく出発したと思います。主イエスが一緒におられるのだから何も心配することはないと思っていたのです。勇んでゲラサ地方の伝道に出発したと言ってもよいでしょう。ところが突風が吹き降ろし、水が舟に覆いかぶさってきた時、肝心の主イエスがぐっすり眠ってしまわれている。一番頼りにしていた方が、目を閉じて周りで起きていることに無頓着でいらっしゃるように見える。それが弟子たちに言いようのない不安を掻き立てたのです。信仰を持って歩んでいながら試練に直面すると、余分な悩みが増えるという面があるかもしれません。「なぜ神はこのような時に我々を放っておかれるのか」、「なぜ神は御顔を隠して何もしてくださらないのか」、というほとんど呪いの叫びに近いような声を張り上げたくなるからです。
先日「ポセイドン・アドベンチャー」という映画を見ました。豪華客船が座礁して転覆し、さかさまになって海に浮かんでいるのです。上と下が逆転した世界の中で、生き残った数人のグループが、たまたまその船に乗っていた牧師に導かれながら、脱出するために船の機関室を目指して進んでいくのです。たくさんの困難を乗り越えていくのです。ところがその困難一つ一つを乗り越えていく中で、一人、また一人と仲間が命を落としていくのです。牧師はそのたびに、「お前のせいだ、お前が言ったことが正しいと信じてついてきたのに、おかげで愛する妻を失ったじゃないか」、と責め立てられる。ついに機関室の一歩手前まで来ながら、吹き出した蒸気を塞ぐため、命がけで栓を締めながら、牧師は叫ぶのです、「なぜあなたはここまで私たちを苦しめるのですか。何人殺す気だ、もうたくさんだ。まだ奪う気か、私を殺せ。もうたくさんだ。」
苦しみ悩みにぶつかった時、頼りにしていたお方がまるでぐっすりと眠り込んで、働いておられないかのように見える。一番頼りにしたい時に、神が見えなくなる、神の御心が分からなくなる。人生の嵐に直面する時、私たちはしばしばそうした思いにとらえられるのです。

3 自分たちが一番苦しい時に、神はいったい何をしておられるのか、主の眼差しが感じられない、自分たちは湖の上で独りぼっちで取り残されている、それが弟子たちの叫びです。でも考えてみれば、弟子たちはこれまで、御言葉の聴き方について教えられてきたはずです。どう聴くかが大事だ、と諭されてきたはずです。「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」(15節)になれ、と言われてきたのです。さらに神の言葉を聞いて行うならば、あなた方は皆、私の母であり、兄弟なのだ、と語りかけられてきたのです。それなのにいざ嵐が襲ってくると、御言葉を抱きとめ続けていることができずに、手放してしまう。忍耐して漕ぎ続けることができない。与えられた御言葉を魂に刻みつけつつ、忍耐し続けることができない。人生の中の、神が見えないように思われる時期、神が眠ってしまっておられるようにしか思えない時代に堪えることができない。主イエスの種蒔きのたとえで言うなら、百倍の実を結ぶよい土地になることができなかった、御言葉にとどまり、忍耐して実を結ぶということに失敗したのが、弟子たちの姿だったのです。そして苦しい時、悩みが押し寄せる時、いともたやすく神を呪い、神がここにおられないものと思い込んでふてくされる私たちも、この不信仰な弟子たちとなんら変わることはないのです。

4 神への疑い、神が見えなくなったとまどいの中で弟子たちがとった行動は、主イエスを揺り起こすことでした。「先生、先生、おぼれそうです」(24節)。この「おぼれそうです」という言葉は本来、「死ぬ」、「滅びる」、「失われる」という意味の言葉です。それゆえに文語訳の聖書はここを「君よ、君よ、我らは亡ぶ」と訳していますし、口語訳は「先生、先生、わたしたちは死にそうです」、と訳したのです。そもそもこの船旅は主イエスがお命じになったものです。主イエスの御心によって始まった移動です。主が責任をとってくださる旅です。しかも主イエスも一緒に乗っていてくださる、ご自分は岸辺に残って、私が責任を取るからお前たち行ってこい、と送り出したのではない。離れ離れになるのでなく、すぐそこにいてくださるのです。同じ舟に乗っていてくださるのです。主イエスがあまりにも深い父なる神への信頼ゆえに眠り込んでしまった、実はそれほど安心して信頼できるお方の見守りの中に置かれていることに、弟子たちは委ねきることができませんでした。信仰を持って歩んでいたはずなのに、いったん激しい嵐が人生の上に吹きかけてくると、御言葉にしがみついていることができずに混沌の力に押しつぶされそうになり、悲鳴を挙げてしまうのです。
 その時、主イエスは「私が教えたとおり、御言葉に立って忍耐して漕ぎ続けよ」、と冷たく突き放されてしまわれたのでしょうか、弟子たちを試そうと眠り続けているふりをしたのでしょうか。そうではありません。起き上がって、風と荒波とをお叱りになったのです。そこで新しく御言葉において力を振るわれ、荒れ狂う自然の最中に静けさをもたらしたのです。荒れ狂う自然を支配して、静けさをもたらす神は、そもそも旧約の詩人が歌い描いた神でした。先ほどお読みいただいた詩編107編の29、30節ではこう歌われています、「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので 波はおさまった。 彼らは波が静まったので喜び祝い 望みの港に導かれて行った」。それは神こそがなされる御業、この世界を造られた神のみがなさることのできる御業です。その御業が今、目の前におられる主イエスの御言葉において行われる。ということは、このお方こそが生ける神である、ということにほかならないのです。「いったいこの方はどなたなのだろう」という弟子たちの問い、そこに沸き起こっている恐れと驚きは、主イエスがまことの神であることを指し示しているのです。

5 主イエスは神が見えないようにしか思えない、試みの時に、御言葉にとどまって忍耐して歩むことに挫折し、神へ不信仰な訴えと叫び声を挙げてしまう私たちを叱りつけ、試練の中にいつまでもほっぽらかしにし続けるような酷なお方ではありません。そこで立ち上がってくださり、私たちではなく風と荒波をこそ叱りつけ、静められる。そのようにして御言葉に踏みとどまりきれなかった私たちの破れを覆い隠してくださるのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」、と問いかけられ、なお本来あなたがたの中に与えられているはずの信仰に立ち戻って、もう一度そこに踏みとどまる歩みを始めなさい、と促してくださるのです。
 主イエスがこのような憐れみを示してくださるのはなぜでしょうか。それはこのお方ご自身が、神から見捨てられること、神がいらっしゃらないとしか思えないような絶望を、誰よりも深く味わわれたからです。弟子たちが「先生、先生、おぼれそうです」と、言わば安心して主イエスに近寄って、主イエスを揺り起こすことができたのは、その背後に、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という主イエスご自身の叫びがあったからです。主イエスご自身が、神の御顔が隠されてしまっているかのように思われる暗い、恐れと悩みに満ちた世界を極みまで嘗め尽くされたのです。このお方の叫びに比べれば、私たちの不平や不満も恥ずかしく思えてくるようなほどの苦しみを担われたのです。だからこのお方は弟子たちの叫びが聞かれないままにはしておかれないのです。教会の混乱を放ってはおかれないのです。私たちの叫びを捨て置かれはしないのです。たとえそれが、主の蒔かれた種を実らせることに失敗したことを意味するとしても、主はそこでもう一度御言葉をくださる。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」、あるはずの信仰に立ってもう一度歩み出しなさい、そうおっしゃっていてくださるのです。伝道の業に挫折しても、よき証しを立てることができず、御心に応え切れなかった時にも、もう一度御言葉をくださり、立ち上がらせてくださるのです。
 それゆえに教会も、私たち一人一人も、この「混沌を打ち破る力」に支えられて、もう一度立ち上がることができるのです。暴風が吹きすさび、混沌の力に満ち満ちているようなこの世界の只中で、なおあの詩編の詩人と共に、信仰を言い表すことができるのです、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出された」、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」と!

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたから委ねられた御言葉にとどまり続けることのできない、忍耐することに弱い私たちをどうか憐れんでください。試練の中でつまずき倒れ、すぐにあなたに不平や不満をぶちまけてしまう私たちを憐れんでください。しかし主よ、そんな信仰弱き私たちの、御言葉にとどまれず、忍耐できないゆえの叫びを、あなたは無視せずに聞き届けてくださり、おきあがってくださいます。風と荒波を叱りつけ、与えられているはすの信仰にもう一度立たせてくださいます。どうか私たちが試練や苦しみにぶち当たるとき、すべてに先立ってその痛みを味わわれたあなたが、私たちと同じ舟に乗っていてくださることを信じさせてください。そのあなたが道を開いてくださることに望みをつながせてください。すべてに先立ち、あなたが私たちの苦しみを味わわれ、私たちの死を死んでくださり、私たちの生きるべき新しい命を備えていてくださることを、いつも思い起こさせてください。そこにとどまる力をも、あなたが与えてくださいますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

関連記事

TOP