夕礼拝

女性たちの献身

「女性たちの献身」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 列王記上、第17章 1節-24節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第8章 1節-3節
・ 讃美歌 ; 356、439

 
1 先日、教会員の方とお話をしている時、こんなことを聞きました。自分は今まで毎週教会に来て、礼拝に出席し、キリストのからだと血による罪の赦しを味わう聖餐にも、与かってきた。さまざまな集会にも一人の参加者としてただ時間までに行って参加していた。けれどもその背後にあるいろいろな奉仕を担うようになって、それら一つ一つがいかに注意深く、丁寧な準備に支えられているかが分かってきた。教会の営みが、どんなに目立たない、小さな、しかしなくてはならない奉仕に支えられているかが分かってきた、ということでした。そのことを知って、教会の営み一つ一つの受けとめ方がずいぶん変わってきたというのです。
 教会の歩みは、実にさまざまな働き、小さくてあまり目立たない、当たり前のようになされている奉仕にいつも支えられています。このことは教会の歩みの一番初めからそうでした。いや、主イエスが歩まれた旅の道においてすでにそうだったのです。そのことを今日の箇所はわたしたちに教えています。

2 主イエスは神の国を宣べ伝え、神の国の福音を告げ知らせながら町々、村々を巡られました。そこに十二人の弟子たちも共に加わっていました。さらにそこに多くの婦人たちも加わっていたことに、福音書は注意を促しています。見たところ、とりたててはっとさせられる部分もない、読んでいてもさっと通り過ぎてしまうような箇所です。けれどもここでルカは、主イエスの伝道の旅に、婦人たちが伴っていた、その婦人たちの文字通り献身的な、すべてを捧げるような奉仕がそこにあった、ということを、ここに書き留めているのです。しかも丁寧に、三人の具体的な名前までも挙げて、そのことを記しているのです。
 マグダラの女と呼ばれるマリアは、ガリラヤ湖の西側にあるマグダラという地域の出身で、かつて七つの悪霊に悩まされていた女性です。悪霊は、人を肉体的にも精神的にも不自由にし、さまざまな捕らわれの中に閉じ込めてしまいます。それは悪魔がなす働きとして考えられていたのです。しかもただ一つの悪霊が彼女の魂を蝕んでいたというのではありません。彼女は実に七つもの悪霊に苦しめられていたのです。この時代、七という数字は他の数字と区別された、特別な力を持った数でした。七つの悪霊が集まり、この女性に住み着くことによって、それらを取り除くことは、一つの悪霊の時とは比較にならないほど大変なことになったのです。ひどいヒステリーを起こして、周りを恐れさせ、悩ませ続けた過去があったに違いありません。具体的には何がこの女性を苦しめ、悩ませたのかは分かりません。けれどもおそらくこのマリアは、本当の愛に飢えていたのではないでしょうか。今日の箇所のすぐ前には、主イエスが一人の罪深い女に赦しを宣言する出来事が語られていました。彼女もまた、今まで隣り人との間に、愛し、愛され、互いに理解し合い、信頼しあう関係を築くことができずにきたのです。島尾敏雄というカトリックの作家が書いた小説に『死の棘』というのがありますが、そこで彼は自身の体験を重ね合わせながら、自分の妻とは別の女性と不倫の関係を持ったことが、いかに一つの家庭をもろくも崩れさせ、ぼろぼろにしていってしまうかを克明に描き出しました。悲しみと怒りのあまり心を病んだ妻は、駅のプラットホームで不倫相手を見つけたと錯覚すると、金切り声をあげて人ごみの中で叫び出し、夫を苦しませるのです。夫も悪霊に苦しめられるのです。わたしたちが互いに真実の愛を失い、疑いや劣等感、不信感や怒りにとらわれる時、そこに悪霊が住み着き始めているのです。
 主イエスがしてくださったのは、このマリアから、七つの悪霊を追い出し、彼女をこうした捕らわれから自由にし、本当の愛を知る者としてくださった、ということです。そこで本当に癒され、慰めを与えられ、決して裏切られることのない神の愛を知った、体験したということではないでしょうか。それゆえこの主イエスというお方に喜んで従い、お仕えする者となったのです。
 また次に出てくるヨハナはヘロデの家令クザの妻であったといいます。主イエスに先立って神の前に悔い改めることを求めた洗礼者ヨハネも、また主イエスご自身も、このガリラヤの領主ヘロデに憎まれ、さまざまな嫌がらせを受けたと思われます。けれども、そうしたヘロデのそばで仕え、働いていた財産や家族の総支配人の家庭の中に、すでに主イエスを信じる者が生まれていたのです。これは驚くべきことです。彼女はこのことでクザとも折り合いが悪いことがあったかも分かりません。クザはヘロデから洗礼者ヨハネや主イエスに対する呪いの言葉を日頃聞かされているのに、自分の妻がその当の主イエスに従って、そのお世話をしているのは、あまりいい気がしなかったに違いありません。自分の立場を危うくすると思って、ヨハナを諌めることがあったかも分からない。けれども彼女は主イエスに従う道を進んだのです。ちょうど夫が同じ信仰を持たない中で、悩みながらも教会に通う歩みを刻むわたしたちの姿が重なり合います。しかしそのことで悩みが生まれても、その悩みを打ち明け、主イエスに聞いていただきながら、励ましと慰めを与えられつつ、ヨハナは主と共に歩んだのです。折々には家庭での務め、家族の世話のために家に戻りながら、しかし主イエスに従う歩みを続けていたのです。主イエスを愛してやまなかったからです。またその愛をもって隣人を見つめ、家庭を見つめることもできたがゆえに、ヨハナは家庭での務めもいい加減にはしなかったのではないでしょうか。本当の愛に支えられることで、与えられている同じ愛をもって家庭の営みをも支えたのです。
 三番目のスサンナは新約聖書の中でここにだけ出てくる名前ですが、彼女もまた、初代の教会の中で大変大きな役割を担っていたと考えられています。これらの女性たちが名前を挙げてここで書き留められているのも、ルカの教会においてこれらの女性たちがなくてはならない働きを担っていたからにほかならないのです。
 先ほどお読みいただいた旧約聖書の箇所には、一人のやもめが出てきました。病気で息子を失ったやもめは、それを神の人エリヤのせいにして、彼を激しく責めますが、そこに神が臨み、この子を生き返らせたのを見ると、こう告白するのです、「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある言葉は真実です」。今主イエスに向かってこの信仰を言い表したたくさんの女性たちが、教会が形づくられる中にも、連なっていたのです。

3 彼女たちは主イエスの死を最後まで見届けた人たちです。ルカは主イエスが十字架の死を遂げられた時、そこに女性たちがいたことを記しています。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」(23:49)。また彼女たちは主イエスが墓におさめられる場にも立ち会っています。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」(23:55-56)。弟子たちは土壇場になって、主イエスを置き去りにして逃げ去ったのに、彼女たちは最後まで主と共に歩んだのです。さらに主イエスの遺体に香料を塗るために墓を訪れた女性たちは、そこで空の墓を目の当たりにします。主が死の中から復活なさったという喜びの知らせを聴き、それを証しする者とされたのです。
 彼女たちはその後誕生した初代の教会において、自らがいかに主イエスと出会い、救われ、喜んで身を捧げたか、主がいかにして十字架への道を歩み通されたのか、自分たちがどのようにして復活の主と出会い、喜びに満たされたかを、力強く証しし続けたに違いありません。そして主と共に歩んだ時と同じように、黙々と主の教会に仕え続けたのです。それは目立たない、ささやかな奉仕であったかもしれない。けれども、主イエスの深い愛に打たれ、自らもその愛に生かされるようになったゆえに生まれてきた、心を込めた奉仕です。この奉仕が、世々の教会の歩みを支え、担ってきたのです。

4 ある時、齢を重ねた教会員の方がわたしに、静かにこう語りかけてくださいました。「私はもうとにかく体が続く限り日曜日に礼拝に出席するためにすべてを整えています。私の毎日の生活、その一つ一つの営みは日曜日に向けての準備なんです」。日々の営み、そこでなすさまざまな業一つ一つに、矢印がついているとすれば、その一つ一つの矢印すべては、みな日曜日、主の日を指している。礼拝を目指している。教会を指し示しているのです。さらには神の国を指さしているのです。
音楽家のバッハは自らが作曲した曲の最後に、いつも「S・D・G」という記号を書き記した、と言われています。それはラテン語で「神にのみ御栄えあれ」と書いた文章の頭文字を採ったものです。バッハは自らの作品を通して、自分の誉れが称えられることを求めたのではなく、神のご栄光こそがそこに現れ出て、民がその御名をほめたたえることをこそ求めたのです。私たちも自らの毎日の営み、一つ一つの業、それがどんなに当たり前のようで、ささやかなものであっても、「これも主のため」、「これも神の御栄のため」という祈りをそこに刻み込んでいくことができるのなら、それはどんなにか幸いなことではないでしょうか。
礼拝の讃美の声が導かれる、その背後では奏楽者が毎日のように教会に来て、主の前にパイプオルガンの練習を捧げている姿があります。聖餐式が行われる主の日にはそれに先立ち、土曜日に教会に集まって丁寧に準備をしてくださる教会員の姿があります。ご自宅で療養されている教会員を訪ねる時には、忙しい時間の合間を縫うようにして車を出してくださる教会員の姿があります。教会学校でハイキングに行くとなれば、事前に教師が集まって、ぐずついた天候の中を下見に出かけていく姿があります。この教会ではまた、毎日の教会の営みが主事の方の献身的な働きによって守り支えられています。私事になって恐縮ですが、この秋に控えている私の結婚式のために、先日も多くの方々がお集まりくださり、さまざまな奉仕を喜んで申し出てくださいました。今、私自身も、教会に生かされて歩むことがゆるされている恵みを、深くかみしめています。私たちは「これも主のため」と祈りつつ、説教の備えをし、聖餐の準備をし、奏楽の練習をし、司式の準備をし、また食事の準備をし、洗濯をし、掃除をし、会社で働き、学校へ行き、本を読み、運動をし、休息を取るのです。いや、たとい体がもはや動かなくなり、床に臥したままになったとしても、神はそこから天に向かって捧げられる祈りを、教会のため、そこに連なる一人一人のため、世界のために捧げられる祈りの奉仕を、喜んで受け入れてくださいます。 
私が神学校時代に、千葉のある教会へ説教奉仕のため招かれた時、その教会の牧師は前日の土曜の夜に、私を千葉YMCAの事務所に連れて行ってくださいました。そこでは夜遅くまで仕事に取り組んでいる若い教会の青年たちの姿がありました。牧師は帰りのエレベーターの中で私に語りかけました。「私たち教師はどんなに不十分で破れを抱えた人間であっても、『先生』と呼ばれる。けれどもあの青年たちは誰も見ていない、気づいていない中で、誰になんと言われなくても、黙々と与えられた務めに励んでいる。そういう人たちの働きを見て、我々も襟を正さないといけないと思う」。教会の営みも、こうした人々のひたむきな奉仕に支えられていること、時に教師も気づいていないところで実にたくさんのいろいろな奉仕がなされていることを、教師はわきまえ、感じ取っていなければならない、そういつも心に刻んでいます。
教会史の中に名前が出てくる人物は、ごく一部の人たちです。けれどもその背後には書き記されることもなかった多くの神の民の日々の小さな、こまごまとした業があるのです。私の育った山形の雪深い地域の教会では、それこそ主の日の朝早くに、降り積もった雪を教会の前から取り除く作業から始まる小さな奉仕があるのです。けれどもそれは、なくてはならない、かけがえのない奉仕です。そうした小さな奉仕の連続の中に支えられながら、教会の伝道は前進してきたのです。

5 主イエスはそこに神の国があることを示されました。主イエスにおいて神が現してくださった愛、ご自身の独り子をこの世に引き渡してまでも、私たちを罪と死の力、悪魔の捕らわれから救い出し、永遠の命に与かるものとしてくださる、その愛が、この主イエスを囲む交わりの中にこだましているのです。この教会の中に反響しているのです。主の愛に打たれた私たちの中でその愛はこだまし、その愛が生み出すきずなで結ばれた交わりがこの地上に立ち現れるのです。それが教会です。ここに将来実現する神の国の姿がこだましているのです。ここに喜びの訪れが告げ知らされているのです。そこでなされる奉仕、またそこから遣わされた場所において私たちがなす奉仕は、決して誇ることのできるような、立派な奉仕ではありません。何気ない、目立たない、当たり前のようにしか受け取られないようなものでさえあるかもしれない。けれどもあの婦人たちの奉仕を、主イエスが喜んで受け入れてくださり、一行の道行きに必要な食事や衣類、寝る場所の準備を委ねてくださったように、主は私たちの毎日のささやかな奉仕を、喜んで受け入れてくださるのです。「よくやってくれた、これも私のためにしてくれたのだね」と、おっしゃってくださるのです。それゆえに教会のいかなる働きも、無駄に終わることはありません。私たちが「これも主のため」と祈りつつなすこの世での業も、家庭での日常の雑務も、それは主が喜んでくださる「聖なる雑務」なのです。いや、主の前にあって、主の御栄えのためになされる業に、そもそも雑務などないのです。程度の大小のようなものはないのです。それらは皆、十字架と甦りの主の愛に打たれ、震えるような思いに貫かれた神の民が織り成す愛の業であり、神が喜んでくださる賛美の歌声なのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、主イエスが女性たちの献身を喜んで受け入れてくださいましたように、今あなたはわたしたちの日々の奉仕をも深い顧みの中に置いていてくださっています。それがどんなに目立たない、ささやかなもの、人間の目には顧みられること少ないものであっても、あなたはそれを見つめていてくださり、御心にかなうものとして喜んでくださいます。願わくは私たちの日々の業をあなたの御栄えを祈りつつなされるものとして、清め用いてください。そこで私たちが自分の手柄を誇るのでなく、ただあなたが喜び、御心にかなうものとしてくださること、あなたが私たちの奉仕を用いて御業をなしてくださることにだけ、望みをつないで歩むことができますように。この祈りを胸に刻みつつ、今日という一日も、明日もあさっても、御前を歩む幸いに生きる者とならせてください。
 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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