「神の救いを仰ぎ見よ」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 出エジプト記、第20章 18節-21節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第6章 17節-19節
序 主イエスは弟子たちの中から十二人をお選びになり、「使徒」と名付けられました。主イエスはその前の晩に、疲れていたにも関わらず、眠ることをせずに、神に祈って夜を明かされたのでした。父なる神の御心を尋ね求め、徹夜で祈り続けられたのです。
これまでの4章では主に、安息日における律法学者たちとの論争を軸にして、イエス・キリストとはどのようなお方であるかが主題とされていました。その後、第5章から6章のこの使徒の選びの箇所までは、主イエスの招きに応えて弟子となった人々のことが取り上げられていました。そしてこの6章17節からは主の弟子となった人々はどのような歩み方をすることになるのかが語り出されます。主の弟子の具体的な生き方、主イエスに従う、その従い方がどのようなものになるのか、それが主イエスご自身の口によって語られていくのです。
1 主イエスはこの弟子の歩む道について語るための場所として、「平地」をお選びになりました。この6章の20節以下に始まる主イエスのお話は一般に「山上の説教」(山の上での説教)と言われています。なぜそう言われるかというと、同じような説教を主イエスが山の上でなさったことが、「マタイによる福音書」というもう一つの福音書の中に書き記されているからです。新約聖書には四つの福音書が含まれていますが、それぞれが少しずつ違った角度から主イエスのご生涯を描いているのです。マタイが描く主イエスの山の上での説教がよく知られているため、この主のお話はよく「山上の説教」と呼ばれます。けれどもこのルカが描く主イエスのお話は平地で行われるため、「山上の説教」に対して「平地の説教」と呼ばれたりもしているのです。主は12人の使徒をお選びになった後、そこに留まってお話をされたのではありません。祈って夜を明かし、大きな選びの決断をされたその山を降りて、平地に来られたのです。
もし主が山の上に留まり続けていたら、そこには自力でその山を登って来られる人しか集まって来られなかったでしょう。ユダヤ全土とエルサレムから、またティルスやシドンの海岸地方からはるばるやってきた、大勢の弟子たちやおびただしい民衆たちの中には、病気の人や汚れた霊に悩まされていた人たちがたくさんいたのです。主イエスが山の上に留まり続けていたなら、たくましい足と急な坂も歩き通せる体力を持った人しか主のそばに集まれなかったはずです。せっかく集まった多くの人々は、主にお会いできないまま、この山のふもとで、倒れ伏してしまったかもしれないのです。主が使徒たちと一緒に山を降りて、主に会いに来た人々のもとへ赴いて来られたことに、大きな恵みが秘められているのではないでしょうか。主が平地に降りて来てくださったからこそ、多くの人々が集まって、主のまじかでお話を聞き、いやしを受けることができたのです。
2 この主を囲んだ人々の中には、大きく分けて三つの種類の人々がいました。まず主イエスと一緒に山を降りてきた12人の使徒たちがいます。それから大勢の弟子たちがいます。さらに、各地から集まってきたおびただしい数の民衆たちがいました。これらの人々の中には、前々から主イエスと共に過ごして、主との親しい交わりを与えられていた人々がいたことでしょう。特に12人の使徒たちはそうだったでしょう。またその他にいつも主と行動を共にしていたわけではないにしても、主に従った多くの人々が含まれていたはずです「弟子」と呼ばれているのはそういった人たちでしょう。さらに主イエスのことをうわさ話や人づてで聞いただけだけれども、ぜひその方ご自身に会いたいと思って来た人たちもいたはずです。その多くの人たちは、まだ主に一度もお目にかかったこともなかったのではないでしょうか。民衆の多くはそういった人たちであったと思われます。しかもその中には、ユダヤ教以外の宗教を持つ、異教の国から来た人たちもいたようなのです。ティルスやシドンはそういった国々です。シドンの国の女神アシュトレトは異教の神で、男性の神バアルと並んでユダヤの人々をいつもまことの神を信じる信仰からそらせ、誘惑し、悩ませ続けてきた神です。そのような世界の中から、はるばる主イエスに会いにやって来たのです。シドンやティルスはエルサレムから見れば、150キロほども離れた土地です。当時は歩いてくるか、らくだやロバに乗ってくるしかなかったでしょう。大変な苦労をしてここまでやってきたのです。
こうして、この日主を巡り囲んだ人々の中にはいろいろな種類の人たちがいたことが分かります。主イエスは今さっき徹夜の祈りをもって選ばれた使徒たちにも、久しぶりにやってきた大勢の弟子たちにも、今始めて会いにやってきた異教の国の民にも、同じように言葉を語り、同じようにいやしを与え、同じように出会ってくださるのです。
3 このことは18節、19節を通してもっとはっきりしてきます。この平地に集まってきた人々の中にはいやしを求めてきていた人々が少なからずいたのです。もちろん彼らは主イエスの「教えを聞くため」に来ていました。けれどもそれと結びついたものとして病気をいやしていただくこと、汚れた霊からいやしていただくことも求めて集まってきていたのです。それゆえに「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」(19節)のです。それは「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたから」です。皆なんとかして主イエスに触れたかったのです。触りたかったのです。それによって、主イエスの内にみなぎる神の力に与かることができたからです。それによって病からも、悪霊からも解放され、苦しみと悩みから解き放たれたからです。聖書では「触れる」という行為には大切な意味が込められています。人は触れることによって、その相手の力や祝福に与かることができるのです。その分け前に与かることができるのです。この「触れる」という言葉にはまた、「光らせる」、「輝かせる」という意味もあります。触れることで主の力に与かる者は、今まで苦しみとらわれ続けていたあらゆる悩みから解き放たれ、これまで心の中を支配してきた暗闇を取り除かれ、光の内を歩む生き方へと招きいれられるのです。それは病気や悪霊の背後にある悪の力が打ち破られて、神様の力強いご支配が始まったことを示しているのです。神の国、神のご支配が始まりつつあるのです。
主の周りに群がり集まった群集は、今はそのことを十分に理解してはいなかったかもしれません。いやもしかしたら多くの人々は、とにかく主イエスに触れていやされるというご利益だけを求めて来たのかもしれないのです。とにかくこの病気や苦しみ、悪霊がもたらす悩み、てんかん、中風といった病からいやされたい、それだけの理由で来た人たちも多かったかもしれないのです。私は一月ほど前に中国を訪ねた折、明王朝の時代に建てられたといわれる紫禁城を見学しました。その出口に近いあたりの門の中に、かつて金箔で一面覆われていたという鐘のようなものが置かれていました。けれども訪れる人がご利益に与かろうと、みんな手で触っていくものだから、今ではすっかり金箔が剥げ落ちて、下地のくすんだ青銅のような色が浮かび上がってきているのでした。この日主のまわりに集まってきた人たちの中には、そのようにご利益に与かるようなつもりで来ていた人もあったかもしれないのです。
けれども大切なことは、主イエスはそうした人々を拒むことをせず、彼らがご自分に触れることを退けたりなさらなかったということです。すべての人の病気をいやす力を出し惜しみしたりなさらなかったということです。迷信まがいの思いでもって触りに来た人々をもまずは受け入れてくださったということです。とにもかくにも主イエスのもとへやって来た人々を主は受け入れてくださったのです。ご自身に触ることをよしとしてくださったのです。そのような人々に、語りかけ、神様のご支配が始まりつつあるとはどういうことなのか、主の弟子として歩むとは本当はどういうことなのか、お言葉を与えてくださるのです。語りかけてくださるのです。
かつてイスラエルの民は、生ける神と相見えた者は、即死ぬことになると考えていました。イスラエルの人々がシナイ山のふもとで神がそこに臨んでおられるのを感じた時、大いなる畏れに打たれました。雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有り様を見て、神がすぐそこにおられるのを感じ、激しい畏れに打たれたのです。彼らは神のおられる山から遠く離れて立ち、指導者であるモーセに、神が民に伝えようとしていることを取り次ぐようにと願い出るのです、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます」(20:19)。神とまともに向かい合わせになり、その言葉を受けとめることのできる力は人間にはないのです。神と鉢合わせになる時、人間は全能の神にそむく反逆の心に支配された救いようのない者であることがはっきりとするのです。そして神の裁きと怒りの前に焼き殺されてしまうのです。
けれども今、主イエスにおいて起こっている出来事は、そのような神が今、見える形をとって、人の姿になって、しかも平地にまで降って、わたしたちにご自身を現してくださっているということです。そして私たちが主イエスと出会い、主イエスに触れることをよしとしてくださっているのです。動機は何であれ、集まってくる者にご自身を触れさせ、御言葉を語ってくださるのです。その時、私たちの中に変化が起こりはじめます。ご利益目当てで来ていた者も、そこでまことの生ける神と出会い、自分が神の前で滅ぼされる存在であることを知らされるのです。あのシナイ山のふもとに立ったイスラエルの民が経験したのと同じ畏れに打たれるのです。けれどもそれと同時に、その生ける神が今、自分のそばにまで来てくださり、私たちが神に触れ、神の言葉をまともに聴くことができるようにしてくださっている恵みを知らされるのです。この「畏れ」と「恵み」の間にあるのがイエス・キリストの十字架と復活です。そのままでは神を見ることなどできない反逆の罪のかたまりである私たちが、キリストにおいて神と出会うことができるのは、主が十字架で、私たちの叛きの罪を一身に引き受けてくださり、私たちに代わって死んでくださったがゆえなのです。悪の支配を打ち破り、復活されたゆえなのです。その時、もはやご利益目当てで来た自分はいません。変えられるのです。主の弟子としていただけるのです。神をまことに神として歩む人生の喜びが目の前に広がり始めるのです。自分が求めていたものが予想外の仕方で実現され、もっと大きな恵みの中に招き入れられていることを知るのです。叛きの罪を赦され、神の御顔の前を、神に守られ、導かれながら、歩み出すことができるのです。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」(創世記32:31)と喜び合うことができるのです。
結 この礼拝にも、わたしたちはさまざまなきっかけや理由があって集まってきたかもしれません。担いきれない重荷や悩みの解決を求めて来た方もあるかもしれません。今の情けない自分の有り様を受け入れられずに苦しんだ末に教会に足を踏み入れた方もあるかもしれません。また生まれて間もない頃から教会で育ち、教会の交わりの中で養われてきた方もあるでしょう。洗礼を受けて教会生活を始めてからまだ間もない方もあるでしょう。けれども、いかなる理由であれ、神は今、主イエス・キリストにおいて、私たちと出会ってくださるのです。ご自身に触れることをよしとしてくださるのです。神の言葉をまともに聴かせてくださるのです。後にご利益目当てで主の衣に触れた女が出てきますが、この女は主によって群衆の中から探し出され、主と真正面から向き合い、そこで本当の主との出会いを与えられていくのです。私たちにも今同じことが起こります。十字架と復活の主に導かれて、ご利益宗教のいやしをはるかに越える幸いの中に招き入れられていくのです。
祈り 父なる神様、私たちは皆、さまざまな導きからこの礼拝へと至った群れであります。いろいろな理由があってここに集うに至った民です。しかしそこにはあなたの深いご計画があり、導きがあります。しかし今、あなたが私たちと出会ってくださる恵みの中に私たちを置いてください。そこであなたを間違って受けとめていた心、勘違いして自分の利益だけ求めていた歩みの上に、イスラエルの民が味わったような激しい畏れを降してください。
しかしそれにもまして、私たちが主イエスにおいて直にあなたに触れ、直にあなたのお言葉に与かり、あなたの導く人生を歩める喜びが満ち溢れますように。その喜びが生ける泉となって、私たちの歩みの中から溢れ出し、世界に広がり行きますように。まことの主を知る喜びでこの世界をいっぱいにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。