夕礼拝

裏切り者も招かれる

「裏切り者も招かれる」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; サムエル記下、第7章 18節-29節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第6章 12節-16節
・ 讃美歌 ; 309、402

 
序 主イエスはガリラヤで伝道を始められてから、毎日休む暇なく働いてこられました。会堂で日々、御国の福音を宣べ伝え、汚れた霊に取りつかれた男や多くの病人をいやしてこられたのです。その一続きになった言葉とわざのまとまりが、この6章の16節で一つの区切りを形づくっています。これまで語られてきた大きなまとまりの終わりに来るのが、主イエスによる12人の使徒の選びです。

1 ある安息日に手の萎えた男を癒された主イエスは、祈るために山に行かれました。何のためでしょうか。山は人里離れた、寂しいところです。教会学校の夏期学校で静岡の東山荘に行ったことがありました。そこで子供たちと「星空の富士さんぽ」というプログラムに参加しました。夜の富士山のふもとを、ランタンのかすかな灯りだけを頼りにして、二人一組で歩くのです。静かに風がそよぎ、ずっと遠くで鳥が鳴く声が時々聞こえるだけの、真っ暗なふもとでした。世の中にこんな静かな場所があったのかと、感心させられるような体験でした。主イエスもきっとあのような静かな場所に退いて、一人で祈られたのではないでしょうか。
 主はこの日、きっとお疲れになっていたに違いありません。あの安息日に会堂に入って一日教えておられたのです。そしてそこで長い間人々に顧みられないでうち捨てられていた一人の手の萎えた男に目をとめられ、彼をお癒しになりました。しかもその際、律法学者やファリサイ派の人々と安息日についての律法の教えを巡って、激しい論争をしてきたのです。主イエスは疲れを知らないスーパーマンではありません。肉の体をもってこの地上に来てくださった御子なる神はまた、私たちと同じように疲れをも、その身に覚えられたのです。主に人々が触れると、主はご自身から力が出て行くのを感じたと、聖書も記しています。主は次の働きに備えて、休みを必要としておられたのです。けれどもこの日は、ただ肉体を休ませることだけで終わってはならない日でありました。主はこの安息日の夕べに、ある大きな決断をしようとされていたのです。それが12人の使徒を選ぶことでした。主はこの使徒を選び出すことのために、疲れをも忘れて、父なる神に祈られたのです。「神に祈って世を明かされた」(12節)と証しされています。主は夜通し神に向かって祈られたのです。
主イエスは大きな決断をされる時、いつも祈りました。主が洗礼を受けられた際、聖霊がその上に降って来たのは、主が祈っておられる中での出来事でした(3:21)。主が弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたのは、主がひとりで祈っておられたすぐ後のことです(9:18)。主がモーセとエリヤと会い、栄光のうちに語り合ったのは、主が祈るために山に登られた時のことでした(9:28-29)。そして主の祈りを弟子たちにお教えになったのは、ご自身がある所で祈っておられた際、「わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いされたのを受けてのことだったのです(11:1)。
 主は今、ここでも大事な決断をされるために夜通し神に祈られたのです。主がこれから選び出そうとしておられるのは、御国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病を癒す務めを、ご自分と共に担う者たちです。その数は12人。これはちょうどイスラエルの十二部族の数と同じです。イスラエルの民は、神によって選び出され、神の民として、諸国民の祝福の基になるよう定められた民です。それと同じように、今ここに選び出されようとしている12人も、主イエスによって選び出され、主が宣ベ伝える御国の福音に、一人でも多くの人々を招き入れるために遣わされようとしているのです。「使徒」という言葉は、「遣わされた者」という意味です。特別な務めを身に帯びて、派遣されるのです。祈って夜を明かされた主は、朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名づけられ、その職に任じられました。使徒は呼び集められ、名を与えられた者たちです。主がその権威をもって選び出し、務めに任じてくださったのです。主イエスが洗礼を受けられた時、天からの声が聞こえました、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:22)。それと同じように、主は今、この12人をご自身の務めに任じることをよしとされ、そのことが御心に適うことを示されたのでした。しかもこの選びは父なる神への祈りの中でなされたものです。ということは、主イエスのみではなく、父なる神もまた、この選びをよしとし、望んでおられることが、明らかにされているのです。

2 ではそのようにして選び出された実際の使徒たちは、いったいどんな人物だったのでしょうか。最初に出てくるのは主イエスが「ペトロと名付けられたシモン」です。彼は十二人の使徒の代表者で、このリストの中でも一番初めに来ており、特別な場所を与えられています。「ペトロ」という言葉は「岩」を意味しています。けれども、実際にはこのペトロが岩のように揺らぐことのない信仰を持っていたというわけでは決してありません。むしろ彼はおっちょこちょいで、多くの失敗をした人でした。熱血漢なところがあるかと思えば、いざという時には臆病になって激しく動揺してしまうのです。栄光に包まれた主イエスを見て、ここにあなたのために小屋を建てましょう、とトンチンカンなことを言ったり、湖の上を歩く主に倣って水の上に足を降ろしますが、すぐに恐くなって溺れたところを主に助けられたりしています。そして「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とまで誓ったにも関わらず、最後は鶏が鳴くまでに、三度主イエスとの関係を否定してしまうのです。主は捕らえられる直前におっしゃいました、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:32)。主に祈り支えていただかなければ、片時も使徒として歩むことができない、それが彼の偽らざる姿だったのです。次のアンデレはその兄弟ですが、ペトロと同じく、魚を獲って生計を立てていた人です。ヤコブとヨハネも漁業を営んでいた兄弟であり、性格が激しかったのか、「雷の子たち」というあだ名をもらっていたようです。フィリポとバルトロマイも早くから主に従った弟子たちですが、主が十字架につけられた場面には姿を現していません。マタイはレビとも呼ばれており、カファルナウムの収税所で働く徴税人でした。ユダヤの人々からは自分の利益のためにローマ帝国におべっかを使う裏切り者と見なされ、軽蔑されていました。トマスは「双子」という意味も持つ名で、その名のとおり、復活の主に出会っても、それを信じることができない、もう一人の疑い深い自分によって悩まされた人でした。次のアルファイの子ヤコブはこの後全く出てきません。その母親が、十字架にかけられて亡くなった主の墓を、香料を持って訪ねていきましたが(マルコ16:1)、そこにも彼は出てきません。熱心党に属していたシモンは国粋主義者、右翼です。神の民が住むイスラエルを支配する外国のいかなる権威も徹底的に排斥し、そのためには暴力行為に訴えることもよしとしていた党です。現代世界において脅威となっているイラクやイスラエルでのテロリズムを思い起こさせます。驚くことに主イエスの使徒の中には、このように自分の主張のために力に訴えるような者もいたのです。ヤコブの子ユダは他の福音書でタダイと呼ばれている人物のことではないかと言われていますが、この人もその後出てまいりません。最後がイスカリオテのユダです。後に裏切り者になったと注釈がついています。主を裏切って、十字架につけるため、ローマの官憲に引き渡した人物です。そのために主が弟子たちと共に過ごすことの多かったオリーブ山のいつもの場所を裏切りの場へと変えた人物です。
 こうして見てくると、いったいだれが主イエスの弟子にふさわしい、立派な人物だったと言えるでしょうか。誰一人、主のそばについて歩むにふさわしい人格や態度を持っていたわけではありません。むしろ人々に嫌われたり、乱暴者だったり、失敗や勘違いを繰り返して主に迷惑をかけたり・・・そんなことを繰り返している人たちです。しかも挙句の果てには主イエスを裏切り、主を見捨てて逃げ出してしまった人たちなのです。
 けれども私たちが忘れていけないのは、これらの12人を、主は徹夜の祈りを経て任命されたということです。そしてそれは父なる神もよしとされたことだということです。何と驚くべきことでしょうか。もし日本の国会で、大臣が失敗をしたり、大変な過ちを犯した時には、大臣は辞任に追い込まれますし、それだけでなくその人を任命した総理大臣の責任が問われます。どうしてこんな人を大臣に任命したんだ、と言って、野党から攻撃されるのです。場合によっては政権を揺るがすような事態にもなりかねません。今アメリカでは4代の大統領に仕えてきたテロ対策担当の特別補佐官が、9月11日のテロは防げたはずだと発言し、政権に反旗を翻し、マスコミで騒がれています。主イエスの場合はどうでしょうか。これら12人のうち誰一人として立派な人物、優れた人格の持ち主はいません。そのくせすぐに誰が一番偉いかといって議論を始める、妬みやすい人たちの集まりです。普通だったら、「やれやれ、大変な人たちを選んでしまった」と大きなため息をつきたくなるでしょう。徹夜で祈って選んだ人たちがこんな人たちなのか、と私たちは驚くかもしれません。
 けれども、もしこれらの人たちが本当に立派で優れた弟子たちだったらどうでしょうか。人格も立派で言葉遣いも丁寧、さもしい議論はせず、いつも落ち着いて優しい笑顔を浮かべている。早朝祈祷会にも毎日欠かすことなく出席し、毎日何時間も祈りの時を持っている。信仰の浮き沈みも一切なく、迫害に遭えば喜んで殉教していく。こんな人たちが使徒に選ばれたとしたらどうでしょう。きっと主イエスは私たちと何の関わりもなくなってしまうでしょう。私たちの救い主ではなくなってしまうでしょう。
 主がこのような12人を選んだのは決して偶然ではありません。主は決断を誤ってしまったのではないのです。大いなる確信をもって、これでよしととして選び出されたのがこの12人なのです。それは今を生きるこの私たちも、この選びの中に入れていただくためなのです。到底ふさわしくない、信仰の浮き沈み多く、悩みや欠けに満ちた私たち、信仰薄く、何か試練が起こるとたちどころに不安になって心が萎えてしまう私たち、暴力と憎み争う世界に頭を抱える私たち、そんな私たちを呼び集め、用いるために主はあのような12人を選ばれたのです。彼ら一人一人の弱さや破れのすべてをよくご存知で、主は彼らを使徒とすることをよしとされたのです。主が地上に来られたのは、高い所に留まり続けているのではなく、私たちの中に入ってきて、私たちと関係を結ぶことを、神がよしとしてくださったからなのです。これが聖書の語る愛です。そこで不利益なことや迷惑なこと、大変なことを引き受けて、担いきってくださる、そのことを主は十字架において成し遂げてくださったのです。そして復活によって罪の泥沼を取り除き、新しく生きるとこしえの命の泉を尽きることなく湧き溢れさせてくださっているのです。
 この恵みに目を開かれた者は、ダビデと共に感謝と讃美の祈りを祈るのです、「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか」。「主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。ダビデはこの上何を申し上げることができましょう。主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました。御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません」(サムエル下7:19-22)。

結 この使徒たちが聖霊の息吹に生かされて、初代のキリストの教会を導き、伝道が推し進められてきました。何のとりえもない弱さと破れを抱えたやぶれかぶれの罪人、そのような者たちが、叛きの罪をぬぐわれて、自由の霊に支えられつつ、伝道のわざに大いに用いられるのです。同じことが今、私たちの身にも起こります。私たちの教会は先月、長老・執事・奏楽者・教会学校教師の任職をし、聖歌隊のために祈り、新たな年度に向けて備えをいたしました。この任職において捧げられた祈りを、背後で支えているのは、あの夜の主イエスの徹夜祈祷なのです。あの祈りに支えられて、このように小さな私たちも、主によって罪を赦され、用いていただけるのです。そのために主はこの日、エルサレムに入城してこられました。主がこの私たちのためにどれだけ悩み、苦しみ、大いなる決意を持ってこの日エルサレムに入城したのか、そのことを思い巡らすこの日はまた、裏切り者も招かれる測り難い主の恵みの大きさを思う時でもあるのです。

祈り あなたの弟子として選ばれるに価しない私たちです。そんなあるに甲斐のない私たちをあなたは呼び集め、叛きの罪から洗い清めて、あなたの務めをゆだねてくださいます。どうかこの棕櫚の主日に、裏切り者をも使徒として招くためにあなたがどれだけの悩みと苦しみをお引き受けになったのかを思わせてください。私たちの日々の歩みがあの主イエスの徹夜の祈りに支えられていることをいつも忘れることがありませんように。これから与かるパンと杯を通して、主が罪人を招かれた最後の晩餐に私たちも連なることを得させてください。
 十字架と復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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