主日礼拝

主イエスの復活

「主イエスの復活」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第16篇 1節-11節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第2章 22節-36節

 
主の復活を喜び祝う
 主イエス・キリストの復活を喜び祝うイースター、復活祭の日を迎えました。イースターはキリスト教会の最大の祭です。キリストの誕生を祝うクリスマスの方が日本ではよく知られ、世間でも祝われていますが、教会にとってより重要な祭りは、キリストの復活を祝うこのイースターなのです。教会の歴史においても、クリスマスは最初から祝われていたわけではありません。また宗教改革以後の時代にも、クリスマスが意図的に祝われなかった時すらあります。しかしイースターは、教会がその誕生の最初から祝ってきた、と言うよりも、キリスト教信仰の中心はイースターを祝うこと、主イエス・キリストの復活を喜び祝い、それを宣べ伝えることだったのです。私たちが今礼拝において読み進めている使徒言行録の1章22節には、脱落したイスカリオテのユダの代りに十二人の使徒の一人となる者が選び出されたことが語られていますが、そこでペトロは、「だれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人となるべきです」と言っています。教会の指導者である使徒たちとは、主イエスの復活の証人であり、彼らが宣べ伝えたことは主イエスの復活だったのです。それを信じた者たちの群れが教会です。イースターを祝うことは、教会の信仰の一部ではなく、その中心、要(かなめ)なのです。教会の礼拝は日曜日に行われています。それは、主イエスの復活の記念日です。週の初めの日、つまり日曜日の朝に、主イエスは復活されたのです。教会はその日を「主の日、主日」と呼んで、その日に集まり礼拝をしていきました。そのキリスト教が、度々の迫害にもかかわらずローマ帝国の全域に広まっていき、皇帝ももはやその力を無視できない、むしろそれを統治に利用していった方がよいと考えられ、キリスト教が公認され、さらにはローマの国教にまでなっていった紀元4世紀に、日曜日を休日とする、ということが決まったのです。つまり日曜日が休日となったことよりも、教会が日曜日に礼拝を守ったことの方が先なのです。教会は日曜日が休日だから礼拝をしているのではありません。教会が日曜日に、キリストの復活を祝って礼拝を守っていたから、それに合わせて日曜日が休日になったのです。つまり毎週の日曜日は小さなイースターであり、私たちは毎週主イエスの復活を喜び祝っているのです。

罪と死の支配
 その毎週の喜び祝いの中心あるいは大元が本日のイースターです。本日は私たちにとって、一年の内で最大の喜び、祝いの日であると言ってよいのです。けれども、今私たちの社会は、この国は、深い嘆きと悲しみ、苦しみの中にあります。イラクで人質となっている三人の同朋たちのことがとても気掛かりです。今朝は、その人々が24時間以内に解放されるというニュースが流れました。しかし他の国の人々でも、同じ目に遭っている人がいます。私たちはこれらのことを自分の問題として受け止めなければならないでしょう。ここには、人間の罪が猛威を振るい、私たちを苦しみと悲しみに引きずり込もうとしています。その力の前に、無力な私たちの現実を思わずにはおれません。
 また目を私たちの教会の内側へと転じていくならば、一人の信仰の兄弟が過ぐる8日、木曜日に天に召されました。本日の夜と明日、そのご葬儀が教会で行われます。ご夫人と息子さんご夫妻も私たちの教会の仲間です。肉親を失った嘆き悲しみの内にあるご家族と共に、今私たちはこの礼拝を守っています。またこの礼拝には、昨年度天に召された方々のことを覚え、ご遺族にご案内をして何人かの方々がご参加下さっています。死の力が、私たちの兄弟たちを捕え、愛する者を奪い去っていく、その力の前にやはり無力である私たちの現実がここにあるのです。このように私たちの置かれているこの世の現実は、とても喜んだり祝ったりできるようなものではない、と言わなければなりません。社会全体においても、また個人的な歩みにおいても、私たちは罪と死の力に翻弄されており、その力にどうしようもなく支配されているのです。

主イエスの十字架
 本日この礼拝においてご一緒に読む聖書のみ言葉は、使徒言行録第2章22節以下です。ここは、本日のイースターから五十日後のペンテコステ、五旬祭の日に、弟子たちに聖霊が降り、この世にキリストの教会が誕生した、その最初の日に、十二人の使徒たちを代表してペトロが語った説教です。教会が人々に教えを宣べ伝えた、その最初の言葉がここにあるのです。この最初の説教において、ペトロは、主イエス・キリストのことを語っています。それがこの22節からです。22節から23節にかけては、先週の礼拝においても読みました。ナザレの人イエスこそ、神様がイスラエルの民に遣わして下さった救い主であり、神様は、主イエスのなさった様々な奇跡や不思議な業によって、そのことをはっきりとお示しになっていたのです。しかし神様の民であるはずのイスラエルの人々は、その主イエスを受け入れず、拒み、律法を知らない人々、つまり異邦人であるローマの権力に引き渡して、十字架につけて殺してしまったのです。ここに語られていることは、人間のとてつもない罪です。神様が遣わして下さった救い主を、神様の民である人々が殺してしまう、それは神様の大きな恵み、恩恵を受けている者が、その恩を仇で返すということです。神様の民イスラエルは、主イエスを十字架につけることによって、自分たちの神に対してそのような大きな罪を犯したのです。ペトロはここで、「あなたがたはこのようなことをした」と言ってイスラエルの人々の罪を指摘し、断罪しています。しかし先週も申しましたが、ペトロは決して、自分はそういう罪とは無関係だ、という立場からこれを語っているのではありません。ペトロ自身もイスラエルの民の一員であり、さらには、主イエスの弟子だったのです。しかし主イエスが捕えられ、十字架につけられていく時、それはまだほんの五十日ほど前の、つい最近のことですが、彼ら弟子たちは皆主イエスを見捨てて逃げ去り、さらにペトロは三度、主イエスのことを「知らない」と言ってしまったのです。つまり彼らは主イエスを裏切ったのです。ですからペトロがここで見つめているのは、自分とは関係のない、イスラエルの人々の罪ではありません。彼自身が、まさに罪の力に翻弄され、そのとりことなり、無様な醜態をさらした、そのことを彼は意識しているのです。それにもかかわらず彼がこのように「あなたがたは」と言っているのは、これも先週申しましたが、主イエスを十字架につけたその罪を、この説教を聞いている全ての人が、自分自身の罪として意識するためです。神様が遣わして下さった救い主を拒み、十字架につけて殺したのは、どこかの誰かではない、他ならぬあなたなのだ、あなたが、救い主を十字架につけて殺すとんでもない罪を犯しているのだ、とペトロは、そして教会は、あるいは聖書は、私たち一人一人に語りかけているのです。罪の力のとりことなり、翻弄され、罪に打ち負かされて無様な醜態をさらしているのは私たち一人一人なのだ、とこの説教は語っているのです。聖書は、教会は、主イエス・キリストの十字架の死を宣べ伝えます。それは一つには、私たち人間が、罪の支配下にあり、その力にいつも翻弄されており、罪との戦いにおいて常に惨めに敗北してしまう者であるという現実を見つめ、それが私の、またあなたのありのままの姿なのだ、ということを示すためなのです。

神のご計画
 しかしペトロは、それと同時に、この主イエスの十字架の死が、神様のご計画のもとでなされたことだった、ということを23節の前半で語っています。これも先週申したことです。私たちが救い主イエスを拒み、十字架につけて殺した、そのとてつもない罪が、神様のご計画の中に既に置かれていたのです。そのご計画とは、私たちの罪を赦し、新しく生かして下さる恵みのご計画です。主イエスの十字架の死によってそのご計画が実現したのです。それは、主イエスの死が、私たちの全ての罪を背負っての、身代わりの死だったということです。何の罪もない神の独り子主イエスが、十字架につけられて殺される、神様はそのことを、私たち罪人のための身代わりの死として、本当は私たちが受けなければならない裁きを主イエスが代って受けて下さることとして計画して下さったのです。この神様の驚くべきご計画によって、人間のとてつもない罪の出来事が、神様の恵みの出来事、罪の赦しの出来事となったのです。教会が主イエス・キリストの十字架を宣べ伝えるのは、この神様の驚くべき恵みを宣言し、語るためでもあります。人間の罪が極まったところに、神様の恵みもまた極まっている、それがキリストの十字架なのです。

主イエスの復活
 主イエスの十字架の死がこのように神様の救いのご計画によることであったならば、それはそれだけで終わりになるはずがありません。そのことをペトロは24節以下で語っていきます。24節「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。これが、本日私たちが記念し、祝う主イエスの復活です。しっかりおさえておかなければならないのは、主イエスが復活した、と語られてはおらず、神がイエスを復活させた、と語られているということです。復活は、一旦死んでしまった主イエスが、ご自身の内に秘められていた力によってもう一度生き返った、という出来事ではないのです。父なる神様が主イエスを復活させた、つまりそれは徹頭徹尾神様のみ業なのです。そのことは何を意味しているかというと、復活は、十字架において実現した神様の救いのご計画の続きであるということです。主イエスの十字架の死を、私たちの罪を背負っての身代わりの死とする、それが神様のご計画でした。しかしそのご計画は、それだけでは完成しないのです。主イエスの十字架の死が神様のみ心による、罪の赦しのための救いの出来事であったことは、神様が主イエスを復活させ、新しい命を与えて下さることにおいてこそはっきりと示され、宣言されるのです。十字架の死だけだったなら、それが罪の赦しのための贖いの死だったということは、主イエスの死についての一つの解釈、考え方に過ぎなくなります。そう考えることもできるが、そうではない、あれはただ死刑になって殺されただけだ、と考えることもできるのです。神様が主イエスを復活させて下さったことによって、十字架の死がただの死ではなく、私たちの罪を背負って神様の独り子が死んで下さったという特別な意味を持った救いの出来事だったことが明確にされるのです。

新しい命を
 さらに言えば、十字架の死が私たちの罪の赦しのための死であったならば、それに続いて、私たちが罪を赦されて新しく生きるということが当然起っていくはずです。赦されるというのは、神様と私たちとの関係が回復することです。決裂していた関係が修復されるのです。神様から離れ、神様を無視して、自分の思いによって生きていた私たちが、神様の恵みの下に、神様と共に、神様に従って生きる者へと新しくされるのです。罪の赦しによって、そういう新しい命、新しい歩み、新しい人生が始まるのです。それは私たちが自分で心機一転して新しくやり直すということではなくて、神様が新しい命を、新しい歩みを、新しい人生を与えて下さるということです。主イエスの復活において、神様はその新しい命を具体的に示して下さったのです。主イエス・キリストと結びついて生きる者には、肉体の死の彼方に、主イエスに与えられたのと同じ復活の新しい命が与えられます。主イエスの復活はその先駈け、初穂なのです。そこまで行って初めて、主イエスの十字架における救いのご計画は貫徹されます。神様のご計画において、十字架は復活へと必然的につながっているのです。主イエスの十字架の死が神様のご計画の中にあったなら、その復活もまたそのご計画の中にあったのです。
 ペトロはそのことを25節以下の旧約聖書の引用によって示していきます。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第16編8節以下の引用です。この詩を歌った人は、「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」と言っています。「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」とも、「わたしの体も希望のうちに生きるであろう」とも言っています。「あなたは、命に至る道をわたしに示し」ともあります。主なる神様によって、陰府、つまり死の力から解放され、復活の命、新しい体を与えられる、「わたし」はそういう恵みに生かされていると歌っているのです。この詩はダビデ王が歌ったと1節にはあります。しかしダビデは既に死んでその墓があるのです。だからこの「わたし」はダビデ自身のことではない、ダビデは神様から、あなたの子孫にイスラエルの王座を受け継ぐ救い主が生まれるという約束を与えられていた、その救い主のことを預言してこの歌を歌ったのだ、この詩の「わたし」とは、ダビデの子孫としてお生まれになった救い主イエス・キリストのことなのだ、というのが29節以下の説明です。この詩編の言葉は、主イエス・キリストの復活が神様のご計画の中に既にあったことを証ししています。32節の「神はこのイエスを復活させられたのです」という言葉は、主イエスの復活はこの詩編に歌われている神様のご計画の実現であった、ということを言っているのです。

昇天
 神様のご計画によって復活された主イエスは、1章9節に語られていたように、天に昇られました。そのこともまた、神様のご計画の中にあったのです。それを示しているのが34、35節の引用です。これは詩編110編1節ですが、これもダビデの詩とされています。そしてここには、ダビデが「わたしの主」と呼んでいる救い主が、主なる神様のみ心によって、神様の右の座に着くことが歌われています。主イエスが天に昇られたことは、この神様のご計画の実現なのです。それゆえに、33節前半にあるように、主イエスは今、父なる神様の右に上げられ、全能の父なる神の右に座しておられるのです。そして天に昇られた主イエスは、33節後半にあるように、父なる神様から聖霊を受けて、それを弟子たちに注いで下さいました。それがこのペンテコステの日の出来事だったのです。このように、主イエスの復活も昇天も、ダビデが歌った詩の中に、神様のご計画として既に語られていたのです。

神の勝利
 このように、主イエスの十字架も、復活も、昇天も、そしてペンテコステにおける聖霊の降臨も、全ては神様の、私たちの救いのためのご意志、ご計画の一環であり、分ち難く結びついているのです。神様はこれらのみ業全体を通して、私たちの罪を赦し、新しく生かして下さるのです。つまり最初に指摘されていた、私たちのとてつもない罪の現実が、神様の救いのご計画の実現によって乗り越えられ、私たちがその罪を赦されて、新しい命を与えられて生かされていく、ということがここに起っているのです。そのことをペトロは36節で高らかに宣言しています。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。私たちは主イエスを十字架につけて殺した、そういう罪に捕えられて、神様に背き、隣人を傷つけながら生きている、そういうこの社会と私たちの現実が、主イエスを十字架の死にまで至らせて下さった神様の恵みのご計画の実現によって乗り越えられて、イエス・キリストが主であり、メシア即ち救い主であられる新しい世界が今や開かれているのです。主イエスの復活は、イエス・キリストが主であり救い主である新しい世界を神様が開いて下さったという恵みの出来事であり、教会は主イエスの復活を喜び祝い、それを宣べ伝えることによってこの新しい世界、新しい命の開始を宣言しているのです。

罪と死の現実を越えて
 私たちをとりまくこの世の現実は、相変わらず罪の力に支配され、翻弄されています。罪が罪を、憎しみが憎しみを生み、それが増幅されていく悪循環の中に私たちは否応なく取り込まれてしまっています。その罪の支配の前で自分が全く無力であることを思わしめられずにはおれないのです。また、私たちは死の力の前でも全く無力です。生きている者はいつか必ず死ななければならないのであって、それを免れる者はいないのです。私たちは罪と死の力に支配されて生きています。それが目に見える現実です。しかし、聖書は、教会は、その現実のただ中で、主イエス・キリストの復活をこのように祝い、宣言しているのです。主イエスはよみがえられた、そこには、罪と死の力に対する神様の恵みの勝利、罪の赦しと復活の命の勝利があります。主イエスの復活を祝いつつ生きるところには、罪と死の力に負けてしまわない、新しい世界、新しい人生、新しい人間関係が開かれていくのです。主イエスの復活とそれによって与えられる新しい命は、この目で見て確かめることのできるものではありません。信仰によって受け止めるしかないことです。言い換えればそれは、天に昇られ、神の右に上げられた主イエスが、おん父から受けて注いで下さる約束された聖霊の働きによってしか分からないことなのです。それゆえに私たちに出来るのは、聖霊のお働きを求め、主イエスの復活を信じさせて下さい、神様の恵みが罪と死の力に勝利していることを信仰の目によって見つめさせて下さいと祈り求めることのみです。しかしそのように真剣に祈り求めていくなら、ペンテコステの日に弟子たちに降った聖霊が、私たちにも必ず注がれ、私たちに信仰を与え、主イエスの復活の恵みを信じさせて下さるのです。本日は、お二人の方が信仰を告白して洗礼をお受けになります。聖霊がこのお二人に注がれ、主イエス・キリストの復活を信じ、そこに、罪と死の力に支配されたこの世の現実を打ち破る神様の恵みが実現していることを見つめる信仰の目を与えて下さったのです。新たに洗礼をお受けになる方々をお迎えするに当って、私たち皆が改めて、主イエスの十字架と復活において実現している神様の救いのご計画を、聖霊のお働きを祈り求めつつ見つめ直したいと思います。この世界が、人間の、私たちの、罪に溢れ、その結果としての様々な悲惨な出来事が起り、苦しみや悲しみが支配してしまうことがどれほどあるとしても、しかしその罪の全てが主イエス・キリストの十字架の苦しみによって背負われており、主イエスの死において罪の力は既に滅ぼされており、主イエスの復活において、罪の赦しの恵みによって生きる新しい道が開かれていることを、信仰の目を開かれて見つめていきたいのです。そしてその信仰に支えられて、決して希望を失うことなく、私たちを取り巻く罪の力、憎しみへと傾いていってしまう思いと戦っていきたいのです。また、私たちの人生が、死の力のもとにあり、人は必ず死ななければならない、死においては、この地上の全てを失わなければならない、また死によって愛する者を奪われてしまう、そういう苦しみ悲しみがあるけれども、主イエスの復活において、神様はその死の力を既に打ち破り、滅ぼして下さっているのです。私たちに、復活の新しい命と体を与えることを約束して下さっているのです。主イエスの復活を喜び祝う私たちは、肉体の死という現実の中にあっても、その希望に生きることができるのです。

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