「主イエスに頼もう」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; サムエル記上、第16章 14節-23節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第4章 38節-41節
・ 讃美歌 ; 287、361
序 ガリラヤの町カファルナウムに下られた主は、そこにしばらく滞在し、安息日には人々を教えておられました。福音書はその言葉には「権威があった」と伝えております。主イエスの話は、ただ人生の知恵や本を通して学んだことを紹介するとか、理論や思想について講義をするといった具合ではなかったのです。人々がその話を聞いて非常に驚かざるを得ない「権威」が、この方の言葉にはあったのでした。受け売りで話しをしているのではない、本物の言葉、ご自身の全存在が一つ一つの言葉に込められている、そういう力と迫力をもった言葉を、会堂に集まった人々は聞いたのです。
その会堂にいた悪霊に取りつかれた男は、主のお言葉によって救われました。「黙れ。この人から出て行け」という権威と力とをもった言葉によって、悪霊を追い出していただき、無傷で救い出されたのです。この悪霊を追い出す出来事と並んで福音書が証しているのは、38節より始まる癒しの出来事です。
1 安息日に主イエスは人々を教え、権威ある言葉をお語りになりました。カファルナウムの人々と一緒に礼拝を守られ、またそこで御国の到来を告げ知らせる福音をお語りになったのでした。こうして礼拝を終えた後、主イエスは会堂を発ってシモンの家にやってこられました。安息日の午後に、説教者を招いて会食をするということは珍しくなかったことのようです。もっとも安息日には一定の距離、だいたい900メートルを越えるような距離を移動することは律法によって禁じられておりましたから、シモンの家は会堂から比較的近い場所にあったのでしょう。律法を犯すことなく会食ができるゆえに、シモンの家はよくこうした集会に用いられていたのかもしれません。ここで出てくるシモンは、後に5章で主イエスの弟子とされるシモン・ペトロのことです。この段階ではまだ「人間をとる漁師」として召されていない、主イエスがどのようなお方であるかもはっきりと分かってはいない、そんなシモンであったことでしょう。ただ自分の家に今日の説教者が訪ねてきてくれる、会堂の皆さんと自分の家で会食してくださる、そこで今日のお話についてもっといろいろ聞くことができるかもしれない、そんな期待感やうきうきした気分の中で、主をお迎えしたのではないでしょうか。
けれども彼には一つ気がかりなことがありました。彼のしゅうとめが高い熱にうなされていたのです。もう何日高熱に苦しめられていたのでしょうか。彼女は長いこと床に臥したまま動けずにいたのです。ここで「苦しんでいた」という言葉は、「捕らえれた」、「押さえつけられた」とも訳せる言葉です。彼女は高熱によって自由を奪われ、落ち着いて、正常に考える力を押さえつけられ、悪霊に捕らえられたような状態になっていたのです。わたしも先週風邪をひいて熱を出しましたが、人間は高い熱を出すと本当に苦しい思いをいたします。何もできなくなるし、物事を考えることもできなくなるのです。大変惨めな思いをいたします。無力感でいっぱいになります。ただうんうんうなって天を仰いでいるしかないのです。彼女はこの日のために前々からはりきって食事の準備をしてきたことでしょう。安息日の当日に大きな仕事をすることは禁じられていましたから、以前から準備をしておく必要もあったわけです。ところが当日は高熱にうなされて、訪ねてきてくれた皆さんをもてなすことができないのです。なんと残念な思いをしていたことでしょう。なんと惨めな思いをしていたことでしょう。彼女は無力感にうちひしがれて天を仰いで横になっていたに違いありません。
家に入ってからも誰かを気遣うようにしてシモンがせわしく立ち働いている様子が人々の目にも留まっていたかもしれません。誰かをかばうようにして部屋を出たり入ったりしている家の者たちが主イエスの注意をひいたかもしれません。間もなくしゅうとめが高熱に苦しんでいる事情が主イエスのもとに伝えられるところとなったのでした。「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」(38節)と伝えられております。彼女が自分で「早くあなたがたのお世話ができるようにこの熱を下げてください」とお願いすることはなかったのです。もしかしたら彼女はそんなお願いをする力も出せない、意味のある声を発することさえできない状態だったかもしれないのです。その彼女のために、周りの人々が、主イエスに願い出たのです。彼女に代わって、彼女のために、主イエスに頼んだのです。主はその願いにお応えになって彼女の枕もとに立って熱を叱りつけました。すると熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなしたというのです。あれほど彼女を蝕み、自由を奪い、彼女を捕らえ、押し付けていた力が、主の言葉によって力を奪われ、その権威の前に服従したのです。ちょうどこのすぐ前で、権威あるお言葉によって男から悪霊を追い出された時のように、熱を追い出されたのです。
2 この出来事を目の当たりにする時、わたしたちは「執り成しの大切さ」を改めて示されるのではないでしょうか。彼女は人々が主イエスに助けを求めたことによって救われたのです。熱を追い出していただけたのです。そのおかげで主にお仕えすることができたのです。主イエスは人々のお願いをお聞き届けになって熱を叱りつけてくださったのです。顧みてわたしたちは日々執り成しに生きているでしょうか。祈りに覚えるべき人を心に留めて、その人のことを主イエスに頼んでいるでしょうか。「誰々さん、何々さんを苦しめている熱病のような悪霊の力を取り除いてください。あなたに心を向けて、あなたのご支配の中を生きることができますように。あなたに仕えることを喜びとする歩みへと導かれますように」、そう祈っているでしょうか。
その日、日が暮れるといろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちを主イエスのもとに連れて来ました。当時は一日が日暮れから始まるものと考えられていましたから、この時点で安息日が終わって、次の日が始まったということを意味します。そこで遠いところからも病人をつれてたくさんの人々がやってきたのです。安息日には医者も医療行為を行うことを禁じられていたでしょうから、人々は主イエスに律法を破るような行為をさせたくないばかりに、地平線を見つめながら、日の暮れるのを今か今かと待ちわびていたのでしょう。ここでも病人たちが直接主のもとに来たのではありませんでした。いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちを主イエスのもとに連れてきたのです。病人を抱いたり、おぶったり、担架に乗せたりしながら、主のもとにお運びしたのです。ここにも家族や親戚、病人の周りに生きている人々の執り成しがあります。主のもとにお運びして、主イエスに後のことをお願いしよう、主イエスに頼もう、そういう祈りが聞こえてくるのです。後の5章で出てきますが、あの中風の人を床に乗せて運んできて、屋根をはがして床ごとつり下ろした男たちの信仰を思い出させられるのです。
主イエスはここでも、その執り成しをお聞きくださり、一人一人に手を置いて癒してくださいました。一人一人の思い、これまでの苦しみ、どんなに治療を繰り返しても治らなかったこと、どんな薬を試してみても癒されなかったこと、そこで味わってきた憂いや悩み、それらにつぶさに耳を傾けられながら、一人一人に心を傾けて、その重荷を取り除いてくださったのです。マタイの同じ箇所を記した部分には、この出来事はイザヤ書の預言の実現であったと証言しています。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイ8:17)。
まことに主イエスの癒しと悪霊払いの業は、主ご自身がわたしたちの患いと病を、わたしたちに代わってお引き受けになってくださる、あの十字架の出来事を指し示しているのです。あの十字架の出来事と復活、そして父なる神の御許へと高く挙げられるという出来事で決定的となる神のご支配が、もうここで始まっているのです。神の支配が始まりつつあるのをもっとも敏感に感じ取るもの、それは神に敵対する悪霊です。それゆえに悪霊は主の前でわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行ったのでした。悪霊は主イエスがメシアであることを一番よく知っていたのです。けれども、主は悪霊を戒めてものを言うことをお許しになりませんでした。「イエスは神の子だ」、そう正しく言い当てているのですから、悪霊であろうが何であろうが、大いに言い広めてもらったらいいのでないか、わたしたちだったらそんなふうに考えます。けれどももしここで主イエスが神の子であると人々が知っても、それはせいぜい、病を癒し、悪霊を追い出してくれる有難いお方だというような受けとめ方に留まったのではないでしょうか。ここではまだ、わたしたちの患いと病を、わたしたちの神への反逆の根本にある問題まで深く掘り下げて引き受けてくださった、罪の赦しの十字架は隠されているのです。主がわたしたちの罪のために苦しんでくださった、そのようにして神の御前に最高の執り成しをしてくださった、その恵みの出来事を知らされた者としてわたしたちが主イエスを神の子として信じ、告白することをこそ主イエスは待っておられるのではないでしょうか。かつてサウル王が主から来る悪霊に苦しめられていた時、ダビデは「主が共におられる人」として、竪琴を奏で、サウルについて神の前に執り成しをしました。それと同じ務めに、わたしたちは招かれているのではないでしょうか。
十字架にかかってわたしたちの神に対する反逆をすべて身に負ってくださった主、復活して、新しくわたしたちを遣わしてくださる主、高く挙げられて、そこからいつでも、霊においてわたしたちのいるところに臨んでくださる主、このお方が神の前に執り成してくださるがゆえに、わたしたちも執り成しに生きるようにと招かれています。
結 わたしは伝道者として歩み始めてからまだ一年も経たない者ですが、このわずかな期間にも、「主イエスに頼む」生き方によって、人がどんなに生き生きと生かされるのかを目の当たりにする恵みに与かってきました。現実には、さまざまな悩みがあり、痛みがあり、病を負っている方があります。また家族にそのような方があって、そのために日々愛の労苦に生きている方々があります。ところがそれにも関わらず、不思議と明るい方があるのです。心配や疲れに押しつぶされない、静かな強さを感じさせる方があるのです。時にはユーモアさえ交えて笑顔で会話できる方があるのです。悩みや憂いに心を支配されていないのです。心の中の重荷や苦労を主イエスにゆだねつつ、主イエスに頼みつつ生きているのです。わたしは幼い頃から教会に生きる方々を見ていて、どうして現実には悩みが多いに違いない生活をしているこの方、あの方があんなに明るく、生き生きと生きることができるのだろう、と思わされることがしばしばありました。やはりこの世にはない何か特別な力が教会には働いているのだ、そう思わされることがしばしばありました。
時にはわたしたちは悪霊の力に負けそうになることがあるかもしれません。悪霊が忍び込んできてわたしたちの心を支配しようとするかもしれません。わたしたちの思いを主から離れさせる邪悪な熱病に悩まされることがあるかもしれません。またあのシモンのしゅうとめや主のもとに連れてこられた多くの病人の場合のように、現実の病気がすぐに癒されるという具合には、なかなかいかないこともあるかもしれません。けれども、そんな中でも主の執り成しにゆだね、また他の人々が自分や家族のために祈り、労してくれることを素直に感謝し、主のご支配の中を喜んで歩み続けている人たちがいるのです。同じ「キリストのからだ」に連なるこの教会の一人一人のために、まだまことの執り成し手主イエスを知らぬゆえに深い悩みと捕らわれの中にある人々のために、この国とこの社会のために、アジアのために、イラクのために、そこで奉仕している国際社会の代表者たちのために、また世界の国々のために、人類の進むべき道のために、執り成し、祈り、「主イエスに頼む」ことのできる恵みに与かっていることを共に喜び合いたいと思います。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、わたしたちを悩ませ、苦しめる悪霊があり、わたしたちの心をあなたから離れさせる熱病があります。わたしたちの家族や親戚の病や困難な事情も、時にわたしたちの心をいっぱいにします。どうか「黙れ。この人から出て行け」という力強いあなたのご命令を魂の深みに至るまで響き渡らせてください。あなたのご支配に信頼し、主イエスに頼んで歩むことのできる幸いを味わわせてください。わたしたちの心が萎え、不信仰の悪霊や熱病が忍び寄ってくる時、主イエスの十字架をいつも新しく仰がせてください。そこから立ち上がる力をいつも新しくお与えください。そしてわたしたちが隣人のためにも、主イエスに依り頼みつつ、執り成しに生きる者とならせてください。 わたしたちのためにまことの執り成し手となってくださった主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。