主日礼拝

平和に過ごすために

「平和に過ごすために」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; エゼキエル書、第34章 23節-31節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第5章 12節-15節

兄弟愛
 テサロニケの信徒への手紙一は、第4章から、後半の、主イエス・キリストを信じて生きる信仰者の生活についての教えが語られる部分に入る、ということを以前に申しました。第4章の前半には、神様が私たちを、聖なる生活をさせるために招き、信仰を与えて下さったのだから、その招きに応えて、神様に喜ばれるように、聖なる者として歩むべきことが教えられていました。その聖なる者としての歩みの根本には、「兄弟愛」があるということも語られていました。聖なる者としての生きることは、自分一人で、孤高の聖人になって生きることではなくて、教会の兄弟姉妹との交わりに生き、兄弟を愛しつつ生きることなのです。本日の個所、第5章12節以下は、その「兄弟愛」についてさらに詳細に語っているところです。そういう意味では、内容的には4章12節の続きであると言うことができます。

信仰・希望・愛
 しかし、この手紙を書いた使徒パウロが、「兄弟愛」についての詳細な教えに入る前に、これまで読んできたように、4章13節から5章11節にかけて、主イエス・キリストの再臨について語ってきたということに注目しておかなければなりません。主イエス・キリストを信じ、教会に共に連なる兄弟姉妹の交わりは、主イエスの再臨を待ち望みつつ生きる者の交わりなのです。主イエス・キリストの再臨とは、主イエス・キリストが、全ての者を裁く力と権威とを持ってもう一度来られることです。それによって、主イエスと、その父なる神様の、この世界に対するご支配が、誰の目にも分かる仕方で明らかになるのです。そしてその時には、既に死んでいる者も、生きて再臨の主イエスを迎える者も、何の違いもなく、共に、主イエスのご支配の下に生かされ、いつまでも主と共に生きる者とされるのです。それが私たちの救いの完成です。主イエスの再臨によって、私たちの救いが完成し、同時に今のこの世界が終わるのです。この世の終わりに、死の力と支配が打ち破られ、神様の恵みが勝利するのです。私たちの今のこの体、この人生は、死の力に捕えられ、支配されています。誰もそれを逃れることはできません。しかし主イエスの再臨による世の終わりには、その死の力が、神様によって打ち破られるのです。神様の恵みの力が死に勝利し、新しい命、永遠の命が与えられるのです。主イエスの再臨を信じ、待ち望むとは、そのことを信じ、待ち望むことに他なりません。教会に連なる兄弟姉妹は、この信仰と待望に共に生きることにおいて結び合わされています。教会は、気の合った人間が集まって作るクラブのようなところではありません。何かの目的のために同志が集まって作る結社でもありません。神様の招きと導きによって、主イエスの十字架と復活による救いの恵みにあずかる信仰を与えられ、主の再臨を信じて待ち望む希望を与えられて共に生きる者の群れなのです。この信仰と希望によって結び合わされて、私たちは、主にある兄弟姉妹、神様の家族として、互いに愛し合って生きるのです。信仰と希望と愛、この三つが、信仰者の歩みの基本です。「兄弟愛」も、信仰と希望と結び合うことによってこそ、本当に生きてくるのです。言い換えれば、教会に連なる信仰者の兄弟愛は、信仰と希望と分ち難く結びついているところに、他の人々の兄弟愛とは違う特徴があるのです。パウロが、主イエスの再臨を待ち望む希望に続いて兄弟愛の詳細を語っていくのはそのためです。この5章12節以下には、信仰と希望とに裏打ちされた、信仰者の愛の特徴的な姿が詳細に描き出されているのです。

互いに平和に過ごしなさい
 パウロがこの信仰と希望に基づく兄弟姉妹の愛、信仰者の交わりにおける愛の特徴的な姿を語ることにおいて、中心に置いている言葉は、13節後半の、「互いに平和に過ごしなさい」ということです。教会における兄弟姉妹の交わりの根本的特徴は、互いに平和に過ごすことにある、そう聞くと私たちはなんだか拍子抜けしたような気持ちになるかもしれません。「平和に過ごす」というのでは、余りにも消極的な話で、それが教会における兄弟姉妹の交わりにおける愛の特徴だと言われると、「なんだ、そんなことか」と思ってしまうのではないでしょうか。それは一つには私たちが、「平和」ということを、争いがない、もめごとがない、というような、消極的なこととしてしか考えていない、ということから来る思いです。日本語の辞書で「平和」を引くと、「心配・もめごとが無く、なごやかな状態」とか「戦争や災害などが無く、不安を感じないで生活出来る状態」というふうに、~がない、という消極的、否定的な意味が出てきます。けれども、イスラエルの民においてはそうではありませんでした。ユダヤ人たちの間で「平和」を表す言葉は、「シャローム」という言葉です。その意味は、単に争いや戦争がない状態ではありません。もっと積極的に、神様の祝福が満ちている状態、恵みと喜びとに溢れている、そんな様子を意味しているのです。ここでの、「互いに平和に過ごしなさい」という教えにも、そういう意味が込められていると言えるでしょう。これは単に、けんかをしないで仲良くしなさい、ということではないのです。もっと積極的、肯定的に、お互いがお互いのことを愛し合っていくことが教えられているのです。その愛のあり方を具体的に語っているのが次の14節と15節なのです。

怠けている者たちを戒める
 14節には先ず、「怠けている者たちを戒めなさい」とあります。「互いに平和に過ごす」ことは、「怠けている者たちを戒める」ことによって実現するのです。私たちは普通、平和に過ごそうとすると、怠けている者があっても「まあいいか」と見て見ぬふりをする、なるべく波風を立てないようにする、それが平和に過ごす秘訣だ、などと考えます。しかしパウロがここで言っている平和はそういうものではないのです。怠けている者を戒めることがきちんとなされることによる平和です。それでは、ここでの「怠けている者たち」は、何を怠けているのでしょうか。パウロは既に4章の11節で、「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と教えていました。この教えと、本日の個所の「怠けている者たち」とは関係があると思われるのです。つまり怠けている者とは、自分の仕事をちゃんとしていない人、自分の手で働こうとしない人、ということです。けれどもそれは、単に、定職に就いて働いているかどうか、という意味で、勤勉であるか怠惰であるか、ということではありません。4章11節の「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように」という教えにおいて戒められているのは、信仰を持ったことによって、日常の生活に手が着かなくなり、落ち着いてこの世の仕事に励むことが出来なくなってしまうようなことです。それは一つには、主イエスの再臨によるこの世の終わりがもうま近い、という思いともつながっています。再臨を待ち望む信仰が、この世の生活などもうどうでもよい、という思いを生んでしまうのです。そういう人々はどうしていたかというと、日々の生活のことは教会の世話になりながら、彼らの思うところの信仰的活動に精を出していたのです。つまりこの人たちは、何もせずにぶらぶらと怠けているわけではありません。むしろ忙しく動き回っているのです。信仰的な活動に励んでいるのです。しかし生活の面では教会に面倒をかけ、その世話になっている。つまり教会に寄生してしまっているのです。それは彼らのいっしょうけんめいの信仰的活動が、教会を築き上げていく方向へと向かっていないということです。そういう人々が、自分できちんと働いて、社会における役割、責任を果たして、教会を、兄弟姉妹との交わりを築き上げていく者となるように戒め、指導していくことをパウロは求めているのです。互いに平和に過ごすことは、このように、それぞれが自分の賜物を、自分の信仰的満足のために用いていくのではなく、キリストの体である教会を建て上げ、兄弟姉妹との交わりを築き上げていくために用いる所にこそ実現するのです。怠けている者たちを戒めることによって互いに平和に過ごす、とはそういうことです。ですから私たちはこの教えを勘違いしてはなりません。これは、仕事をしていない人に対して、怠けていては駄目だと叱るとか、礼拝を休んでいる信者を咎め、責めて礼拝に来させる、というようなことではないのです。

気落ちしている者たちを励ます
 次に語られているのは、「気落ちしている者たちを励ましなさい」ということです。「気落ちしている」と訳されている言葉は、直訳すれば、「心が小さい」となります。口語訳聖書はこれを「小心な者」と訳していましたが、それが最もよく当てはまる訳語だと言えるでしょう。心が小さくなってしまっている者が、兄弟姉妹の中にいるのです。それは、様々な苦しみや悲しみに押しつぶされてという場合もあります。あるいは、もともと心のキャパシティが小さくて、ストレスや苦しみに弱いという人もいます。そのように心が小さくなっていると、普通なら受け止められるようなことでも受け止められないということが起ります。だから、周りから見れば、なんでこんなことで落ち込むんだ、これくらいのことが出来ないのか、というふうに思えてしまうことがあるのです。パウロは、そのような人を「励ましなさい」と言っています。この言葉は、「励まし、慰め、力づける」という意味です。ただお尻をたたいて「頑張れ頑張れ」と励ますのではありません。そういうことは、心が小さくなってしまっている人にはさらに苦痛を与えるだけであり、その人を叩きのめすようなことになってしまいます。心が小さくなっている人の傍らに立って、その人が重荷としていることを背負っていくことができるように、手を貸し、慰め、助けるのです。そのような励ましと助けによってこそ、互いに平和に過ごす交わりが築き上げられていきます。最もいけないのは、気落ちしている者、心が小さくなっている者を、批判し、裁き、切り捨てることです。そういう思いや言葉が、教会の平和を最も損ねるのです。

弱い者たちを助ける
 「弱い者たちを助けなさい」とも言われています。私たちはそれぞれに、様々な弱さを持っています。お互いに、お互いの弱さを助け、補い合って生きることこそ、平和に過ごすことの積極的な面です。病気や老いなどから来る肉体的な弱さを互いに助け合い、補い合っていく交わりを築いていきたいものです。しかしそれだけではありません。パウロの他の手紙を読んでいくと、彼が「弱い者」という言い方をする時に見つめているのは、肉体的な弱さよりもむしろ「信仰の弱い者」である場合が多いのです。代表的な個所はローマの信徒への手紙の14章、15章です。14章1節に、「信仰の弱い人を受け入れなさい」とあります。「弱い人」とは、「信仰の弱い人」のことでもあると考えるべきでしょう。パウロは、その人を「受け入れなさい」と教えています。それが、本日の個所の「弱い者たちを助けなさい」という教えの意味でもあるのです。信仰の弱い人、つまり信仰が十分に成長しておらず、信仰に基づく生き方が十分に出来ない人、そういう人を裁いたり、批判したり、馬鹿にしたりしてはいけないのです。むしろ、受け入れるのです。それこそが、その人を助けることです。信仰の弱さを批判して、それでその人の信仰が強くなることはありません。その人を受け入れるという思いが土台にあって初めて、諭したり、場合によっては叱責したりすることも生きてくるのです。パウロはローマの信徒への手紙の15章1節でこうも言っています。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」。自分より弱い人がいるなら、その人の弱さを自分が担うことをこそ神様は私たちに求めておられるのです。弱い人の弱さを指摘して批判することは、自分の満足のためでしかありません。人の弱さを自分が担い、弱い人に代って重荷を負おうとすることこそ、弱い者を助けることであり、そういうことによってこそ、互いに平和に過ごす交わりが築き上げられていくのです。

忍耐強く
 「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」というのも、同じようなことです。弱い者の弱さを担うことは、忍耐することなしには出来ません。この「忍耐強く」は、口語訳聖書では、「寛容でありなさい」と訳されていました。忍耐イコール寛容です。そしてこの言葉は、コリントの信徒への手紙一の第13章の、「愛の賛歌」と呼ばれているところに、愛とはどのようなものかを語る最初に、新共同訳では「愛は忍耐強い」、口語訳では「愛は寛容であり」と訳されているあの言葉です。忍耐強く、寛容であることこそ、相手を愛することの一番大切な土台なのです。互いに平和に過ごすことは、忍耐強く、寛容であることによってこそ実現していくのだし、互いに忍耐強く、寛容であることこそ、主イエス・キリストによる信仰と希望に裏付けられた愛の特徴なのです。

悪をもって悪に報いない
15節に入ると、「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい」とあります。これはまさに、忍耐と寛容の具体的なあり方です。そしてそれを裏返して、積極的な教えとして語るならば、その次の「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」ということになります。悪に対して悪をもって報いない、つまり、復讐をしない、という教えは、むしろ相手に対して善を行っていくことにおいて完成します。それが、主イエス・キリストの、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というみ言葉において、また「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というみ言葉において教えられていることなのです。

主イエスの愛に応えて
 「互いに平和に過ごしなさい」という勧めは、このような具体的内容を持っています。主イエス・キリストを信じる信仰と、主イエスの再臨の希望に生きるところに与えられる愛の交わりとはこのようなものなのです。私たちは、教会において、同じ信仰と希望に生きる兄弟姉妹の間で、このような愛の交わりに生きるようにと招かれているのです。そのような愛に生きることはとてもできない、自分の力に余ると誰でも思います。しかし、忘れてならないのは、ここに語られている愛は全て、主イエス・キリストが、私たちに対してして下さったことであるということです。主イエスは、怠けている私たちを戒め、気落ちし、小心になってしまっている私たちを励まし、弱い私たちを受け入れて助け、罪人である私たちに忍耐強く接して下さいました。主イエスは、私たちの悪に対して悪をもって報い、私たちを滅ぼすのではなく、むしろ私たちのために最善のことをして下さいました。私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったというのはそういうことです。ここに語られている愛の姿は全て、主イエス・キリストが私たちのためにして下さったことなのです。私たちは主イエスからこのように愛されています。この主イエスの愛によって、私たちは神様と平和に過ごすことができるようになったのです。神様の祝福と恵みに満たされて、喜んで、感謝して生きることができるようになったのです。それゆえに私たちは、主イエスのこの愛に応えて、私たちも、このような愛でお互いを愛するように努めていくのです。互いに平和に過ごす交わりを築き上げていくように努力するのです。そうでなければ嘘です。主イエスの十字架の愛を無にすることになってしまうのです。そのように努力していっても、私たちはやはり弱い、欠けの多い罪人です。愛することに破れ、互いに傷つけ合ってしまうことが起こります。平和を破壊してしまうようなことが起こるのです。しかし主イエスは、そのような弱い私たちを、見捨てることなく受け入れ、忍耐強く、寛容の限りを尽くして導いて下さるのです。だから私たちも、自分の弱さや罪による失敗によって絶望してしまうことなく、愛する努力を続けていくのです。

教会の指導者たち
 そこで、本日の個所の最初のところ、12節と13節前半に戻りたいと思います。こう語られています。「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」。ここには、テサロニケ教会において、パウロが去った後、兄弟姉妹を、主に結ばれた者として導き、戒め、そのために特に労苦している人々がいた、ということが示されています。つまり教会において、指導し、戒める働きを負っている指導者たちです。生まれたばかりのテサロニケ教会に、既にそのような人々が生まれてきていたのです。教会は、このように、その成立の当初から、特に労苦して群れを指導する働きを負う人々を生み出していきました。そしてパウロはここで、そのような人々を重んじ、その働きのゆえに、愛をもって心から尊敬しなさいと言っているのです。それは、教会には、群れを指導し、教え導き、戒める指導者が必要だ、ということです。そしてここから、次第に教会に指導の務めを負う奉仕者が立てられていき、それが次第に整備されていって、今日の私たちの教会においては、牧師、長老、執事という、それぞれに異なった役割を負う奉仕者たちによる指導体制へと発展してきたのです。つまりここには、教会に制度、言い換えれば奉仕者による指導体制が発展していく萌芽があるのです。  このことは逆に、教会において立てられ、指導の務めを負っている奉仕者たちの働きの目的を教えています。教会の指導者として立てられている牧師も、長老も、執事も、その働きの目的、目指すところは、ここでパウロが語っている、「教会の兄弟姉妹たちが互いに平和に過ごすこと」なのです。それはこれまで見てきたように、ただもめごとを起こさないで平穏にということではなく、主イエス・キリストを信じる信仰と、その再臨の希望に支えられて、本当に互いに愛し合って生きることです。牧師も、長老も、執事も、そのことが教会の兄弟姉妹の間で実現していくために仕えるのです。教会の兄弟姉妹が、互いに平和に過ごし、怠けている者を戒め、気落ちしている者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して忍耐強く接し、悪をもって悪に報いることなく、善を行っていく、そのためにこそ、牧師も、長老も、執事も、それぞれに与えられている務めを果していくのです。教会における務めに任じられている者が、この目的をはっきりと見定めていく時に、何をなすべきかも自ずとはっきりしてくるでしょう。

平和に過ごすために
 さらにこのことは、教会員どうしの交わりに留まることではありません。15節には、「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」とあります。教会における愛の交わりは、教会の外の、すべての人に対して向けられ、広げられていくのです。信仰と希望とに裏打ちされた愛を、私たちはこの社会において出会い、関わりを持つ隣人たちにも向けていくのです。そして、この社会において、私たちが本当に互いに平和に過ごすことができるように、愛の労苦を負っていくのです。自衛隊がイラクに派遣され、人道支援の働きを始めます。私たちはこのことが、本当にイラクの平和と復興、人々の生活が支えられ安定していくための働きとなることを切に祈り求めます。そして実は私たち自身が、この自衛隊の人々と同じように、信仰と希望に支えられた本当の平和を携えて、互いに平和に過ごすために、それぞれの日々の生活へと、この社会へと、神様によって遣わされていくのです。

関連記事

TOP