夕礼拝

誘惑の失敗

「誘惑の失敗」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 申命記、第6章 10節-19節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第4章 1節-13節
・ 讃美歌 ; 351、356

 
序 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」-主イエスが洗礼を受けて祈っておられた時、このような声が天から聞こえてきました。主イエスの公のご生涯は、父なる神の祝福の下に始まったのです。「あなたはわたしの心に適う者だ、わたしがよしとする息子だ、わたしはあなたを喜ぶ」。大いなる神の祝福です。まことの神の子の、この地上での歩みが始まります。父なる神とのこの上なき交わりに生きるお方の歩み出しです。天からの声にまっすぐに聞く御子なる神の歩み出しです。その直後に置かれている系図は、このお方がまことに神の子であることを表しています。こうして今、主イエスの公のご生涯が始まります。

1 けれども、その冒頭でわたしたちが出くわすのは、なんと主イエスが悪魔に誘惑されるという物語です。なぜ主イエスは公のご生涯の一番初めに悪魔の誘惑に苦しめられねばならないのでしょうか。これは実に不思議なことではないでしょうか。あまりにも救い主にはふさわしくない始まり方ではないでしょうか。実に幸先(さいさき)の悪いスタートではないでしょうか。この第4章の31節からは主イエスが汚れた悪霊に取りつかれた男をいやしたことが語られています。ここから主イエスのお働きが始まった方が、はるかに救い主としての歩み出しにとってふさわしいのではないでしょうか。なぜ主イエスはわざわざ、しかもそのご生涯の初っ端に(しょっぱな)に、悪魔の誘惑に遭われることをよしとされたのでしょうか。実に不思議なことです。
 しかも、主イエスをそのような試みへと導いたのは「霊」だったと言われています。神の霊が、主イエスを荒れ野へと導いたのです。主イエスが荒れ野で誘惑に遭われたことは、父なる神がよしとしたこと、父なる神がお認めになったことだと言っているのです。これもまた不思議なことです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言って大いなる祝福の中においてくださったかと思いきや、父なる神は御子なる主イエスをいきなり荒れ野へと連れて行かれ、そこでさんざんに引き回されたというのです。わたしたちだったら、「神様はなんてひどいことをなさるのだろうか。あの祝福の言葉はまやかしだったのか。自分はだまされたのか。なぜお父さんはこんなひどいことをなさるんだ。なぜいきなりこんな目にあわなきゃいけないんだ。馬鹿にするのもいいかげんにしてくれ」、そう言って早速呪いの言葉を吐いてつぶやき始めたかもしれません。主イエスはこの試みに対して、どのように向かわれたのでしょうか。

2 悪魔は40日にわたって主イエスを誘惑しました。その間、主イエスは何も食べず、この期間を過ぎた後に、空腹を覚えられました。主イエスもお腹を空かせたのです。ひもじい思いをされたのです。渇きを覚えられたのです。わたしたちと同じように、命を繋いでいくために食物を必要とされる体を持たれたのです。40日も食物を食べなければもう限界でしょう。悪魔はかしこくも、ちょうど 40日を過ぎ、空腹も絶頂に達した時を狙って、誘惑の声を発するのです、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)。「それは神の子にとっていともたやすいことに違いなかろう」、と言うのです。「簡単なことではないか、すぐにやってのけることができるはずではないか」、「そんなこともできない救い主とはいったい何なんだ」、「そんなこともできない神の子に、皆がついていくと思うのか」、「そんなことさえできない神の子が与える救いとはいったい何ほどのものなんだ」、「そもそもお腹を空かせる救い主なんて格好悪いじゃないか」・・・そんな誘惑の声を主イエスにあびせかけたのです。
 この声は、わたしたちにもしょっちゅう聞こえてくるのではないでしょうか。「お前が信じている救いとはいったい何ほどのものなんだ。石ころ一つパンに変えることさえできないではないか。空腹を満たすことさえできないではないか。そんな救いからどうして人生を支える力を得ることができるのか」。今の日本は空腹感とは縁遠い食べ物の豊富な国かもしれません。けれども人々の中にはどうしても満たされない、空しさが広がっているのではないでしょうか。先日のテレビ番組では、自分の手首を傷つける若者が増えている現象について特集を組んでいました。自分を傷つけることで生きている実感をつかみ、虐待された過去の記憶から逃れようとしたり、愛情に飢える気持ちを表現したりする若者が増えているというのです。東京の中央線では人身事故が後を絶ちません。駅で事故のアナウンスを聞くたびに、この国が福音を本当に必要としていること、教会の責任は重大であることを思わされます。自殺予防の電話カウンセリングを行っている社会福祉法人「いのちの電話」が、JRの要請を受けて特別の電話回線を設けたところ、回線が足りないほどの相談電話が殺到したそうです。豊かさの中に実は途方もない魂の「飢え」を抱えているのがこの国ではないでしょうか。
 主イエスはこの悪魔のささやきに対して、「人はパンだけで生きるものではない」という御言葉をもって立ち向かわれました。この言葉がある旧約聖書の申命記には、この言葉に続いて「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ということが語られています。もしここで「そうですか、それならば」と言って主イエスが石ころをパンに変えられたら、主イエスはそれだけの人で終わってしまったことでしょう。せいぜい石ころをパンに変えて自分の飢えをしのいだり、お腹を空かせた人の飢えを満たしてあげるだけの超能力者で終わってしまったことでしょう。主イエスはしようとすればそのような奇蹟を起こせなかったはずはありません。けれどもそれをすればご自分が本当にお与えになろうとしている救いが意味のないものになってしまう、わたしたちの欲望を満たすために役立つ僕でしかなくなってしまうのです。主イエスはここで踏みとどまらなければならなかったのでした。
 次に悪魔は主イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せました。「この国国の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」(6-7節)。本当でしょうか。いつ国国の一切の権威と繁栄が悪魔に任されたのでしょうか。それらはいつ悪魔が自分の望む人にあげることができる、悪魔の所有物となったのでしょうか。そんな話は聞いたことがありません。けれどもわたしたちは一方で、ひょっとするとそうかもしれない、と思わされるのです。最近、身内の者を平気で巻き込む殺人が繰り返されています。親の虐待で亡くなる子供たちの数は年間100人を越えていると言われます。打ち続く戦乱と繰り返されるテロは、わたしたちを絶えることのない不安に陥れています。もしかしたら世界は悪魔の手に渡りつつあるのではないか、この世界の本当の主人は悪魔なのではないか、「国国のすべてはわたしに任されている」と言われたら、「なるほど確かにそうかもしれない」、そう納得させられてしまう誘惑にかられるのです。「だったらこの悪魔に媚を売って、悪魔と取り引きをして、この世界の混乱を静めてもらった方が手っ取り早いではないか」という誘惑にかられるのです。神の言葉以外のものに信頼する誘惑にかられるのです。伝道もいつもそうした誘惑にさらされます。人々を集める大きなイベントをやって、集まる人が喜ぶような言葉を語ればもっと効果的な伝道が期待できるではないか、視聴覚の機材を効果的に使って人々の気持ちを高めることもできるではないか、言葉を語ることによって導くなんて今の時代に合わないし、能率も悪いではないか。伝道者もそんな内なる声に悩まされることがあります。わたしが育った山形の教会は新しい方が来られるなどということはごくごくまれなことでしたし、何年も受洗者が出ない状態が続いていました。そうした時、神の言葉にのみ信頼する道から離れるように誘惑する声に悩まされることがあるのです。
 しかし主イエスはお答えになりました、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。このお答えは、これらすべてに逆らって打ち勝つお言葉です。わたしたちを捕らえ、悩ます誘惑は、この主の言葉が盾となってくださるおかげでわたしたちを完全に支配することがないのです。
 悪魔はそこで最後の誘惑に打って出ます。主イエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせて言うのです、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(9節)。しかも主イエスがこれまでの誘惑を、聖書の言葉によって退けてきたことを見て取った悪魔は、今度は自らの誘惑を、聖書の言葉によって根拠づけようとしているのです。悪魔は詩編91編11-12節を引用しながら言います。「というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。驚くべきことかもしれませんが、悪魔も聖書を読んでいるのです。聖書の言葉を引用してわたしたちに誘惑をしかけてくるのです。これはかなり賢い、説得力のある誘惑です。「『聖書にこう書いてあるんだから神様はそのようにしてくれるはずだ、神様それを見せてくれ、見せてくれたっていいじゃないか』、そう迫る権利があなたにはあるのですよ、やってみたらいいじゃないですか」、と誘いかけているのです。これは信仰者にとって究極の誘惑です。
 しかし主イエスはこれに対して申命記6章16節の御言葉を引いて、この究極の誘惑を退けられました。「あなたたちの神、主を試してはならない」。御言葉を利用した誘惑に対しても、主イエスはやはり御言葉を用いてこれを退けられたのです。御言葉の誤った引用、それによって神を侮り、神を試すような御言葉の引用に対して戦うただ一つの方法は、御言葉の正しい理解とそこに堅く踏みとどまる生き方なのです。主イエスが戦われたように戦うのです。いやもっと性格に言うならば、主イエスがすでに戦ってくださっているから、わたしたちも同じように戦うことができるのです。さらに言えば、主イエスがすでに誘惑に打ち勝っていてくださるから、わたしたちも今、戦うことができるのです。勝利の約束された戦いを戦うことができるのです。

3 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまで主イエスを離れました。次に悪魔が主イエスに近づいたのはユダに主イエスを裏切るよう唆す時、つまり主イエスを十字架の試みに遭わせるその「時」だったのです。22章3節に、「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」とある通りです。主イエスが十字架におかかりになった時、民衆や議員たち、兵士たちは主をあざけり、ののしって言いました、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」!わたしたち人間は、救い主を十字架にかけ、「もし神からのメシアなら」、「もし選ばれた者なら」、「もしユダヤ人の王なら」、当然こうするはずなのにお前はできないではないか、と言って、神を試みているのです。神を誘惑しているのです。そうだとすれば、あの主イエスを荒れ野で誘惑した悪魔こそは、わたしたちを代表して神を試みたのです。この悪魔こそは、わたしたちの内にある神に言い逆らう思いの代表なのであります。
しかし主イエスはすべての誘惑に屈しませんでした。最後の十字架においても、群衆の誘惑に負けて、自分で十字架を降りるということはなさらなかったのです。それはわたしたちの思い通りに姿を現す神となることを退けられたということです。ギリシア神話では、何か困難や絶体絶命の危機に陥った時、最後に神が現れて思い通りの解決が与えられ、万事めでたしめでたし、で終わることがよくあるそうです。ある神学者は、そういう神は「機械仕掛けの神」だと言いました。機械が人間の思い通りに動いて、期待するとおりの結果を出してくれる、それと同じことを神に期待するのです。けれども、わたしたちの信じる神はそのようにはご自身を現されません。そうではなく、わたしたちの思いをはるかに越える仕方で、神は驚くべき救いの恵みを現してくださったのです。それが十字架において救い主が人間の神に対する反逆をお引き受けになる、という驚くべき救いだったのです。

結 わたしたちは、「こんな世界にどうして神がおられるなどと言えるのか!」、「神がおられるなら、どうしてわたしはこんな目にあわなければならないんだ!」、そう叫びたくなることがあります。「神が本当におられるなら、神らしくこの世界にご自身を現して欲しい」、そう思うことがあります。教会生活が自分の思うとおりにいかない時、人間関係の中で躓きを覚えた時、信仰に弱さを覚えて、神に信頼できなくなりつつある時、教会から離れ、神様から一時離れるのもいいかもしれない。少し覚めた距離に立つのもいいかもしれない、という誘惑を覚えることがあります。イスラエルの民が荒れ野をさまよう中で、神を試みたように、試練の中で、自分の思うような形でご自身を現してくださらない神を呪い、あの悪魔のように、「もしあなたが神の子なら!」と言って神を試みたくなる誘惑にかられることがあるかもしれません。
 けれども、そのようなすべての誘惑をすでに退け、わたしたちの中の悪魔に、この世界の闇の力に、すでに打ち勝ってくださっているお方がおられます。弟子たちが誘惑に負けて、ゲッセマネの園で眠りこけている時にも、彼らのために祈り、十字架への道のりへと進み行かれていった方がおられます。このお方が悪魔の誘惑に打ち勝ってくださっているがゆえに、わたしたちに忍び寄る誘惑が、わたしたちを完全に支配してしまうことはありません。既に誘惑に負けて犯してしまった罪や心の傷があるとしても、この方が包み、癒して、もう一度わたしたちを立たせてくださいます。「わたしが背負い、担い、救い出す」とおっしゃって、立たせてくださいます。もう一度歩み出させてくださいます。そのようにしてわたしたちは、御言葉に踏みとどまるのです。教会に踏みとどまるのです。十字架の足下に堅く立ち続けるのです。十字架のキリストを見上げ続けるのです。その時わたしたちは、それらすべての試練もまた神の恵みであった、万事が益となるように共に働いたのだ、そのことを知らされるのです。
 待降節はこのすべての誘惑に打ち勝たれ、すべての悪魔の試みを退けてくださった方の到来を待ち望む時です。それはまた、わたしたちの思い通りではなく、神がわたしたちの思いをはるかに越えて自由なる恵みの出来事を起こしてくださる、そのことに信頼し、その神を喜ぶたたえる時なのです。神をまことに神とする幸いを心に刻みつつ、御子なる神の誕生を待ち望む時なのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、わたしたちを襲う誘惑のすべてに、主イエスは打ち勝ってくださっています。わたしたちを激しく襲う誘惑の暴風からわたしたちを守り、わたしたちの防波堤となってくださっています。どうかこの救いの岩にわたしたちが堅くとどまることができますように。あなたに自分の思い通りのことを要求する誘惑からわたしたちを守ってください。わたしたちを試みに遭わせず、悪より救い出してください。あなたをまことの神とする聖霊をお与えください。
 わたしたちの思いをはるかに越える形で、馬小屋にお生まれになろうとしている神を、喜び待ち望む時を過ごさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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