主日礼拝

信仰・愛・希望

「信仰・愛・希望」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第118篇 1節-29節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第1章 2節-4節

創立記念礼拝
「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」。詩編118編の詩人はこのように歌い、主なる神様をほめたたえています。私たちも今、この詩人に声を合わせて、恵み深い主に感謝し、その慈しみをほめ歌いたいと思います。本日の礼拝は、私たちの教会の創立129年を記念する礼拝です。明治7年、1874年、9月13日に、横浜第一長老公会が設立された、それが横浜指路教会の前身です。と、こういうことを、この教会に着任してまだ二週間の私が皆さんに申し上げることは、「釈迦に説法」ということになるでしょう。先日、ご案内いただいて、外人墓地の中の、当教会初代牧師(日本人の教会は日本人が牧するべきだという考えから、仮牧師と言っていたようですが)、ヘンリー・ルーミスの墓を見学してきました。開国から間もなく、全くの異教の地である遠い日本にやってきて、主イエス・キリストの福音の伝道のために尽し、この地の土となった偉大な宣教師の墓に立って、その牧した教会を受け継ぐことの重さを感じました。思えば、私の前任地である富山鹿島町教会も、その発端は、同じアメリカ長老教会からの宣教師、トマス・ウインの伝道にあります。金沢を拠点として活動したこの宣教師も、その生涯を日本の伝道のために捧げ、その墓がやはり金沢にあります。文字通り異国の土に骨を埋めたこれらの宣教師たちによって、私たちの国にキリストの福音が伝えられ、教会が誕生し、今私たちがその恩恵にあずかって、こうして主イエス・キリストを信じる者として歩み、礼拝を守りつつ生きることができる、その恵みを、この創立記念の礼拝において改めてかみしめたいと思います。「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう」。詩編118編24節の喜びは私たちの喜びでもあるのです。

感謝と喜び
 教会における主なる神様の恵み深い御業を感謝する、その慈しみを喜び祝う、そのことは、百数十年の歴史を持つ教会においてしかできないことかというと、そうではありません。誕生したばかりの若い教会においても、そのことは同じようになされ得るのです。その最もよい例が、先週からご一緒に読み始めました「テサロニケの信徒への手紙一」が宛てられたテサロニケ教会です。この教会は、つい先頃、おそらくは数カ月前に、パウロの伝道によって生まれました。しかしそれから間もなく、パウロは敵対者たちによって引き起こされた騒動のためにテサロニケを去らなければならなくなったのです。生まれたばかりの未熟な群れを、ほんの数カ月で後に残してこざるを得なかったパウロが、その教会のことを心配して弟子のテモテを遣わし、テサロニケ教会のその後の様子を聞いた、それを受けて書かれたのがこの手紙です。テモテがもたらした知らせは、パウロを喜ばせ、安心させるものでした。テサロニケの教会が、パウロが去った後も、しっかりとキリストの福音に留まり、苦しみに負けずに主に仕えて歩んでいる、そのことを知った喜びと感謝の内にこの手紙は書かれたのです。本日の箇所の最初の2節に「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」とあるのは、その喜びと感謝の現れです。生まれたばかりのテサロニケ教会においても、主なる神様の恵み深い御業がなされており、連なる人々がその慈しみの中に置かれている、パウロはそのことを喜び躍る思いで見つめているのです。この教会には歴史はまだ何もない、しかし百数十年の、あるいは数百年の歴史を持つ教会におけるのと変わることのない感謝と喜びに生きることができているのです。
 私たちはここから、私たちが教会の創立129年を喜び祝うことの意味を改めて考えさせられます。私たちの喜び祝いは、ただ設立から長い年月が経った、その間様々な歴史の流れ、出来事の中で教会が存続を許され、今このように多くの者が集う群れへと成長してきた、ということを喜び祝うだけではならないのです。それらのことは勿論喜ばしい、感謝すべきことではありますけれども、それを喜んでいるだけでは、私たちの歩みは主が求めておられるのとはかけ離れたものとなってしまうでしょう。主は今私たちに、どのような喜びと感謝をもってこの創立記念の礼拝を捧げることを求めておられるのか、そのことを、このテサロニケの信徒への手紙一から学びたいと思うのです。

信仰・愛・希望
 3節のみ言葉がそのことを教えてくれます。ここには、パウロがテサロニケ教会のことを覚えつつ抱いている喜びと感謝の内容が語られています。パウロはこう言っています。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。パウロは祈りの度にテサロニケの教会の人々のこのような様子を心に留め、そして神様に感謝しているのです。彼らが「信仰によって働」いていること、「愛のために労苦」していること、「わたしたちの主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していること」、これが、パウロの喜びと感謝の内容です。三つのことが語られています。口語訳聖書の言葉によってそれをまとめるならば、「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」となります。「信仰と愛と希望」です。この三つは、パウロの手紙においてしばしば、私たちの信仰の基本的性格を表すものとしてセットとして語られています。最もよく知られているのはコリントの信徒への手紙一の13章13節でしょう。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。ここでは順序が「信仰、希望、愛」となっていますが、この三つが、主イエス・キリストを信じて生きる信仰者の基本的なあり方なのです。テサロニケの教会の人々も、その三つをしっかりと身に付けて生きている、パウロはそれを喜び感謝しているのです。そしてここではその三つのそれぞれに、別の言葉が結びつけられています。「信仰」には「働き」という言葉が、「愛」には「労苦」という言葉が、「希望」には「忍耐」という言葉がです。「信仰、愛、希望」というセットは、「働き、労苦、忍耐」というセットでもあるのです。テサロニケの人々はこれらのことをも身に付けて生きている、そのことをパウロは喜び感謝しているのです。

信仰の働き・愛の労苦・望みの忍耐
 これは考えてみるとおかしなことだと言えるかもしれません。「働き」にしても「労苦」にしても「忍耐」にしても、いずれも人間がすることです。テサロニケの教会の人々がそのように生きている、その生き方です。しかしパウロが感謝しているのは、神様に対してです。「あなたがたの働きと労苦と忍耐に感謝する」、とテサロニケの人々に感謝しているのではないのです。それはつまり、パウロがそこに、神様の御業を見ているということでしょう。テサロニケの人々が、「信仰の働き」と「愛の労苦」と「望みの忍耐」とに生きている、そこに、主なる神様の恵み深い御業、慈しみを見つめ、神様に感謝しているのです。このパウロの喜びと感謝に心を合わせ、同じ喜びと感謝に生きることこそ、創立129年を祝う私たちに神様が求めておられることだと言えるでしょう。教会における主の恵み深い御業と慈しみは、ただその教会が長い歴史を与えられたとか、守られて成長してきた、ということにあるのではないのです。そこに連なる者たちが、「信仰の働き」と「愛の労苦」と「望みの忍耐」とに生きてきた、そして今も生きている、そのことにこそ、主なる神様の恵み深い御業と慈しみを確認することができ、喜び祝うことができるのです。言い替えるならば、教会の129年の歴史とは、私たちの先輩たちの、「信仰の働き」と「愛の労苦」と「望みの忍耐」の歴史です。私たちはそのことをこそ今思って喜び祝うべきだし、また同じ「信仰の働き」と「愛の労苦」と「望みの忍耐」とに私たちも生きていく、その決意を新たにすることを求められているのです。そのことによってこそ私たちは、「今日こそ主の御業の日、今日を喜び祝い、喜び躍ろう」と歌うことができるのです。

信仰の働き
 パウロがテサロニケの人々において見つめている三つのことをさらに詳しく見ていきたいと思います。まず、「信仰の働き」です。信仰に、働きという言葉が結び合わされているのです。この働きという言葉は、「業」、あるいは「行い」とも訳される言葉で、パウロの手紙においてしばしば、「信仰」と対立する事柄として出て来るものです。「人が義とされるのは、律法の業によるのではなく、信仰によるのだ」というような言い方においてです。そのようにこの言葉は、「業、行いによる義、救い」という意味で用いられる場合には、信仰とは対立するものとして退けられています。しかしパウロはここでは、その同じ「業、行い」という言葉を、信仰と一つに結びつけて、「信仰の働き」あるいは「信仰の業、行い」と言っているのです。同じパウロがこのような言い方をもしているということを、私たちはしっかり心に留めておかなければなりません。パウロは、「人間の良い行いによるのではない、信仰のみによる救い」という福音の根本を強調した人です。それは私たち宗教改革の教会、プロテスタント教会の信仰の中心でもあります。けれどもそれはパウロが、信仰に行いはいらないとか、業、行いは無意味だと言ったということではないのです。私たちが罪を赦されて義とされ、神様の救いにあずかるのは、あくまでも主イエス・キリストの十字架の死と復活の恵みによってであり、それを信じる信仰のみによるのであって、私たちの側の努力、良い行いがそこで何かの力を発揮したり、救いにあずかるための功績となったりすることはありません。けれども、その信仰による救いにあずかった私たちは、その恵みのゆえに、それに応えて、応答の生活をしていくのです。信仰にはその意味で働きが、業が、行いが伴うのです。教会は信仰者たちのそういう応答の働き、奉仕によってこの地上を歩んでいきます。教会における神様の恵み深い御業や慈しみは、信仰者たちのこの信仰による働きなしには具体的にならないのです。先程申しましたあの宣教師ヘンリー・ルーミスにしても、トマス・ウインにしても、主イエス・キリストを信じただけでなく、その信仰によって働いたのです。遠い異国にやって来て、福音を宣べ伝え、そしてその地の土となったのです。そういう大いなる「信仰の働き」がなければ、この教会もなかったし、私たちがこうして主を礼拝する恵みもなかったのです。宣教師たちだけではありません。教会の129年の歴史は、名前が残されている人々のみでなく、記録が失われてしまった人々、もはやその人のことを覚えているのは神様のみであるような人々をも含めて、この教会に連なった多くの人々の「信仰の働き」の積み重ねなのです。そして今は、今度は私たち一人一人が、その信仰の働きの担い手です。神様は私たちの働きを求めておられるのです。救われるために働くのではありません。働かなければ神様の恵みを受けられないからではありません。私たちの救いは、神様の恵みは、私たちの罪を、神様の独り子イエス・キリストが全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった、そこにおいて既に与えられています。神様が私たちのことをもう既に徹底的に愛して、独り子の命までも与えて下さったのです。私たちはその愛に応えて、信仰の働きをしていくのです。与えられている働きは、人によって様々に違います。先日も、長老会において、献身して神学校に行こうと志している一人の兄弟の面接をしました。伝道者になる、という形での信仰の働きもあります。しかしそれだけが信仰の働きではありません。それぞれに与えられているいろいろな場において、それぞれなりの信仰の働きがあるのです。言い替えれば、教会に連なる信仰者は皆、一人一人が献身者なのです。それぞれが自分の与えられている立場、状況、賜物の中で、自分の信仰の働きを見出していくことが大切でしょう。そういう信仰による働きを負っていくことを通して、私たちは神様の恵み深い御業、その慈しみを知らされていくのです。

愛の労苦
 パウロが見つめている第二のことは、「愛の労苦」です。神様を愛し、隣人を愛する、その愛に生きることが私たちの信仰の生活です。パウロがその愛に、「労苦」という言葉を結び合わせたことも、しっかりと心に留めておくべきでしょう。愛することは、相手のための労苦を負うことです。神様を愛するならば、神様のために、主イエス・キリストのために、私たちは労苦を負うのです。それが先程の「信仰の働き」とつながります。信じているだけで働きのない信仰は本物でないように、神様を愛していると言いながら神様のために労苦を負わない愛は本物ではないのです。そしてそれは、隣人に対する愛においても同様です。隣人を愛するとは、隣人のために労苦を負うことです。ルカによる福音書第10章のあの「良いサマリヤ人のたとえ」がそのことを教えています。強盗に襲われて倒れている人を見ても、祭司やレビ人は避けて通っていきました。しかしあのサマリヤ人は、その人に近寄って介抱し、宿屋に連れて行き、宿代を払ったのです。主イエスは、「彼らの中の誰が、強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。隣人になるとは、相手のために具体的な労苦を負うことです。「自分の隣人とは誰だろうか」と四の五の考えているのではなく、目の前の一人の人のための労苦を負い、隣人となっていくこと、それこそが隣人を愛することなのです。教会の129年の歴史は、先達たちのそのような愛の労苦の歴史でもあったと言えるでしょう。神様を愛し、隣人を愛するための様々な具体的労苦を、教会に連なる人々が積み重ねてきたのです。その積み重ねの結果が今日の教会の姿であり、そこにおける交わりの姿です。そこには当然欠けもあったでしょう。愛のための労苦が足りなかった、それがなされるべきところでなされなかった、そのために様々な問題が生じたり、兄弟姉妹の交わりに亀裂が入ったりしたこともあったでしょう。人間のすることですから、完璧なことなどあり得ないのです。しかし今私たちに求められていることは、そういう過去の欠けや問題をあげつらうことではなくて、今度は私たちがその愛のための労苦をしっかり負っていくことです。そのようにして教会の新しい一頁を私たちが築いていくのです。その愛の労苦を負っていく中でこそ私たちは、神様の恵み深い御業と慈しみにふれることができるのです。

望みの忍耐
 第三のことは「望みの忍耐」です。「希望」と「忍耐」が結び合わされています。信仰と愛と並んで、希望が私たちの信仰生活の基本的な要素の一つなのです。その希望にはしかし、補足の言葉があります。「わたしたちの主イエス・キリストに対する」希望です。私たちが信仰において与えられている希望は、ただ漠然とした抽象的なものではありません。それは私たちの主イエス・キリストに対する希望なのです。それはどんな希望でしょうか。そのことが、このテサロニケの信徒への手紙一の大事な主題の一つですので、この手紙の全体を読んでいく中ではっきりしていくのですが、今ここで少し先取りして申しますと、それは1章10節の初めのところに語られている希望なのです。「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを」とあります。「御子が天から来られるのを待ち望む」、それが私たちに与えられている希望です。それは即ち、主イエス・キリストがこの世にもう一度来られること、使徒信条の中で、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白している、そのことを待ち望む希望、いわゆる「キリストの再臨」への希望です。「キリストの再臨」について、ここで詳しく語っている暇はありません。この手紙の中で、そのことが集中的に語られているところがありますから、そこを読む時にまわしたいと思います。しかし、パウロがここで語っている希望を理解するために、最も大事なことだけはここではっきりさせておかなければなりません。主イエス・キリストがもう一度来られ、いわゆる最後の審判が行われるという再臨の信仰は、この世界を、そして私たち一人一人を、過去においても、現在においても、そして将来においても、本当に支配しているのは誰か、ということを語っているのです。主なる神様が私たちの救いのために遣わして下さった独り子イエス・キリストこそが、その十字架の死と復活によって、この世界の、そして私たちのまことの支配者、主人となっておられる、それが、聖書の語る福音であり、私たちの信仰です。その主イエスのご支配はしかし今は、誰の目にもはっきりと分かる仕方で表されてはいません。それは目に見えないご支配、信仰の目にしか見えないご支配なのです。そこに、私たちの信仰生活の苦しみがあり、危機があります。神様の、主イエスのご支配と、救いの恵みを信じて生きる私たちは、この世の目に見える現実の中で、それを見失いそうになったり、疑いの思いを抱いたりするのです。主イエスにおける神様のご支配、神の国が、目に見えないものだからです。しかしそれは、いつまでも目に見えないままではない、主イエスにおける神様のご支配が、誰の目にも明らかな、目に見えるものとして顕わになり、完成する日が来る、それが主イエスの再臨において起ることです。「最後の審判」というのも、主イエスのご支配の完成、確立を意味しています。すべてのものを支配している者であるからこそ、すべてのものを裁くことができるのです。主イエスの再臨を待ち望む希望とは、この、主イエスにおける神様のご支配の完成、それが目に見える仕方で顕わになることへの希望です。私たちは、その日がいつか必ず来ることを信じて、そこに希望を置いて生きるのです。その希望は「忍耐」と結びつきます。神様の、主イエスのご支配、神様の救いの恵みが、今は隠されている、目に見える仕方でわかるわけではない、目に見える現実においては、いったい神様のご支配などあるのだろうか、神様の恵みと言うけれどもそんなものは嘘っぱちではないのか、という疑いが常に頭をもたげてくる、そういうこの世の歩みにおいて、私たちは、忍耐して信仰に留まりつつ生きるのです。その忍耐を支えるのが、主イエス・キリストの再臨を待ち望む希望です。教会の129年の歴史は、私たちの先輩たちが、この望みの忍耐に生きた歴史です。主イエスの再臨まで、つまりこの世が続く限り、私たちの信仰の歩みは忍耐の連続です。目に見える現実に逆らって、目に見えない神様を信じ、目に見えないキリストの救いとご支配を信じて生きるのです。そしてその忍耐の内にこの世の生涯を終えていくのです。教会が存続し、信仰が継承されていくとは、この希望に支えられた忍耐が継承され、その忍耐に生きる群れが存続していくことなのです。創立記念の日を喜び祝うとは、先達たちのこの希望に基づく忍耐を私たちもしっかりと受け継いで、希望を持って忍耐していくということなのです。

神の愛と選び
 「信仰の働き」と「愛の労苦」と「望みの忍耐」、私たちがこの三つを受け継いで歩むところに、主なる神様の恵み深い御業と慈しみがあります。しかし最後に、4節のみ言葉をも味わっておきたいと思います。パウロはこう言います。「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」。テサロニケの教会の人々の、信仰の働きと愛の労苦と望みの忍耐を見つめて神様に感謝しているパウロは、彼らがそのように生きることができるのは、神様に愛されているからであり、神様に選ばれたからだ、と言っているのです。信仰の働きも愛の労苦も望みの忍耐も、私たちが努力してそういうものを身に付け、そのように生きるために頑張る、というものではありません。私たちが信仰の働きと愛の労苦と望みの忍耐に生きることができるのは、神様が私たちを愛して下さっているからです。神様がその愛によって私たちに信仰を与え、また私たちのための愛の労苦を独り子主イエスが先ず負って下さり、そして忍耐に生きる私たちを愛によって支えて下さるのです。その神様の愛の中でこそ、私たちは信仰と愛と希望に生きることができます。そして神様が私たちを愛しておられるとは、もっとはっきり言えば、私たちを選んで下さったということなのです。私たちの側に、選ばれるに相応しい何かがあったからでは全くなく、ただ神様が恵みによって私たちを選び、教会へと導き、信仰を与えて下さったのです。神様の愛を信じるとは、この選びの恵みを信じることです。教会の129年の歴史は、神様が恵みによってお選びになった民を、この群れへと導き、洗礼にあずからせ、信仰者として生かして下さった、その選びのみ業の歴史です。今その選びに、私たちがあずかっている。そして神様は、これからも、さらに多くの人々を選び、救いにあずからせようとしておられます。私たちは、そのために先に選ばれ、導かれたのです。私たちが、信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していくことによって、神様はこの群れにさらに多くの、選ばれた者たちを呼び集めて下さるでしょう。創立129年を喜び祝う私たちは、130年に向けて、そのために思いを新たに歩み出すのです。

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