「荒れ野に道を備えよ」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 詩編、第115篇 1節-18節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 18節-20節
・ 讃美歌 ; 294、448
序 主任担任の教師を迎えて、新たな教会の歩みが始まりました。教会が深い祈りと願いをもって待ち望んでいた時がついに来ました。今日は主が顕してくださったその大いなる恵みを喜び、ほめたたえる日であります。感謝と賛美を捧げ、新たな歩みの上に、主の祝福と導きを祈り求める日であります。詩編の詩人とともに新しい歌を主に向かって歌うべき時です。「御力を表される主をあがめよ。 力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう」(詩編21:14)と声を上げるべき日です。わたしたちは主がお与えになった鍛錬と恵みの出来事を驚き、祝いつつ、御言葉が照らし示す道を歩んでいきたいと願います。
わたしと一緒に神学校を卒業した仲間は22人います。主任担任教師として赴任した者もいれば、担任教師として既に主任の教師が仕えている教会に赴任していった者もあります。しかし、本来なら主任の教師がいる教会に、担任教師として主任不在の中で着任するという経験をしたのはわたしだけでした。自分が着任することになる教会が、主任を欠いた状態にあることを知らされたのは去年の秋も深まった頃のことでした。このことをどう受け止めるべきなのか考え込みました。不安な気持ちにもなりました。しかしそうした中で励みとなり、望みとなった事実は、主任の先生の招聘が決定し、半年後には着任されることがはっきりしているということでした。出口のない、どうなるか分からない、全くの不安と悩みと焦燥感の中で過ごす時が待っているのではない。あと半年すれば必ず主任の先生が着任される、それがこの半年間の支えとなってきたのです。いや、半年間ではありません。教会はまさにこの1年8ヶ月の間、そのことに望みをおいて、祈り、願い、待ちつづけてきたのです。
そこでわたしは最初の務めはこの半年の間、主任の先生が着任するに先立って教会がよりよき備えができるように道備えをすることだと思って歩んできました。着任する頃にそうした心構えをまわりの先生に話すと、「洗礼者ヨハネですね」と冗談混じりに言われたものでした。今ザカリアの歌に歌われているのは、主に先立って行き、その道を整えるために遣わされた者の誕生です。しかしこの「荒野に呼ばわる者の声」もまた、指し示すべき方を知って、その喜びと希望に生かされた存在として、この世に遣わされているのです。
1 アビヤ組の祭司であったザカリアは主の聖所に入って香をたく奉仕をしていた時に、主の天使からのお告げを受けます。1章13節以下に次のようにあります、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。ところがザカリアはこの神からのお告げを受け入れることができず、人間的な判断によって心をかたくなにします。自分は老人だし、妻も年をとっているのにどうしてそんなことがあり得るのだろうか、ついては何によってそれを知ることができるのか、と神を試み、しるしを求めることをしたのです。これに対して与えられたしるしは、ザカリア自身が、事の起こる日まで口が利けなくなり、話すことができなくなるというものでした。
この不信仰ゆえのしるしが解かれたのは、聖霊の働きによってザカリアの心の目が開かれ、神の恵みを受け入れる者へと変えられた時でした。生まれてくる子供には、当時の習慣に従って親の名前を継がせるのではなく、神が与えたもうたヨハネという名を与えるのがふさわしい、その意志を表現した瞬間に、ザカリアの口が開き、舌がほどけたのでした。そこに湧き起こった賛美の中で生まれているのがこのザカリアの預言です。ザカリアはエリサベトとの間に子供を与えられた時、そのことだけを喜んだのではありません。その子が将来指し示すことになる来るべきお方の到来を既に知り、味わい始めていました。それゆえにこの預言の前半はヨハネが指し示すことになるお方、主イエス・キリストにおいて現される神の恵みの出来事を歌うのです、「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(68-69節)。
「角」は旧約聖書以来、救いや力、権力を象徴するものです。それは「救いの角」として神の民が依り頼んできた神の力を表しているのです。旧約の民は幕屋や神殿の祭壇の四隅にある青銅製の突起を「角」と呼び、そこにつかまることで、身に迫る危険から守られることを知っていました。そこは「逃れの場」であり、そこに手を伸ばし、そこにとどまっている者には、追手も手出しができなかったのです。わたしたちの歩みの中で、そこに立ち、そこに留まり、そこにつかまっていれば、あらゆる敵の害悪とおそれと悩みから守られる場所はどこでしょうか。
ザカリアの預言が教えているのは、それはキリストのおられるところだ、ということです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)、そうおっしゃってくださった方の下に留まっていることがわたしたちにとっての「救いの角」ではないでしょうか。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15:3)、そうおっしゃってくださっている方につながっていることがわたしたちにとっての「救いの角」ではないでしょうか。
主はこの「救いの角」である主イエスを僕ダビデの家から起こしてくださいました。それは「昔から聖なる預言者たちの口を通して語られた」(70節)ことを、神が果たしてくださったからであり、主が「我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる」(72節)がゆえのことだと、ザカリアは歌います。それは「我らの父アブラハムに立てられた誓い」(73節)に対して、主なる神が真実に、誠実に関わってこられたことの証しだと、ザカリアの信仰は受け止めたのです。主はかつてアブラハムに約束されました、「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る」(創世記22:17)、「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。 地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」(同12:2-3)、「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう」(同17:4-6)。
ここに、人間の再三にわたる背信や裏切り行為にも関わらず、人間に身を向け、これと関わり続けられる神の憐れみがさやかに示されているのです。人間の世界における契約は、突き詰めたところではまことに頼りなく、覚束ないものです。どちらか一方に落ち度があったり、信頼を裏切るような行為があったりすればすぐ解消され得るものです。わたしたちは人から裏切られて傷つき、また自らも人を裏切ったり傷つけたりして生きています。自分でも知らないところで人の心を深くえぐり傷つけるようなことをしている存在です。本来、主の御前に清く正しく仕えることなどあり得ない、救いようのない存在なのです。それなのにわたしたちが「敵の手から救われ、恐れなく主に仕える」(74節)ができるとするなら、それはわたしたちの中にある手柄や功績では決してありません。度重なる背信にも関わらず、「救いの角」であるキリストをこの世にお与えになり、これにつかまれ、これに枝としてつながれ、との憐れみの言葉をくださった神の恵み以外に、わたしたちの救いの根拠はないのです。
2 ザカリアの下に生まれた幼子ヨハネが証しするのはこのことです。救いはわたしたちの内にはない。ただわたしが指し示すお方を見よ、と言うのです。「この人を見よ!」と言うのです。キリストの到来に備えて主に先立って行き、その道を整えるのがヨハネの役割です。そしてその務めは裏切られることがありません。来るべきお方が誰だか分かっていないとか、来るのか来ないのか分からないというのではないのです。
神の「憐れみ」という言葉がこの箇所にはたくさん出てきています。その元の言葉は契約に忠実な神の愛、神の救いのご計画に現れる神の愛を意味する言葉です。来るべき時がいよいよ到来した。そしてその時が完成に向かって力強く動き出している。その時のうねりの出発点であり、ゴールである場所に主イエスが立っておられる、そのことを証しする言葉がこの神の「憐れみ」です。そしてこの「憐れみ」は人間の側の途方もない、数え切れない裏切りに対しても、最後には誠実を貫き通す神の愛です。わたしたち人間の世界が知らなかった愛です。
預言者イザヤはこの揺らぐことなく貫き通される神の真実の言葉についてこう預言しました、「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:6-8)。このとこしえに立つ神の言葉のために、ヨハネは民に呼びかけ、主のために荒れ野に道を備えるのです。荒れ地に広い道を通すのです。神の前に谷は高くされ、山と丘は身を低くされる、神の前にすべてが相対化され、すべてがひれ伏すのです。
このようにして整えられる道は「平和の道」へと導きます。それは御言葉によって打ち開かれた光が照らす道です。それは罪の赦しによる救いを知らせる道です。高い所から打ち開かれて照り初める「あけぼのの光」こそがまことの希望の光です。わたしたちが人間の世界の小さな光、仕事や家族、友情や富、名声や業績に依り頼もうとしても、結局はそれらは最後の頼みにはなりません。それらもまたそねみや妬み、憎しみや争いから自由ではないものであり、十字架の贖いを必要としているものなのです。ただ「高い所からの光」、「上からの日の光」のみがわたしたちを「恐れに満ちた闇の夜」から「驚くべき光の中へ」と招き入れてくださるのです。その十字架の上より差し来る光の中に喜んで身をゆだねようではありませんか。
結 ヨハネの道備えの果てには、主の御名によって来るべきお方、イエス・キリストが来て下さいます。ここに起こされた「救いの角」を喜び、感謝し、「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」証しの歩みに、新しく乗り出す神の民の群れとされたいと思います。
祈 主イエス・キリストの父なる御神様、この神の民の群れに新たな牧者をお与えくださいまして、まことにありがとうございます。あなたは御心に背き続けるわたしたちを見捨てず、豊かな憐れみをもって御言葉の真実をさやかに示してくださいました。どうか新たに始まる教会の歩みが「暗やみと死の陰に座している者たちを照らす」、「高い所からのあけぼのの光」を力強く指し示す歩みとなりますように。この教会があなたより与えられた光栄ある名の通り、「道であり、真理であり、命であるキリスト」をさやかに指し示す証しの道をたどらせてください。 贖い主にして光の君なる、主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
1 ルカが伝える主の祈りは、「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」、と祈った後で、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈ります。神の御名が崇められるように、神のご支配がやって来ますように、という祈りは、神を見つめる祈りです。神と私たちとの関係がはっきりとさせられる祈りであります。一方、この「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りからは、「わたしたち」が祈りの言葉の中に登場してまいります。神と私たち人間との関係で言えば、私たちの方を見つめながら祈られる祈りが続くのです。私たち人間の方を見つめるといっても、それは神の眼差しと離れたところで見つめるのではありません。神の眼差しの下におかれ、神の御名と結ばれ、神のご支配がやって来るのを待ち遠しく待っている、そうした神との関係の中に置かれた者とされている私たち自身の日々の歩みを覚えて祈りを捧げます。神との関係を通して新しく受け取り直された自分自身を感謝して受け入れます。神の恵みにふさわしくお応えして、毎日を歩む者とされるように、主の祈りはそういう願いを、私たちの中に引き起こすのです。
2 しかしそれにしましてもこの祈り、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りは、前からの続きの中で見てみますと、なんだか突拍子もない感じがいたします。突然飛び出してくるような感じがいたします。壮大な音楽の調べの中に、突然不協和音が入り込んでしまったように聞こえたりします。もしそういう違和感を、私たちがこの祈りについて持つとしたら、それはきっとこの祈りが、あまりにも私たちにとって身近で、具体的すぎる祈りだからではないでしょうか。「御国が来ますように」なんていうのは、壮大なスケールの祈りであります。大きな話です。世界全体を問題とする視野の大きな祈りであります。ところがその大きな祈りの直後に、なにか大変物質的なことがらが入ってくることに、私たちはびっくりしてしまう。神の国が来るように、と祈ったそのすぐ後で、今日必要な私たちの食べ物が与えられるように、と祈るからです。
私が教会に仕える幸いを味わう一つの場面は、洗礼を受ける希望を願い出られた方とご一緒に持つ、準備の会に同席する時です。そこでそれぞれの方のこれまでの歩み、どこでどのようにして導かれ、教会に通うようになったのか、どのようにして御言葉に触れ、神と出会われたのか、がその方ご自身の言葉でもって語られます。不思議な神の御業を目の当たりにさせられる思いがいたします。そこでは具体的な問題、直面した危機もたびたび出てまいります。病気になったこと、家族の介護のために仕事も続けられなくなったこと、食事の準備をするのも思うに任せない状態になってしまったこと、子供を育てることが重荷になって苦しんだこと、どれも具体的で、個別的な話です。決して一般化してはならない。それぞれが固有の重みを持っています。そういう困難に直面する中で、どういうわけか御言葉に触れる機会を与えられ、神との出会いを求める心が与えられていく、そういう体験をどの方もしておられます。
準備会の中で触れられる大切なことは、祈ることを知り、実際に祈り始めてみる、ということです。ちょうど自転車に乗れるようになるためには、補助輪を使っても何をしてもいいから、とにかく乗り始めてみることが大切なように、とにかく祈り始めてみる。その時、主の祈りが私たちに最初の祈りの言葉を与えてくれるのです。そこから始まって、自分の具体的な苦しみや悩みも神に訴え、祈り、助けを求めてよいことが示されるのでありますけれども、そんな時こうおっしゃる方もあります。「こんな小さな、自分のようなちっぽけな者の祈りも聞いていただけるのでしょうか。世界をお造りになるような立派なお方が、私のようなつまらない者の個人的な祈りなんか、お聞きになってくださるのでしょうか」。自分のような取るに足りない者の問題は、神にとってはあまりにも些細なことで、そうめったやたらと口にできない、祈ることなどとてもできない、そう思ってしまう。世界全体のことに心遣いをされている神様はきっと忙しくてこの私の小さな問題などお聞きになる余裕がないのではないか、そんなふうに思ってしまう。
私たちの人間関係の中では、これはよく分かることです。自分の個人的な問題で、たとえば偉い先生のところに相談に行くような時には大変緊張する。話に行ってもちゃんと聞いてもらえるだろうか、とためらってしまう。意を決して部屋の前までやって来ても、ドキドキしてなかなか部屋の扉をノックできない。どうしよう、どうしよう、と逡巡しながら部屋の前を行ったり来たりしてしまう、私もそんな経験を何度もいたしました。
けれどもどうでしょう。私たちが今日与えられている祈りによれば、まさにそういう毎日の具体的な問題、日々の差し迫った生活に関わる問題こそ、神の顧みの中にある事柄、神が見つめ、なんとかしなければ、と意を注いでおられる事柄だということになりはしないでしょうか。わたしたちに必要な糧、今日問題になる食べ物の問題もまた、神様の管轄事項なのだ、神が心にかけておられる事柄なのだ、そう主イエスはおっしゃったのです。私たちの毎日は、立派な哲学や世界の歴史を見通す大きな視野といったものが幅をきかせているのではありません。むしろ今晩の食事をどうしようか、何を買っておかなければならないか、その前に子供を保育園に迎えに行かなくてはならないぞ、明日は町内会の掃除だから朝早く起きなくては・・・そういう日常的な事柄、世界全体から見るならささいなことに違いない事柄、取るに足りないように見える事柄、そういったことどもが実際生活の九割以上を占めているのではないでしょうか。そして主イエスは、そういった日常のこまごまとしたことの中で私たちが味わう悩みや思い煩いこそ、神が覚え、大切にされ、顧みておられることなのだ、と教えておられるのです。神は世界をお造りになり、これを保ち支え導き、最後にはこの歴史を終わらせ、そのご支配を完成させる、壮大な世界計画をお持ちの大きなお方です。けれども同時に、神はまことに人類の瑣事に心を向け給う、細やかなお方でもあるのです。神は、私たちが滅多なことなど話せないような、恐いお父さん、厳めしい大学教授のようなお方ではありません。むしろ私たちが毎日の問題、悩みや苦しみ、差し迫った課題を、隠し立てしたり、取り繕ったりすることなく、それらを携えて祈りの内に御前に進み出ることをよしとされ、そのことを喜び受け入れてくださるお方なのです。
3 先ほど旧約聖書の申命記8章の御言葉を読んでいただきました。その7節以下でこう語られます、「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」。さらにこの先にある17、18節を見てみましょう。「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」。
私たちに必要な糧が、私たちの手許に今日もあるということ、それは決して当たり前のことではないのです。私たちを今日生かす食物もまた、神が備え、私たちに与えてくださった賜物なのです。恵みであり、贈り物なのです。たとえ人間が汗水垂らして、労苦をもって育てた作物でも、雨を注ぎ、太陽を出させ、養い育て、実りをもたらしたのは主なる神です。本来は私たちのものではない、私たちの功績によって獲得する物でもない、ただ神が恵みの内に、良きものを私たちにくださる。本来私たちのものではない良いものを、私たちのものとさせてくださる。このこと自体が大きな恵みなのです。その時私たちは、ただ食べて満ち足りればよいのではない。この恵みを備えてくださった主を思い起こし、主をたたえるのです。毎日の営み、三度三度の食事においても、私たちはそこで主なる神を思い起こし、ただ主の恵みによって今日も生かされていることに感謝し、主をたたえる祈りを捧げるのです。そういう意味で、主の祈りは私たちの食卓という最も日常的で、人間的な場面にも、深く食い込んでいる祈りなのです。
さらに注意するべきこととして、この祈りは必要な糧を「毎日与えてください」と祈ります。それは日々新しく与えられなければならない、一回一回の出来事なのです。ルカが伝える主イエスのたとえ話には、豊作となった作物を大きな倉にしまって、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ、と喜ぶ金持ちが出てくる箇所がありますが、その時この人が聞くのは、こういう神の御声なのです。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(12:20)。もし自分のために富を積んでも、その恵みを与えておられる主なる神を思い起こすことを失ってしまうなら、その人は本当に豊かな人生を歩むことはできないのです。神との関係が切れてしまっているからです。富を蓄えて、自分を人生の主人とし、神から独立して歩んでいける、と計画をするところに、私たちの罪があるのです。
贅沢な話ではない。神の賜物として与えられる今日の糧、日ごとの糧、日用品、必要な糧、それが今日も備えられたことに感謝し、満ち足りるのです。そこで今日も恵みの内に私たちを生かしてくださった主なる神を思い起こすのです。今現在、唯一本当に必要な事柄のために、来るべき明日の心配から「わたしたち」を解放する祈りが、この祈りなのです。
この飽食の時代に、どうして「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」などと祈る必要があるのか、私たちはそう思うかもしれません。けれども、先ほどの金持ちのように、物質的な豊かさの中でこそ、私たちは神を思い起こすことを忘れ、自分を人生の主人とする罪に陥りやすくなるのです。聖路加国際病院の精神科医が指摘するように、「豊かさの精神病理」(大平健)があるのです。物質的な豊かさの中で、私たちの心は病み、貧しくなっているのです。神の前に富むことを忘れてしまう今この時こそ、私たちはこの祈りを篤くせざるを得ないのです。今日の一歩を進ませてくださる、この日のよき備えに感謝し、満ち足りるのです。
4 これらすべてのことは、この祈りを教えてくださった主イエスご自身のお姿にはっきりと現れています。主イエスご自身も、その誕生の時から、日常的・具体的なことが問題だった。まずどこで生まれるか、どこでこの世に生まれ出ることができるか、そこから大問題でした。世界の支配者にふさわしくない、暗くて狭い、薄汚れた馬小屋でお生まれになられました。悪魔の誘惑に引き回され、空腹を覚えられたのです。一人息子を失ったやもめの悲しみに深く心を重ねてくださいました。五千人の人々の空腹を満たすために心を砕いてくださいました。人の子には枕するところもない、とおっしゃり、その日与えられる父なる神の恵みに満ち足りて歩まれました。そしてゲツセマネの園においては、私たちが普段はあまり考えないようにしてはいても、深いところにいつも横たわっている、死の恐怖と向き合い、私たちと同じ悩みと恐れを味わわれたのです。ついには十字架の上で、私たちが受けるべき死を、代わって死んでくださったのです。そこにまで至る、低きに降られた神が、私たちの主イエス・キリストなのです。
私たちが人には恥ずかしくてとても言えないようなこと、心の中の暗がりの隅にあるようなことも、神のご存知でないこと、神が味わわれたことのないことはありません。それら痛みや悲しみが刻み込まれている秘め事もまた、へりくだりの主の祈りの中に数え入れられているのです。私たちは神の御前で、自分の心配事や悲しみを敬虔な振る舞いでもって取り繕ったり、ごまかしたりする必要はありません。また神もそのことを望んではおられません。本当は打ち明けたい苦しみを、信心深く装った言葉の背後に隠し込んでしまい、抑圧された心の奥底で、魂が密かに苦しんでいる、などということは、主が欲してはおられないことです。主なる神は、私たち人間が偉大であると感じるもの、芸術や思想や信心深さや世界の政治問題しかお分かりにならないような神ではないのです。主は、私たちの生のいと小さきものをも委ねることができる、打ち明けることができる、自らも身を以てそのことを味わってくださっておられる、そういうお方であるがゆえに、本当に偉大なお方なのです。私たちの神の偉大さは、この低きにまで降られ、私たちと同じ肉を取り、私たちの悩みと苦しみを引き受けてくださる、その主なる神の自由さにあるのです。
5 そしてこの祈りを食前に祈るごとに、私たちはやってくる神の御国において与かる食卓に思いをはせます。主が最後の晩餐において、御自らパンを裂き与え、杯を分かち与えてくださいました。十字架の上で、自らの肉を裂き、血潮を流され、私たちの罪を代わって担いきってくださいました。そして終わりの日に再び来られる主は、私たちの救いを完成させてくださり、御国の祝宴に与らせてくださるのです。私たちは聖餐を祝うたびごとに、この霊の糧に養われ、来るべき喜びの宴を思い、希望を新たにするのです。
この霊の糧は、主イエスの御言葉が刻まれた糧です。聖餐は説教と深く結びついた霊の糧です。その意味で、御言葉を聴き、聖餐に与ることが、もっとも根本的な「わたしたちに必要な糧」なのです。この霊の糧に養われている中で、私たちはいつも新しく、今日を生きるための肉の糧をも、主の御手からいただきます。すべて良きものを与えつつ、御国へと導いてくださる主の養いをほめたたえて歩むのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、私たちの心の闇の奥深くにしまわれている苦しみや悲しみも、肉を取ってこの世に降られたあなたがご存知でないものはありません。低さの極みにまで降られて、私たちの嘆きと労苦を担ってくださる主の御前に、もはや取り繕いや隠し立てはいりません。どうかあなたの御前に、心の内にあるすべてを携えて、あなたに信頼してつぶさに祈り求める者とならせてください。何よりも十字架の主が日々与えてくださる、御言葉によって養われ、あなたの聖餐に与り希望を新たにする歩みに生かしてください。その中で毎日与えられる糧を、あなたからのものとしていただき、よきものをもって今日も生かしてくださるあなたをほめたたえつつ歩ませてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。