夕礼拝

信じて祈るならば

「信じて祈るならば」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 申命記 第10章12―22節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第21章18―22節
・ 讃美歌 : 314、355

都エルサレムにて
 本日はマタイによる福音書第21章18節から22節をご一緒にお読みします。第21章の最初の箇所は小見出しに「エルサレムに迎えられる」とありますように、主イエスがエルサレムに迎えられた場面でした。主イエスがご生涯の最後に、子ろばにお乗りになって人々の歓喜の叫びを受け、エルサレムに入城されました。主イエスの地上の歩みの最後の一週間が始まりました。主イエスがエルサレムに入られたのは日曜日で、その週の木曜の晩に捕えられ、金曜日には十字架につけられて殺されます。マタイによる福音書は、その一週間の出来事を21章から27章まで語っております。そして、21章の12節からは「神殿から商人を追い出す」とありますように、主イエスが神殿の境内でなさったことが語られております。本日は18節からをお読みしますが、小見出しには「いちじくの木を呪う」とあります。本日の話しは前半の部分と後半に分けることが出来ますが、その前半には主イエスがいちじくの木を呪って、いちじくの木をたちまち枯れさせてしまった、ということが語られています。まず、前半の話を見ていきたいと思います。

朝早く、都へ帰る途中
 18節のはじめには「朝早く、都に帰る途中」とあります。エルサレムに来られた主イエスは、17節にあるように、夜は都を出てベタニアという村に泊まっておられ、翌朝早く再び都へと帰って来られました。その途中、主イエスは空腹を覚えられました。そして、道端のいちじくの木に実がないかと近寄って見られました。けれども、葉のほかは何もなかったとあります。そして、主イエスは「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われました。すると、その木はたちまち枯れてしまったのです。本日の箇所と同じ内容の並行箇所がマルコによる福音書第11章に記されております。そこには、「いちじくの季節ではなかったからである」と丁寧に書いてあります。この時は、いちじくが実る季節ではなかったということですが、その時にいちじくの実がないことに主イエスが腹を立てられ、木を呪って枯らしたのでしょうか。それは少し考えにくいことです。それではなぜ、聖書にこのような主イエスのお姿が記されているのでしょうか。不思議な主イエスのお姿です。また本日の話は私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。

実がない姿
 主イエスはただ今エルサレムにおられます。主イエスはこれまで多くの人々に神の国の福音を宣べ伝え、伝道をされて来ました。そして、エルサレムに来られます。いよいよ十字架につけられるということです。この間の時間というのは、どれくらいの時間がであったのかということははっきりとは分かっておりません。主イエスが伝道なさった期間は、実際にどれくらいの期間であったのかということははっきりとはわかっていないのです。福音書の記事から計算して、長くて3年、短くて1年と言われます。どちらにせよ、時間としてはそんなに長いということではないようです。しかし、その1年、3年は内容の濃い、そしてこの世界の歴史においてかけがえのない大切な時でありました。けれども、当時の人々にとって、主イエスがお生まれになり、伝道をされた、そして十字架にかかられたということは、どういう意味があったのでしょうか。主イエスがこの地上に存在なさったということは、当時の世界の人々、またその当時の歴史を記録に留める歴史家たちにとっても、あまり重要な事柄ではなかったようです。主イエスの活動された期間についてもはっきりとは分かっていないからです。それは、当時の人々だけのことでしょうか。今を生きる私たちにとっても、状況は同じことです。当時の人々、それも主イエスを迎えたエルサレムの人々はどうだったのでしょうか。人々は主イエスに対して「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(9節)と叫びつつ主イエスを迎えました。けれども、その声は数日後に主イエスを「十字架につけろ」という言葉に変わりました。これが、エルサレムの人々の主イエスに対する姿勢です。同じ口で賛美の声を挙げつつも、瞬く間に主イエスを十字架につけろ、という主イエスへの呪いの言葉を発するのです。これはエルサレムの人たちだけの姿ではないでしょう。そして、このような人々の姿とは主イエスがいちじくの木に実を捜したけれども、実がなかったということに象徴されているのです。

信じて祈る
 そして、主イエスは「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまいました。この様子を見た弟子たちは驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言いました。主イエスのお答えは、21節以下です。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことが起きるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。」と言われました。更に「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」と言われました。いちじくの木の話の後に、なぜこのような主イエスのお言葉が語られたのでしょうか。この主イエスのお言葉は、弟子たちに対する警告なのでしょうか。いえ、むしろ、この主イエスのお言葉は弟子たちを励ますためのお言葉だったのです。主イエスは弟子達に対して「お前たちもあのいちじくの木のようにならないように気をつけろ」と言われたのではありません。主イエスは21節以下にあるように「あなたがたも信仰を持ち、疑わないなら主イエスと同じような大きな業ができる」と言われたのです。いちじくの木の出来事を通して、主イエスは弟子たちに警告されているのではなく「信仰を持ち、疑わない」で生きること、「信じて祈る」者となることを教えておられるのです。それは主イエスから弟子たちへの励ましのお言葉そのものです。「信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起ったようなこと、主イエスのような大きな御業ができるというのです。それは「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」ということです。そのような大きな力を私たちが持つようになるのでしょうか。主イエスは「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と言われました。

信仰の実
 主イエスが言われた「信じて祈るならば」とはどういうことでしょうか。本日の箇所の直前で、主イエスは神殿の境内に入られ、商売をしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたということが語られました。主イエスはその時に、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』と聖書に書いてあるのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」と言われました。祈りの家であるべき神殿が、人間の欲望を満たす場になってしまっている、神様のみ前に立ち、礼拝をするべきところで、神様がないがしろにされ、人間の思いだけが支配している、そのことへの激しい怒りを主イエスは露わされたのです。その姿もまた「いちじくの木に実がない」エルサレムの人々の姿なのです。主イエスは激しく怒りを覚えらました。その後に続いて語られているのは、主イエスのもとに、目の見えない人や足の不自由な人たちが来て、主イエスが彼らを癒されたということでした。また、子供たちが「ダビデの子にホサナ」と叫んで、主イエスをほめたたえたことでした。この目の見えない人、足の不自由な人たち、そして子供たちとは神様を真実に礼拝する人々が興された人々です。体に障害を持った人は、神様のみ前に出て礼拝をすることができないと言われていたのです。けれども、主イエスは、そのような人々をこそむしろ招かれました。そして、主イエスは癒され、このような人々を礼拝者とされたのです。主イエスは人々が神様を礼拝することができるようにして下さったのです。そのような主イエスに対して、神殿の責任者である祭司長たちや、律法の専門家である律法学者たちは腹を立て、不平を言いました。けれども子供たちが、心から主イエスを賛美、礼拝をしているのです。祈りの家であるはずなのに、強盗の巣になってしまっていた神殿が、主イエスによって真実の礼拝の場とされました。主イエスを礼拝する者たちが興されたのです。
主イエスによって、神殿が、その本来の意味である祈りの家、礼拝の場へと回復されました。主イエスによって、人間の罪が明らかされます。主イエスによって礼拝が、祈りが、人々の間に取り戻されていく、回復されていったのです。主イエスは「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば」と言われました。「疑う」というのは、心が二つに分かれてしまう、という意味です。目には見えない神様の恵みとご支配を信じる思いと、人間の力こそが支配しているように見えるこの世の現実の間で、私たちの心は二つに分かれ、動揺させられるのです。主イエスを信じる信仰によって、私たちはその疑いから解放され、この世の現実の中を、信仰を持って歩み続けていくことができるのです。「信じて祈る」者となることができるのです。そのことこそが、「山が海に飛び込む」ような驚くべきみ業なのではないでしょうか。目に見えるこの世の現実のみを全てとし、この世の力に頼り、この世の業に事柄に目を向け、信頼をします。主なる神様を否定して、この世の業、自分の思いのみによって生きている私たちが、目には見えない神様を信じ、その恵みが自分に注がれていることを感謝し、神様を礼拝し、信じて祈る者となる、これはまさに驚くべき出来事です。奇跡です。申命記10章はまさに神がどんなにイスラエルを大切にされたのか、ということです。神の深い御業が今私たちに注がれている。罪深い私たちを主イエスが神様を信じて祈り、礼拝する者とされ、信仰の実を与えて下さったのです。

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