2003年5月18日、横浜指路教会・夕礼拝説教
ミカ書 第4章1-8節
ルカによる福音書 第1章26-38節
「驚くべき神の恵み」
序 わたしたちの社会には、とても大切なメッセージを携えてくる人がいます。その人がやってくるのを今か今かと皆が待ち構えているような類の人があります。裁判所で裁判が行われた時、その判決結果をいち早く墨で書いて中から飛び出してくる人は、皆から注目されます。その人が携えてきたメッセージが何であるのかに、最大の注意を払いつつ、かの人が飛び出してくるのを待つのです。受験の合格者を発表する電報が届く日には、郵便屋さんが重大なメッセンジャーです。その人が携えてくるメッセージに自分のこれからの歩みがよってもってかかっているからです。オリンピックの開会式の時に走る聖火ランナーも皆に注目されます。彼または彼女は、世界的なイベントの開幕というよき知らせを伝えるメッセンジャーです。
しかしいかなるよき知らせにも増して素晴らしい、この上ない喜ばしい知らせを、今携えてきた者があります。それが天使ガブリエルです。
1 先に祭司ザカリアのもとに、あの喜ばしい知らせを伝えるために遣わされた天使ガブリエルは今、ナザレというガリラヤの町に遣わされました。神から喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのです。このガブリエルのマリア訪問は、先のザカリアの訪問とよく対応しています。天使が現れ、子どもが生まれない状態にあるにも関わらず、子どもが授かるという知らせが伝えられる。しかしザカリアもマリアもこれをすぐに受け入れることができない。そこでしるしを伴う天使の答が与えられる。こういう具合です。二つの物語は対応関係にあります。
けれどもただ対応しているだけではありません。この二つの物語は確かに対応していますが、その順序ははっきりしています。どちらがより重大な内容を持っているかがはっきりしているのです。ヨハネは主イエスに先んじてこの世へと遣わされ、主の到来のための道備えをします。主イエスの到来に備えて「準備のできた民を用意する」(17節)ことが彼の使命でした。しかし今生まれようとしておられる方は、「永遠にヤコブの家を治める」(33節)方だと言われています。「ヤコブの家」という言葉で意味されているのはイスラエルの12部族です。イスラエルの民族全体がこの方の到来によって永遠の支配に入れられるというのです。新約聖書においてはこのイスラエルが祝福の源となって、教会が「新しいイスラエル」として神の選びと祝福に与っていることが明らかにされています。私たちもまたこの「新しいイスラエル」である教会を通して、神の祝福に与っているのです。現代のイスラエルの状態を見て、なぜそれが祝福の基と言えるのか、そうわたしたちは思わず問いたくなるかもしれません。しかし使徒パウロは、まず異邦人が救いに入れられ、その後で本来最初に救いに与るはずであったイスラエルの民が救いに入れられると言っています(ローマ11章)。今はそこに至るまでの中間の時なのです。
さらにザカリアの場合には、不妊の女性に子どもが授かるとの知らせが伝えられましたが、マリアの場合はまだ結婚もしていないおとめです。旧約聖書にはサムエルを授かったハンナの話を初めとして、子どもを産むことのできなかった女性が神の祝福に与って子どもを授かるという話が多く出てまいります。しかしおとめが子どもを授かるという話はありません。それは今までなかった何か全く新しい出来事の開始を意味しているのです。
それだけではありません。ヨハネは預言者エリヤの「霊と力で主に先立っていく」人物として描かれていますが、今生まれようとしているお方は「偉大な人」、「いと高き方の子」(32節)であると言われています。「聖なる者」、「神の子」(35節)なのです。「その支配は終わることがない」(33節)と言われるまことの王なのです。あのヘンデルのメサイアが歌い上げるように「主の主、王の王」なのです。
今やヨハネによる道備えの彼方に来られるお方が生まれようとしているのです。ヨハネによって指し示されたお方が世に出ようとしているのです。これまでのメシヤ理解を越えた仕方で人間の救いを成し遂げる、まことの救い主がお出でになろうとしているのです。しかもこの神の子はダビデ家の家系の中に肉をとって、まことの人としてこの世の来られました。神が人となってこの世に降る、そしておとめから生まれるという無限の神秘が出来事となったのです。ある宗教改革者はこのことを次のように表現しました、「全世界も抱くことのできない方がマリヤの膝に坐し給う ひとりで万物を保ち給う方が幼な子となられた」(ルター)。神がご自身神であることをやめることなく、しかし人間の肉を取ることによってわたしたちの下に降って来てくださった。それゆえにこのお方はわたしたちの重荷と苦しみを同じように担いつつ、しかもすべての罪からわたしたちを清め、救い出すことがおできになるのです。神の愛は同じ場所にとどまってじっとしているような愛ではありません。救いを必要としている人間のために自ら低きに降っていく、ダイナミックな動きを伴った激しい愛なのです。わたしたちはこの主の激しい愛ゆえに救い出され、神のものとされている恵みを、今一度深く覚えたいと思います。
2 さて、ザカリアの場合とマリアの場合との違いを考える時、マリアに関する出来事において特に強調されていることがあります。それは天使からのメッセージが、予測もしていない中で突然伝えられたという点です。ザカリアの場合は、長い間子どもが与えられず、苦しみ、祈り願いつづけた末に、ヨハネを授かったのでした。それゆえに天使ガブリエルの最初の言葉は、「恐れることはないない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」(13節)というものだったのです。けれどもマリアの場合はそうではなかったのです。恵みが突然到来してきたのです。なぜマリアが選ばれたのでしょうか。それは誰にも分かりません。マリア本人にも分かりません。ですからマリアは突然の天使の到来に驚き、その言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んでいます。なぜこのナザレのガリラヤに住む一組の夫婦、小さな大工の家庭を神が顧みられたのか、それはわたしたち人間には理解できないことです。それは神の自由なる恵みの選びに基くことです。神が、ご自身の愛と自由をもってすべてを行われる主なる神が、特別な目的のためにマリアを選び、用いることをよしとされたのです。わたしたちはただそのことを神の御旨と信じ、受け入れることで十分なのです。神の御業を認め、それを知らされた者として後からその恵みをたどり、確認するのです。そこに大いなる神の御業をたたえる讃美と感謝が生まれるのです。
しかし、不信仰な人間はこのように不可解な出来事をすぐに受け入れることができません。あのザカリアに神のメッセージが伝えられた時、彼はすぐに言いました、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。そして今、マリアも言います、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。齢を重ねているゆえ、もう子どもを産むことなどできるはずがない、まだ異性と肉体的な接触を持ったことがないのだから子どもが産まれるはずがない。そのようにわたしたちは人間的な思いから、神がなさろうとしている恵みの御業を拒んでしまうのです。かつてわたしが宣教師の先生からいただいた本の題名に、「あなたの神は小さ過ぎる」(Your God is too Small)というのがありました。わたしたちは人間の思いをはるかに越えてその御業を行われる神を信じることができず、自分の枠の中に神を押し込んでしまう罪を犯しがちなのではないでしょうか。自分の持っている神のイメージに神を押し込めようとし、思い通りにならないと、神様は祈りに応えてくれない、なぜわたしをこんな状態に放っておかれるのか、神様は恵みと慈しみの神ではないのではないか、といった具合に、すぐに不平不満をぶちまけてしまうのです。
こうした人間の不信仰に対して、神は聖霊において答えてくださっています。35節:「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。そしてすでになされた聖霊の業として、エリサベトの妊娠というしるしが告知されます。そして天使は言うのです、「神にできないことは何一つない」(37節)。ここに至ってマリアは聖霊に満たされて言います、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。
わたしたちは洗礼を受け、神のものとされています。そうであるなら、わたしたちの人生の主人はわたしたちではなく、神であるのです。「はしため」とは「奴隷」のことです。しかしわたしたちはもはや「罪の奴隷」なのではなく、「神の奴隷」、「神のしもべ」なのです。それは神のイニシャティヴにすべてを任せ、神の自由と愛の中を生きるしもべです。「奴隷」、「しもべ」とは本来、主人の命令に絶対的に服従し、主人の思うがままに扱われる存在です。それは人間の社会においては人格を否定されたり、自由を奪われたりする問題を伴います。しかし神の奴隷、神のしもべとされた者は、もっとも人間的で人格的な歩みを与えられ、神の恵みの中を生きることができるのです。神の恵みのイニシャティヴの中に、自分の人生を明け渡すこと、それがキリスト者の歩みなのではないでしょうか。
今や、あの預言者ミカが語ったように、「主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出」ました(ミカ4:2)。「シオンの山で、今よりとこしえに 主が彼らの上に王となられる」(4:7)時が始まっているのです。そして終わりの日には、このキリストの支配が、最終的に完成するのです、「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」。キリストにおいて打ち立てられたメシア的王的支配はあのダヴィデ王朝の興亡とは異なり、世々に揺るぎない恵みの支配です。わたしたちはこの神の恵みの支配の中を歩み、神の国におけるその最終的な完成を待ち望みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望むのです。
結 わたしたち一人一人の日常の歩みも神の深い顧みの中に置かれています。あのマリアに聖霊が降り、いと高き方の力が彼女を包んだ時、神の御旨に従って生きる者へと変えられたように、わたしたちもまた、聖霊によって目を開かれる時、人生の主人は神様であり、わたしたちは神の大いなる救いの計画の中を生かされていることを知るのです。わたしたちの日常の生活一つ一つも、神の大いなる救いのご計画の中に置かれています。そのことを知る時、わたしたちにも主の招く声が聞こえてきます。またわたしたちのまわりにも、自らは意識していなくても、深いところでこの主の招きの声を求めている人々がたくさんいます。来週には特別伝道礼拝が予定されています。聖霊はナザレの一人の女性を用いられたように、今わたしたちにも働いて、こんなに小さなわたしたちさえも、御業のために用いられるのです。聖霊なる神の御業にすべてをゆだね、その恵みの支配の中を真実に生かされる者とされるように、ともに祈りを合わせたいと思います。
祈り 神様、聖霊によってわたしたちの心の目を開き、あなたの驚くべき恵みの支配の中を真実に生きる者とならせてください。わたしたちの人生の主人はあなたであることを思い、あなたの導きの中を信頼して歩む者とならせてください。来る特別伝道礼拝を顧みてください。そこであなたの招きの声が多くの者に届けられますように。そのための働きに、わたしたち一人一人を御霊によって用いてください。
わたしたちに聖霊を送ってくださる主イエス・キリストの御名によって祈り願います、アーメン。