夕礼拝

エマオへ向かって

「エマオへ向かって」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 エレミヤ書第33章14-16節
新 約 ルカによる福音書第24章13-27節

復活を信じる者はどのようにして起こされるか
 ルカによる福音書を読み進めてきて、最後の章24章に入っています。前回は1~12節を読みました。週の初めの日に、女性の弟子たちが、主イエスの遺体が葬られた墓に行くと、その墓の中に主イエスの遺体が見当たりませんでした。しかし彼女たちは空の墓を見て、主イエスの復活を信じたわけではありません。主の御使いから、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と言われても、なお主イエスの復活を信じられませんでした。その彼女たちが主イエスの復活を信じる者へと変えられたのは、主の御使いを通して、主イエスがかつて自分たちに語った言葉を聞き、その主イエスの言葉を「思い出す」ことによってでした。主イエスの言葉を、今の自分たちに語りかけられている言葉として思い出すことによって、彼女たちは主イエスの復活を信じる者へ、さらには主イエスの復活を証しする者へと変えられたのです。この出来事を通してルカ福音書は、主イエスの復活を信じ、それを証しする者たちが、どのように起こされていくかを語りました。
 しかしルカ福音書は、この出来事だけでなく、さらに別の物語を通して、主イエスの復活を信じる者たちがどのように起こされていくかを語っています。より詳しく語っていると言ってよい。それが13~35節で語られている物語です。よく知られている、印象深い、心に残る物語です。本日と来週の二回に亘ってこの物語を読み進めていきます。

二人の弟子
 さて1~12節の出来事においては、女性の弟子たちが登場しましたが、13~35節の物語においては、二人の弟子が登場します。冒頭13、14節でこのように語られています。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」。「ちょうどこの日」というのは、週の初めの日のことであり、主イエスが復活された日のことです。しかし二人の弟子は、主イエスの復活を信じることができずにいました。主イエスが復活された日にあって、なおこの二人は主イエスの復活の喜びに、イースターの喜びに満たされることはなかったのです。二人の弟子の一人の名前は、18節によれば「クレオパ」です。もう一人の名前は記されていません。この二人は、主イエスの十二人の弟子には含まれません。9節で、墓から帰って来た女性たちが、「十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」と言われていましたが、その「ほかの人」の中に、クレオパともう一人もいたのだと思います。

希望を打ち砕かれて
 二人の弟子は、エルサレムから六十スタディオン、つまり11キロメートル離れたエマオという村へ向かっていました。彼らがなぜエマオに向かっていたのかは記されていません。エマオに向かいながら、彼らは「この一切の出来事について」話し合い論じ合っていました。「この一切の出来事」とは、19節から24節で語られている「ナザレのイエス」のことです。その21節に彼らの気持ちがよく表れている言葉があります。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」。原文のニュアンスを生かすなら、「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけ続けていました」となります。この二人の弟子は、これまで主イエスに望みをかけ続け、主イエスに従ってきたのです。しかしその主イエスが十字架で死んでしまった。主イエスの十字架の死によって彼らの望みは失われ、打ち砕かれました。希望を打ち砕かれてエマオへと向かっていた二人が、その途上でナザレのイエスについて話し合っていたのは、そのことを通して、主イエスと彼ら自身の身に起きたことを客観的に受けとめようとしていたからではないでしょうか。そうすることで主イエスを失った悲しみを、主イエスの死がもたらした絶望をごまかそうとしていたのです。しかしそんなことで彼らが光を見いだせるはずがありません。17節で、二人が「暗い顔をして立ち止まった」と言われていることに、そのことが表れています。このように考えると、彼らがエマオへ向かっていたのは、エマオに目的があったというより、とにかくエルサレムから離れたかっただけかもしれません。希望を打ち砕かれた、その場から少しでも離れたいと思って、深い悲しみと絶望の中で、エルサレムから逃げるようにしてエマオへ向かったのです。

エマオへ向かって
 「エマオという村へ向かって歩きながら」の「歩く」という言葉も注目すべき言葉です。かつて9章51節で、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と語られていました。この「エルサレムに向かう」の「向かう」が「歩く」と同じ言葉です。つまりかつては、主イエスがエルサレムへ向かって歩まれ、弟子たちは先頭に立って歩まれる主イエスに従って行ったのです。しかし今や、弟子たちがエルサレムからエマオへ向かって歩んでいきます。先頭を歩まれる主イエスはもういません。自分たちだけで、自分たちの力で歩まなくてはいけない。そのような思いを抱えて二人はエマオへ向かって歩んでいたのではないでしょうか。
 ルカ福音書が書かれ、また読まれた初代の教会の人たちは、この二人の弟子の歩みが自分たちの歩みだと思ったに違いありません。もちろんルカ福音書が読まれた時代に、教会は主イエス・キリストの復活を信じていました。しかしキリスト者として生きていくことに多くの困難が伴う時代にあって、彼ら彼女たちは苦しみを抱え、希望を持てずに歩むことがありました。復活して生きて働かれる主イエスを信頼できず、主イエスがいないように思え、自分の力に頼って歩もうとすることがありました。絶望の中で、逃げるようにして、孤独に歩んでいく二人の弟子の姿は、ルカ福音書が読まれた教会の人たちの姿でもあったのです。そしてその姿は、私たちの姿でもあります。私たちも主イエス・キリストの復活を信じています。しかし私たちはキリスト者として、信仰者として歩む中で、苦しみや悲しみや葛藤を抱え、希望を持てずに歩むことがあります。今も生きて働かれる主イエスを見失い、主イエスに信頼するのではなく自分の力に頼り、孤独に歩もうとすることもあります。私たちも希望を打ち砕かれ、そこから逃げるようにして、絶望の中を独りぼっちで歩んでいることがあるのです。私たちも日々、私たちにとってのエマオへ向かって歩んでいるのではないでしょうか。

一緒に歩きながら
 ところがエマオへ向かって歩んでいる二人の弟子に、復活された主イエスご自身が近づいて来てくださり、二人と一緒に歩き始められました。ルカ福音書では、このエマオ途上で初めて復活された主イエスが弟子たちに現れます。しかし二人の弟子は、自分たちと一緒に歩き始めたのが主イエスだと分かりませんでした。二人の目が遮られていたからです。それはもちろん、目が見えなくなっていた、ということではありません。心の目が見えなくなっていた、別の言い方をすれば、信仰の目が見えなくなっていた、ということです。だから彼らは一緒に歩き始めたのが主イエスだと分からなかったのです。
 主イエスはご自分に気づかない弟子たちを叱るのではなく、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねられました。すると二人は暗い顔をして立ち止まり、クレオパが答えました。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。このクレオパの言葉は、相手を馬鹿にしたような失礼な言葉です。「エルサレムにいたのに、ここ数日そこで起こったことを知らないなんて、あなたはいったい何をやっていたのですか」と言っているようなものだからです。その一方でこの物語の読み手からすると、このクレオパの言葉はまことに滑稽な言葉です。ここ数日エルサレムで起こった出来事の張本人である主イエスに向かって、このようなことを言っているからです。しかし主イエスは二人の弟子に呆れることもなく、さらに「どんなことですか」と尋ねられたのです。
 主イエスはご自分に気づかない弟子たちに、ご自分が復活した証拠を見せることもできたはずです。ご自分の手の釘跡や、槍で刺された脇腹の傷跡を見せることもできたはずなのです。しかしここで主イエスはそのようなことをしませんでした。それは、目で見て主イエスの復活を信じられるわけではないからです。心の目を開かれることによってしか、つまり信仰によってしか、主イエスの復活を信じることはできないのです。それだけではありません、希望を打ち砕かれ、絶望の中を孤独に歩んでいる人にとって、何よりも必要なのは、自分に寄り添ってくれる人であり、自分の話を聞いてくれる人、心の内に抱えている自分の苦しみや悲しみや絶望を打ち明けられる人であったに違いありません。私たちは苦しんでいる方に接するとき、とかく何か良いアドバイスをしようと焦ります。しかし本当に必要なことは良いアドバイスでも、正しい指摘でもなく、相手の話をしっかり聞くことです。主イエスはこの二人にまさにそのように接しました。自分は復活したと正しい指摘をするのでも、その証拠を示すのでもなく、また何で気づかないのだと叱るのでもなく、失礼な言葉を投げかけられても忍耐して、二人と一緒に歩きながら、「何のことですか」、「どんなことですか」と語りかけられたのです。そのように語りかけることを通して主イエスは、苦しみや悲しみ、絶望や孤独を抱えて歩む彼らに寄り添ってくださり、彼らが抱えているものを打ち明けるよう促してくださったのです。

何の望みもない現実を歩んでいる
 その主イエスの促しによって、二人の弟子は自分たちが抱えていた思いを打ち明けます。それが19節から24節です。まず21節までをお読みします。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」。二人はイエスの弟子として、「行いにも言葉にも力のある預言者」であるイエスに従って来ました。それは、イエスがその力を振るって、イスラエルと自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれると望みをかけていたからです。それなのにイエスは、その力を振るうこともなく、抵抗することもなく逮捕され、十字架につけられて死なれました。彼らの望みはついえたのです。「しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」とも言われています。それは、遺体が腐りつつある時であること、つまりもう何の望みもないことを語っています。彼らは希望を打ち砕かれ、もう何の望みもない現実を自分たちは歩んでいる、と打ち明けたのです。

証言を聞いても
 しかし彼らが抱えていたのは絶望や孤独だけではありません。それと共に驚きも抱えていました。そのことが22節から24節で語られています。「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。前回読んだ1~12節で語られていたことです。彼らは女性の弟子たちから、墓が空であったことも、天使が「イエスは生きておられる」と告げたことも聞いていました。それを聞いた仲間が墓へ行き、彼女たちが言った通りに、空の墓を確認したことも知っていました。それなのに彼らは主イエスの復活を信じられなかった。女性たちを通して「イエスは生きておられる」、「あの方は復活なさった」と告げられても、空の墓を目で見て確認した者がいても、ただ驚いただけで、信じられなかったのです。いや、それどころか、エルサレムに留まって様子を見るのではなく、女性たちから話を聞いたその日の内に、そこから離れ去って行きました。そこに、彼らの絶望の深さが表れています。女性たちの証言は彼らに驚きを与えはしても、彼らの何の望みもない現実を変えることはなかったのです。

物分かりが悪く、心が鈍い
 けれども信じることができず、何の望みもないように思える現実の中を、エマオへと向かう彼らの傍らには、すでに復活された主イエスがいてくださり、共に歩んでくださっています。これまで主イエスは二人の話を、その内に抱えた思いをじっくりと聞いてこられました。その上で、主イエスは二人に語りかけられます。そこで主イエスは「おつらいですね、大変でしたね」と言って二人を慰め、励まされたのではありません。そのような言葉は一時的な慰めや励ましになっても、彼らをイースターの喜びに生かすことはできません。主イエスの復活を信じることなしに、イースターの喜びに生きることはできないからです。だから25節以下で、主イエスはむしろ彼らの根本的な問題を指摘されました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。主イエスは、彼らが「物分かりが悪く、心が鈍い」と言われます。「心が鈍い」の「鈍い」はもともと「遅い」という意味です。心が遅い。心の反応が遅い。心がなかなか動かないのです。「預言者たちの言ったこと」つまり、聖書が告げていることに対して、心の反応が遅く、心がなかなか動かない。聖書が、「メシアは苦しみを受けて、栄光に入ることになっている」と告げていることに、彼らの心が反応しなかったから、彼らは信じられなかったのです。とりわけ彼らの心が反応しなかったのは、メシアが苦しみを受ける、ということであったに違いありません。主イエスがメシア、救い主として何らかの形で栄光を受けると思っていたから、彼らは主イエスに望みをかけていました。しかしそれが、苦しみを受けることによって、つまり十字架の苦しみと死によって、とは思ってもいなかったのです。彼らが期待していたのは、ローマ帝国の支配に勝利する救い主でした。だから主イエスが自分の期待したような救い主ではなかったことを目の当たりにして、抵抗することもなく逮捕され、十字架で苦しんで死なれたことを目の当たりにして、彼らの期待と希望は打ち砕かれたのです。

聖書の説き明かしを聞くことによって
 このように聖書が告げていることに心が動かず、信じられない二人の弟子たちを、しかし主イエスは見限ることはありませんでした。なお共に歩まれながら、27節にあるように、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。この場合の聖書とは旧約聖書のことです。主イエスは旧約聖書全体から御自分について書かれていることを彼らに説明してくださったのです。「説明する」と訳された言葉は「翻訳する」、「解釈する」とも訳せます。主イエスは聖書を彼らに分かるように翻訳してくださり、解釈してくださった。つまり聖書が告げている神様の御心を説き明かしてくださったのです。要するに主イエスご自身が説教をしてくださったのです。
 しかしルカ福音書は、主イエスの説教を聞いて彼らが主イエスの復活を信じた、とは語っていません。このことは次回、さらに見ていきたいと思います。ただ少なくとも言えることは、聖書の説き明かしを聞くことなしに、主イエスの復活を信じる信仰が起こされることはない、ということです。32節で二人の弟子が、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合っています。み言葉の説き明かしを聞くことによって、彼らの心は燃えたのです。説教を聞いて心が燃えることこそ、主イエスの復活を信じる信仰が起こされる備えとなります。心が燃えることなしに、主イエスの復活を信じる信仰は起こされないのです。とはいえ二人は、主イエスの説教を聞いているそのときに、自分の心が燃えていると感じたわけではありません。後から振り返ってそのことに気づきました。み言葉によって心が燃えるというのは、そのように時間をかけて起こることなのです。

復活のキリストが共に歩んでくださる
 初めに申したように、この物語はとても印象深い、心に残る物語です。初代の教会の人たちも、この物語を愛したに違いありません。しかしそれは、よく考えると不思議なことでもあります。なぜならこの物語には、信仰者の模範となるような立派な人物は一人も登場しないからです。この物語に登場するのは、主イエスから「物分かりが悪い」、「心が鈍い」と叱られてしまう弟子たちです。一緒に歩いているのが復活された主イエスだと気づけない弟子たちです。「エルサレムで起こったことを、あなただけは知らないのですか」と、まことに滑稽な質問を主イエスにしてしまう弟子たちです。それなのに初代の教会の人たちはこの物語を愛した。なぜでしょうか。この弟子たちの姿に繰り返し自分たちの姿を見いだし、この弟子たちの歩みに自分たちの歩みを重ねたからです。あの二人の弟子の姿こそ、自分たちの姿だ、と思ったからです。この物語を通して、あの二人のように物分かりが悪く、心が鈍い自分たちと、主イエスが確かに共に歩んでくださっている、という確信を与えられたのです。
 そしてこの二人の弟子の姿は私たちの姿でもあります。私たちも信仰生活の中で、繰り返し、エマオへ向かって歩んでいるような状況に直面します。苦しみや悲しみを抱え、何の望みもない現実の中を歩んでいるように思えるときがあるのです。今、このときも、そのような現実の中を歩んでおられる方がいらっしゃるかもしれません。復活して今も生きて働かれる主イエスを見失い、孤独に、孤立して生きているように思っておられるかもしれません。しかしそのような私たちに、主イエスご自身が近づいて来てくださり、私たちと一緒に歩んでくださっているのです。私たちが自分の苦しみや悲しみのために一杯一杯で、共に歩んでくださっている主イエスに気づけなかったとしても、主イエスは確かに私たちと共に歩んでくださっています。私たちの苦しみや悲しみ、孤独や絶望に寄り添ってくださり、語りかけてくださり、私たちの心の内にある気持ちを聞いてくださり、受けとめてくださるのです。そのようにして主イエスは希望を持てずにいる私たちの歩みに伴ってくださっているのです。そしてその歩みの中で、主イエスは私たちにみ言葉を語ってくださり、それを説き明かしてくださいます。このことが私たちに起こるのは礼拝においてです。礼拝において私たちは聖書の言葉を聞き、その説き明かしである説教を聞いているのす。私たちは説教を聞いただけで主イエスの復活を信じ、復活して今も生きて働かれる主イエスが共に歩んでいてくださると気づけるわけではないでしょう。そのためには今も生きて働かれる主イエスとの出会いが必要です。しかし後から振り返ると、聖書の説き明かしを聞いたとき自分の心が燃えていたことに気づかされ、希望を持てずに孤独に生きていたと思っていたそのときに、主イエスが共に歩んでいてくださったことに気づかされるのです。
 私たちは物分かりが悪く、心の反応が遅く、聖書が告げていることを信じられない者です。すぐに主イエスを見失って、自分だけが苦しんでいると思い、希望を失って、何の望みもないと思ってしまう者です。しかし主イエスは、復活されて今も生きて働かれる主イエスは、その私たちと共に歩んでいてくださり、私たちに語りかけてくださり、み言葉を説き明かしてくださるのです。復活のイエス・キリストは、今、エマオへ向かっているように思っている一人ひとりに、希望が持てず孤独に生きているように思っている一人ひとりに寄り添ってくださり、共に歩んでくださっているのです。

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