説教 「仕える者になれ」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第122編1-9節
新約聖書 ルカによる福音書第22章21-30節
裏切る者の予告
ルカによる福音書22章を読み進めています。前回、主イエスが弟子たちと過越の食事をしたいと切に願われ、その過越の食事の中で聖餐をお定めになったことを読みました。本日はその続きを読み進めますが、本日の聖書箇所を24節からではなく、前回の箇所の終わりの部分を含めて21節からとしました。主イエスのお言葉の途中から始まるので、やや不自然な感じがするかもしれません。しかし24節以下で語られている出来事は、その前に起こったことと切り離せません。そのことに目を向けるために、本日の聖書箇所を21節からとしました。その冒頭で主イエスは、「しかし、見よ」と言われています。この「しかし」という言葉は、場面の転換を示す強い言葉です。いわゆる「最後の晩餐」は続いていますが、この「しかし」は、それまでの聖餐制定の場面から、新しい場面へと移ることを示しています。「しかし、見よ」に続けて、主イエスはこのように言われました。「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」。聖餐をお定めになった後に主イエスがお語りになったのは、主イエスを「裏切る者」の予告でした。しかも主イエスと一緒に食卓を囲んでいる十二人の弟子の中に裏切る者がいる、と予告されたのです。
誰が裏切るのか議論する
私たちはすでに6章12節以下で、主イエスが選ばれた十二人の中に、「後に裏切り者となったイスカリオテのユダ」が含まれていることを知らされていましたし、22章3節で、そのユダにサタンが入ったことも知らされています。ですから最後の晩餐の席で、主イエスがご自分を裏切る者がこの食卓にいると告げられても、特に驚きもせず、「主イエスはユダのことをおっしゃっているな」と思います。しかし十二人の弟子たちは、ユダ本人を除けば、誰が主イエスを裏切るのか知りませんでした。だから弟子たちは、「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始め」ました。「そんなことをしようとしている」とは、主イエスを裏切ろうとしている、ということです。自分たちの中で誰が主イエスを裏切ろうとしているのか、互いに議論を始めたのです。実はマルコ福音書にも同じ場面があります。やはり最後の晩餐の席で、聖餐の制定より前ですが、主イエスは弟子たちに、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(14章18節)と告げられました。この主イエスのお言葉に対して、弟子たちが「心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」と語られています。主イエスに、「あなたたちの中に私を裏切る者がいる」と言われて、弟子たちは心を痛め、「もしかしたら自分のことではないか」「もしかしたら自分が裏切るのではないか」と思いを巡らせたのです。マルコ福音書で弟子たちは主イエスのお言葉を自分のこととして受けとめたのです。それと比べると、先程見たルカ福音書の弟子たちの反応は随分違います。弟子たちが「心を痛めた」とは語られていませんし、「まさかわたしのことでは」と言い始めたとも語られていません。そうではなく、自分たちの中で誰が主イエスを裏切ろうとしているか議論を始めたと語られていました。弟子たちは主イエスのお言葉を自分のこととして受けとめていません。主イエスを裏切る者がいると言われても、自分の心を痛めることも、自分が裏切るかもしれないと思い巡らすこともない。自分のことは放ったらかして、犯人捜しをしようとする、他人を批判しようとする。「自分たちのうち、いったいだれが」と言ってはいても、自分自身が裏切る者かもしれないとは少しも考えず、自分以外の誰かが裏切ると決めつけて、あいつが裏切るのではないか、こいつが裏切るのではないかと議論したのです。そのような弟子たちの姿をルカ福音書は描いているのです。
誰がいちばん偉いか議論する
この議論は、さらに別の方向へと向かっていきます。24節で、「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」と言われています。「議論も起こった」と言われているのを見過ごしてはなりません。誰が主イエスを裏切るのかという議論に続いて、誰がいちばん偉いのかという議論「も」起こったのです。この二つの議論は別々に起こったのではなく続けて起こりました。このことは不思議なことのように思えます。誰が主イエスを裏切るのかという議論が、なぜ誰がいちばん偉いのかという議論へ向かったのだろうかと思うからです。きっと誰が裏切るのか、誰がいちばん悪いのか、あるいは誰がいちばん劣っているのかと言い争っている内に、それなら誰がいちばん偉いのか、誰がいちばん優れているのかと言い争うようになった。議論がすり替わった。そのようなことが起こったのではないでしょうか。弟子たちは、誰が裏切るのかを議論するだけでは飽き足らず、それとは反対の誰がいちばん偉いのかを議論し始めたのです。最後の晩餐の席です。主イエスが聖餐をお定めになった直後です。翌日には主イエスが十字架に架けられて死なれるという時です。そのような時に弟子たちは自分たちの中でいちばん偉いのは誰かと言い争いました。しかもこの言い争いは弟子たちの中で、つまり仲間内で起こりました。これまで一緒に主イエスに従い、寝食を共にしてきた仲間の中で、誰が裏切るのか、誰がいちばん偉いのか、と言い争ったのです。
互いを比べて競い合い、裁き合う
このような弟子たちの姿を見て、私たちはなんて愚かなのだろうと思います。主イエスが十字架で死なれる直前に、なんてことをしているのだとも思います。「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」と言われていましたが、原文を直訳すれば、「自分たちのうちでだれがいちばん偉く見なされるだろうか」となります。つまり弟子たちは、「自分たちの中で誰がいちばん偉く見られているか」を言い争っていたのです。それは、人の評価を気にしている、ということにほかなりません。そうであれば私たちは、弟子たちの姿をただ愚かだと思っているわけにはいかないのではないでしょうか。このような弟子たちの姿は、まさに私たち自身の姿でもあるからです。私たちも人の目を、人にどのように思われるかを、人の評価を気にして生きています。自分とほかの人を比べて、どちらがより良い評価を得ているかを気にして生きています。私たちの社会が、そう生きるよう私たちに強いている面もあるでしょう。この社会で私たちは絶えずほかの人と比べられ、どちらが優れているのかを評価されているのです。社会だけではありません。教会でも同じようなことが起こります。主イエスに従っていた弟子たちの間で、「誰がいちばん偉く見られているか」という言い争いが起こったのですから、主イエスに従う者たちの群れにおいても、つまり教会においても、自分とほかの人を比べて、どちらがより良い評価を得ているかという言い争いが起こっても不思議ではありません。教会においても私たちは、口には出さなくても、お互いを比べてどちらが人から良い評価を得ているか、どちらが偉いか、どちらが優れているかを競ってしまうことがあるのです。このことと表裏一体で起こることが、ほかの人を悪く言うことです。あの人はキリスト者にふさわしくない、と悪口を言ったりしてしまいます。正しい批判をしているようでも、実は自分のことを棚に上げて、他人を批判しているだけです。弟子たちのように自分の心を痛めず、自分を省みることもなく、「裏切る者」を捜しているだけなのです。「誰が裏切るのか」「誰がいちばん偉いのか」と言い争っている弟子たちと同じように、私たちもお互いを比べて優劣を競い合い、裁き合ってしまうのです。
主イエスの十字架の死と私たちの日常
そうやって私たちが悪口を言ったり、陰口を叩いたりして、自分とほかの人を比べて優劣を競って裁き合っているとき、私たちは主イエス・キリストの十字架を見向きもしません。主イエスが十字架で死なれる直前に、誰が裏切るのか、誰がいちばん偉いのか、と言い争っていた弟子たちの愚かさは、私たちの愚かさでもあります。私たちは主イエス・キリストの十字架によって救われました。そのことを信じて生きています。しかし私たちは、その主イエスの十字架が私たちの日常と関わりがないかのように振る舞っていないでしょうか。だから社会でも教会でも、自分とほかの人を比べて優劣を競って裁き合っている。弟子たちはこのときだけ言い争ったのではないでしょう。彼らは比べ合うのが好きだった。私たちもそうです。比べ合うのが、裁き合うのが好きです。しかしそのとき主イエスの十字架は見失われています。十字架の死を間近に控えた最後の晩餐の席で、いつものように弟子たちが言い争ったことは、弟子たちの日常が、そして私たちの日常が、主イエスの十字架の死と無関係ではないことを示しています。主イエスの十字架の死は私たちの日常に関わっている、突入しているのです。それなのに私たちは主イエスの十字架の死などなかったかのように振る舞い、自分とほかの人を比べて優劣を競って裁き合っているのです。
仕える者になれ
最後の晩餐の席で、まもなく十字架に架けられて死ななくてはならないという時に、誰がいちばん偉いのか言い争っている弟子たちを見て、主イエスは深く悲しまれたに違いありません。自分がまことの小羊として十字架で死なれることによって、罪の支配から解放され、救われることを伝えているのに、なおも弟子たちは互いに比べ合い、裁き合っている。主イエスは途方に暮れたかもしれません。それでも主イエスは弟子たちにこのように言われます。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」。異邦人の間では、人々から見ていちばん偉いのは、「守護者」と呼ばれるのは、支配する者、権力を振るう者です。しかし主イエスは弟子たちに、そして私たちに「あなたがたはそれではいけない」と言われます。そうではなく、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われるのです。ここで主イエスは、「偉い人」になることや「上に立つ人」になることを否定しているのではありません。主イエスは誰がいちばん偉いのか言い争っている弟子たちに深い悲しみを覚えておられたに違いありませんが、しかし同時に主イエスはこの弟子たちが、将来、教会の指導者として立てられることもご存知でした。本日の箇所においても、弟子たちは「使徒たち」と呼ばれています。「使徒」とは「遣わされる者」という意味です。主イエスの十字架と復活と昇天の後に、聖霊を受けて遣わされた使徒たちは福音を宣べ伝え、教会の指導者となります。ですから主イエスはここで将来、教会の指導者となる弟子たちに向かって、「上に立つ人」となる弟子たちに向かって、異邦人とはまったく違った仕方で、世の中とはまったく違った仕方で、「上に立つ人」となるよう、指導者となるよう命じているのです。それが、「いちばん若い者のように」なり、「仕える者のように」なる、ということです。「若い者のようになる」というのは、若者のように振る舞えということではありません。当時、下働きをする若い者たちがいたようですが、そのような若い者たちと同じように、下働きをする者となりなさい、ということです。そして下働きをする者となるとは、「仕える者」となるということです。主イエスは、弟子たちがほかの人たちを支配したり、ほかの人たちに権力を振るったりすることによってではなく、ほかの人たちの下働きをすることによって、ほかの人たちに仕えることによって、教会の指導者となるよう、「上に立つ人」となるよう命じられているのです。
給仕する者
27節では、「仕える者」となることが、「食事の席に着く人」ではなく、「給仕する者」となることだと語られています。「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか、食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」。「食事の席に着く人」と「給仕する者」では、当然、「食事の席に着く人」が偉いわけです。給仕する人は食事の席を整え、料理を準備し、適切なタイミングで料理を運びます。心を配って準備し、もてなすのです。当時の異邦人の社会では、いえ弟子たちの常識においても、そして私たちの常識においても、偉くなるとは、「給仕する者」になることではなく、食事の席に着いて給仕される者になることです。椅子にゆったりと腰掛けて、給仕する者の心の込もったサービスを受けるのが偉くなることだと思っています。しかし主イエスは、「それではいけない」と言われます。偉い人になるとは、「食事の席に着く人」になるのではなく、「給仕する者」になることだと言われるのです。食事の席に着いてふんぞり返っているのが偉い人なのではない、指導者なのではない、むしろ心を配り、心を砕いて、ほかの人の食事のために給仕する者になることが、偉い人になること、指導者になることだ、と言われたのです。ちなみに原文では、「仕える者」と「給仕する者」は同じ言葉です。食事の席で給仕する者の姿こそ、仕える者の姿なのです。
主イエスが私たちに仕えてくださる
しかし主イエスがそのように言われたのは、そうしたほうが人々の上に立ち、人々を導くのに都合が良いということなのでしょうか。人々から好感を得るためには、強権的な指導者よりも、へりくだった指導者のほうが良いということなのでしょうか。そうではありません。そうであるならば、ほかの人の下働きをすることも、ほかの人に仕えることも、上に立つための、指導者となるための手段に過ぎません。それは、乱暴な言葉で言えば、仕える者のふりをしているに過ぎないのです。ですから「仕える者となれ」という主イエスのお言葉は、道徳や倫理ではないし、指導者となるための方法や心得でもありません。主イエスは、「しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と言われました。主イエスご自身が弟子たちに給仕してくださいました。このことは、まず、主イエスが弟子たちと過越の食事をしたいと切に願われ、その準備をしてくださり、過越の食事のもてなしをしてくださり、そしてその中で聖餐をお定めくださったことに見ることができます。しかし主イエスが弟子たちに給仕してくださり、仕えてくださったことがはっきりと示されるのは、聖餐において記念される主イエスの十字架の死においてです。主イエスは十字架で死なれてまで、弟子たちと私たちに仕えてくださったのです。私たちを支配するのでも、私たちに対して力を振るうのでもない。むしろ私たちのために力を手放し、最も弱くなり、そして死んでくださった。そこまでして私たちに仕えてくださることによって、主イエスは私たちを救ってくださったのです。
喜んで仕える者として生きる
だから私たちは仕える者となるのです。ほかの人の下働きを進んで行い、喜んでほかの人に仕えていくのです。主イエスが十字架で死なれてまで私たちに仕えてくださったからです。そのことによって救われたからです。そうです、私たちが仕える者として生きるのは、主イエスの十字架の死が私たちの日常に突入しているからなのです。主イエスの十字架の死を見つめるとき、私たちは仕える者とされる、仕える者として生きないわけにはいかなくなります。主イエスが私たちに仕えてくださったことによって、それも十字架で死なれてまで、とことん私たちに仕えてくださったことによって、今、私たちが救われ生かされている。そのことに気づかされるとき、私たちはその救いに感謝して、喜んで仕える者として生きていくのです。そのように生きる中で私たちは、自分とほかの人を比べて、どちらが良い評価を得ているかを気にして生きることから自由にされていきます。自分とほかの人を比べて優劣を競って裁き合い、悪口を言ったり、陰口を叩いたりすることから解放されていくのです。主イエスの十字架が私たちの生活を支配するなら、私たちは人の目を気にするのではなく、主イエスの十字架を見つめます。自分とほかの人を比べるのではなく、その人に仕えるようになります。どちらが悪いのか、どちらが偉いのか、どちらが優れているのかに振り回されることなく、その人に仕えていくようになるのです。
与えられ続ける約束の言葉
28~30節で主イエスはこのように言われます。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」。ここでは、主イエスが色々な試練に遭われたとき、弟子たちが絶えず主イエスと一緒に踏みとどまってくれたから、将来、世の終わりに、弟子たちは主イエスから神の国の支配を委ねられ、主イエスと共に神の国を支配し、また主イエスと共に食卓を囲んで飲み食いするようになる、という約束の言葉が語られています。しかしよく考えれば、この後弟子たちは、主イエスの十字架の死という最大の試練に直面して、主イエスと一緒に踏みとどまることができず、皆、逃げ出してしまいます。それではこの主イエスの約束の言葉は、実現しないのでしょうか。そうではないでしょう。主イエスの十字架の死を前にして逃げ出した弟子たちは、しかし主イエスの十字架と復活の後に、使徒として福音を宣べ伝え、教会の指導者となっていきます。その使徒たちに、そして使徒たちの働きに連なっている私たちに、この主イエスの約束の言葉は与えられ続けています。弱さと欠けだらけの罪人である弟子たちを、そして私たちを、主イエスは十字架の死と復活によって救ってくださり、新しく生かしてくださり、遣わしてくださるのです。主イエスは、弱さと欠けだらけの罪人である私たちに、主イエスを見捨ててしまう私たちに、十字架の死と復活を通して、なお世の終わりの救いの完成の約束を与えてくださっているのです。
世の終わりに先立って
主イエスの約束の言葉が完全に実現するのは世の終わりです。しかしそれはすでにこの地上において実現し始めています。「王座に座ってイスラエルの十二部族を治める」とは、世の終わりに先立って、この地上において、新しいイスラエルである教会を治めることでもあります。また、「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる」とは、世の終わりに先立って、すでに主イエスが地上の教会に、私たちに支配権を委ねてくださっていることでもあるのです。しかし私たちがそのように治めたり、支配したりする仕方は、この世とはまったく異なります。まさに下働きをすることによって、仕えることによって、私たちは治め、支配するのです。
仕える者として遣わされる
私たちは、世の終わりの救いの完成に至るまで、主イエスが私たちに仕えてくださったように、仕える者として生きていきます。主イエスの十字架の死が私たちの日常に突入しています。だから私たちは人の目を気にするのではなく、主イエスの十字架を見つめます。だから私たちは自分と隣人を比べるのではなく隣人に仕えていきます。隣人の重荷を共に担い、隣人のために執り成し祈っていくことによって、隣人に仕えていくのです。
「仕える者になれ」。私たちのために十字架で死なれた主イエスが、私たちにとことん仕えてくださった主イエスが、私たちに命じておられます。今も生きて働かれる主イエスが、私たちを「仕える者」として、新しい週の歩みへと遣わされるのです。