夕礼拝

解放の時が近づく

2024年10月6日
説教題「解放の時が近づく」 副牧師 川嶋章弘

ダニエル書 第7章11~14節
ルカによる福音書 第21章20~28節

世の終わりとどのように向き合うか
 本日はルカによる福音書21章20~28節を読み進めていきます。前回お話ししたように、21章5節から21章の終わりまで、主イエスは「世の終わり」についてお語りになっています。「世の終わり」と聞いて、私たちはどのように思うでしょうか。一方で「世の終わり」は荒唐無稽な話に思えるかもしれません。小説や映画の中では、宇宙規模の戦争や大事件によってもたらされた世界滅亡の危機に、人類が力を合わせて向かい合っていく、というようなことが描かれます。しかし私たちはそれを見て感動することはあっても、「世の終わり」を自分のこととして真剣に考えることはないでしょう。「世の終わり」は、せいぜい小説や映画の中での話であって、私たちの日々の生活には関係がないように思えるのです。しかしその一方で私たちは「世の終わり」について漠然とした不安を抱いています。特に戦争や災害や感染症などに直面するとき、私たちは「世の終わり」を意識せざるを得ません。まさにこの数年私たちは、新型コロナ・ウイルスに直面し、ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスの戦争に直面し、地震や台風などの災害に直面して、「世の終わり」が近いのではないかという漠然とした不安や恐れを抱いたのではないでしょうか。しかしそのどちらもが、「世の終わり」に対する向き合い方として間違っています。「世の終わり」を自分とは関係ないと思うことも、「世の終わり」に対して不安や恐れを感じるのも、どちらも間違っているのです。21章5節以下で主イエスは、私たちがどのように「世の終わり」と向き合っていくべきか、そして「世の終わり」が私たちの生活にどのように関わっているかを示してくださっています。私たちはついつい忘れてしまいがちですが、今主イエスは、地上の生涯の最後の一週間を歩んでおられます。主イエスはエルサレムに入られた後、神殿で人々に教えてこられましたが、その最後に話されたのが「世の終わり」についてです。地上の生涯の終わりに、数日後には十字架に架けられるというときに、主イエスがお語りになった「世の終わり」について、私たちは真剣に聴いていきたいのです。

エルサレムの終わりと世の終わり
 主イエスが「世の終わり」について話し始めたきっかけは、5節以下で語られているように、ある人たちが壮大なエルサレム神殿に見とれていたことにありました。その人たちに主イエスは「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われました。あなたがたはこのエルサレム神殿に見とれているけれど、この神殿が完全に崩れ去るときが来る、と言われたのです。それに対して人々は、そのことはいつ起こるのか、そのことが起こるときにはどんな徴があるのか、と主イエスに尋ねました。この問いに対する主イエスのお答えを前回読み進めたのですが、そこで主イエスは、単に「エルサレム神殿の終わり」について語られたのではなく、それと重ね合わせるようにして「世の終わり」について、いわゆる「終末」について語られたのです。戦争や災害や感染症は起こるけれど、それで世の終わりが来るわけではないから、惑わされることなく、おびえることなく歩みなさい、と言われ、またキリスト者は、「世の終わり」が来るまで苦しみを受けるけれど、その状況のもとに留まって、そこから逃げることなく忍耐して歩みなさい、とも言われたのです。
 それに続く本日の箇所の20節から24節で、主イエスは、再び「エルサレム神殿の終わり」について、より正確に言えば、「エルサレムの終わり」について語っています。ですから21章5節からの流れを追うならば、まず「エルサレム神殿の終わり」が見つめられ、次にそれに重ね合わせるようにして「世の終わり」が見つめられ、そして再び「エルサレムの終わり」へと視線が移っています。さらに本日の箇所の後半25節以下では、再び「世の終わり」へと視線が移ります。21章5節以下では「エルサレムの終わり」と「世の終わり」が重ね合わされて、あるいは織り成されて語られているのです。

エルサレムの滅亡
 本日の箇所で「エルサレムの終わり」に視線が移っていることは、冒頭20節で、「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」と言われていることから分かります。前回もお話ししたように、主イエスが言われていることは、このときから40年後の紀元70年に現実のものとなります。ユダヤ人がローマ帝国の圧政に耐えかねて反乱を起こしますが、ローマ軍はエルサレムを包囲し、滅ぼしたのです。その後も、反乱軍の一部は難攻不落と言われた要塞に立てこもって抵抗を続けましたが、圧倒的な力を持ったローマ軍によってこの要塞も陥落しました。立てこもっていた1000人ほどのユダヤ人は、2人の女性と5人の子どもを残して全員自ら命を絶った、と伝えられています。このようにエルサレムが軍隊に囲まれてから程なくして、エルサレムは滅亡するのであり、主イエスが言われた通り、エルサレムが軍隊に囲まれたら、その滅亡が近づいているのです。

滅亡のときに直面する大きな苦しみ
 主イエスは23節、24節で、エルサレムが滅亡するとき、どのようなことが起こるのかをこのように語っています。「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」。戦争によって最も苦しむのは弱い立場にいる者たちです。子どもたち、そして身重の女性や、乳飲み子、幼子を持つ女性たちが誰よりも苦しむのです。それは昔も今も変わりません。今私たちは、イスラエルの攻撃によってガザ地区の子どもたちや、身重の女性や、乳飲み子を持つ女性たちが大きな苦しみの中にあることを目の当たりにしているのです。「不幸だ」と訳されていますが、この言葉は悲しみや哀れみを表す感嘆詞で、「ああ」とも訳せる言葉です。つまり主イエスは、エルサレムが滅亡するとき「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」、という事実を指摘しているのではなく、この女性たちの苦しみや悲しみに寄り添われて、「ああ」と嘆いておられるのです。「この地には大きな苦しみがあり」と言われているように、エルサレムが滅ぶとき、嘆き、悲しまずにはいられない大きな苦しみに人々は直面するのです。24節で言われていることも、エルサレム滅亡によって現実のものとなります。ローマ軍との戦いによって、多くの人々が「剣の刃に倒れ」て命を失い、あるいは自ら命を絶ち、あるいは捕虜となってエルサレムから諸国へ連れて行かれるのです。ローマ軍との戦いとエルサレム滅亡を経て、ユダヤ人はエルサレムから追放され、ユダヤという地名さえ剥奪され、この地は「パレスチナ(ペリシテ人の地)」と呼ばれるようになるのです。

神の怒りと裁き
 しかし主イエスは、この出来事が神様と関係なく起こるのではないことも語っています。22節では「書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである」と言われています。「書かれていること」とは旧約聖書に書かれていること、という意味です。つまりエルサレム滅亡の出来事において旧約聖書で告げられている預言が実現した、と言われているのです。「報復の日」と訳されていますが、「報復」と言われると、「やられたらやり返す」という印象を持つのではないでしょうか。しかし「報復」と訳された言葉は、「裁き」と訳しても良い言葉です。また23節の終わりでは、「この民には神の怒りが下るからである」とも言われています。エルサレムの滅亡、エルサレムの終わりにおいて、旧約聖書で告げられている預言が実現し、神様の怒りが下り、神様の裁きが行われる、と言われているのです。要するに神様の怒りと裁きによってエルサレムの終わりはもたらされるのです。私たちはこのような神様の怒りや裁きに対して反発を覚えます。なぜ神様はこのようなひどいことをなさるのか、と思うのです。しかし神様の裁きを認めようとしないとき、私たちは神様を自分の思い通りに動かそうとしています。それでは本当に神様を信じて生きているとは言えません。神様を信じて生きるとは、自分の思い通りにしてくれる神様を信じるのではなく、私たちを裁かれもする神様を信じて生きることだからです。この神様の裁きによるエルサレムの終わりには、やはり「世の終わり」が重ね合わされている、と言えるでしょう。神様が最終的な裁きを行われるのは、「エルサレムの終わり」ではなく「世の終わり」です。その世の終わりにおける神様の裁きが、エルサレムの終わりにおける神様の裁きに重ね合わされているのです。そして続く25節以下では、「世の終わり」について語られていくのです。

逃げて、生きよ
 しかし25節以下に進む前に、21節の主イエスのお言葉に目を向けたいと思います。このように言われています。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」。主イエスは「逃げなさい」、「立ち退きなさい」、「入ってはならない」と畳み掛けて言われています。要するに「都から逃げよ」と言われているのです。しかしこの主イエスのお言葉は、当時の常識とはまったく異なるものでした。当時、エルサレムのような都市は城壁に囲まれていて、最も安全な場所であったからです。敵が攻めてくれば、人々は城壁に囲まれた都市の中に逃げて、そこで抗戦したのです。しかもユダヤ人にとってエルサレムは単なる都市ではありません。そこには、彼らにとって信仰の中心であり、拠り所であったエルサレム神殿がありました。その神殿を守るためにも、彼らはエルサレムに留まり、エルサレムを防衛しなくてはならなかったのです。彼らの常識からすれば、ユダヤにいる人々は山に逃げるのではなく都に逃げるべきだし、都の中にいる人々は、都から立ち退くではなく都に留まるべきだし、田舎にいる人々は、都に入ってはならないのではなく都に入るべきであったのです。しかし主イエスは、それらの常識とは反対のことを言われました。そのことによって主イエスは、エルサレムの滅亡も神殿の崩壊も世の終わりではないことを示され、エルサレムと神殿に心を奪われ、執着するのをやめて、逃げて生きのびるよう示されたのです。ユダヤ人は、エルサレムの滅亡と神殿の崩壊が「世の終わり」であるかのように思っていました。しかし主イエスは、「エルサレムの滅亡は世の終わりではないから、逃げて、生きよ」と、「エルサレムが滅亡した後も世界は続くのだから、そこで生きよ」と言われたのです。

執着から逃れて生きる
 私たちにも、私たちにとっての「エルサレム神殿」があるのではないでしょうか。一人ひとりが、あるいは私たちの教会が、「守らなくてはいけない」、と思っているものがあり、少々大げさに言えば、それを失ったら世界が終わってしまうかのように思えるものがあるのです。しかしそれが本当に守るべきものなのか、失ってはならないものなのかをよく吟味しなくてはなりません。ただ自分たちが手放したくないだけ、執着しているだけ、ということも多々あるからです。それは、別の言い方をすれば、変化を拒むということです。世の中の変化に合わせることが必ずしも正しいわけではないとしても、それでも世の中が変化すれば、私たち一人ひとりも、また教会も変化していく必要があります。しかし自分たちが手放したくないものに執着していると、そればかりに目を向けていると、私たちは必要な変化をも拒んでしまうことになるのです。当時も冷静に考えれば、圧倒的なローマの軍隊からエルサレムを守ることはできない、と判断できたのではないでしょうか。しかし冷静な判断よりも、自分たちの執着を優先することで多くの命を失ったのです。私たちは自分たちの執着を優先して、より多くのもの、より大切なものを失ってはなりません。自分たちの執着から逃れて、手放したくないものばかりに目を向けることから逃れて、変化の中を生きのびていかなくてはならないのです。変化を拒むのではなく変化していくことで生きのびていくのです。私たちが「守らなくてはいけない」と思うとき、それを失ったら世界が終わってしまうかのように思えるとき、「それで、世の終わりが来るのではないから、逃げて、生きのびなさい」という主イエスのお言葉に耳を傾けていくのです。「世の終わり」と正しく向き合って生きるとは、世の終わりに至るまで、私たちが自分たちの執着から逃れて、変化を拒むことから逃れて生きていくことでもあるのです。

留まるべきか逃げるべきか
 その生き方は、一見、前回見てきた、苦しみを受ける状況のもとに留まり、そこから逃げることなく、忍耐して歩んでいく生き方とは矛盾するように思えます。しかしそうではないでしょう。私たちは、主イエスを信じる信仰を大切な人に理解してもらえない苦しみに直面したとしても、その状況のもとに留まり、そこから逃げることなく忍耐して生きていきます。そのことによって私たちは主イエスを証ししていくことになるのです。しかしこのことと、自分が手放したくないものに執着して、そこから逃れようとしないことは異なります。私たちは逃げることなく忍耐して留まるべき状況なのか、それとも逃げるべき状況なのかを判断しなくてはならないのです。そのような判断は、私たちが本当に目を向けるべきものに目を向けることによって与えられていきます。主イエスは25節以下で、この本当に目を向けるべきことについて語っているのです。

不安と恐れに駆られる
 すでにお話ししたように、25節以下では「世の終わり」について語られていますが、そこでは「世の終わり」に対する二つの向き合い方が語られています。25節の後半からこのように言われています。「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」。つまり「世の終わり」に対して不安と恐れに駆られる者たちがいる、と言われています。「世の終わり」に対して不安と恐れに駆られるという向き合い方があるのです。25節前半に「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので」とあり、また26節の終わりにも「天体が揺り動かされるからである」とあります。ここで描かれていることはなかなか思い浮かべにくいことですし、荒唐無稽なことにも思えますが、しかし見つめられていることは天変地異である、と言えるでしょう。天変地異であれ、これまで見てきた戦争や災害や疫病であれ、決して荒唐無稽なものではなく、むしろ今私たちが直面していることです。そのような現実に直面して、不安と恐れに駆られる人たちがいる、と言われているのです。不安と恐れに駆られるのは、「なすすべを知ら」ないからであり、「この世界に何が起こるのか」を知らないからです。天変地異であれ、戦争や災害や疫病であれ、それで世の終わりが来るわけではないことを知らないからであり、そして世の終わりが来たときに何が起こるのかを知らないから、不安に陥り、おびえ、恐ろしさのあまり気を失うしかないのです。

キリストの再臨によって世の終わりが来る
 しかしそれとは違う、「世の終わり」に対する向き合い方があります。28節で「身を起こして頭を上げなさい」と言われているように、「世の終わり」に対して、身を起こして頭を上げて歩んでいくという向き合い方です。そのように「世の終わり」に対して向き合えるのは、天変地異によってでも、あるいは戦争や災害や疫病によってでもなく、主イエス・キリストの再臨によってこそ世の終わりが来る、と知っているからです。27節でこのように言われています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。「人の子」とは、主イエスがご自分のことを指して言われた呼び名です。つまり世の終わりが来るとき、主イエスが「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」と言われているのです。それは、十字架で死なれ、復活され、天に昇られた主イエス・キリストが再びこの世に来てくださる、ということにほかなりません。ルカ福音書の続きである使徒言行録では、主イエスが天に上げられるときの様子を、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と語っています。天に上げられ「雲」に覆われて見えなくなった主イエスが、世の終わりに、誰の目にも見える仕方で、「雲」に乗って再び来てくださるのです。

解放の時が近づく
 そしてこのキリストの再臨によって世の終わりに実現するのが、救いの完成である、と知っているからこそ、私たちは「世の終わり」に対して、身を起こして頭を上げて歩んでいけます。主イエス・キリストが十字架で死なれ、復活されることによって、私たちの救いはすでに実現しました。私たちはすでに罪と死の力による支配から解放されて、神様の恵みのご支配のもとに入れられているのです。しかしこの神様の恵みのご支配は私たちの目には見えません。むしろ私たちの目に見えるのは、神様の恵みのご支配とはかけ離れているように思える、まことに悲惨な現実です。しかし今は目に見えない神様のご支配が、目に見えるようになるときが来るのです。それが世の終わりです。キリストが再び来てくださるとき、救いが完成して、神様の恵みのご支配が誰の目にも見えるようになるのです。先ほど、「エルサレムの終わり」についてお話ししたとき、エルサレムの終わりにおける神様の裁きに、世の終わりにおける神様の裁きが重ね合わされている、と申しました。確かに世の終わりに、神様が最終的な裁きを行われることによって救いは完成します。しかし私たちにとって、その裁きは神様の怒りが私たちに下ることではありません。神様の怒りは、独り子イエス・キリストが私たちの代わりに十字架上ですでに受けてくださったからです。その十字架の死によって、すでに救われている私たちは、その救いが完成する世の終わりを待ち望んで生きるのです。だから28節の終わりで主イエスは、「あなたがたの解放の時が近いからだ」と言われます。世の終わりは、私たちにとって「解放の時」なのです。「解放の時」と訳されていますが、原文には「時」という言葉はありません。聖書協会共同訳では、「あなたがたの救いが近づいているからだ」と訳されています。世の終わりに私たちの解放が、私たちの救いが完成するのです。私たちが本当に目を向けるべきなのは、世の終わりに主イエス・キリストが再び来てくださり、私たちの解放と救いを完成してくださる、ということにほかならないなのです。

身を起こして頭を上げて生きる
 すでに救いにあずかって生きていても、私たちは日々、不条理な現実に直面し、多くの苦しみや悲しみを味わいながら歩んでいます。戦争や災害や疫病、天変地異に直面して、不安と恐れに駆られることがあり、キリスト者のゆえに苦しみを受けることもあります。そのような苦しみや悲しみ、不安と恐れの中で、私たちは背中を丸め、顔を上げることができずにうなだれて歩んでしまいます。あるいは自分の手放したくないものに執着して、それを失うことへの不安と恐れにとらわれ、縮こまって歩んでしまいます。しかしそのような私たちが、世の終わりに私たちの解放と救いが完成することに目を向けるとき、私たちは身を起こして頭を上げて生きることが、丸めていた背中をピンと伸ばし、伏せていた顔を上げ、縮こまるのではなく自由に生きることができるようになるのです。世の終わりに私たちはあらゆる苦しみや悲しみ、不安や恐れ、そして束縛から解放されるからです。この解放の時が近づいていることに目を向け、そのことを信じて生きる私たちに、なお苦しみや悲しみを味わい、不安や恐れに駆られるときも、世の終わりに至るまで、身を起こして頭を上げて歩んでいく人生が与えられていくのです。

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