夕礼拝

主イエスが帰って来るまでに

「主イエスが帰って来るまでに」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 イザヤ書第52章7-10節
新約聖書 ルカによる福音書第19章11-27節

これらのこと
 本日の箇所の冒頭に「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された」とあります。人々が聞き入っていた「これらのこと」とは、先週お話しした、主イエスがエリコの町の徴税人ザアカイに出会ってくださったときに、主イエスとザアカイとの間でなされたやり取りのことでしょう。主イエスはエリコの町に入り、町を通っておられましたが、「いちじく桑の木」のところで上を見上げ、木の上にいたザアカイを見つめてくださり、「ザアカイ」とその名を呼んで、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と語りかけてくださいました。その語りかけに応えて、ザアカイは急いで降りて来て、喜んで主イエスを迎えました。そこで主イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われ、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われたのです。

神の国はすぐにも現れるものと思っていた
 しかしこのことによって人々の間に誤解が生じた、あるいはもともと人々が抱いていた誤った期待に拍車がかかってしまった、ということが起こったのだと思います。その誤解や誤った期待を取り除くために、主イエスは本日の箇所で、いわゆる「ムナのたとえ」を語られたのです。本日の箇所の後、19章28節以下で、主イエスのエルサレム入場が語られていることも見逃してはなりません。つまりこの譬えは、エルサレム入場の直前に語られたのです。エルサレムから直線距離で20キロメートルほどのところにあるエリコの町で、主イエスがお語りになったことを聞いて、人々はどんな誤解をし、あるいはどんな誤った期待を膨らませたのでしょうか。11節の後半にこのようにあります。「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」。人々は主イエスがエルサレムから程近いエリコでザアカイに語られたことを聞いて、これから主イエスがエルサレムに入場すると、神の国、神のご支配がただちに現れると思っていたのです。そのように人々が思っていた背景には、紀元前6世紀にイスラエル王国(南王国ユダ)が滅んで以降、ユダヤ人の間でいつの日か救い主がエルサレムに入場し、自分たちの王として即位し、神のご支配を実現してくださる、という期待が徐々に生まれてきたことがあります。今、自分たちはローマ帝国の支配のもとにある。しかし主イエスがエルサレムに入場して、自分たちの救い主として、王として、ローマの支配を打ち破って、神のご支配を実現してくださるに違いないと思っていたのです。そのような誤解と誤った期待が、主イエスの周りにいる人たちの間に渦巻いていたのではないでしょうか。主イエスはザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。しかしこの主イエスのお言葉は、エルサレムにおいても、主イエスによってローマに対する勝利という救いがまもなく実現するという誤った期待を、人々に与えたのかもしれません。

譬え話の設定
 このような誤解と誤った期待を取り除くために、主イエスは12節から長い譬えを語られました。この譬え話はこのように始まっています。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」。私たちにとってはあまり馴染みのない話ですが、当時の人にとってはそうではありませんでした。当時ローマ帝国はユダヤを含む広大な地域を支配していました。帝国の領土とはなっていなくても、実質的にはローマの支配下にあった国もありました。そのような国で王位につくためには、ローマ皇帝から認めてもらう必要がありました。そのためにローマへ旅立つということがあったのです。主イエスはこの譬え話の設定として、当時の人たちのよく分かる話を用いているのです。

遠い国への旅
 もちろんこの譬え話が本当に見つめているのは、ローマ帝国の支配のもとにあったどこかの国の、ある立派な家柄の人が、ローマ皇帝から王の位を受けることではありません。ここで主イエスはご自身のことを語られているのです。人々は、主イエスがエルサレムに入場すると、すぐにでも自分たちの王として、神のご支配を実現してくださると思っていました。しかし主イエスは、ご自分が「王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つ」、と言っておられるのです。それは、主イエスがエルサレムに入場しても、ただちに王となったり、神のご支配が現れたりすることはない、ということです。では、主イエスが「王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つ」とは、何を見つめているのでしょうか。主イエスはエルサレムに入られ、その週の金曜日に十字架に架けられて死なれました。そして三日目に神様によって復活させられました。ルカ福音書の続きである使徒言行録が語っているように、主イエスはそれから40日に亘って弟子たちに現れた後、天に昇られました。そして使徒信条が告白しているように、天において、「神の右に座しておられる」のです。それは、主イエス・キリストが神様から全権を委ねられて、王として、この世界をご支配くださっている、ということです。しかし主イエスは、まだこの地上に、私たちのもとに帰ってこられたわけではありません。遠い国へ旅立ったままなのです。つまり「遠い国への旅」とは、主イエスが十字架で死なれ、復活し、天に昇られ、今も天におられ続けていることを見つめているのです。いや、そんなことはないはずだ。主イエスの十字架の死と復活、その昇天を通して、すでに神のご支配はこの地上に実現したはずだ、と思われるかもしれません。確かにそれは、その通りです。けれどもこのことは、なお私たちの目に見える現実とはなっていません。神の国、神のご支配がすでにこの地上に実現していることも、天におられる主イエスが、王として、この世界と私たちを恵みによって支配し、導いてくださっていることも、目に見えることではなく、信じることなのです。目には見えなくとも、キリストの十字架と復活、その昇天によって、神のご支配がすでにこの地上に実現していることを信じて生きるのが、私たち信仰者の姿なのです。

主イエスは帰って来てくださる
 そしてそのように信じて生きる信仰者には、約束が与えられています。使徒言行録において、主イエスが天に上げられたとき、弟子たちが天を見上げていると、主の使いがこのように言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(1章11節)。天に昇られたイエスが、また来てくださる、という約束が告げられています。王の位を受けるために遠い国へ旅立たれた主イエスが、必ず帰って来てくださる。十字架で死なれ、復活し、天に昇られ、今も天におられる主イエスが、この地上に、私たちのところに必ず帰って来てくださるという約束が、私たちに与えられているのです。15節に「さて、彼は王の位を受けて帰って来ると」とありますが、これは、今も天におられる主イエスが、世の終わりに王として私たちのところに再び来てくださるときを意味しています。そして主イエスが再び来てくださり、私たちのところに帰って来てくださるとき、神の国と神のご支配は、誰の目にも明らかになるのです。誰もがまことの王となられた主イエスとお会いすることができるのです。私たちは、目には見えなくとも、この地上にすでに神のご支配が実現していることを信じ、また世の終わりに主イエスが再び来てくださり、目に見える形で神のご支配を完成してくださることを信じ、主イエスが帰って来てくださるのを待ち望みつつ生きています。それが私たち信仰者の地上における歩みなのです。

主イエスが帰ってくるまでに
 さて、主イエスの譬えでは、「王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つ」前に、「ある立派な家柄の人」が、「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」と語られています。そして15節以下では、この人が王の位を受けて帰って来たときに、僕たちがどれだけ利益を上げたかが問われているのです。つまり今、天におられる主イエスが帰ってくるまでに、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言って、主イエスが預けてくださったお金を、主イエスの僕である私たちがどのように用いるかが問われているのです。この譬えとよく似た譬えが、マタイによる福音書24章14節以下で語られている、いわゆる「タラントンのたとえ」です。この譬えでも、主人が旅行に出かけるときに僕たちに自分の財産を預け、その主人が帰ってきたときに、どれだけ僕たちがもうけたかが問われています。どちらも世の終わりに主イエスが再び来られるときまで、私たち信仰者が主イエスの僕として、主イエスから預かったものをどのように用いるかを見つめているのです。

ムナとタラントン
 しかし「ムナのたとえ」と「タラントンのたとえ」では、違いもあります。そもそも「ムナ」と「タラントン」では金額が違います。聖書の後ろにある付録の「度量衡および通貨」を見ると、「ムナ」は、「ギリシアの銀貨で、1ムナは100ドラクメに相当」とあります。1ドラクメは1デナリオンと等しく、1デナリオンは1日分の賃金に当たるので、1ムナは100ドラクメ、すなわち100デナリオンで、100日分の賃金に当たります。それに対して「タラントン」は、「6000ドラクメに相当」しますから、1タラントンは60ムナであり、6000日分の賃金に当たります。つまり、「ムナのたとえ」のほうが「タラントンのたとえ」よりも、僕が主人から預かる金額がはるかに小さいのです。といっても1ムナは、100日分の賃金に当たるので、決してはした金ではありません。それでも1タラントンの六十分の一の金額に過ぎないのも確かです。

お金の預け方の違い
 さらに「ムナのたとえ」と「タラントンのたとえ」ではもう一つ大きな違いがあります。それは、主人が僕に預けるお金の預け方です。「タラントンのたとえ」では、「一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」というように、三人の僕にそれぞれ違った金額のお金を預けています。それに対して「ムナのたとえ」では、十人の僕に10ムナのお金を渡していますから、一人1ムナの同じ金額のお金を預けているのです。この違いが、「ムナのたとえ」を理解する鍵となると思います。つまり1ムナが何を意味しているのか、1ムナで商売するとは何を意味しているのかが、ポイントとなるのです。「タラントンのたとえ」では、神様がそれぞれの僕に、つまり私たち一人ひとりに与えてくださっている賜物が見つめられていました。英語のタレントの語源はこのタラントンであり、私たちにはそれぞれ異なるタレント、才能、能力、賜物が与えられています。三人の僕にそれぞれ違った金額のお金を預けたことは、このことを示しているのです。十字架で死なれ、復活し、天に昇られ、今、天におられる主イエスが、再びこの地上に帰って来るときまで、私たちはそれぞれに与えられた異なる賜物を用いて、神様に仕えて生きていくことが求められているのです。どれだけのことを成し遂げたかが重要なのではありません。神様から与えられた賜物をどれだけ活かして、神様に仕えて生きたかが重要なのです。「タラントンのたとえ」は、このことを私たちに教えているのです。

1ムナとは神の言葉
 それでは1ムナは何を意味しているのでしょうか。主イエスの僕である私たちに等しく与えられているものとは、何でしょうか。タレント、賜物ではないでしょう。私たちは同じ賜物を等しく与えられているのではなく、それぞれに異なった賜物を与えられているからです。実は、この「1ムナ」が何を意味しているかについては、色々な考えがあります。私たちに等しく与えられている神様の愛、と考えることもできるでしょう。神様は私たち一人ひとりを等しく愛してくださっています。その愛に気づき、その愛を豊かに受けて、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」(申命記6:5)神様を愛し、また隣人を愛して生きるのが、1ムナで10ムナをもうけた良い僕の姿です。またその愛にそれなりに気づき、その愛をそれなりに受けて、神様を愛し、隣人を愛して生きるのが、1ムナで5ムナを稼いだ僕の姿であり、その愛に気づくことなく、その愛をまったく受けとめず、神様と隣人を愛することなく生きるのが、1ムナを「布に包んでしまって」おいた悪い僕の姿です。このように1ムナを私たち一人ひとりに等しく与えられている神様の愛と考えることもできるのです。
 しかしほかの考えもあります。この福音書の8章4節以下には、「種を蒔く人のたとえ」があり、主イエスご自身がその譬えを説き明かして、「種は神の言葉である」(11節)と言われていました。「ムナのたとえ」の1ムナも、この「神の言葉」と考えることができます。より正確に言えば、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの良い知らせ、福音を告げる神の言葉です。主イエスの十字架と復活によって、目には見えなくても、すでにこの地上に神のご支配が実現していることを告げる神の言葉です。この神の言葉が、主イエスの僕である私たち一人ひとりに預けられている「1ムナ」なのです。そうであれば、主イエスが帰って来るまでに、1ムナで商売をするとは、私たちに預けられている神の言葉を、世の人々に届けていくことなのではないでしょうか。要するに、「商売をする」とは、「伝道する」ということなのです。

目に見えない神のご支配を確信しているか
 もっとも、ここでもどれだけ多くの人に伝道したかが問題なのではありません。1ムナで10ムナもうけた良い僕は、多くの方を礼拝に招き、5ムナもうけた僕はその半分の方を礼拝に招いたということではないのです。そうではなく1ムナで10ムナもうけた良い僕とは、目には見えなくても、主イエスの十字架と復活によって、すでにこの地上に神のご支配が実現していることを確信して、それを力強く伝道した者のことです。そのように生きた良い僕は、主イエスが帰ってきたときに、「十の町の支配権」が授けられます。世の終わりに目に見える形で神のご支配が実現するときに、その支配に共に携わる者とされるのです。
 それに対して1ムナで5ムナをもうけた僕は、目に見えない神のご支配を信じていないわけではないけれど、目に見えるそのほかの様々なものに心を奪われていたために、そのご支配を中途半端にしか伝道できなかった者なのです。間違えてはならないのは、中途半端というのは、主イエスによる救いの良い知らせを相手に分かってもらえるように語れなかったとか、神のご支配のもとで生きている喜びがうまく相手に届けられなかったとか、そういう意味で中途半端なのではありません。そうではなく伝道する者自身が、神のご支配のもとで生きていると確信できていなかった、主イエスによる救いによってのみ生かされていると確信できていなかった、という意味で中途半端であったのです。しかしそのように中途半端に生きた僕であっても、「五つの町を治めよ」とあるように、世の終わりに、目に見える形で実現する神のご支配に共に携わる者とされるのです。ここには、なかなか目に見えない神のご支配を信じられない私たちを、その確信が揺らいでばかりいる私たちを、神様がなお心に留めて、憐れんでくださっていることが見つめられているのではないでしょうか。

少しの努力もしなかった
 主人から預けられた1ムナを「布に包んでしまって」いた悪い僕とは、主イエスの十字架と復活による救いの良い知らせ、福音を軽んじて、目に見えない神のご支配を疑って信じようともせず、伝道をまったくしようとしなかった者のことです。「御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました」と言った僕に対して、主人は、「ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに」と言っています。「金を銀行に預けなかった」とは、そのお金が増えるためのほんの少しの努力もしなかった、ということです。つまりこの悪い僕は、福音を宣べ伝えるためのほんの少しの努力もしなかったのです。それは、そもそもこの悪い僕が主イエスによる救いの良い知らせを、本当に自分自身を生かす福音として信じ、受けとめていなかったからにほかなりません。1ムナは100日分の賃金であり、はした金ではありませんが、それでも6000日分の賃金とは違い、「布に包んでしまって」おくことができたのです。それは、預けられた神の言葉を軽んじることもできる、ということを示しているのではないでしょうか。

主イエスを王にいただきたくない人々の中で
 このように主イエスの譬えで、「わたしが帰って来るまで、これで商売しなさい」という主人の言葉は、世の終わりに主イエスが帰って来るまでに、私たちに預けられている福音を告げる神の言葉、目に見えない神のご支配を告げる神の言葉を、世の人々に届けていくことを見つめています。しかしそのように生きるのは決して簡単なことではありません。1ムナを「布に包んで」しまっておいた悪い僕の気持ちも分からなくはないのです。それが簡単ではないのは、目に見えない神のご支配を、確信を持って信じて生きるのが難しいからだけではありません。世の人々の中には、主イエスを信じていないだけでなく、憎んでいる者もいるからです。14節に「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」とあります。主イエスを「王にいただきたくない」人は、世の人々の中にも多くいます。主イエスを王にいただくのではなく、自分自身が王となりたい人は、自分自身が自分の人生の支配者でいたい人は、たくさんいるのです。その人たちは、主イエスを憎み、主イエスを王にしたくないと思っています。そのような人たちの中にあって、あるいはそのような人たちに伝道するのは、簡単なことではありません。思わず尻込みしてしまう不安と恐れがあります。今、私たちは迫害されることはないかもしれません。それでも福音や神のご支配を語っても、相手にされなかったり、馬鹿にされたり、批判されたりすることはあるのです。1ムナを布に包んでしまっておいた僕は、主人にこのようにも言っています。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」。この僕は主人が恐ろしかった、と言っています。しかしこの僕が本当に恐ろしかったのは、主人ではなく、自分の周りにいた主人を憎んでいた人たちであり、その人たちの視線であったのではないでしょうか。この僕の主人への恐れは、人々への恐れを投影している、と思うのです。

聖霊の働きによって主イエスは共にいる
 私たちはこの僕の恐れが分かります。しかしそうであったとしても私たちは、想い起こすべきことがあります。主イエスを王にしたくない世の人々に伝道するのを尻込みしてしまう不安と恐れに駆られたとしても、決して忘れてはならないことがあるのです。それは、主イエスが今、天におられて地上にはおられないことは、主イエスが私たちと共におられないことを意味しない、ということです。5月の第三主日はペンテコステ、聖霊降臨日です。天に昇られた主イエスが、聖霊を弟子たちに送ってくださったことを記念する日です。この聖霊のお働きによって、天におられる主イエスは、私たちと共にいてくださるのです。主イエスは聖霊のお働きによって、いつでもどこでも私たち一人ひとりと共にいてくださる。だから私たちは世の人々への恐れと不安の中にあっても、私たちに預けられている福音を告げる神の言葉を、目に見えない神のご支配を告げる神の言葉を、確信を持って世の人々に届けていくことができるのです。そして主イエスが帰ってくるまで、預けられた神の言葉を世の人々に伝道して生きる私たちに、帰ってこられた主イエスは、「良い僕だ。よくやった」と語りかけてくださるに違いないのです。

関連記事

TOP