主日礼拝

わたしたちを助けるために

説教題「わたしたちを助けるために」 神学生 佐藤 潤
旧 約 イザヤ書第8章16-18節
新 約 ヘブライ人への手紙第2章17-18節

新型コロナウィルスの感染拡大時にあった、私たちの恐れや不安は、今ではほとんど消え去っていると思います。コロナ禍での制限もなくなり、街には活気が戻り、教会での礼拝も皆で守れるようになりました。けれども、立ち止まって、当時を、改めて思い返しますと、緊急事態宣言によって街は静まり、教会では、数ヶ月に渡り礼拝を中止していました。礼拝再開後も感染症対策によって、一つになって礼拝を守ることができず、教会での交わりも大きく制限されている状況が3年以上も続いていたのです。コロナ禍での状況を思い返すことによって、私たちにとって教会とは何なのかを改めて問い直すことができると思うのです。私自身を振り返りますと、感染が拡大し始めた当時、会社員として働いていましたが、自宅待機となり、業務は全てオンラインとなっていたのでした。また、これまで毎週のように礼拝を守っていた教会に行くことができなくなったのです。そのことによって、私は孤独を感じ、祈りも声にならず、信仰の無力感を覚えたのでした。それまで、毎主日の礼拝を守らせていただき、諸々の会にも参加させていただき、できる範囲で奉仕もさせていただいていました。教会に仕えるということに興味をもち、東京神学大学の夜間講座に出席したり、オープンキャンパスで在学生や先生から話を聞いたりして、教会に仕える献身とな何なのかについて思いを巡らせていたのでした。キリスト者は家族で私だけであり、献身するとはどのようなことなのか、何を相談して良いのかも分からず、日々を過ごしていたのでした。そのような中、突然のコロナ禍によって、自宅待機という試練が襲ってきたのです。その出来事によって、これまで主日の礼拝で、主イエスへと再び立ち返らせられ、教会生活によって日々の生活を生きる力をいただいていたことの確信が与えられたのでした。生きる力とは癒しの力であると言っても良いと思います。主イエスの体である教会が与えてくれる癒しの力について、聖書は何を語っているのかを知りたいという思いが強くなり、献身へと導かれていったのでした。この自宅待機の期間があったからこそ、葛藤に悩み苦しみながらも、献身への志が私に与えられたのです。そして、今日このようにして講壇に立たせていただいています。

 私が神学校に入学した2021年は、コロナ禍真っ只中でした。マスク着用で相手の顔もよく分からず、会話もあまりできない状況下で、学びと寮での生活がはじまったのでした。コロナ禍での寮内は、軋轢や困難に直面していました。ユニットでの共同生活ですが、食事や会話による交わりも制限されており、孤独や孤立感を強める者もありました。自分の境界線を守ろうとすることによって自分の平和を築こうとしたり、また他人への思いやりを持つことができないことへの罪悪感に苛まれたりする者もありました。私もそのような困難に直面していた一人でありました。寮全体で困難な時を皆で過ごしていたのです。そのことは、新年度の始まりに寮の委員会で決める年間主題にも表れていると思います。昨年度は「キリストがわたしたちの平和」、今年度は「キリストを中心とした交わり」です。私たちの平和である主イエス・キリストを、寮の中心に迎え入れて歩もうと主題に掲げたのです。争いやトラブルが起り、険悪な雰囲気が生じた時には、寮礼拝を中心として皆で互いに祈り合いつつ、できる限りの会話を皆で積み重ねてきました。今では、コロナ禍による制限も緩和され、よりお互いに人となりが分かるようになりました。主イエスが寮の中心におられ、困難な時を支え導いてくださっていたのです。

 本日の聖書箇所では、まさに私たちがさまざまな試練や困難に直面したとしても、そこから私たちを助けるために、主イエスが絶えず働いておられる、ということが語られていると思うのです。

 へブライ人への手紙にある、ヘブライ人とはユダヤ人のことです。この手紙はユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人キリスト者を励ますために書かれたと言われています。キリスト教信者への迫害が行われていた当時の社会で、社会的な圧力による苦しみ、孤立によって信仰が揺らぎ、無力感を覚えているユダヤ人キリスト者が、キリスト教から再びユダヤ教へ戻ろうしていたのでした。ですから著者は、ユダヤ教に戻ろうとしている彼らを励ますために、主イエスの救いの確かさについての教えを書き記し、主イエスに留まるようにと勧める手紙をしたためたのです。それがヘブライ人への手紙です。今この日本で生きる私たちには、当時のような目に見えた迫害による苦しみはありません。けれども、現代の社会にあっても、キリスト者として信仰生活を守って生きることは容易なことではないと思うのです。会社などの組織の中でまた、家族でただ一人のキリスト者として信仰を守ったりしている状況によって、孤独感や、心の苦しみや痛みを感じるかもしれません。そのことによって、信仰の無力感を覚えることがあるかもしれません。この手紙は、当時のユダヤ人キリスト者の信仰を励ますことにありますが、現代を生きる私たち信仰者を励ます手紙であるとも思うのです。
 
先ほどお読みいただいた2章17節と18節は、2章10節から16節までの内容を要約した箇所になります。この2つの節を改めてお読みします。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」 冒頭の「それで」、にて10節から16節までに語られている内容を受けています。そこでは、私たちと同じように血と肉をもった人として、この世に遣わされた主イエスが見つめられています。17節、18節で、私たちと同じように人となられた主イエスが、私たちを助けるために、父なる神によって「憐れみ深い、忠実な大祭司」となられたことが語られています。
 
ここで示される「大祭司」とは、神に仕え、神と人との間に仲立ちをしてくれる祭司たちの親分のことです。大祭司は、神殿で常に神と人との間で仲立ちをし、執り成しをします。仲立ちとは、大祭司に人と神との両方と良い関係をもつことが要求されます。執り成しとは、人が抱える罪によってぎくしゃくしてしまっている神と人との関係を良き関係へと変えてくれることです。仲立ちによって執り成すために、大祭司は、人々の中から選ばれ、罪によって神の前に立つことのできない人々に代わる者です。罪に対する神の怒りを宥めるために、ささげ物といけにえとを捧げる役割を担っています。主イエスは、その大祭司としての役割を担われたのです。主イエスは、ただの大祭司ではありません。「憐れみ深く」、「忠実な」大祭司であります。では、大祭司主イエスはどのようなお方なのでしょうか。
 
一つは、人々に対して「憐れみ深い」お方であるということです。ここでの「憐れむ」とは、「共感する、同情する」を意味します。私たちにとって、他者に共感し、同情することは、自然に当たり前のこととして心の中に生まれるものではありません。むしろ、逆に避けたいものではないかと思うのです。なぜなら、自分の苦しみや悲しみが癒やされることがより重要であって、他人の苦しみを、他人のために、他人と共に苦しむことなど望むことはなかなかできるものではありません。人となられた主イエスは、人と全く同じに、いやそれ以上に共に苦しみ、ともに耐えてくださったお方です。悩み苦しむ人と共に嘆き悲しみ、孤独な人と共に悲しみ、泣くものと共に泣き、弱い人と共に弱くなってくださるお方です。主イエスは、愛するラザロの死を悲しんでいる人々と共に涙を流し、病のうちにある人々やお腹を空かせた群衆を見て憐れみを示されました。大祭司イエスの「憐れみ深さ」は、私たちと密接に結びついている関係を示しています。なぜなら、主イエスは、私たちを憐れみ、助けるために、血と肉の体をもって人としてこの世に来てくださったからです。私たちと同じように悩み苦しんだばかりでなく、私たちの最も恐れている死をも人として受け入れられたのです。ですから、憐れみ深い大祭司イエスを見つめて、受け入れることによってこそ、私たちが直面する悩みや苦しみに慰めと癒しが与えられるのです。
 
また主イエスは、神に対して「忠実」であること、つまり「信頼できる」お方であるということです。それは、主イエスが成し遂げられた「十字架の死」によって示されています。主イエスは、父なる神の御心に従順に従い、十字架の死の苦しみと試練を耐え忍ばれました。主イエスは、十字架の死を目前としたゲッセマネの園では、これから向かうべき十字架の死を恐れて嘆き、汗が血の滴るような祈りによって苦しみに耐えられたのです。最後には「御心のままに」と全てを父なる神に委ねられ、エルサレムへと向かわれたのです。その途中では、弟子の一人であるユダの裏切りによって、主イエスは兵士らに捕らえられました。ご自分が救おうとされた民衆からは、「十字架につけろ」と激しく叫ばれたのでした。十字架刑が決まった時には、ペテロをはじめ弟子たちは自分たちの身を守るために皆、主イエスから離れて逃げ出してしまったのです。主イエスは、救おうとされた民衆に見放され、愛する弟子たちにも裏切られ、見放されるという孤独による苦しみを受けられたのです。十字架の上では、「神の子ならば、自分自身を救ってみろ、十字架から降りてこい、そうすれば信じてやる」と罵しられ、十字架の死から逃れるようにと誘惑されたのでした。主イエスはその誘惑にも耐えられ、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と大声をあげ、十字架の上で息を引き取られたのでした。主イエスは、十字架の死に至るまで、苦しみと試練を耐え忍ばれ、父なる神の御心に従順に従い抜かれたのです。そのことによって主イエスは、父なる神から信頼を得たのです。父なる神の御心とは、私たちを助けることです。主イエスは、私たちを助けるために、人間の味わう全ての試練、誘惑を人として耐え忍ばれたのです。 
 
さらに、主イエスは「民の罪を償う」ために、全ての点で兄弟のようにならなければならなかったとあります。神と人の間で仲立ちをし、執り成すという大祭司の使命は、「民の罪を償う」ことであります。では、「民の罪を償う」とはどうことでしょうか。「民」とは、アブラハムの子孫のことです。アブラハムの子孫とは、父なる神の恵みによって選ばれた人々のことです。その人々とは、私たち信仰者のことです。聖霊なる神のお働きによって信仰を与えられ、罪を悔い改めて神に立ち返り、洗礼を受けて教会に連なる者とされた信仰者のことです。主イエスは、私たち信仰者と全ての点で同じようにならなければならなかったのです。ここで確認すべき大切なことがあります。信仰者はなぜ、兄弟と呼ばれているのかということです。それは、信仰者は、主イエスと同じく神の子とされているからです。主イエスは神の子である私たちと家族関係を持つお方とされているのです。これが、父なる神の御心であり、私たちを助けるためなのです。主イエスは私たちと兄弟関係の結びつきを築くために、私たちと同じく血と体を持った人としてこの世に降りて来られたのです。
 
では、「罪を償う」とはどういうことでしょうか。「償う」の原文は、この箇所とルカ福音書18章13節の2箇所にのみ使用されています。ルカ福音書の箇所では、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 とあり、「憐れみ」として表されています。また聖書協会共同訳では、「償う」を「宥める」としています。「宥める」とは、「赦す」ことを意味しています。ですから、この箇所での「罪を償う」とは、私たち信仰者が抱えている罪の赦しを、憐れみによって父なる神からいただくということを意味しています。しかし、罪に対してなされた「償い」の行為について語るとき、いったい何が見つめられているのでしょうか。ここに、主イエスの十字架の死が示されていると見るべきでしょうか。大祭司は、人の罪の贖いのため、毎年神に捧げ物といけにえをささげるために任命されていました。しかし、大祭司イエスは、完全な罪の贖いのためのいけにえの捧げ物として、ただ一度だけの十字架の死によってご自分を献げられたのです。そのため、この箇所で、いけにえの捧げ物による罪の贖いを意味していることを否定することはできません。主イエスが、十字架の死によって私たちを救うために、私たちと同じように血と肉の体をもって、この世に来られたことを見つめなければならないのです。さらにここでは、十字架の死を遂げ、復活され、天に昇り、神の右におられる栄光の主イエスが、今も絶えず働いておられるということが示されているのです。なぜなら、現在の我々の罪を憐れんで、赦しを与えてくださるのは、天におられる大祭司イエスだからです。18節では、 「憐れみ深く、忠実なる」大祭司イエスが、ご自身が、試練を受けられたので、試練を受けている人々を助けることができるお方であることは、事実であると語られています。その事実とは、主イエスが、私たちを助けるために、私たちと同じように体をもって、人としてこの世界に遣わされ、私たちと同じように試練を受けられたということです。私たちは、老いや病気、怪我による苦しみ、人間関係のもつれによる怒りや悲しみ、仕事上の失敗やプレッシャーと、試練によって心の苦しみを味わうことがあります。しかし、私たち信仰者にとって最も深刻な苦しみは、その試練によってもたらされる、霊的な苦しみ、信仰的な無力感による苦しみではないでしょうか。主イエスは最も過酷な試練である十字架の受難を経験されました。けれども、その試練と誘惑に屈して、罪を犯しませんでした。父なる神への忠実さを守り切り、信頼に値する大祭司となられたのです。主イエスは、私たちと同じように、いやそれ以上に苦しみと死の試練に直面しても、父なる神への信仰を守り切り、その試練から逃れたいという誘惑にも打ち勝たれたのです。ですから主イエスは、私たちが受ける試練を心の底から分かち合い、ただ外から手を差し伸べるような助けではなく、私たちの心の内側から助けることがお出来になられるお方なのです。
 
ここで示される「助け」とは、苦しみの状況からの解放を願う、私たちの神への叫びと嘆きです。主イエスは、試練を受けられている人々を、助けることがお出来になるお方です。その助けは、主イエスが、私たちの置かれている試練に、共感し、同情してくださり、解決策を教えてくださるということではありません。主イエスは、私たちを助けるために、全てにおいて私たちと同じように人となられたのです。ご自分も試練を受けて苦しみ、私たち人間の最大の試練である死をも遂げられたのです。私たち信仰者は、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しの救いに与っています。しかし、私たちは、日々罪を犯します。時には試練に負けて罪を犯し、「これでも自分はキリスト者だろうか」と嘆き、苦しい思いを抱くかもしれません。しかし、そのような試練は、私たちを神の子として鍛えるためなのです。12章7節にこのようにあります。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」 私たちは、試練を受けて苦しむとき、主イエスが、私たちを助けるために試練を受けて苦しまれたことを思い起こしたいのです。また同時に、思い起こしたいことは、父なる神は、私たち信仰者を、主イエスと同じように神の子としてくださっているということです。神の子であるからこそ、神は私たちに試練による苦しみを与えておられるということです。
 
本日共にお読みいただいた旧約聖書イザヤ書の箇所では、「わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、イスラエルのしるしとなり奇跡となる」と語られています。ここで語られている「しるしと奇跡」とは、神が苦しみから奇跡を持って助けてくださるということではありません。神から選ばれた神の子たちは、この世の人々から、非難され、大きな試練にぶち当たることになるということを意味しています。不信仰が広がっている世界では、神への信仰を守ることによって、試練による苦しみにあうのです。預言者イザヤは、この試練の中で、信仰がぐらついたりしても、決して希望を失うことなく、ただ主を待ち望み、信仰に踏みとどまろうと、神から委ねられた子らを勇気づけています。この箇所は、ヘブライ人への手紙2章13節にて、「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と、主イエスの言葉として引用されています。父なる神は、神の子とされている私たちを主イエスに委ねられたということです。つまり、神の救いは、主イエスを中心とする兄弟共同体としての教会と密接に結びついているということです。教会は、この世で、試練の苦しみにあうけれども、ただ主イエスに従っていくことを父なる神は願われているのです。
 
父なる神は、み子である主イエスを私たちと兄弟関係にして下さっています。父なる神は、私たちを助けるために、私たちに兄弟姉妹の共同体である教会を与えくださっています。このことは、私たちは憐れみ深く、忠実なる大祭司イエスを中心とし、お互いに神の子の家族として、お互いに憐れみ深く、信頼できる関係を築かせていただいているということです。冒頭での問い、コロナ禍での自宅待機によって考えさせられた、私たちにとって教会とは何なのかということの答えが、まさにここに示されていると思うのです。コロナ禍で礼拝が中止され、教会生活が制限されていた期間、憐れみ深く、忠実なる大祭司イエスを中心とした教会での、罪の赦しによる癒しを失っていたのだと思うのです。私たちは、日々試練を受け、罪を犯してしまう弱い者です。ですから、主イエスによる罪の赦しと、お互いに憐れみ、罪を赦し合うことによって、癒しの力をいただいてこそ、日々の信仰生活を力強く歩むことができるのです。
 
私たちの横浜指路教会は、今年創立150周年を迎えます。現在、「指路150年史」の草稿を読ませていただいています。教会の創立時から、教会の内と外にて、多くの試練や苦境に直面しながらも、今日まで続く教会の歩みが記されています。大祭司イエスを中心とする神の家族として試練を克服し、150年間歩んできた指路教会の姿を見ることができます。創立150周年という記念すべき年に、私たちを助けるために、憐れみ深く、忠実なる大祭司となられた主イエスを改めて見つめ直し、私たちの心に受け入れていきたいと思うのです。毎主日の礼拝、そして150周年記念行事を通して、神の家族としての交わりをよりいっそう深めていけますようにと祈り願います。

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