夕礼拝

主イエスの恵みによって救われる

「主イエスの恵みによって救われる」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第45章20-25節
・ 新約聖書:使徒言行録 第15章1-21節
・ 讃美歌:294、442

<使徒言行録の中心部分>
 本日から、使徒言行録の15章に入ります。本日共にお読みしたところは「エルサレム会議」と呼ばれていて、教会の信仰の最も大切なことについて確認をし、またそのことで教会の伝道の今後について示された、とても重要な出来事が書かれています。

 使徒言行録は全部で28章ありますから、この15章はちょうど全体の真ん中、後半のスタート部分に当たります。
 前半は、エルサレムで主イエスが天にあげられ、聖霊が降って教会が誕生したところから始まり、使徒たちを中心に伝道がなされてきました。その中心人物は十二使徒の一人であるペトロでしたが、この「エルサレム会議」以降は「ペトロ」は登場しなくなります。また16章で、このエルサレム会議の出来事を振り返る時以外には、もう「使徒」という言葉も出てきません。これから後半で中心となるのは「パウロ」です。教会も、ユダヤ人中心のエルサレム教会から異邦人中心のアンティオキア教会へと焦点が移り、後半から伝道はヨーロッパ、ローマと、本格的に異邦人へ、世界へと向かっていきます。
 その異邦人の救いについての考え方が確認されたのが、この「エルサレム会議」であり、またそれは、福音の最も大切な真理を明らかにすることだったのです。

<問題の発端>
 さて、「エルサレム会議」はそもそもどうして開かれたのでしょうか。
 事の発端は、15:1にあるように「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた」。そのことから始まりました。
 この「ある人々」は、「ユダヤから下ってきた」、とあります。つまり、使徒たちがいる、ユダヤ人中心のエルサレム教会から、パウロやバルナバたちがいる、異邦人中心のアンティオキア教会へやって来たのです。

 そもそもユダヤ人というのは、旧約聖書にある、神に選ばれた民であり、彼らはそのしるしとして割礼を受けています。それはユダヤ人たちが守ってきた律法に定められていることで、男性が生殖器の皮膚の一部を切り取ることです。それが、彼らにとって、神の民であるために大切なことでした。そしてユダヤ人たちは、聖書に預言されている、神の民である自分たちを救い出して下さるメシア、救い主が現れるのを待ち望んでいたのです。
 神は、ご計画に従って、独り子をユダヤ人たちの中にお遣わしになりました。イエス・キリストです。そして、主イエスは、十字架と復活のみ業によって、すべての人の罪を赦し、すべての人の救い主となって下さいました。
 ユダヤ人の一部の人々は、十字架に架かられた主イエスが復活したこと、この方こそ聖書に預言されていた自分たちの救い主であることを受け入れ、キリスト者となり、教会のメンバーとなりました。

 しかし、この救いは、ユダヤ人だけに与えられたものではありませんでした。
 神のみ心は、ユダヤ人だけを救うことではありません。神がご計画されていたことは、ご自分が選ばれた民、ユダヤ人を通して、ご自分の救いのみ業を行い、そのみ業を行われたキリストを信じる、すべての人々を救うことが、神のみ心なのです。救いのみ業が、ユダヤ人だけではなくて、すべての国々、すべての人々に及ぶ、ということは神ご自身が聖書において預言して下さり、示して下さっていたことでした。
 今日お読みした旧約聖書のイザヤ書でも、45:22で「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ」と語られています。

 しかし、キリスト者になったユダヤ人の中には、自分たちのように割礼を受けなければ救われない、つまり、まずユダヤ人にならなければ、主イエスの救いの恵みには与れない、と主張した者たちがいたのです。
 その者たちが、異邦人中心のアンティオキア教会にやって来て、このことを兄弟たち、つまり異邦人のキリスト者たちに教えていたのです。

 これを聞いた、ユダヤ人ではない異邦人のキリスト者たちは、どう感じたでしょうか。
 自分たちは、ただ、主イエス・キリストの福音、十字架と復活のみ業によって、罪が赦される。そのことを信じることによって救われる、と聞き、信じて受け入れたのです。
 しかし、異邦人は割礼も受けなければ救われない、というならば、自分たちが信じている救いはまだ不完全で、割礼を受けてユダヤ人になることで完成する、ということなのでしょうか。主イエスを信じるだけでは足らず、自分たちはまだ正式には救われていないということなのでしょうか。
 この主張は異邦人中心のアンティオキア教会を大きく動揺させるものでした。

 アンティオキア教会を指導していたパウロとバルナバは、このユダヤ人たちの主張に真っ向から対立しました。激しい意見の対立と論争が生じた、とあります。これはただの口論ではありません。教会の信仰の根幹に関わる、大問題だったのです。
 そこで、パウロとバルナバ、また数名の者が、アンティオキア教会からエルサレム教会に行って、このことを使徒たちや長老たちと協議することにしました。それを「エルサレム会議」と呼ぶのです。

<エルサレム教会へ>
 さて、4節に、そうやってパウロとバルナバたちがエルサレムに到着すると、教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎された、とあります。もともとバルナバはエルサレム教会出身で、アンティオキアの教会を励ますために送り出された人物でした。またアンティオキア教会からの援助の品を、パウロとバルナバ二人でエルサレム教会に届けに来たこともありました。再会も嬉しかったでしょうし、何より彼らの、「神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告」したことは、双方にとって大きな喜びだったに違いありません。
 彼らが報告したこととは、アンティオキア教会の様子や、神の導きによって行われたパウロとバルナバの伝道旅行のことでしょう。彼らはその伝道の成果を、「神が自分たちと共にいて行われたこと」、つまり神ご自身がなさって下さったみ業として報告しました。そこで14:27にあったように、神が「異邦人に信仰の門を開いてくださった」ということも喜んで語ったはずです。

 しかしそこで、このエルサレム教会訪問の目的であった議論がこの場でも起こります。5節にあるように「ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言ったのです。
 ここで、この主張をしているのが「ファリサイ派から信者になった人々」であることが分かります。ファリサイ派とは、ユダヤ人の中でも特に律法を厳格に守るグループのことです。彼らは幼い時からずっとそのようにしてきました。キリストを受け入れて教会のメンバーになりましたが、それでもユダヤ人の習慣となっている律法に従う生活を守り続けていたと考えられています。
 さて、教会はこの重大な信仰の問題を、どのように扱い、解決していったのでしょうか。

<エルサレム会議>
 この問題について、議論が行われました。問題になっているのは、信仰のこと、キリストの救いについてです。キリストを信じることだけによって救われるのか、割礼を受けてユダヤ人になることも救いに必要なのか、ということです。

(ペトロ)
 議論の末に、ペトロがまず教会の会衆に向けて発言をしました。彼が語ったことは、自分自身が神に選ばれて、異邦人のところに遣わされた時のことです。そのことは使徒言行録の10章に書かれていました。コルネリウスというローマの軍人、つまり異邦人のところに、聖霊の導きで、ペトロが彼の家に行き、福音を語った時に、聖霊が彼ら異邦人の上にも注がれた、という出来事です。ペトロは8節以下でこのように語ります。
「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。」
 神ご自身が、自分たちユダヤ人たちとまったく同じように、異邦人にも聖霊を与えて、異邦人を受け入れて下さったことが証明されている、ということです。神は、主イエスが救い主であり、この方によって罪が赦されるということを信じた人なら、ユダヤ人や異邦人ということに関係なく、何の差別もなく、同じように聖霊を注ぎ、受け入れ、罪を赦し下さったのです。ですから、ペトロは神に従い、彼らに洗礼を授けました。彼らは異邦人のままで、神に受け入れられ、キリストの救いにあずかったのです。

 ペトロは「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」と言います。神がそのように、主イエスを信じる者をすべて受け入れておられるのに、どうしてあなたがたが受け入れないのか、と訴えているのです。

 そしてペトロは、割礼を受けなければ救われない、という主張は、「先祖もわたしたちも負い切れなかった軛を、異邦人の首に懸けることだ」と言っています。
 ペトロたちユダヤ人は、律法に定められた割礼を受けた神の民でしたが、彼ら自身も、割礼を理由に罪の赦し、キリストの救いを得たのではありませんでした。割礼を受けた神の民でありながら、律法を守っていると言いながら、彼らは神に逆らう者であり、神に対して罪を繰り返していたのです。
 割礼を受けているからといって、キリストの救いにふさわしい者なのではない、というのは、ペトロ自身が最もよく分かっていることです。ペトロは、神から遣わされた主イエスを、十字架の時に裏切り、見捨て、知らないと言ったのです。自分が弱い者であり、神のみ心に逆らってしまう罪深い者であることを、ペトロは散々味わいました。
 しかし、主イエスは、そのようなペトロのためにも、ご自分が十字架にかかり、その罪を担い、ご自分の死によって罪を赦して下さったのです。そのことを受け入れることしか、ペトロには出来なかったのです。
 主イエスは復活し、ペトロたちに出会って下さいました。ご自身の十字架の死は、旧約聖書の預言の成就であり、復活によって、確かにその御業が成し遂げられたことを明らかにして下さったのです。罪を赦し、死に打ち勝ち、信じる者に新しい命を与えて下さる。そのことを示して下さったのです。そして救い主が与えられた今や、すべての人に全く新しい救いの約束が与えられました。

 それは、「主イエスの恵みによって救われる」ということです。主イエスの十字架と復活の恵みによってしか救われない、ということです。割礼や、律法を守ることなど、人間が救われるために何かを行ったり、付け足したりする必要は何もないし、何をすることも出来ません。むしろ、神の救いのみ業を得るために人間が何かを付け足そうとするならば、それは主イエスの恵みを過小評価し、台無しにしようとすることです。
 ペトロも、ユダヤ人も、異邦人も、何の条件もなく、差別もなく、ただ主イエスの恵みを受け入れることによって、救われるのです。

(パウロとバルナバ)
 このことを聞いて、全会衆は静かになりました。そこで、パウロとバルナバが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について語り、会衆はそれに耳を傾けました。

(ヤコブ)
 そして、ヤコブが語ります。このヤコブは、十二使徒のヤコブではなく、主イエスの兄弟のヤコブです。彼はエルサレム教会で指導的な役割を果たす中心的な人物でした。ヤコブは言います。
「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中からご自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。」
 シメオン、というのは、シモン・ペトロの「シモン」をヘブライ語読みしたものです。神ご自身が異邦人の中からキリストを信じる者を選び出し、その救いの恵みに与らせてくださったのは、ペトロが語ってくれた通りだ、ということです。

 そして、神が異邦人を救って下さったことは、確かに神のみ心であるということを、旧約聖書を引用して、聖書によって証明するのです。ここで引用されているのはアモス書9:11-12から、そしてイザヤ書45:21が反映していると言われています。ここでは、一度は倒れたダビデの王権が回復され、この王権のもとにすべての国の人々、つまり異邦人も含め、すべての人々がその支配に入る、ということが語られています。この預言の通りに、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエスによって、異邦人にも及ぶ救いが実現した、ということをヤコブは語っているのです。

 そしてヤコブは、この議論に結論を下します。
 「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。」
 つまり、主イエス・キリストの救いに与るのに、割礼は必要ではない。救いはただ、主イエスを信じる信仰によってのみ、主イエスの恵みによってのみ与えられる、ということです。
 そしてこのことは、ユダヤ人、異邦人などの区別は一切ないということであり、これ以降、教会はこの共通の信仰理解をもって、異邦人伝道を本格化させていくのです。それゆえにキリスト教は世界中に宣べ伝えられ、わたしたちのような日本人も、ただ主イエスを信じる信仰によって、救いを与えられ、教会の枝に加えられているのです。

 20節以降に書かれている項目については、次回にお話ししたいと思います。

<教会の会議>
 さて、この結論は、もし間違えば、教会の信仰を揺るがし、キリストの救いを不完全なものとし、神の恵みを小さくするような、恐ろしい結果になってしまうものでした。教会の歴史の中では、度々このように、信仰の核心を問うような対立や議論が起こってきました。それは今の時代、日本のわたしたちの教会の間でも起こることです。

 そのような時に、教会はどうやってこの問題に取り組めばよいのか。それが今日のところによく表れています。彼らが会議を開いてしたことは何だったでしょうか。それは、神のなさったみ業をしっかりと見つめることです。そして、聖書の御言葉によって、確かめることです。そのことを通して、神のみ心、神のしようとしておられることが何か、ということを、知ることに専念したのです。
 それは、会議によって、人と人の意見を調整したり、妥協点を見つけたり、多くの人を納得させて賛成を得ようとすることではありません。ひたすら神のみ心、神のご意志を知ろうとすることです。この会議の場に、聖霊なる神が働きかけて下さり、導きを与えて示して下さる。その信仰に基づいて会議を開き、祈りつつ、神のみ心を求めていくのです。そうして示された神のご意志に、教会の意志を一致させる、ということなのです。そのようにして、これまで教会は信仰のことについて、大切なことを確認し、判断してきたのです。

<主イエスの恵みによって救われる>
 さて、このエルサレム会議で、主イエスの恵みによって救われる、と確認されたのは、主イエスの救いが完全であるということを確かにされたことでした。ただ主イエスを信じる信仰によって救われるのであり、人がそのために成すべき業や、条件は何もないということです。救われるために、わたしたちはただ、主イエスが差し出して下さる十字架と復活の恵みを受け取ることしか出来ない、ということです。

 わたしたちも、もしかするとユダヤ人たちと同じように、与えられた救いの恵みに、自分で勝手に条件を付けたり、余計なことを足そうとしているかも知れません。「あの人みたいに立派じゃないから、クリスチャンになれない」「人を憎んでいるから、自分は救われるのにふさわしくない」…
 わたしたちは、条件をクリアすることや、何かの報酬として、恵みを受けるかのように考えてしまうことがあります。これは人間の感覚です。この社会で生きている時に、何の理由も条件もなく与えられることなど、まずないからです。しかし、わたしたちを救って下さるのは、天地を創造された神です。わたしたちをお造りになり、生きるために必要なすべてのものを与えて下さっている方に、わたしたちがいただく恵みと引き換えにお渡しできるものなど、何も持っていないのです。わたしたちは、ただ神の恵みに自分自身をすべて委ね、自分自身をお献げすることしか出来ないのです。

 そのように、与えられた恵みを受け取ることしか出来ないのに、すべてをお委ねすることしか出来ないのに、そこに人間の業を足そうとしたり、条件を付けて、それを満たすことで救いを得られる、とすることは、主イエスの救いの御業が完全であることを信じていない、ということです。それは神の恵みを小さく見積もっていることになります。また、自分がその救いのために何かを成すこと出来ると考えることも、傲慢な考えであり、また自分の罪を過小評価しているのです。
 わたしたちの罪は実に深刻で、自分たちにはどうしようもないものです。わたしたちは、その自分の罪の深刻さを認めなければなりません。主イエスにしか、恵みも、救いの可能性もないということを知り、神の前に頭を低くして、悔い改めなければなりません。
 主イエスは、ただただ神に逆らい、罪の中にあるわたしたちを救い出すために、神が遣わして下さった方です。神の御子が、人となって低く降ってきて下さり、わたしの苦しみ、罪、また死も、すべてを担って下さり、十字架に架かられたのです。わたしたちが負うべきものを、この方が何一つ残らず負って下さいました。この方の十字架と復活のみ業によってしか、罪は赦されることはないし、救いはありません。わたしには出来ないことを、神の御子が、すべて引き受け、成し遂げて下さったのです。そして、ご自分と一つに結び合わせて下さり、わたしたちを神の子として下さり、神と共に生きる者として下さったのです。この方の救いのみ業は、完全です。わたしたちはこの救いの恵みをただ受け取るのです。そして、救われた者として、ただ神を礼拝し、従い、感謝して歩んでいくのです。

 本日から、受難週の歩みが始まります。わたしたちの罪のために、主イエスが受けて下さった十字架の苦しみ、そして死を覚えて、神のもとに立ち帰りましょう。そして、来たるイースターには、主イエスの復活によって、わたしたちの罪の赦しが宣言され、復活の約束が与えられたその恵みを、感謝して受け取り、共に神を礼拝し、賛美いたしましょう。

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