主日礼拝

義に飢え渇く人々は幸いである

「義に飢え渇く人々は幸いである」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第42編1-7節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章6節
・ 讃美歌:299、78

切実さが失われている?
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」。主イエスが語られた「幸いの教え」の四つ目です。これと似た教えがルカによる福音書の第6章21節にもあります。そこには、「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」とあります。マタイにおいては「義に飢え渇く人」、ルカにおいては「今飢えている人」が幸いであると語られているのです。聖書の学者たちの中には、ルカの方が、主イエスが語られた言葉を正確に伝えていると言っている人がいます。主イエスは、その日の食べ物も満足に得ることができずに文字通り飢えている人々に、「あなたがたは幸いだ」と語ったのだ、というのです。元々はそういう具体的な教えだったのを、マタイ福音書は「義に飢え渇く人々は」という精神的、抽象的な教えに変えてしまった。それによって主イエスの教えの切実さを和らげて、当たり障りのないものにしている、それは主イエスご自身が語られた教えではない、というのです。確かに、「義に飢え渇く」というのは比喩的な言い方であって、説明が必要であるのに対して、「飢えている」は具体的です。主イエスは当時の貧しい民衆に向かって語られたのだから、比喩的な話ではなくて、直裁に「飢えている人々は幸いだ」と言われたに違いない、という主張は分かるような気もします。しかしそのように感じるということは、私たちの心の中には、食べ物がないという直接的な飢えに比べたら、義に飢え渇くというのは精神的、抽象的で切実なことではない、という思いがあるということです。本当にそうでしょうか。「義に飢え渇く人々は」というマタイにおける教えは、「飢えている人々は」に比べて切実さが失われ、当たり障りのない教えになっている、と本当に言えるのでしょうか。

パンが得られることが幸いではない
ルカによる福音書において主イエスは、飢えている人々はどういう意味で幸いだと言われたのでしょうか。「あなたがたは満たされる」というのですが、飢えている人はどのようにして満たされるのでしょうか。主イエスは、今飢えている人々に食べ物を与えて満腹にしてあげる、と言われたのではありません。そのことは、主イエスがあの荒れ野の誘惑において、石をパンに変える奇跡を行わせようとした悪魔に対して、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とお答えになり、その誘惑を退けたことによってはっきりと示されています。主イエスは、飢えている人々の空腹を満たすことが自分の救い主としての務めだとは思っておられないのです。つまりパンが得られて飢えが満たされることが幸いだとは言っておられないのです。

神の正義が貫かれる
ルカ福音書におけるこの教えの鍵は、「今飢えている人々は」の「今」という言葉にあります。「今」、それは、今のこの世において、ということです。「今この世で飢えている人は幸いだ、あなたがたは満たされる」と言われたのです。その「満たされる」のは、「今」ではなくて、神の国が実現する時です。「あなたがたは今この世においては飢えているが、神の国においては、満ち足りるのだ、だから幸いである」と主イエスは言われたのです。同じルカ福音書の16章に、主イエスがお語りになった「金持ちとラザロ」の話があります。ある金持ちの門前に、ラザロという貧しい乞食がいました。彼らが二人とも死んだ時、ラザロは天使たちによって、神のもとでの宴会の、アブラハムのすぐそばの席に連れていかれ、金持ちは陰府の苦しみに落されたのです。助けを求めた金持ちにアブラハムは、「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と言ったのです。同じルカ福音書にあるこの話と合わせて読むなら、主イエスが「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」と言われたのは、今この世で飢えているあなたがたは、神の国において慰められ、満たされる、ということです。そうであるならば、ルカにおける教えも、この世の具体的な飢えが満たされるという話ではありません。ルカにおいても、主イエスが語っておられる幸いとは、この世において貧しく飢えているあなたがたの苦しみを、神は知っておられ、いつか必ず恵みを与えて下さるということです。つまり主イエスは、神は生きておられ、支配しておられるのだから、苦しむ者が苦しむだけで終りということはない、と言っておられるのです。それは言い替えれば、神の正義が貫かれるということです。一方に飢えている者がいて、他方に飽き足りて贅沢な暮らしをしている者がいるという不公平がそのままで終ってしまうなら、神の正義が立たないのです。主イエスはそのことを問題にしておられ、神は正しい方だ、神の正義は必ず貫かれる、だから、この世において飢えに苦しんだ者は神の国において満たされるのだ、と言っておられるのです。飢えの苦しみが決定的に深まるのは、神が自分の苦しみを無視している、と感じることによってです。神がこの苦しみを見過ごしにして、苦しみの日々がいつまでも続くなら、つまり神の正義が行われることが最後までないなら、それは絶望です。主イエスは飢えの苦しみの中でそのような絶望に捕えられそうになっている人々に向かって、神はあなたがたの今の苦しみをちゃんと見ておられる、そして、神の国において、あなたがたをねぎらい、飢えを満たして下さるのだ、という慰めをお語りになったのです。それが、ルカ福音書における「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」という教えです。つまり、神がご自分の正義を示し、あなたがたを満たして下さる時が来る、そこに、今飢えているあなたがたの幸いがある、と主イエスはおっしゃったのです。

私たちの切実な飢え渇き
ルカ福音書におけるこの教えと、マタイ福音書における「義に飢え渇く人々は、幸いである」という教えは、基本的には同じです。飢えている人々も、根本的には義に飢え渇いているのです。神の正義が貫かれることを求めているのです。神は自分の苦しみを無視してはおられない、という慰めを求めているのです。それがマタイにおける「義に飢え渇く」ということです。つまり「義に飢え渇く」というのは、精神的、抽象的な、当たり障りのないことではないのです。それはむしろ私たちの具体的な生活における深刻な飢え渇きです。私たちはこの世の人生において、神の正しさ、正義はいったいどこにあるのか、という思いに捕われることがあります。自分のこの苦しみを神は見ておられるのだろうか、と思うことがあります。そこに、義に対する深刻な飢え渇きがあるのです。私たちは様々な苦しみ悲しみの中で、常に、神の義、神の正しさが貫かれ、実現することを飢え渇くように切実に求めていているのです。何故このような苦しみ、悲しみが自分にふりかかって来るのか、この世界には、また自分の人生には、どうしてこのようなことが起こるのか、と思う時、私たちは、神の正義、正しさはどこにあるのかと、飢え渇くように問わずにはおれないのです。
本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第42編は、そういう飢え渇きを歌っています。2~4節をもう一度読んでみます。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う、『お前の神はどこにいる』と」。この詩人は、命の神を渇き求めています。「お前の神はどこにいる。どこにもいないではないか。苦しんでいるお前を助けてくれないではないか」というあざけりが彼をとりまいているのです。他の人からあざけられるだけではありません。自分自身の心の中にも、「神はどこにいるのか、この苦しみを見ておられないのか、なぜ私を助けて下さらないのか」という思いが湧き上がって来るのです。まさに神の正義を見失ってしまった状況の中に彼はいるのです。その苦しみの中で、「涸れた谷に鹿が水を求めるように」、彼は神を渇き求めています。水を求めて鹿が谷に降りてきても、川は乾期で涸れており、水が流れていない。だから渇きはますます激しくなるばかりで、満たされない。神の義、正しさに対するそのような激しい渇きを、私たちも苦しみの中で覚えます。私たちも、涸れた谷に鹿が水を求めるように、「義に飢え渇く」のです。

世界における義への飢え渇き
その飢え渇きは、自分の苦しみにおける飢え渇きに留まってはいないし、留まっていてはならないでしょう。この世界に存在する不正義、不公正、苦しみ悲しみの現実を知らされる時、私たちは、その苦しみの中にいる人々の上に、神の正しさ、正義が貫かれることを、飢え渇くように求めるのです。今のこの世界にも、不正義、不公正、苦しみ悲しみが満ちています。ロシアによるウクライナ侵攻によって引き起こされた戦争によってまさにそういう事態が起っています。ウクライナが正義でロシアが悪、というような単純なことではないでしょうが、あのような軍事行動によって多くの人々の命が奪われていくことは決して容認できません。かの地に神の正義が貫かれ、人々が平和に生きることができるようになることを私たちは飢え渇くように願い求めています。その他にも、アフガニスタンでは女性が教育や職業から締め出されているし、ミャンマーでも、香港でも、人間の自由や基本的人権が否定され、脅かされている現実があります。私たちだって、この社会において、気づかないうちにそういうことをしてしまっていることもあるでしょう。また、トルコ、シリアにおける大地震によって、五万人を超える人々が命を失い、数千万人が被災者となっています。そのような災害の中では、弱い立場の人ほど大きな苦しみを受ける。それは正義からかけ離れた現実です。私たちは自分の苦しみにおいてだけではなく、この社会や世界に起っているいろいろな悲惨な出来事においても、神の正義を飢え渇くように求めているし、そうでなければならないでしょう。主イエスは、飢えている人々に、神の国において満たされるという希望をお語りになりました。しかしそれは、私たちが、飢えている人をそのままで放っておいてよいということではありません。「金持ちとラザロ」の話において、ラザロは金持ちの門前にいたのです。それは、金持ちがラザロを助けることができたはずだったのにそうしなかったことを示していです。そのために、死んだ後あのような逆転が起った、とも言えるのです。私たちは、自分のために義に飢え渇くのみではなく、同じように義に飢え渇いている隣人の存在に目を向け、この世界において、神の正義が貫かれることに飢え渇き、祈り求めていきたいのです。そしてそのように祈りつつ、神の正義がこの世に行われていくために、なすべきことを行なっていきたいのです。「義に飢え渇く人々」は、自分の苦しみの現実において、神の正義が貫かれることを渇き求めている人々であると共に、この世界において、神の正義が行われることを渇き求め、そのために自分が出来ることを熱心にしていく人々でもあるのです。その人々に主イエスは、「幸いである」とおっしゃったのです。

神の義は主イエス・キリストによって満たされている
義への飢え渇きは必ず満たされる、と主イエスはおっしゃいました。それはどのようにしてでしょうか。私たちは自分の苦しみの中で、神の義を求め、神の正しさが貫かれることを求めます。また世界の苦しみを見つめつつ、そこに神の正義が行われることを求めます。その求めはどう満たされるのでしょうか。苦しみの現実がきれいさっぱりなくなって、私たちの願っていた通りの正義が実現する、ということも、めったにないけれども全くないわけではありません。しかし、義への飢え渇きが満たされ、神の正しさが示されるのはそういうことによってではないのです。神の正しさは、独り子イエス・キリストにおいて示され、貫かれているのです。神は、ご自分の独り子を、人間としてこの世に遣わして下さいました。その主イエス・キリストは、私たちの罪を全て背負って、その贖いのために十字架にかかって死んで下さいました。まことの神であられる方が、私たちの罪の赦しのために、苦しみを受け、命を捨てて下さったのです。神の正しさはそこにおいてこそ貫かれています。神が主イエスの十字架の死においてご自分の正義を貫いて下さったことによって、罪人である私たちは救われたのです。神の正義が貫かれるというのは、本来なら、正しい者がその正しさによって救われ、罪ある者は審かれ滅ぼされる、ということです。それが実現してこそ、神の正義が行われるのです。しかしもしも神がご自分の正義をそのように貫いて、正しい者のみを救い、罪人は滅ぼされるなら、私たちは救われようがありません。神の正義がそのように貫かれるなら、罪人である私たちが滅ぼされるしかないのです。神の正義が貫かれ、しかも、神に背き、神から離れて生きている罪人である私たちが救われる、そのために、神の独り子である主イエスが、私たちに代って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さったのです。神の独り子が、私たちに代って神の審きを受け、滅ぼされたことによって、神の正義が貫かれると共に、私たち罪人の救いが実現したのです。つまり私たちが飢え渇くように求めている神の正義は、主イエス・キリストの十字架の死によって満たされ、実現したのです。そこに私たちの救いがあるのです。

主イエスに従って行く中で
しかしそれは、私たちの義への飢え渇きがもう満たされてなくなってしまった、ということではありません。主イエスの十字架の死において神の義、正しさが貫かれたことと、苦しみの中で義に飢え渇いている私たちが満たされることの間にはにはなお大きな隔たりがあります。分かりやすく言えば、イエス・キリストにおいて神の義が満たされました、と告げられても、苦しみの中で義に飢え渇いている私たちが満たされるわけではないのです。この大きな隔たりが乗り越えられて、義に飢え渇いている私たちが満たされることはどのようにして起るのでしょうか。ここで思い起したいのは、この「幸いの教え」を含む「山上の説教」が誰に向かって語られているのか、ということです。5章1節には、主イエスが山の上で腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た、とありました。そしてその弟子たちの周囲には多くの群衆たちもいます。彼らも、4章25節によれば、あちこちから来てイエスに「従った」人々でした。主イエスに従っている人々が、この「幸いの教え」の聞き手なのです。そこにこそ、主イエスの十字架の死において神の正しさが貫かれたことによって、義に飢え渇いている私たちが満たされていくための道が示されています。つまり私たちは、苦しみの中で、義に飢え渇きつつ、主イエスに従って歩むのです。その主イエスは、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった方です。今私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死とを特に覚えるレント(受難節)の時を歩んでいます。この時私たちは、それぞれが自分の負っている様々な苦しみ悲しみの中で神の義に飢え渇きつつ、またこの世界に起っている苦しみ悲しみ不正義に心痛め、神の義が貫かれることを飢え渇くように祈り求めつつ、主イエスの十字架の苦しみと死とを覚え、主イエスに従って歩むのです。その時私たちは、義に飢え渇いている自分の傍らに、自分のために苦しんで下さった主イエスがいて下さることを示されます。その主イエスとの交わりの中で、主イエスの苦しみと死において神の義が貫かれ、私たちの救いが実現したことを感じ取ることができるのです。その時私たちの義への飢え渇きは満たされます。苦しみは相変わらず苦しみであり続け、飢え渇きは続いていきますけれども、しかしそれは絶望に陥ることのない、満たされた飢え渇きとなるのです。ルカによる福音書においては、今飢えている人が、神の国において満たされるという、終りの日の救いの希望が語られました。マタイによる福音書においては、義への飢え渇きが、今のこの世の歩みにおいて満たされることを見つめています。それは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とにおいて、神の義がこの世に貫かれているからです。私たちの苦しみ悲しみが、主イエス・キリストの苦しみと死とによって担われているからです。その主イエス・キリストに従っていくことの中で、私たちの義への飢え渇きは確かに満たされていくのです。

義に飢え渇き続けることができる幸い
主イエス・キリストに従っていくことの中でこそ私たちは、この世を生きる人々の義への飢え渇きを見つめ、飢え渇くように、この社会に神の正義が満たされることを求め、そのために力を尽くしていく者となることができるのです。それができるのは、私たちが、主イエス・キリストの苦しみと死とによって、神の正義が既にこの世に貫かれていることを知らされているからです。そのことを知らずに、この世に神の正義などない、私たちの苦しみを見ておられ、慰めと支えを与えて下さる神などおられないと思っているなら、そこには絶望が支配します。絶望が支配するところに生じるのは、ある気楽さです。「この世に正義が貫かれることなどどうせない。正義を貫こうなんて頑張っても損をするだけだ。それより、自分の好きなこと、やりたいことをして、明るく楽しく人生を送っていけばいい」。その気楽さ、明るさは絶望の現れです。義に対する飢え渇きはどうせ満たされない、だからもう義に飢え渇くことをしなくなる、それは絶望に支配されているということです。それは他人事ではありません。私たちも、神の正義を追い求め、正しいこと、なすべきことを行なっていこうとする中で、それがなかなか満たされず、絶望して、あきらめてしまうことがあります。主イエスはそういう私たちに、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と語りかけておられるのです。義への飢え渇きは満たされるのです。この世には、確かに、神の義が貫かれているのです。主イエス・キリストの十字架と復活においてです。主イエスを遣わされた父なる神は、独り子の苦しみと死とにおいて、私たちへの愛を貫いて下さり、罪人である私たちを赦し、救って下さっているのです。この神の義、神の恵みと愛を注がれているから、私たちは、どんな時にも絶望せずに、義に飢え渇く者であることができるのです。私たちの人生においても、この世界においても、神の正義が完全に実現することはないでしょう。それが実現するのは、世の終わりの神の国の完成の時です。この世の歩みにおいては、私たちはいつまでも義に飢え渇き続けます。しかし私たちは、主イエス・キリストの十字架の死によって実現した神の義に満たされ、支えられているから、義に飢え渇き続けることができるのです。そしてこの世界に神の義が実現していくことを祈り求めつつ努力し続けることができるのです。そこに私たちの幸いがあるのです。

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