「隣人になったのは誰か」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第103編6-13節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第10章25-37節
・ 讃美歌:
「善いサマリア人」のたとえをどう読むか
本日の箇所は、「善いサマリア人」のたとえと言われている箇所です。主イエスのたとえ話の中でも、「放蕩息子」のたとえと同じぐらい有名なたとえ話です。しかしこのたとえ話を私たちはどのように読んだら良いのでしょうか。別の言い方をすれば、主イエスはこのたとえ話を通して、私たちに何をおっしゃりたいのでしょうか。「善いサマリア人」のように私たちも隣人を愛さなくてはならない、と読まれることがあるかもしれません。でも本当にそうなのか。そうではないのではないか。教会に来たことのない人でも聞いたことがあるほど有名なたとえ話ですが、しかしこのたとえ話で見つめられているのは決して当たり前のことではない。誤解を恐れずに言えば、誰でも分かるような、どんな人にも当てはまるような普遍的な話ではない。私たちは本日の箇所を読み進める中でこのことに気づかされていきたいのです。
主イエスから問いかけられる
本日の箇所で主イエスはいきなり「善いサマリア人」のたとえを語られたのではありません。そこに至るまでの経緯があります。その経緯と切り離して読んでも、主イエスがこのたとえ話を通しておっしゃりたいことは分かりません。「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして」このように言いました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。この問いかけからすべては始まります。「問いかけ」と申しましたが、彼は主イエスに質問したかったのではありません。そうではなく「イエスを試そう」とした。主イエスがどのように答えるかテストしようとしたのです。
ところが主イエスは、その問いに答えられるのではなく、逆に律法の専門家に問いかけられました。問いかけに対して問いかけで返されたのです。主イエスは問いかけます。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。主イエスに問いかけた者が、主イエスから問いかけられる者になったのです。私たちも信仰生活の中で同じようなことを経験します。この律法の専門家のように主イエスをテストしようとすることはないとしても、私たちも疑いつつ主イエスに問いかけることは少なくありません。もちろんそれが悪いのではありません。私たちは疑いや嘆きを主イエスに問いかけることが許されています。たとえ自分の苦しみや悲しみばかりにとらわれ疑い嘆くときも、主イエスはその疑いや嘆きを受けとめてくださり、疑い嘆きの中にある私たちと共にいてくださるのです。しかし私たちは信仰を持って歩んでいく中で、主イエスに問いかけるだけでなく、主イエスから問いかけられることがあるのです。日々の生活の中で、小さなことから大きなことまで、私たちには決めなくてはならないことがたくさんあります。どう対応したら良いのか、なにを優先したら良いのか、なにを選べば良いのか悩みます。そのようなとき信仰による決断を求められていると感じるのではないでしょうか。教会においてだけではありません、学校や職場や家庭においてもそのように感じることがあります。そのとき私たちは主イエスから問いかけられています。「聖書には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問いかけられているのです。
み言葉の通りに行いなさい
律法の専門家は答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。彼は、旧約聖書申命記6章5節の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」を引用して答えたのです。さすがは律法の専門家です。この二つのみ言葉は、律法全体(旧約全体)の要約であり、その核心を突くみ言葉です。律法の中心である十戒も、その前半で神を愛することについて語り、後半で隣人を愛することについて語っています。律法の専門家はどうすれば永遠の命を得ることができるか知っていました。少なくとも自分は知っていると思っていました。聖書のどのみ言葉が答えであるかを知っていたのです。だからそのみ言葉を引用して、神を愛し、隣人を自分のように愛することによって永遠の命を得ることができる、と答えたのです。
この答えに対して主イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました。この主イエスのお言葉を私たちは間違って受けとめないようにしなければなりません。主イエスは永遠の命を得るためには、つまり救われるためには神を愛し、隣人を自分のように愛さなくてはならない、それが救われるための条件だとおっしゃりたいわけではありません。このことはこの箇所を読み進めていくと分かります。そうではなくあくまでも律法の専門家の答えに対して、「そのように言うのならそうしなさい、そのみ言葉を知っているのなら、そのみ言葉の通りに行いなさい」と言われているのです。
「隣人を愛しなさい」というみ言葉を知っている
このように律法の専門家は、「隣人を愛しなさい」とみ言葉が命じていることを知っていました。彼はこのみ言葉をどのように受けとめていたのでしょうか。み言葉を知っていても、今まで、それを実行しようとしたことはなかったのでしょうか。そうではないと思います。彼は隣人を愛することを軽んじていたわけではない。それどころか隣人を愛したいという思いすら持っていたかもしれないと思います。そうであるならばこの律法の専門家の姿は、私たちとかけ離れたものではありません。私たちも「隣人を愛しなさい」というみ言葉を知っています。知っているだけでなく、隣人を愛したいと思っています。日々の生活の中で、困っている方、苦しんでいる方に出会うとき、その方々をお助けしたいと思います。重そうな荷物を持っている方に、体調が悪そうな方に、道に迷っている方に、悩みを聞いてほしいと思っている方に出会うとき、私たちは「隣人を愛しなさい」というみ言葉を思い出します。でもそこで躊躇うのです。今、急いでいるからあの人を助けている暇はない。今、自分もつらいからあの人に関わる余裕はない。あの人を助けたら、あの人と同じように困っている方、苦しんでいる方を助けなくてはならない。だからあの人だけを助けるわけにはいかない。隣人を助けたい、愛したいと思う。でも自分はいったいどこまで助けたら良いのか。いったいどこまで愛したら良いのか。そのように思うのです。
切実な言い訳
律法の専門家は言います。「では、わたしの隣人とはだれですか」。彼は「自分を正当化しようとして」このように言いました。要するに言い訳をしたのです。聖書に「隣人を愛しなさい」と書いてあるのは知っています。隣人を愛したいとも思っています。でも、「誰が隣人か分からないと、誰が隣人か教えてくださらないと愛せません」と言い訳したのです。こんな言い訳は屁理屈だと言ってしまうのは簡単です。言い訳には違いない。けれども切実な言い訳ではないでしょうか。私たちも思います。「どこまでが自分の隣人なのですか。誰が自分の隣人か分からなければ、隣人を愛することなんてとてもできません」。
隣人を愛そうと思っても愛せない私たちの罪
本日の箇所は、隣人を愛することの美しさを語っているのではありません。隣人を愛そうと思っても愛することのできない、私たちの罪を語っているのです。「隣人を愛しなさい」というみ言葉を知っていても、色々な言い訳をして、そのみ言葉を行うことができない私たちの罪を暴いているのです。「わたしの隣人とはだれですか」と言い訳した律法の専門家に、これからいよいよ主イエスは「善いサマリア人」のたとえを話されます。しかしその前に、私たちは立ち止まらなくてはなりません。私たちこそが「わたしの隣人とはだれですか」と言い訳する者だということに気づかなくてはならないのです。私たちこそ「隣人を愛しなさい」というみ言葉を知っていても、誰が自分の隣人か分からなければ愛することはできないと言い訳しているのです。その私たちに主イエスは「善いサマリア人」のたとえを話してくださるのです。
「善いサマリア人」のたとえ
主イエスが語った「善いサマリア人」のたとえそのものは、難しい話ではありません。読めば分かる話です。ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われました。追いはぎは彼を半殺しにするとそのまま立ち去りました。そこにたまたま祭司とレビ人とサマリア人がそれぞれ通りかかりました。祭司とレビ人は半殺しにされた人を見ると、道の反対側を通って行きました。ところがサマリア人は、半殺しにされた人のそばまで来て、「その人を見て憐れに思い」、傷の手当をし、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って介抱したのです。翌日になると、そのサマリア人はデナリオン銀貨二枚を宿屋の主人に渡して「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言いました。このようなお話です。
誰が隣人になったのか
話し終えると主イエスは律法の専門家に言われました。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家の問いは「わたしの隣人とはだれですか」でした。しかし主イエスが問われたのは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」です。律法の専門家の問いと、主イエスの問いは似ているようでまったく異なります。「誰が隣人なのか」ということと、「誰が隣人になったのか」ということは、まったく別のことだからです。つまり「善いサマリア人」のたとえで主イエスは、「隣人とは誰か」という問いに対する答えを語ったのではないのです。主イエスは律法の専門家の問いに対してはぐらかして答えたのでしょうか。そうではありません。まさにこの律法の専門家の問いと主イエスの問いの捻じれこそ、隣人を愛するとはどういうことかを明らかにしているのです。
聖書を表面的に読む
このたとえ話において、祭司とレビ人が半殺しにされた人を見て、道の反対側を通って行ったのは、律法によれば死体に触れた者は七日間汚れた者とされるからです(民数記5章2節、19章11節)。ですから祭司とレビ人はこのとき迷わなかったかもしれません。律法に書いてあることを守ろうとすれば、半殺しにされた人に触れるわけにはいかない、だから彼は自分の隣人ではない、と判断したのです。しかしこのように聖書を字面だけで読むのであれば、神のみ心を見失ってしまいます。律法の中心は神を愛し、隣人を自分のように愛することでした。このみ心を忘れるならば、聖書を表面的に読んでいるに過ぎないのです。主イエスは「何と書いてあるか。それをどう読んでいるか」と問われましたが、祭司とレビ人は、何と書いてあるかは知っていても、それを表面的にしか読んでいなかったのです。
境界を引く
しかしそれだけが理由ではないとも思います。たとえ「死体に触れた者は汚れる」という律法がなかったとしても、彼らは近寄って助けなかったのではないでしょうか。祭司とレビ人は、当然、「神を愛し、隣人を愛しなさい」というみ言葉を知っていました。しかしそのみ言葉を行えない言い訳をするために、別のみ言葉を盾にしただけだと思うのです。主イエスは「どう読んでいるか」と問いましたが、彼らは表面的に読んでいるだけでなく、自分たちに都合よく読んでいたのです。ですから律法に「死体に触れた者は汚れる」と書いてなかったとしても、彼らは別の言い訳を探したと思います。今、急いでいて助けている時間がないから通り過ぎよう。助けるスキルがないからほかの人に任せて通り過ぎよう。そのように言い訳を探して、ここまでが自分の隣人で、ここからは自分の隣人ではないという境界を引こうとするのです。繰り返しますが彼らも「隣人を愛しなさい」というみ言葉を知っています。でもそのみ言葉に従いきれない。だから境界を引いて言い訳をするのです。
私たちは祭司とレビ人を、半殺しにされた人を見捨てた冷血漢と蔑むことはできません。律法の専門家の姿だけでなく、祭司とレビ人の姿も私たちの姿だからです。半殺しにされた人に出会うというめったにないシチュエーションを考える必要はありません。困っている人、苦しんでいる人に出会うとき、私たちはその人たちに近寄れない言い訳を、助けようとしない言い訳を探します。この人が自分の隣人か分からないと愛せませんと言うのです。そのような私たちの姿は、律法に書かれていることを都合よく盾にして境界を引いている祭司やレビ人の姿と大して違わないのです。私たちは隣人を愛するためには、誰が隣人か分かる必要がある、と思います。どこまでが自分の隣人で、どこからが自分の隣人でないのか、その境界がはっきりしないと隣人を愛せないと思うのです。
隣人となる
「善いサマリア人」のたとえ話は、そのように「自分の隣人は誰か」と考え、言い訳をすればするほど、隣人を愛することから離れていくことを示しています。ここまでが自分の隣人で、ここからは自分の隣人ではないという境界を定めている限り、本当に隣人を愛することはできないのです。だから主イエスのたとえ話は、「自分の隣人は誰か」という問いに答えるものではなく、そのように問うこと自体が隣人を愛することから遠く離れていることを示すものなのです。隣人を愛するとは、誰が隣人かを定めて愛することではなく、困っている人、苦しんでいる人のそばに行き、その人の隣人となることです。このたとえ話で半殺しにされた人はユダヤ人に違いありません。そしてサマリア人は、それまでの歴史的経緯からユダヤ人との間に深い確執がありました。だからサマリア人にとって、半殺しにされたユダヤ人に近寄らない理由や助けない理由はいくらでもありました。でもこのサマリア人は、それらの理由を言い訳にすることなく、ユダヤ人の近くに来て、憐れに思い、傷の手当をして、宿屋に連れて行き介抱したのです。この人は自分の隣人だろうかと考えたのではありません。隣人だからそばに行って助けたのではない。そばに行って助けたから、その人の隣人となったのです。それが隣人を愛することだ、と主イエスは言われるのです。
このサマリア人は主イエス・キリスト
しかしそう言われても、私たちはこのサマリア人のようにはなれないと思わざるを得ません。私たちはこのことに打ちのめされるしかないのでしょうか。隣人を愛そうと思っても愛せない自分の罪に苦しむしかないのでしょうか。そうではありません。このサマリア人の姿もまた、私たちの姿だからです。
キリスト教会の歴史においては、このたとえ話のサマリア人は、主イエスであると受けとめられてきました。このサマリア人に主イエスを見る。私もその通りだと思います。なぜなら33節の「その人を見て憐れに思い」の「憐れに思い」と訳されている言葉は、基本的に主イエスに用いられる言葉、あるいは父なる神に用いられる言葉だからです。ルカ福音書7章11節以下で、主イエスは一人息子を失った母親を見て「憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」と語られていました。また15章11節以下の「放蕩息子のたとえ」でも、放蕩の限りを尽くした後に帰ってきた息子を見つけた父親が「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と語られています。この父親の姿は父なる神のお姿です。ですから主イエスが「憐れに思う」、あるいは父なる神が「憐れに思う」というように使われるのです。この言葉は人間の内臓を意味する言葉に由来するため、「憐れに思う」を「はらわたが痛む」と訳した方がいます。「心を激しく動かされる」と訳すこともできます。主イエスは、一人息子を失った母親の悲しみをはらわたが痛むほどに憐れんでくださり、父なる神は、失われた息子が帰ってきたのを見て、走り寄って首を抱きしめ接吻するほど心を激しく動かされるのです。そうであるならば半殺しにされた人のそばに来て、その人を見て、はらわたが痛むほど憐れに思い、心を激しく動かされて傷の手当をして、宿屋に連れて行って介抱したサマリア人は、主イエス・キリストにほかならないのではないでしょうか。そして半殺しにされた人とは、罪と死の力によって死にかけている私たちです。主イエス・キリストこそ、罪と死の力によって死にかけている私たちのそばに来てくださり、憐れんでくださり、十字架で死なれることによって私たちの深い傷を癒してくださり、そして甦ることによって私たちを新しく生かしてくださったのです。だからこのサマリア人は、主イエス・キリストにほかならい。そのように言えるのです。
このサマリア人は主イエスの憐れみを受けた者
しかしそれだけではない。このサマリア人は、はらわたが痛むほどの主イエスの憐れみによって救われた人でもあるのです。憐れみ深い主イエス・キリストの十字架と復活による救いに与り、天に名前が書き記され、終わりの日の復活と永遠の命の確かな約束を与えられているキリスト者の姿、つまり私たちの姿でもあるのです。「だれが隣人になったと思うか」と問われた主イエスに、律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えます。「その人に憐れみをかけた人です」という意味です。そして主イエスは言われます。「行って、あなたも同じようにしない」。「行って、あなたも憐れみをかけなさい」と言われるのです。主イエスの憐れみによって救われた私たちは、憐れみをかける者とされています。主イエスのように私たちもはらわたが痛むほどの憐れみをかける者とされているのです。それは私たちが自分の力で憐れむことができるということではありません。主イエスによる救いの恵みの中で、主イエスの憐れみを受けた者として、憐れみをかける者へと変えられていくということです。言い換えるならば、「私の隣人は誰ですか」と問う者から、困っている方、苦しんでいる方のそばに行って、その人の隣人となる者へと変えられるということなのです。
自分のできることをして隣人を愛する
「善いサマリア人」のたとえは、被害者に寄り添いなさい、苦しんでいる人を助けなさい、という道徳の話ではありません。救われるためにはどうしたら良いか、という救いの条件の話でもありません。このたとえ話は、隣人を愛そうと思っても愛せない私たちの罪に気づかされる物語です。その私たちの罪にもかかわらず、主イエス・キリストが、はらわたが痛むほどに私たちを憐れんでくださり、十字架と復活によって救ってくださったことを知らされる物語です。そして主イエスの憐れみを受けた私たちが憐れむ者へ、隣人を愛する者へと変えられていくことを告げている物語なのです。主イエスの憐れみによって、私たちはすでに「私の隣人は誰ですか」と問うことから解放されています。ここまでが自分の隣人で、ここからは自分の隣人ではないと境界線を引くことから自由にされています。だから色んな言い訳を投げ捨てて、困っている方、苦しんでいる方のそばに行って、自分ができることをするのです。愛の大事業を行うということではありません。このサマリア人が、宿屋の主人に渡したのはデナリオン銀貨二枚であり、これは二日分の賃金に過ぎません。しかも彼は宿屋の主人に介抱を任せて自分の働きへと戻っていったのです。大事業とはほど遠い、日常の一コマの中で起こった出来事です。彼は通りすがりの出会いの中で自分のできることをしただけです。でもそれで良い。主イエスのまことに大きな憐れみを受けた私たちは、日常の一コマにおける出会いの中で、自分のできることをして隣人を愛していくのです。