主日礼拝

キリストの尊い血によって

「キリストの尊い血によって」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第44章21-23節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第1章13-21節
・ 讃美歌:

アドヴェントにふさわしい箇所
 ペトロの手紙一を読み進めてきまして、本日は1章13-21節のみ言葉に聴いていきます。その冒頭13節にこのようにあります。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」。
 本日はアドヴェント第四の主の日です。来週の日曜日25日に、私たちはクリスマス礼拝を守ります。今年は、その前日24日(土)に三年ぶりに「クリスマス讃美礼拝」を行うことになっています。コロナ禍にあって、この三年なかなか味わえなかった、いよいよクリスマスが近づいてきた、というワクワクした感覚を覚えておられる方も少なくないと思います。そのような気持ちの高ぶりを感じながら、今、アドヴェントにあって私たちは、主イエス・キリストが私たちの救い主としてこの世に来てくださったことを覚え、そのことに感謝しつつ、主イエスのご降誕を喜び祝うクリスマスに備えています。それと共に私たちは、復活して天におられる主イエスが、世の終わりに再びこの世に来てくださり救いを完成してくださることにも心を向けています。2000年ほど前にこの世に来てくださり、十字架で死なれ甦られ、私たちの救いを実現してくださった主イエス・キリストが、再びこの世に来てくださることを待ち望む信仰を深めつつ過ごしているのです。そうであるなら、先ほどの冒頭のみ言葉「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」は、アドヴェントにふさわしいみ言葉と言えます。私たちキリスト者は、世の終わりに主イエス・キリストが現れ、救いを完成してくださり、復活と永遠の命を与えてくださるのをひたすら待ち望みつつ生きているからです。私たちは本日の箇所を通して主の再臨を待ち望む信仰をますます深めていきたいのです。

心を引き締め
 改めて13節に目を向けたいと思います。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」。この手紙の著者である使徒ペトロは、手紙の宛先である小アジアの諸教会に連なるキリスト者たちに、「心を引き締め、身を慎んで」、主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望みなさい、と語っています。「心を引き締める」は、文字通りに訳すと「心の腰に帯を締める」となります。「腰に帯を締める」のは、すぐに動けるようにするための準備でした。裾の長い衣服を巻き上げて腰に帯を締めることによって、裾を引きずることなくすぐに動けるようになるのです。旧約聖書出エジプト記12章では、主の過越について語られていますが、その11節に、過越の食事を「食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」とあります。いつエジプトを脱出しても良いように、「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし」て準備していたのです。ですから「心の腰に帯を締める」とは、そのような備えを「心」においてすることです。何のために心の準備をしておくのか。いつ主イエスが再び来られても良いようにするためです。私たちはいつ主イエスが再び来られるのかは分かりませんが、しかし必ず来てくださると知っています。だから私たちは、主イエスがいつ来られても良いように備えて生きるのです。それが「心の腰に帯を締めて」生きるということです。そのように生きるとき、私たちは神から与えられている恵みを無にしないで生きるよう導かれます。与えられている恵みに感謝し、その恵みにお応えして、与えられている賜物を活かしつつ、神から与えられた使命に仕えて生きるよう導かれるのです。

身を慎んで
 また「身を慎んで」とも言われています。「身を慎む」と訳されている言葉は、もともと「酔っていない」という意味の言葉です。つまり私たちは「酔っていない生活」をするのです。それは、お酒を飲まない生活ということではなく、目の前の現実から逃げないで生きるということです。酔っていると焦点が合わず、視界がぼんやりしてしまうように、目の前の現実から逃げるならば、私たちはその現実に焦点を合わせずに生きていることになるのです。確かに私たちが直面している現実は、逃げ出したくなるような現実ばかりです。毎年、年末になると色々なメディアでこの一年の出来事を振り返っていますが、本当に心の痛む出来事が多く起こった一年でした。この世界には不条理な苦しみの現実が溢れていると思わずにはいられません。み心はどこにあるのだろうかと問わずにはいられません。世界や社会全体がそうであるだけでなく私たち一人ひとりも、それぞれに苦しみや悲しみを抱えて生きています。ときには世界の苦しみに目を向ける余裕がないほど、自分の苦しみで一杯一杯になることもあります。そのような現実を忘れたい。そのような現実から逃げ出したいと思います。しかし使徒ペトロは、迫害の厳しい現実の中にあった小アジアの諸教会の人たちに、そして同じように厳しい現実の中にある私たちに、現実から逃げないで生きなさいと語っているのです。
 しばしば宗教というのは、厳しい現実から逃れるためにあると言われます。あるいは信仰というのは、現実を忘れるような陶酔感を伴うと言われることもあります。しかし聖書は、そのようには言っていません。聖書が語る信仰は、「酔っていない信仰」であり、目の前の現実をしっかり直視する信仰であり、さらに言えば現実に立ち向かう信仰なのです。17節に「この地上に仮住まいする間」とあります。すでに救いに与り天の民とされている私たちは、この地上において仮住まいをしています。しかしそれは、私たちが地上の人生においてこの世の現実と関わらないということではありません。この世から離れて隠遁生活を送るということではないのです。そうではなくこの地上において仮住まいをしている私たちは、「酔っていない信仰」によって目の前の現実を直視し、その現実に積極的に関わっていくのです。

主の再臨に完全に希望を置く
 しかしそのように私たちが目の前の現実を直視できるのは、約束されている将来を見つめることによってです。「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望」んでいるからこそ、私たちは目の前の現実を直視することができるのです。「ひたすら待ち望みなさい」と訳されていますが、「完全に希望を置きなさい」とも訳せます。主イエスが再び来てくださることに完全に希望を置くからこそ、私たちは本当に苦しみや悲しみの多い現実に打ちのめされることなく、立ち向かっていくことができます。再臨の主イエスを待ち望む信仰なしに「酔っていない信仰」はありません。主の再臨を待ち望む信仰こそが、私たちに現実を直視する生き方を与えます。たとえどれほど悲観せざるをえないような現実にあったとしても、そこに神の恵みの現実を見いだしていく生き方を与えるのです。

聖なる者とされる
 使徒ペトロは「聖なる者となりなさい」とも勧めます。15節に「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」とあります。「聖なる」とはもともと「区別される」という意味です。ですから「聖なる者」とは「区別された者」を意味します。どのように区別されたのか。神のものとして区別されたのです。神のものとして取り分けられたのです。もちろん私たちが聖なる者とされたのは、私たちが善い行いを積み重ねたからではありません。「召し出してくださった聖なる方」と言われているように、神が私たちを召し出してくださったからです。だから私たちは自分が聖なる者であることを決して誇ることはできません。しかし同時に私たちは、自分は聖なる者ではありませんと謙遜することもできないのです。ほかならぬ神が一方的な恵みによって私たちを召し出してご自分のものとして取り分けてくださり、聖なる者としてくださったからです。私たちがすべきことは、このことを感謝して受けとめていくことなのです。

神に従順に生きる
 それは、14節に「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり」とあるように、「従順な子」として生きることでもあります。「従順」の意味は、辞書を引くと「すなおで人にさからわないこと」とありました。本来、悪い意味ではないと思いますが、「なにを言われても逆らわない」とか「抑えつけられて逆らえない」というような消極的な印象を受ける言葉でもあるかもしれません。しかしここで言われている「従順な子」として生きるとは、ほかの誰かに従順に生きるということではなく、神に従順に生きるということです。しかもしぶしぶ従うのではなく、神のものとされていることに感謝し、喜んで神に従って生きていくのです。
 小アジアの諸教会のキリスト者は、異教社会の中に生きていました。そして彼らの多くは、キリスト者になる前、その異教社会の生き方に従って生きていたのです。それだけにキリスト者になった後も、かつての生き方へ引き戻そうとする誘惑に絶えずさらされていました。そのような彼らに、ペトロは、「一方的な恵みによって神があなたがたをご自分のものとしてくださったことを知っているのだから、『無知であったころの欲望に引きずられることなく』、ただ神に従って生きなさい」と言っているのです。私たちの社会にも多くの欲望が渦巻いています。別の言い方をすれば、この社会には、まことの神とは異なる、私たちを翻弄しようとする色々な偶像の神々が溢れているのです。父なる神のものとされた私たちは、そのような偶像の神々に心を奪われ、従うのではなく、ただまことの神に感謝と喜びを持って従っていくのです。

神を畏れて生きる
 神のものとされ神に従って生きるとは、神を畏れて生きることでもあります。17節にこのようにあります。「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」。神を信じて生きるとは、神を畏れて生きることです。主イエスが再び来られる世の終わりは、最後の審判のときでもあります。神は世の終わりに私たちを「それぞれの行いに応じて公平に裁かれ」ることによって救いを完成されるのです。私たちはこの神の裁きを軽んじることなく畏れを持って見つめなくてはなりません。しかしその一方で、私たちはただ神の裁きに怯えて生きなくてはならないのでもありません。このようなことをしたら、あのようなことをしたら神の裁きを受けるのではないかとびくびくして生きるのではないのです。ペトロは「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから」と言っています。私たちを裁かれる方は、私たちから「父」と呼びかけられることを喜んでくださっている方です。背いてばかり、裏切ってばかり、悲しませてばかりいるにもかかわらず、私たちが神を「父」と呼ぶことを赦してくださっている方なのです。神のものとされるとは、神の子とされることであり、神から「子よ」と呼びかけられ、神に「父よ」と呼びかける交わりの中に生きる者とされることです。私たちが畏れるべきは、なにか得体の知れない神ではなく、この私たちの父なる神です。この地上に仮住まいをして生きている私たちは、世の終わりの神の裁きを畏れつつも、私たちの「父」となってくださった神の愛に委ね、世の終わりの救いの完成と最後の審判を待ち望むのです。

私たちが知っていること
 本日の箇所でペトロは、心を引き締め、身を慎んで、主イエスが再び来てくださるのを待ち望みつつ生きなさいと勧め、聖なる者とされ神のものとされて神に従って生きなさいと勧め、そして神を畏れて生きなさいと勧めてきました。そのように勧めるのは、18節冒頭に「知ってのとおり」とあるように、小アジアの諸教会の人たちが知っているからだ、とペトロは告げます。彼らだけではありません。私たちも知っているのです。なにを知っているのでしょうか。18-19節にこのようにあります。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」。小アジアの諸教会の人たちはこのことを知っていました。そして私たちもこのことを知っているのです。

むなしい生活
 かつて私たちは「むなしい生活」を送っていました。希望が持てず、目の前の現実から目を逸らして生きていました。聖なる者、神のものとされて、神に従って生きるのではなく、自分の人生は自分のものだと自己中心的に生きていました。この世の様々な欲望に振り回され、色々な偶像に心を奪われて生きていました。神の裁きを畏れることなく好き勝手に生きてきました。そのように言うのは、言い過ぎかもしれません。かつても、できるだけ現実を見ようとしていたし、必ずしも自己中心的に、自分勝手に生きてきたわけではなく、むしろたくさん我慢してきたではないか、と思うのです。小アジアの諸教会の人たちもそう思ったかもしれません。しかしそうであったとしても、かつての生活には決定的に失われていたものがあったのです。それは神との関係です。神との交わりです。この世界を支配されている神と関わることなしに、私たちは本当の意味でこの世界の現実を見ることはできません。神との交わりがなければ、私たちの我慢すらも、「こんなに自分は我慢しているのに」というような自己中心的なものになってしまうのです。「むなしい生活」とは、神なしに生きること。神との関わり、神との交わりを失って生きることなのです。

キリストの十字架による贖い
 私たちはその「むなしい生活から贖われた」と言われています。「贖い」とは、もともと身代金を払って捕虜を解放することを意味します。私たちは身代金を払うことによって、つまり犠牲を払うことによって、「むなしい生活」から解放され、神との交わりに生きるようにされたのです。その犠牲こそ、主イエス・キリストです。主イエス・キリストはご自分の命を犠牲にして、私たちを「むなしい生活」から解放し、神との交わりに生きるようにしてくださいました。私たちは自分の力で「むなしい生活」から自由になったのではありません。あるいは「金や銀のような朽ち果てるものによって」でもありません。そうではなく「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」によって、私たちは贖われたのです。「きずや汚れのない」とは、罪がないということです。なに一つ罪を犯さなかった主イエスが十字架に架けられ尊い血を流すことによって、神なしにむなしく生きていた私たちを、罪と死の力にとらわれてむなしく生きていた私たちを救ってくださったのです。「キリストの尊い血」というのはめずらしい表現であり、「尊い」とは「絶大な価値のある」ということです。背いてばかり、裏切ってばかり、悲しませてばかりいる、救われる価値のまったくない私たちのために、絶大な価値のあるキリストの尊い血が流されたのです。神は独り子の尊い血を流してまで私たちを救おうとしてくださいました。主イエスが十字架で尊い血を流されたことに、神の愛のみ心が、救いのみ心が示されているのです。
 そのみ心のゆえに、20節で「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました」と言われているのです。「この終わりの時代」とは、世の終わりのことではありません。神の救いの歴史における「終わりの時代」とは、主イエスがこの世に来てくださったことによって始まった時代であり、主イエスがこの世に再び来てくださるまでの時代です。キリストが十字架で尊い血を流して死なれ、そして死者の中から復活させられて栄光をお受けになったことによって、神の救いの歴史は新しい時代へ、「終わりの時代」へ突入したのです。

キリストの尊い血によって
 キリストの尊い血によって実現した救いが、世の終わりの救いの完成を約束しています。キリストの尊い血によって、世の終わりの復活と永遠の命の約束が与えられているからこそ、私たちは絶望することなく目の前の現実を直視し、その現実に立ち向かっていくことができます。キリストの尊い血によって私たちは「酔っていない信仰」を与えられているのです。キリストの尊い血によって私たちは救いに与り、洗礼を受け、キリストと結ばれて聖なる者とされ、神の子とされています。「父よ」と神に呼びかけつつ、神との親しい交わりの中を生かされているのです。世の終わりに再び来てくださるのは、私たちのために尊い血を流してくださった主イエス・キリストです。救われるに値しない私たちのために、尊い血を流してまで私たちを愛し、大切にしてくださった主イエス・キリストこそが裁かれる方なのです。キリストの尊い血によって、主イエスの再臨と救いの完成をひたすら待ち望む信仰が、そのことに完全に希望を置いて生きる信仰が、私たちに与えられているのです。

天の祝いの食卓に連なる聖餐
 本日は、これから聖餐に与ります。聖餐のパンと杯に与るとき、私たちはキリストが体を裂き、その尊い血を流して救いを実現してくださったことを想い起こし、またその救いの恵みを体全体で味わいます。私たちが神のものとされて生かされていることを噛み締め、むなしい生活に引き戻されるのではなく神のもとに留まり続けるよう導かれます。なお罪と死の力が支配しているように思える世にあって、すでに神の勝利が決まっていることを知らされます。聖霊のお働きによって心を高く上げられ、世の終わりに主イエスと共に囲む天の祝いの食卓を垣間見ます。聖餐において、私たちはますます主イエスの再臨と救いの完成を待ち望む信仰を深められるのです。私たちは聖餐の恵みに与り、復活と永遠の命の希望を確かにされ、悲観せざるをえないような現実の中にあっても、その現実を直視し、そこに隠されている神の恵みの現実を見抜き、指し示し、証ししていくのです。

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